お安いご用

 錆兎は、生活力の高い男である。
 洗濯、掃除、料理──それらのことが一通り、そつなく出来てしまう男だった。
 本人曰く、男手一つで錆兎を育てていた父の背中を見て育ち、家族として協力がしたいと考え、自ら率先して覚えていたらこうなっていただけで別に家事が好きなわけではないとのこと。だが、義勇からすると、それにしても錆兎の手際はよかった。
 その一方で、錆兎は細かい部分を気にする性格でもなければ、好きなわけではないと言うだけあって家事に関する拘りは薄い。こういうやり方でないと気が済まないという部分がなく、義勇は家事のやり方について錆兎からとやかく言われたことは一度もなかった。
 だからこそ、錆兎は義勇が不慣れながらも家のことをしてくれるだけで「やっててくれたのか、ありがとう」と心からの言葉を添えてくれる。家事なんてものはどのみち毎日することなので、四角な座敷を丸く掃くくらいがちょうどいいのだと錆兎は語り、義勇は恋人の豪快さや寛容さに何度も救われてきた。それと同時に、共に生活を送るパートナーとして申し分ないほどには成長したいとも。
 錆兎のように、自分も家事をマスターしてみせる──大学生となってからの同棲生活一年目の義勇は、そのようなことを目標にあれやこれやと積極的にやっていたように思う。
 しかし、親代わりの姉に最低限のことは教えられたとは言っても、お手伝い﹅﹅﹅﹅の範疇を超えたことのない義勇の家事スキルは錆兎の足元にも及ばず、どうしても空回ってしまうのが現状。錆兎のようになりたくて、とりあえず見様見真似で進んでやってはみるものの結局は錆兎がやった方が速くて綺麗で、そのたびに義勇は勝手にしょんぼりと肩を落とした。
 それなのに、恋人は奮闘する義勇に「ありがとう」と言葉をかけてくれる。嬉しいはずなのにどうしようもなく申し訳なさが勝って、そのうち愛想でも尽かされたらどうしようかと義勇は散々悩んできた。
 そんなスタートから、なんだかんだと一年が経過。
 二人暮らしは二年目を迎えようとし、洗濯物をひとつ畳むだけでもおっかなびっくりであった義勇も随分と慣れてはきている。
 もちろん、一年そこらでは錆兎のように冷蔵庫にある余り物だけで一品や二品をサクッと作れるようになったりはしないが、ワタワタしたり悩んで困ることが減った分、単純にスピードも上がった。それに、家事を終えるまでにどれくらいかかるかという目安も大まかにつくようになり、ルーティン化が出来るようになったのは大きな進歩であろう。
 己が果たして、錆兎に見合う男になれているかどうかと一人反省会をする日も減った。
 完璧な錆兎のようになれずとも、彼が四角な座敷を丸く掃くならば、代わりに己が掃けていないところを掃けばいいのだ。それが共に暮らすということだと気付いてからは、義勇も前向きに錆兎との生活を楽しめるようになって久しく。
「……ボタン、とれてる」
 日曜日の午後。ふと、錆兎のシャツを畳んでいた義勇が思わず呟いた。
 念のため洗濯機の中や廊下を確認してはみたものの取れたボタンは見つからず、無くなっているのが袖口を留める部分であることから、気づかずにどこかで落としてきたのだろうと推測できる。カフスボタンでも持っていればいいのだが、あの錆兎が横文字の洒落たアクセサリーを持っているとは思い難い。仮に義勇がプレゼントすれば喜んでつけるだろうが、彼は自らそういったものを収集するマメな性格でもなかった。
 けれど、幸いボタンや糸の色も変わったものではない。これなら手元にある素材で直せるなと、義勇は再びリビングへと戻ると小さなソーイングセットを取り出して、いつも二人が並んで座るソファに座ってからいそいそと用意する。
 意外なことに、義勇にとって裁縫とは幼い頃に姉から直々に習ったこともあり、他の家事に比べればそれなりに出来る分野なのだった。
