【サンプル】影法師を待つ泡

 洗濯機から異音がするようになり、一ヶ月。仕事の忙しさにかまけて放置していたところ、とうとう息を引き取った様子の物言わぬ四角い箱の前で錆兎は項垂れていた。
 とは言えあの洗濯機も、一人暮らしを始めた大学生時代に購入した安価なものである。これを機に乾燥機機能などがついたドラム式に買い替えるのもいいなと思いながら家電量販店に足を運ぶと、目当てのものはちょうど在庫無しと来た。
 とことん、ついていない時はついていないのが人生である。
 取り寄せをすれば一ヶ月ほどで入荷すると案内され、どのみち徒歩数分圏内にコインランドリーもあるため錆兎は取り寄せを依頼した。別のものを購入しても良かったのだが、家のサニタリールームの広さなども考慮するとちょうどいい大きさや色合いのものは他になく、それに洗濯機は他の家電に比べても使用頻度は高い。
 なにより、そこそこ値が張る大きな買い物となるので下手に妥協をしてはいけないような気がした。
 以降は洗濯機が到着するまでの三週間、コインランドリーを利用することになったものの──コインランドリー生活初日、錆兎は洗濯機の前でスイッチも押さず、呆然と佇んでいた。
 使い方は、分かる。
 重さに応じた料金を入れてボタンを操作すればいいだけなのだが、スマートフォンアプリと連携がどうのこうのと案内があったため、錆兎は顎を触りながら首を傾げていた。
 どうやら、ここは店構えこそやや古めかしいものの、マシンだけは最新の設備で揃えているらしい。
 時刻は深夜の一時過ぎで、二十四時間営業の無人コインランドリーを利用するのは仕事終わりの男ただ一人。周囲に聞ける者はおらず、とりあえずアプリは後日でいいかと開き直って、次々に洗濯物を放り込んでいくことにした。
 なにやらアプリと連携していれば終了時刻になると教えてくれるアラート機能も使えるらしいが、それすらも煩わしかったので店内の待合椅子に座って待つこととする。繁忙期の間に洗濯機が壊れたこともあり、溜め込んでいた洗濯物の量はそれなりに多いが、コーヒーでも飲んでいれば終わるだろうと、錆兎は料金を入れてから洗濯機のスイッチを押した。
 これで明日以降、着るものがないと困らずに済む。
 少しの達成感を抱きながら店を出て、すぐそこにあった自販機でブラックコーヒーを購入していると、同時に間抜けなルーレットが回る音。
 錆兎が気にもせずに身を屈めてコーヒーを取り出していると、やけに賑やかなメロディが頭上から聞こえ、顔を上げればなんと一本無料の当選を知らせる表示が出ていた。
 このルーレット、当たることがあるのかと言う驚きと、こんなところで運を使っていいのかと言う困惑。
 錆兎が少し悩んで、結局同じコーヒーをもう一本もらっているとビュウと風が鳴いた。
 冬の夜風は鋭くて、身体全体が貫かれるような錯覚に陥り、暖かな缶を握った両手の指先には痺れるような感覚が走る。
 嗚呼、冬だ。
 慌ただしい日々の中、もはやただの数字として認識していた月日を今さらながら、季節として改めて実感する。
 冬の夜は、思い出すことが多い。
 その大半は決して良いものではなく、今まで経験したあらゆる別れの思い出であるため、錆兎は少し苦手ですらあった。
 四歳の頃に母が知らない男と出ていき、父と二人になったのも冬。
 道場で可愛がってくれていた大学生の青年がバイク事故に遭い、初めて葬式というものに参列したのも冬で、中学生の頃に父の転勤が決まり、地方に引っ越すことになったのも冬だった。
 そして、親友のあの子に泣きながら好きだったと言われた、別れの日でもある。
 告白の返事も出来ないまま、乗り込んだ車から見えた東京の街には初雪が降っていて、運転席の父が先週の内にスタッドレスにしていてよかったと言っていたのをなんとなく覚えていた。
 それから数年経った高校生となっても、錆兎はあの子を忘れられなかった。お互い中学生の時点では携帯電話を持っていなかったこともあり、直接自宅へ電話もかけてはみたが何故か繋がらず、手紙の返事すら返っては来ない。
 そこで、あの子にとって自分はもう、過去の人になったのだろうと解釈した。
 店内の隅に置かれているパイプ椅子に腰かければ、長年使用されて来たのであろう、錆兎が少し身じろぐだけでギシギシと音が聞こえる。
