相思相愛 - 1/2

「──蔦子さんの妹さんでしたっけ?」
 彼と初めて会ったのは、義勇が小学生の頃である。
 当時、姉が通っていた大学の後輩であるというその人は幼い義勇に笑いかけながら、姉に「鼻とか口とか小さいの、姉妹で一緒ですね」と話していた。いつもであれば「男だし」と食い気味に反論する義勇も、今日ばかりは目の前の青年に釘付けになって言葉も出ない。
 当時の義勇にとって身近な大人の男性と言うと、両親が亡くなった後に姉弟で世話になった親戚のおじちゃん﹅﹅﹅﹅﹅や、後に義兄となる姉の交際相手、あとは小学校の教師くらいであった。
 姉との二人暮らしを送る中で日常的に男性と接することこそ少ないものの、とは言え街に出れば大人の男なんてものはそこら中におり、特に珍しい存在でもない。
 それなのに、初対面の青年に対して幼い義勇はかつてないほどの興味を抱いた。
 まず、目がいくのは青年の淡い髪色であろう。加えて、彫りの深い顔立ちや高い鼻、広い二重幅など日本人離れした精悍さが際立ち、身体つきに至っても厚みが服の上からでもしっかりと分かるほど盛り上がっていて、長身であるのも相俟ってどこぞの芸術家が丹精を込めて造り上げた美しい彫刻のようである。
 幼さと内面の未熟さ、年頃の割には性への関心も薄く、義勇が今まで一度も抱いたことのない感情。
 学年で一番可愛いと言われている(らしい)隣のクラスの女子が自分のことを好いているようだと周囲に茶化された時ですら、義勇の胸が躍ることはなかった。相手が誰であれ嫌われるよりは好かれた方が嬉しいのは事実だが、それでどうして当事者でもない周囲まで浮足立って楽しそうにしているのだろうと義勇には何一つ理解出来やしない。
 恋愛感情とは、どういうものなのか。それを抱くことで、なにかが良くなるのだろうかと。
 なにもしていないのに女子から勝手に好かれる、なんてことは昔から義勇にとってはよくあることで、ではそれでなにかメリットがあったかと問われると特には無く、むしろ面倒ごとに巻き込まれる方が多かった。
 同じクラスの女子が義勇を好きらしいと自分以外の同級生が囃し立てた時だって、義勇本人は「へーそうなんだ」とどこまでも他人事のように、もしくは興味などなさそうに言ったのだが、まさかその態度が一部の女子から反感を買うことになるとは少年も思いやしない。
 調子に乗っているだの、女子を馬鹿にしているだの、それはもう好き放題に根も葉もないことを言われたものだ。
 以降、惚れた腫れたに関する話題は義勇にとって、一種の軽いトラウマでもある。
 今だってそう言った話は苦手で、なるべく異性からは好かれないようにしようと決めて、慎ましく生きていると言うのに。
 誰かに好かれると、面倒なことが生じる。そうした今までの、義勇が培ってきた常識が目の前の青年を前に覆されていく感覚。
 幼い少年は、彼を知りたいと感じ、そして好かれたいと思ったのだ。
 義勇は自分の顔立ちですら整っている自覚すらあまりなかったのだが──宍色の髪の青年を前にして、美醜の美の部分を急激に理解するにまで至る。
 たぶん、こういう人をかっこいいと表現するに違いないと。
 義勇は顔を赤くして、ただ立ち尽くすのみであった。
「ふふっ、一応弟なのよ〜? 昔は女の子によく間違えられたんだけどねぇ」
「おおっと……ごめんごめん、兄ちゃん間違えちまった」
 今日は小学校が短縮授業で、昼過ぎには大学から帰ってくると言う姉を気まぐれで最寄り駅まで迎えに行った。
 その先で、出会った青年。
 彼の大きな手で頭を撫でられ、義勇は依然として固まったまま何も言えずに青年を見つめる。
「義勇、錆兎くんにご挨拶は?」
 彼は、サビトと言うらしい。
 錆兎という他では聞かない音の名前を忘れないように、しつこいほど脳内で反芻しながら「こんにちは」と義勇がたどたどしく挨拶をしてみせた。