 義勇の姉は手先が器用で、二児の母となった今もビーズアクセサリーの制作やレースを編んだりといったことを趣味としており、そんな姉を母代わりとしてきた義勇にとっては針や糸というものは昔から身近な存在であった。故に、自然と触れることが多い環境にあっただけのこと。もちろん、姉のように一枚の生地からワンピースを作ったり、ハンカチに刺繍を施したりなどの高度なことは出来るわけもなく、ましてや裁縫が好きというわけでもない。
 ミシンの使用や裾直しくらいのことができるだけで、これが得意だと胸を張って言える自信もなかった。
 針と糸を準備した後、ボタンをいくつかストックしてある缶の中から半透明の四つ穴ボタンを探して、シャツについているものとなるべく近いサイズはないかと一つずつ見比べる。そうこうしている内にコンビニへ行っていた錆兎が帰ってくる音が玄関の方からして、「たでーまー」と彼の声が続いたのに対し、義勇が「おかえり」と返した。
「義勇が好きな胡桃パンあったから買っといた、あとヨーグルト。明日の朝にでも食べな」
「ありがと」
 冷蔵庫を開け、買ってきたものを錆兎がしまう。その間にも義勇は小ぶりなボタンへと糸を通し、シャツの厚みに合わせた糸足も作りながら手慣れたように黙々とシャツの袖口へとボタンを縫いつけていった。
 その背中を、シンクで手を洗う錆兎が眺めては小首を傾げる。
 ソファに座る義勇は、テレビを見ている様子もなければ本を読んでいるわけでもない。なにやら手を動かしているのは分かるものの、明確になにをしているのかが錆兎には見当もつかず、手を拭き終えてから男は恋人の元へと近づいた。
「あれ? オレのシャツ……」
「あ、うん。ボタン取れてたから、つけておこうって思って」
 覗き込むと義勇の手元には見慣れた己のシャツがあり、義勇の言葉通り新たなボタンが袖口に縫い付けられている。ボタンが取れていたことにも錆兎は案の定、気づいていなかった。慌てて「ありがとう」と錆兎が感謝の言葉を口にすると、義勇はなんてことのない風に「いいよ」と言って目を細める。
「小学生の時から、これは俺の役目だし」
 なんでもかんでも一人で出来てしまう錆兎の、数少ない苦手分野。それが、裁縫だった。
 小学生のころ、錆兎が着ていたポロシャツのボタンが取れていることに気づき、義勇がそのことを指摘したところ「おう、知ってる」と錆兎は頷いた。新しいボタンをつけないのかと聞けば「やってみたけど上手くいかねーから、まあいっかなって」と彼は特に気にしている様子もなかったが、それに対して義勇が「じゃあ、おれがつけてあげるよ」と思わず食い気味に言ったのだ。
 いつかの体育の授業で、逆上がりができなかった義勇の練習に、錆兎は何時間も付き添ってくれたから。風邪を引きやすかった幼い頃、休んだ義勇の家にいつもプリントを持って来てくれたのは、逆方向に住んでいるはずの錆兎であったから。消しゴムを忘れてしまった義勇に、錆兎は自分の消しゴムを二つに割ると「やる」と言って片方を手渡してくれたから。
 ほかにも、たくさん。義勇からしてみれば、今までのしてもらったたくさん﹅﹅﹅﹅のことへの、ほんの少しの恩返しのつもりであった。
 いつになく声の大きな義勇が身を乗り出して「任せて」と目を輝かせる姿に、錆兎はポカンとしたが最後は吹き出して「じゃあお願いしようかな」と言ったのだ。
 二人で、義勇の家へと向かった放課後。義勇の部屋につくなり錆兎は着ていたポロシャツを脱がされ、なにやら上機嫌でボタンを縫い付ける義勇の伏せた長いまつ毛を、胡座を掻いた錆兎はいつまでも眺めていたかった。これからボタンが取れたらおれに言ってね、約束だよと義勇に念を押され、はいはい分かった分かったと錆兎は呆れ気味に言いつつも、その後もボタンが取れたり服がほつれた際には義勇に直してもらってきたのである。