 あの別れから十年以上の月日が経ち、気付けば錆兎も三十手前。それでも何年かに一度、根付いた後悔からか夢を見る。
 夢の中の己は中学生の頃に戻っており、もう一度あの子の告白を受けて返事をするような──そんな、ありもしない夢だ。
 とは言え、引きずり続けている訳でもない。
 これまでだって恋人が出来たことはあり、実際に去年までは数年付き合っていた女性もいたのである。
 互いの年齢的にも結婚のことを視野に入れた交際で、彼女の両親には挨拶までしていたのだが、まさか向こうから別れようと切り出されるとは錆兎は思ってもみなかった。
 あの別れも、思えば冬であったなと今になって気付く。それもクリスマスの数日前で、店の予約からプレゼントの用意までしていた時のこと。
 彼女のことは、人として尊敬していた。
 衝突もなければ打算的でもなく、恋人としての義務も果たしながら互いを尊重して慎ましい関係を無難に築き、周囲からはいつか結婚するだろうとも。錆兎としても、上手くいっていると思っていたのだ。恋愛とはこういうものなのだろうと、どこか他人事のように己の現状について満足していたのである。
 だがそれは、全ては彼女の我慢の上で成り立っていた驕りに過ぎないことを思い知った。
 貴方に優しくされるのが辛いと、泣きながらいつかの彼女が錆兎に言う。
 貴方が私の告白を受け入れたのは、恋人としての役割を果たしてくれたのは、私のことが好きだからではなくて「そうすべきだろう」という貴方の責任感から生じたものでしかないと指摘する彼女に、違うと強く言えなかったあの時の自分を錆兎は今も恥じていた。
 恋愛とは、そう言うものではないのか。
 抱かれている思いに応えると言う行為は、責任以外の何が必要なのか。
 良い年をして恋愛なんてものをさっぱり分かっていないことを自覚し、そして今年の初夏に彼女が自分ではない男とあっさり結婚したことを人伝に聞いた。
 周囲から憐れまれ慰められたりもしたが、彼女の結婚が裏切りに感じるかと聞かれたら答えは断じて否であり、心から祝福すると共にどこかで安堵すらしている情けない己がいる。
 なぜなら自分は、あのまま彼女と結婚していようと、幸せにする自信がもはやなかった。
 恋愛感情からは程遠い、責任と言う合理的で愚直なまでの、均等に切り分けられたものしか相手に差し出せない自分には、恋愛も結婚も今やほど遠いもののように感じる。
 あの子にも、今までの元恋人にも。
 己は貰ったものを何一つ返せていないままだと、錆兎は鼻から長く息を吐く。
 十畳にも満たない店内。色褪せた壁には無機質な洗濯機が敷き詰められ、剥がれかかっているのはキャンペーン情報が載った手作り感満載のポスター。そして蛍光灯の一つに至っては切れ掛かっているのか、微かに点滅していた。
 それなりの年季が入った店内はさながらホラー映画のセットのように錆付いており、妙なノスタルジーに浸らせてくる。仕事の忙しさによって押し流されていたどうしようもない虚しさが、共に隙間風に乗ってやって来るのを男は黙って受け入れるしかなかった。
 今よりも若いころは、感じてこなかった己への不甲斐なさ。こんな夜はいっそ、この場に相応しく幽霊でもいいので、適当な話し相手にでもなって欲しい。
 錆兎も幽霊だの物の怪だのといった存在はさほど信じておらず、仮にいることを仮定したとしても怖いとは幼いころから不思議と思わなかった。
 もしも幽霊がいたとして、その場にとどまり続ける念の正体が悪意だけとは思えないのである。
 万が一にでも自分が大切な誰かを残して逝ってしまうようなことがあれば、幽霊になってでも会いに行って見守り続けたいと思う気持ちが、錆兎には理解できるのだ。
 だがこれも、相手への愛情故ではなく結局は己の生まれ持った責任感から生じているものでしかないのだろうかと、今では思う。
 果たして己が愛と呼べるものを理解しているのかは、さっぱりなまま。それを今後、誰かに抱けることがあるのかすらも。
 薄暗い店内で、缶コーヒーを啜って微睡む深夜。
 洗濯機はまだ止まる気配を見せず、錆兎がうたた寝をしかけていると軋むような音がした。
 コインランドリーのドアの向こう。暖色の街灯に照らされた、真っ黒な影が見えてドアが開いた。