 顔が見られなくなって、モジモジと耳まで赤くした義勇が俯く。そんな義勇に、錆兎は恥ずかしがり屋で大人しい子なのだろうと適当に解釈すると、少年の緊張をほぐすように柔らかく微笑んだ。
「こんにちは。オレは錆兎ってぇの、よろしくな義勇」
「……さびと」
「そ。錆兎」
 錆兎がいまも通っている剣道道場では、多くの少年少女の面倒を見てきた。そんな彼からすれば、子供の扱いなど慣れたもの。
 結果、笑顔の錆兎と言葉を交わしたことで表情が強張っていた義勇も徐々に目を見られるようになり、二人は漸く視線を合わせる。
 姉弟である以上、義勇の顔つきは姉に当たる蔦子に面影が似ている部分も多く、ややタイプは異なるが二人揃って見事に綺麗な顔をしているなぁと錆兎は感心すら覚えた。
 この子も将来は美人な先輩と同じく、とんでもない美形に育つのだろうと。男は呑気に考えて、口を開いたのだ。
「可愛い」
 だから、この一言は錆兎からすれば特別な意味などなかった。親しい先輩の弟が、照れくさそうに話すあどけなさに父性に似たものが刺激されて、漏れた言葉に過ぎなかったというのに。
 それでも、義勇の小さな胸の中では十分すぎるほどの質量を持つ。今まで家族以外から幾度となく言われようと、喜びを感じてこなかった「可愛い」の一言が初めて、宝石のように重みを増し、胸の底へと沈んでいった。
 恋に落ちたのだ、言うまでもなく。
「じゃ、オレはこれで。蔦子さん、先輩によろしくお伝えください。またな、義勇」
 たまたま錆兎が借りているアパートの最寄り駅が、蔦子が利用している駅と同じであることが発覚し、他愛のない話をしながら同じ電車に乗って帰って来ただけで大した用事はない。
 別れを口にし、顔がよく似た姉弟に手を振った錆兎があっさりと踵を返して自宅方面へ向かおうとしたところ──グッと、弱い力で引っ張られる。
 振り解こうと思えば、簡単にどうにでも出来る程度の力。それなのに錆兎がそうしなかったのは、腰にしがみついてきたのが義勇であることに気付き、呆気にとられたからだ。
「あらま。どうしたの義勇、錆兎くんが困っちゃうでしょうが」
 普段は心配になるほど自己主張が少なく、姉の前でも中々ワガママを言わない可愛い弟が後輩にしがみつき、その場から離れることを阻止しようとしている光景に蔦子は目を丸くする。
 こっちに来なさい、と姉が宥めても義勇は頑なで、必死にしがみついてくる少年に錆兎も最初こそポカンとしていたが、だんだんと可笑しくなり最後は吹き出すように笑った。
「分かった、分かった分かった。義勇、兄ちゃんとちょっと遊ぼっか」
「いいのいいの、行っちゃって。せっかく午後から空いてるんだし、錆兎くんもなにか予定があるでしょ」
「いえ、別に用事とかないんで大丈夫ですよ」
 本当は週末までの夕飯を作り置きするため、その仕込みや家のことをしておきたかったのだが、ここまで子供が好いてくれているのに無下に出来るほど錆兎は薄情ではない。
 しがみついてくる小さな頭を再び撫でて、期待するようにこちらを見上げた大きな瞳を覗き込んでから錆兎が「な?」と微笑みかける。
 己が抱いた感情が一般的には一目惚れと呼ばれることすら理解していないまま、義勇は力強く頷いたのだ。
 その後、義勇は錆兎と並んで歩くだけでも満足げにし、結局は夕方まで構ってもらった。別れるときの義勇ときたら「つぎいつ会える?」としつこく訊ねる始末であったものの、錆兎は嫌な顔を一つもせずに「来週なら時間あるかな」とはぐらかさず言ってくれたのである。
 後日、まだスマートフォンなどの連絡手段を持っていなかった義勇は姉を経由して度々錆兎に連絡を取らせてもらい、錆兎も忙しい合間を縫って義勇と遊んでやる日々が続く。面倒じゃないかしら、放っておいてもいいからねと都度申し訳なさそうにする蔦子にも、錆兎は「いいんですよこれくらい、一人っ子でずっと弟が欲しかったし」と爽やかに応えた。
 弟のように義勇を可愛がってくれる錆兎と、錆兎に対して仄かな恋慕を抱く義勇。