 錆兎はそんな二人のこれまでを思い出して、懐かしい気持ちを抱えたまま義勇の隣へと腰掛けた。
「……は〜、相変わらず器用にやんなぁ」
「まあ、ただ縫い付けてるだけだが……大したテクニックもなく……」
 男の節榑立った白くて長い指が、小さなボタンをあっと言う間に縫い付け、玉留めを終えると糸を切る。
 そういえば中学生のころ、家庭科の授業でいつまでもミシンの使い方が理解できない錆兎を見かねて、別の班であった義勇が手伝ってくれたのだったか。義勇は丁寧な説明と共にミシンへ糸を通してくれて、課題のエプロンを縫うときも献身的に手伝ってくれた。コツなどを教えてくれている義勇の優しさと、整った横顔に錆兎はうっかり見惚れ始終上の空であり、結果的にほとんどの作業を義勇にやらせてしまっていた気がする。なお、顔を見つめるのに夢中で話はまともに聞いていなかったため、錆兎はいまもミシンの使い方はさっぱりのままであった。
「いっちょあがりだ」
 むふ、と得意げに笑う義勇がシャツを広げ、錆兎が小さく拍手を送る。
「ボタンついてる服って制服やスーツでもないと錆兎はあまり着ないし、なんかこうしてボタンつけるの久々な気がした」
「そうだなあ……シャツ着る機会も増やそうかな。義勇にボタン縫いつけてもらうと、縁起良さそうだし」
「また調子のいいことを」
 義勇が可笑しそうに相好を崩し、元通りとなった錆兎のシャツを膝の上で畳んだ。
 洗濯物を一枚畳むのだって、同棲を始めた当初は几帳面な義勇らしく、やたらと時間がかかっていたというのに。いつの間にやら随分と小慣れた姿に、錆兎は嬉しいような惜しいような気持ちになる。
 本人が聞けば猛烈に拗ねるだろうが、温室育ち丸出しの義勇が不慣れな家事を頑張ろうとしている姿もまた、可愛かったのだ。なにより、義勇の世話を焼けるのは錆兎にとっては気分が良いもので、非常に充足感があった。理解力に優れ、手先も器用な義勇ならば短期間でこれくらいの成長を遂げるのは当然とも言えるが──もっと、世話を焼かせて欲しいとすら思ってしまう。
「義勇はほんと、なんでもできちまうな」
 錆兎が感心して言うと、義勇の端正な顔が突如として険しくなった。
「……嫌味か?」
「なんでだよ、褒めてんのに」
「どう考えたって錆兎の方がなんでもできるだろう……」
「その、オレを美化しまくって最強人間に仕立てる義勇くんの悪癖は、いくつになったら治んのかね?」
「美化じゃなくて見たままなんだが。錆兎は一番凄くて一番かっこいい」
 義勇の恐ろしいところは、これを冗談でもなんでもなく本心で言っている部分であろう。彼の中で錆兎という男は、どんな生物をも凌駕する最強の存在と成り果てている。
 錆兎は、遠い目をした。かれこれ出会った時から、ずっと変わらない義勇の中にある己への評価に。そして、この期待に応えるのが男だろうと、今でも頑張ってしまう愚かで単純な自分へも呆れている。
 とは言えこれも惚れた弱みだ、仕方がない。
「一番かっこいい、の部分だけは有り難く受け取っとくかな」
 錆兎が言い、義勇の膝に置かれたシャツをソファ前のローテーブルへ置いて、すかさず距離を詰めた。
「時代が時代なら錆兎は国を治めていただろう」
「んじゃあ、義勇好き好き可愛いランドでも建国するか」
「馬鹿馬鹿しいことを抜かすな」
「お前には言われたくねぇんだけど」
 軽口のラリーをしばらく。あ、キスをされるなと察した義勇が目を伏せ、錆兎が唇を重ねたのはほぼ同時である。
 触れるだけの優しいキスのあと、二人は至近距離で見つめ合った。
「……ありがとな」
 これだけのことで今でも頬が熱くなってしまうことに義勇は恥じらいを覚えるも、錆兎から送られる言葉で胸が満たされていく。熱を孕んだ頬を撫でてくれる彼の大きな手に甘えて、出しっぱなしのソーイングセットを片付けねばと、頭の片隅で考えながら義勇は自らもう一度、唇を重ねたのだった。