 背の高さからして、男性客だろうと言うのは分かる。
 ダウンコートを身に纏い、着ぶくれたその男はトップスのフードを深く頭に被って、顔こそは見えないものの衣類の雰囲気からして同年代か少し若いくらいの青年と推測する。
 あとからやって来た彼はコインランドリーに足を踏み入れ、先客である錆兎の存在に気付いたのか俯いたままペコっと控えめな会釈をした。錆兎も、それに応じる。
 錆兎が使用している洗濯機の二つ隣を開けて、腕にかかった大きめのトートバッグから洗い物を取り出し。モタモタと入れていく姿を視界の端で捉えた。
 なぜか、気になる。けれどあまりジロジロと見るのも不審なので、必要もないのにスマートフォンを弄った。
 こんな時間帯の利用客は自分だけだろうと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
 錆兎はコーヒーを啜って、ふと、先ほど当たったもう一本のコーヒーの存在を思い出す。
 二台目の洗濯機が動き始める音。彼が錆兎の席から少し離れた場所に置かれてある待合椅子に腰かけたのを見計らい、「あの」と声を掛けた。
「これ、よかったら。ルーレットで当たっちゃって、オレは二本も飲まないし」
 腕を伸ばして少しぬるくなった缶コーヒーを差し出すと、男性客は戸惑ったように硬直していた。
 まさか、話しかけられるとは思っていなかったらしい。
「あ、もしかしてコーヒー苦手ですか?」
「いや……俺も、買いに行こうとしてたので」
 ありがとうございますと言いながら、おずおずと幽霊のように白い手がコーヒーを受け取るのを見届ける。
 その、伸ばされた左手の薬指には──生々しい痕がくっきりと根本に残っているのが見えた。
 明らかに、そこには長いこと指輪がはめられていたであろうことが分かる。
 けれど、現状はそこになにもない。
 他人を詮索する趣味などない錆兎は、それ以上はなにも考えなかった。人にはそれぞれ事情があるのは当然で、こちらだって同じようなものなのだから。
 それよりも、風貌こそ妙に怪しげではあるが普通に会話が出来そうな相手であることに錆兎は安堵する。
 他にもコインランドリーがあるのに、こんな古い店舗をわざわざ利用するくらいなのだ。おおよそ近所に住む人なのだろうと考え、気さくに声をかける。
「ここ、よく利用するんですか? オレ、洗濯機壊れちゃって。新しいの届くまでの利用なんですけど、結構お兄さん以外でもこの時間帯のお客さんって多いんですかね」
 フードを被ったままの男性客は、缶のプルタブに指を引っかけながら首を横に振った。
「……あの、俺……先月、くらいに引っ越したばかりで。まだこの街のこと、よく知らないんです」
 しかし指を引っかけたのはいいものの、寒くて手がかじかむのか缶が一向に開く気配はない。カリカリと爪が引っかかる音だけがして、男性客は自分の指先を吐息で温めるなどをしていた。
「まだ、家に家電とか何もないからここ使ってて」
 痛々しさすらある、指輪の痕。そして家電もなにも持たず、この地域に引っ越してきたこと。詮索する趣味がないのは確かだが、それらの情報から嫌でも色々と察することは出来る。
 若いだろうに苦労をしているのだなと、それこそ他人事のように考えつつ、錆兎は「開けましょうか?」と少し笑って問うた。
 男性客は錆兎の気遣いにキョトンとして、手元の開かない缶のことを言っているのだと理解すると恥ずかしそうな、言い訳をするような口調でモゴモゴと話す。
「さ、寒くて。力入んなくて、すみません……」
「ははっ、いえ、ほんと寒いですよね。嫌になるくらい」
 似たようなことが、昔にもあった。
 小学生の頃。冬の帰り道を並んで歩き、小遣いを出し合って買った一つのコーンポタージュ。
 その缶を、あの子がどうしても開けられなくて。いいから貸せと錆兎が言うと、指先を自分の吐息で温めるあの子が拗ねていた。
「どうぞ」
 もう、随分と昔の話なのに。去年に別れた恋人とのことよりも、何度も繰り返し思い出す幼き頃のやり取り。
 今さらになって、あれが初恋だったのだと錆兎もいい加減、気付きつつあった。
 忘れられないのは、伝えられなかったことを己が悔いているからなのだろう。