 この、決して交わることのない関係は、そのうちどこかで過去のものになるのだろう。
 だから、中学生となった義勇が塾の帰り道に、当時の彼女と駅付近を歩いている錆兎を見かけたときだって、邪魔をしなかった。
 錆兎を見かけ、駆け寄ろうとしたのも束の間。知らない女性といることに気付き、義勇は咄嗟に錆兎から隠れるように物陰へと逃げると、彼らが改札を通って消えていくまで呼吸も止めた。
 分かっている、つもりではあったのだ。
 錆兎は同年代の女性が好きで、チビでガリの、やっと身体のあちこちに薄く毛が生え始めたような男が好きではないことくらい、義勇は分かっているつもりで錆兎を想っていたと言うのに。
 分かって、いた。当然なのに、息が苦しくてたまらない。忘れようと思っていても、義勇は錆兎がつれていた女性を思い出し、自分と比べることがやめられずにいた。
 身長の、高い人だった。長身の錆兎と並んでいても絵になるくらいには背丈もあって、凛とした飾らないショートヘアが似合う小さな頭と、華奢でありながら女性らしい柔らかさを損なわない肉付き。細い足首でヒールを履きこなして、背筋が伸びた、少し気の強そうな目つきと赤い唇が白い肌に映えていた。
 かっこいい彼にお似合いの、とても上品で華のある人だったのに。
 少年の目には、この世で一番嫌な女に見えた。
 名前も声も知らない人を、初めて嫌いになって羨んだ日。
 自分がどんどん嫌な子供になって、優しい錆兎とより不釣り合いになっていくのが分かった。それが一番悲しくて、情けなくて。
 それでも、数日経っていざ錆兎と会ってみれば、彼からは女性の気配なんてものはちっともしない。義勇の前に現れる彼はいつだって正しくて、頼りになって、一緒に遊びにだって行ってくれる優しいお兄ちゃんなのだった。
 あの時、錆兎と一緒にいた人は恋人なのではなくて、もしかするとただの友人だったのかもと義勇は思い直すことにした。中学生にもなれば、大人の男女が付き合う中でどういうことをするのかくらい、なんとなくだが嫌でも分かってくる。
 かっこよくて正しい錆兎はきっと、そんな汚い﹅﹅ことをするはずがないと義勇は信じ、自分に言い聞かせた。
 ──あ、義勇。ちょっとごめんな。
 今でも夢に見る、初夏の頃。博物館に連れてきてくれた錆兎と昼食をとっていると彼のスマートフォンが鳴って、義勇に断りを入れてから席を立った。
 義勇に通話内容が聞こえなくなるくらいに、少し離れた場所へ錆兎がなにかを話しながら歩いていく。いつも、友人や先輩らしき相手からの電話であれば錆兎は義勇の前であろうとその場で応対し、電話を切るのだが、たまにこういう行動をとることがあった。
 今までは何も思わなかった、些細な仕草。そこに一つの正解が見えた気がして、義勇は一口のオムライスが乗ったスプーンを握ったまま、レストランから出たすぐのところで話す錆兎の横顔を呆然と見つめていた。何度かの相槌と、困ったような錆兎の笑顔。義勇にはあまり見せない表情に胸がザワザワして、彼がやけに遠くに感じる。
 義勇は幼心に、なんと途方もない恋をしたのだろうと後悔した。同時に、空気も読まずに電話をしてきた彼の恋人に理不尽な怒りすら抱いて、やっぱり自分は嫌な子供だと自己嫌悪が雨のように止まない。
 その日以降、義勇は一つの決め事をした。
 自分が二十歳になるまでに、錆兎が結婚したら。そしたら、これまでの想いは全てなかったことにしようと。それまでは何も伝えず、知られることなく、ただ好きなままでいようと。
 その代わり、二十歳を過ぎても錆兎に妻がいなかったら、ちゃんと伝えて振ってもらう。男とは付き合えないと、弟にしか思えないと、木っ端微塵になるまでこっ酷く振られて玉砕したかった。
 そうでもないと、おじいちゃんになっても錆兎に恋をしている自分がいそうで、義勇は怖くて堪らなかったのである。

 あの時に食べた味のしないオムライスが、ひどく己に似ているように見えたのだ。