 受け取った缶コーヒーを、錆兎がなんてことのない様子で開けて渡してやれば、男性客は礼を言おうと初めてフードを取ってこちらを見た。
 声は小さくて聞き取りづらく、コミュニケーションは得意ではないようだが礼儀は尽くす主義らしい。
「──ありがとうございます」
 まず、見えたのは混ざりけのない真っ黒な黒髪。
 艶はあるものの跳ねた毛先の癖が強く、纏まりはいささか悪そうではある。だが、その癖っ毛が幼い印象を与えるためか、不思議と愛嬌を醸し出すのに一役買っていた。
 白い顔に並べられた、程いい高さの忘れ鼻と小さな口。それらは主張こそ最低限でありつつも、全てが最適な場所に配置されていることは誰が見ても一目瞭然であろう。他にも全てが洗練された顔の中で、一際目立っている切れ長で縦幅もある目は厚い睫毛に覆われており、瞳は深い青みを帯びた黒だった。
 思わず目で追ってしまうバランスの良さは、まさに端正の一言。
 それだけの、はずなのに。
 目の前の男を凝視した錆兎は、目を見開いたまま。
 呼吸すらも忘れると、あのコーンポタージュを買った帰り道のことがより鮮明にフラッシュバックした。
 夕陽に照らされたあの子の癖っ毛と、白い顔。
 揺れる吐息を纏いながら唇を尖らせて、缶を開ける錆兎の横顔に綺麗な顔のあの子は言った。
 ──だって寒くて、力入んないんだもん。
「──……義勇?」
 ある種の確信をもって、懐かしい名前を呼ぶ。
 見間違える、はずがない。あの子らしいとも言えた跳ねた癖っ毛と、幼い頃から群を抜いて整っていた顔つき。大人になったらより別嬪になるだろうと、そんな予感がしていた当時。
 その予感は確かなものとなって、いま目の前にいる。
 そして錆兎の顔を見るや否や、目の前の彼も同じように、目を丸くしていた。
 周囲から散々、子供の頃から顔が変わらないと錆兎は言われ続けているのだ。極め付けは幼少期の事故で負った顔の傷で、これも随分と薄くなったとは言えど他と見間違えるはずはない。
 暫しの間を挟んだ後。錆兎が手渡した缶が彼の手から滑り、派手な音を立てて床に落ちた。撒き散らされたぬるいコーヒーは錆兎が履いてきていたジャージにも飛び散り、狭いコインランドリー内はすぐに香ばしい香りが充満する。
「ごっ、ごごごごめ、ごめんなさ……っ」
 ハッとして慌てた様子の彼は、肯定も否定もしない。
 ただ、落としてしまった缶を拾うついでにフードを真っ先に深く被り直し、その場を立って拭くものを探そうとする。
 本当は、この場から去りたいのだろう。
 けれど錆兎の服を汚して、床にコーヒーをぶち撒けてしまった手前、あの子﹅﹅﹅の性格上それも出来ずにいるのが分かった。
 ソワソワと手元を忙しなく動かしながら今も動く洗濯機の前で「タオル、この中にあるので、ちょっと待っててください」と錆兎に背を向けながら敬語を使い、あくまでも他人を装う様子を前にして、錆兎は懐かしさよりも微かな苛立ちを覚えつつある。
「あ、えと、そうだクリーニング代。それも、出すので、あの」
 昔と変わらない透明感はありつつも、声も落ち着いた低さになっていた。華奢で本当に女子のようだった中学生までの姿とは違い、線は細いものの今やそこそこ背丈もある。
 目の前にいるのは、初恋を捧げ、美化されきった記憶の中のあの子ではない。
 己と同じ、立派な一人の男となった義勇がいた。
 本来であれば落胆する場面なのだろうかと錆兎が考えたのも一瞬で、それよりも今は衝動が身体を動かす。
「……おい。お前、義勇だろ?」
 十年以上ぶりの腕を掴むと、縮こまった背中が跳ねた。思っていたよりも低い声が出てしまったことに気がついた錆兎は、一度咳払いをして無意識に抱いていた苛立ちを鎮めようとはする。
 なぜ、こんなにもイライラするのか。
 どうして、人違いかもしれないということを一切考慮もせず、腕なんて掴んでしまったのだろう。
 自問自答などしなくとも、理由なんてものは、もう分かりきっていた。
 自分が知る、あの頃の義勇であれば。
 錆兎が隣にいだけで、この世で一番幸せそうに笑い、錆兎とずっと一緒にいたいと言い続けてくれていた義勇であったら。
「……違います」
 ここに来ても己を拒むことなどせず、会えて嬉しいと喜んでくれるに違いないと、自惚れていたからである。
 期待していたのだ。今も義勇が、自分を想ってくれているのではないだろうかと。
 そんなこと、あり得るわけがないのに。
 自分だって、異性の恋人と時間を育み、最終的に上手くはいかなかったとは言えど婚約手前まで進んでいた。
 それなのに義勇には想っていて欲しいなど虫のいい話で、最低で、どこまでも自分勝手で情けないと錆兎は己を糾弾した。
 いつまでも向けられたままの背中に立ち尽くしていると、錆兎の洗濯物が乾燥まで終えたことを知らせる無機質な電子音が気まずそうに流れる。
 めげもせず何かを言おうとしたが断続的に流れる電子音に遮られ、錆兎は口を閉じた。
 しかし、それは決して自分を拒もうとする彼の態度が腹立たしかったからではない。
 離れてもなお想っていて欲しいなどという、卑しい己を自覚して錆兎は恥じたのである。きっと、目の前の彼にも、その卑しさが透けて見えたのだろうと錆兎は考えた。
 同時に、コーヒーを差し出した時に目に入った指輪の痕を思い返しては、無関係であるのに律儀にショックを受けている自分が可笑しい。
 あの時の告白は彼、義勇にとってはとっくに過去のことなのだ。
 十数年も経過して返事を出来ていなかったことを悔やんでいたのは自分だけで、義勇は待ってもいなければ期待もしていなかったと考えるのが妥当であろう。
 全てが間抜けな一人芝居であったことを呑み込んで、錆兎は腕を掴んでいた手を離した。
 そのまま無言で洗濯機の扉を開け、団子になった洗濯物の中から手探りでバスタオルを引っ張り出すと、コーヒーが撒き散らされた床を暖かなタオルで拭く。
「あっ、待って、俺が」
 錆兎がその場で屈み、黙々と床を拭く姿に申し訳なさと戸惑いを含んだ言葉が降った。
 床を拭いたあとは、一目散にこの場を去るべきだろう。
 コーヒーを吸ったこのタオルは道端で絞り、自宅のシンクで一旦洗って干しておいて、後日もう一度洗濯すればいい。
 新しい洗濯機が届くまでの間、今後はこの店舗を使うことを控えて、少し離れてはいるが別のコインランドリーを利用して──。
「……錆兎」
 そうでもしないと、妙なことを口走って義勇を困らせそうで自己嫌悪が加速する。
 今だってすぐ後ろで名前を呼ぶ、切実で泣きそうな声に、手を止めてしまう。
 意地になっているわけではない。ただ、義勇だけを一途に想い、血眼になって彼の行方を探し続けていたわけでもないくせに、傍にいると今でも恋しいと感じる誠実さに欠けた己の思考回路があまりに生々しかったのだ。
 中でも最も錆兎をうんざりさせたのは、今の義勇が当時と変わらず、誰よりも綺麗に見えたことだろう。
 当然ながらあの頃だって、容姿にのみに惹かれていたわけではない。内面の純朴さや健気さ、努力家で意外と意地っ張りなところ、天然でドジな一面もあるが勤勉で真面目な部分。
 その全てが、錆兎にとっては好ましかった。
 そんな義勇だからこそ、錆兎は今だって忘れられなかったのである。
 容姿なんて、義勇の魅力のたった一部分に過ぎない。
 かつての自分であったら、義勇の一番傍にいた頃の己であれば、今の状況を前にどう動いたかと自問自答。
 あの頃じゃなくても──今よりもう少し若ければ。
 己は義勇に、何を言えただろうと錆兎は考える。
 そこで、男なら抱きしめるべきだと、ふんぞり返って言いそうな幼い頃の自分が浮かんで、この年齢でその所業が許されるのは月曜九時にお茶の間を沸かせる演者たちだけなのだと、有象無象に成り果てた錆兎は懇々と諭した。
 歳を重ねると、厭でも世界の解像度が上がってしまう。
 諦めの言い訳ばかりが上手くなり、方便にも説得力が増す。妥協することを知り、試行回数を重ねた分だけ適度に手を抜くことを覚え、その果てで全力の出し方を忘れて馬鹿にもなれない。
 そして、順調なようで破綻する理不尽は思いのほかよくあることである。それらを理解しているからこそ、その場の勢いで行動が出来るほどの軽率な勇気はもう枯れた。
 何事にも終わりがあって、めでたしめでたしで終わらないことを知ってしまった大人は、恋と向き合うのにあまりに向いていない。
 故に抱きしめるなんてのは、もってのほかだろう。
 錆兎は相手に下心を感じさせない、あくまでも当時の義勇から受けた告白については無いものとして扱うべく、久しぶりの友人としての現実的な最適解を考えた。
 その時間、義勇から名を呼ばれたあとの、たった数秒のことである。
「……久しぶり」
 捻り出した一言が、あまりにありふれたものだったので男は己に失望した。
 だが、これ以上なにを言えばいいのかが分からない。
 一度、義勇であるかの確認を行なって拒まれた手前、あまり踏み込んでいくのも相手に警戒されかねないと考えたのである。
「……うん。ひ、ひさし……ぶり……」
 辿々しい返答。
 背後の義勇が、傷ついた顔をした──ような、気がした。背を向けた状態で実際に顔を見てはいないので真相は分からないが、義勇の声の抑揚で無意識に察する。
 普段、友人と会話する際はここまで細やかに気を使うことはない。それは今までいた恋人相手にだって同じことで、錆兎は己が義勇をいかに意識してしまっているのかを、この僅かな間にも厭と言うほど自覚してしまう。
 先に避けたのは、義勇の方であるのに。
 それでも錆兎は己の感情よりも、義勇には気負ったり、傷ついたりをして欲しくはないと思ってしまう。
 だから、自分は何も気にしていないと、明るい雰囲気で方向転換をしようと錆兎は舵を切ってみせた。
「やっぱ、義勇だったか。顔見てすぐに分かった、お前相変わらず──」
 ──綺麗だなと、言うべきか。
 否、本音とは言えそれは流石に気持ち悪い気がする。
 床のコーヒーを吸って重くなったバスタオルのせいなのか、あまり味わったことのない緊張感のせいか手が冷たい。錆兎は言葉に詰まったことを悟られないため、小さな咳払いを挟んで言葉を続けた。
「……ま……睫毛長いな」
 こりゃダメである。擁護もしようがなく、男は狼狽える。
 これなら綺麗だなと言った方が、幾分かマシであった。
 まず、誤魔化そうとするのが良くない。初恋の子が当時のままどころか、大人になったことで愛らしさよりも美しさに磨きがかかり、より綺麗になっていれば感動するのも男として仕方のないことであろう。
 そうやって開き直りたいところではあるが、開き直ったところで何も解決には至らないのが現実の厳しさ。
 そもそも錆兎は、モジモジと好意を押し殺すことに慣れていないのだ。相手が義勇であれば尚更で、どこまでも直球で接したいのが本音なのだが、困らせたり怖がらせることだけは避けたいので不慣れにも言葉を必死に選びざるをえない。
 しかし、その結果がこうなのだ。錆兎は他でもない自分に大きなため息を吐きたいのを、今はグッと抑える。
「えっ? あ、まつげ……う、うん……長いって……よく言われる……」
 突然、睫毛の長さについて言及された義勇からも困惑を感じ取れるのが居た堪れない。
 恥ずかしさを超えて、申し訳無さで溺れそうになる。
「だ……だよな。義勇は長いだけじゃなくて、厚みもあるっていうか……」
「そう、だろうか……さ……錆兎も、ラクダみたいに昔から睫毛が長くて……」
「オレは体毛が濃い方だから……あの、地毛の色であんま目立たないだけで……」
「そ、そうか……」
 なぜ、十数年ぶりの再会で体毛の濃さについて暴露せねばならないのか。もっと他に言うべきことがあるだろうと、バスタオルを握る錆兎の手に力が入り、吸ったコーヒーが再び床に染み出していく。
 そんなことにも気づかぬまま、錆兎の瞳が遠くを見ていると、ふと背中に他人の体温が触れた。
 狭苦しい真夜中のコインランドリーには、二人しかいない。つまり、この背中に触れているのは義勇だと理解した瞬間。
 背後に座り込んだ義勇が、コーヒーを拭いている錆兎の背中に額をくっつけているのだという回答に行き着く。
「……ちがうって、言ってごめん」
 申し訳なさそうに、震える小さな声。
 なんと言ってやるべきかと。男また、言葉を捻り出す。
 毎日のように一緒にいたあの頃は、思うままに言葉を紡いでいたというのに。
 過去が恋しくなって、現実が貧相に見える。
 錆兎は初恋の終わりを、そこで見た気がした。
「気にするな」
 義勇に触れられている背中がいつまでも熱いような気がして、こんなことなら自分からも勢いで抱きしめておけば良かったと。
 出来もしないくせに、馬鹿馬鹿しい後悔を男はしたのだった。