これから僕らは

 家族と車に乗ってどこかに出かける、なんて思い出は伊吹にはなかった。
 父と母は仕事で長いこと家を空けることが多く、いわゆる転勤族と呼ばれる伊吹家はカーリースを利用しており、マイカーすら持っていない。
 父や母の運転する車に乗った記憶など、もう朧気でしかなかった。
 だから、なのだろうか。車での遠出に慣れていなかった幼い伊吹は、学校行事などでバスを利用する場面で、必ずと言っていいほど酷い車酔いに見まわれる。
 遠出をする行事は昔から苦手であった。
 先述した車酔いもその理由の一つで、あとは買ってきたコンビニ弁当の中身を自分の弁当箱に移し替える作業が虚しくて、嫌だったことも含まれる。
 両親は、もちろん仕事。
 弁当を作ってくれる人も、車酔いを心配してくれる人も、誰もいない。
 だから、班決めの際には適当に人の足りないところに入れてもらっては、当日は仮病で休むことにしている。
 いつもそうしてきた。
 小学校の低学年の頃。遠足のバスの中で嘔吐してしまい、自分の服を汚してしまったことを後の座席にいた男子生徒に笑われたのが悲しかった。
 その悲しみを聞いてくれる家族も居なければ、学校を転々とする生活の中で話を聞いてくれる友達すらロクに出来るはずもない。
 些細なことだと周囲は言うかも知れないが、それでも繊細な幼少期の心にトラウマを植え付けるには十分な出来事で、それ以来、伊吹はバスに乗ることを極端に避けてきた。
 それは卒業を控えた小学校六年生になっても、なにも変わらない──そのはずであった。
 最近、仲良くなったばかりの櫂が、今度の社会科見学で一緒の班になろうと伊吹を誘ってくれたのだ。
 誰かにこうして輪に入れてもらうのは初めてのこと。伊吹も一度は断ったが、櫂があまりに「なんで」としつこいので、理由を言いたくないあまりに「ファイトでボクに勝てたら考えて上げる」と言ったのが失敗であった。
 こんな時ばかりトリガーを引いてくる櫂の勝負強さに根負け、男に二言はないよなと言いくるめられて強引に班に入れられてしまったのである。
 伊吹は、櫂が好きだ。
 幼さゆえに恋心などというものをまだ自覚するには至らなかったが、櫂に恥ずかしいところを見られたくないという思いは強かった。
 だから、もしも。吐いてしまったところを櫂に笑われたりでもしたら、伊吹はもう生きていけないだろうなと自身の死すら予兆していた。
 だから、前日の夜まで欠席するか否かを、コンビニ弁当をわざわざ弁当箱へ移し替える作業をしながら悩みに悩んだのだ。
 それでも──櫂が、誘ってくれた。
 一緒に見て回ろうと。
 面白いこともなにも言えない、櫂にしてやれることはヴァンガードを教えることだけ。そんな己を、クラスの中心でもある櫂は輪に入れてくれるのだ。
 伊吹は台所で、菜箸を握ったまましゃがみ込む。
 以前、櫂に「伊吹は顔を出した方がいい」と前髪を強引に掻き上げられたことがあった。そのとき、櫂がキョトンとして、伊吹の目を見つめては「おまえやっぱり綺麗な顔だな」と言ったのだ。
 つり上がった目も、不気味なほど赤い目も、すべて伊吹が長い前髪で隠したかったコンプレックス。
 それを、綺麗だと言ってくれた。けれど──
「……吐いちゃったら、櫂くんの中で綺麗じゃなくなるのかな……」
 きったねー、と。あの時、バスで笑いながら言われたことを思い出す。
 櫂の傍にはいたい。けれど、みっともないところは見られたくない。
 テーブルの上に置いたままの、買ってきたばかりの酔い止め薬に視線を送る。もしかしたら、あの頃よりマシになっているかも知れない。もう、大丈夫になっているかも──そんなことを考えつつ、よろよろと立ち上がって酔い止め薬のパッケージを握った。
 そして、翌日。
 飲んできた酔い止め薬は気休めにすらならず、持参した専用のエチケット袋に顔を突っ込みながら、伊吹はゼエゼエと涙を浮かべていた。
「伊吹、苦しいか?」
 そう、声をかけてくれるのは櫂である。
 元は、後方の座席に班のみんなと座っていたものの、伊吹の具合が悪くなり始め、周囲が「お前顔真っ青だぞ」などとざわつき始めると咄嗟に櫂は席を離れ、中央部の座席に座っていた女子生徒たちに「代わってもらって良い?」と声をかけると櫂は伊吹をそこに誘導した。
 以降、隣に座ってくれている櫂は、伊吹の小さな背中をやや圧すような加減でさすってくれている。これが、存外吐き気を楽にさせた。
「ごめんなさ……っう、ぇ……」
 櫂は「なんで謝んの」と優しく笑って、手も疲れているだろうに背中をさすり続けてくれる。
 先ほど、担任教師が伊吹と櫂の元まで来たが、櫂は「俺がいるから平気だよ」と言い切り、自ら伊吹の介抱を買って出てくれたのだ。
 エチケット袋があるとはいえど、他人が嘔吐しているところなんて、子供からすれば一種の恐怖心を抱いてもおかしくはないはずだ。それなのに、櫂は「しんどいよな、大丈夫だから」と繰り返して、伊吹の冷や汗や涙を清潔なタオルで拭いてくれる。
 周囲もクラスの中心とも言える櫂の対応を目の当たりにして、普段は伊吹に声をかけてこないクラスメイトまで「大丈夫?」と優しく声をかけてくれる有様であった。
 生まれてこの方、周囲にこんなに気遣われたことがあっただろうか。改めて、小学校という小さな社会における櫂の影響力が如何ほどなのかを痛感しながら、伊吹は櫂に見守られながらも一通り出すものを出し終え、まだ吐き気は収まらないものの少しだけ楽になる。
 その頃になるとちょうどトイレ休憩が訪れ、櫂は使用済みのエチケット袋をゴミ袋に入れると、伊吹に「口をゆすいで外の空気を吸おう」と話して手を引き、二人でバスの外に出た。
「──よし、服も汚れてないな」
 トイレから少し離れた、休憩所内のベンチに並ぶ二人の背中。
 鼻や口の不快感もなくなり、顔色が戻りつつある伊吹を見て、櫂は安堵したように頷く。いつのまにかゴミの処理までしていてくれたらしく、伊吹は自分の吐瀉物を片付けさせてしまったことに、感謝よりも申し訳なさや羞恥心が勝ってしまう。
「あ……あの、あのね、櫂くんありがとう……」
「いいって。俺も昔は船酔いが酷くってさ、旅行先のクルージングとかでゲロ吐きまくったからこういうの慣れてんの」
 乗り物酔いってしんどいよなあ、なんて話しながら、櫂はなんでもないように笑ってくれる。
 処理に慣れていたのも、恐れずに伊吹を気遣えたのも、櫂には他者の苦痛がどれほどのものなのか自然と理解できるからなのだろうか。
 完全無欠なようで、櫂はいつだって他人の痛みを正面からちゃんと理解しようとする。
 この優しさは、伊吹だから、ではない。
 きっと、他の誰かに対しても、彼はこの優しさを分け隔てなく向けることができるのだろう。
 それが愛しくもあり、切なくもある。
 伊吹は、おこがましいと自覚しながらも、それでも抱いてしまう独占欲のようなものを無視することはできなかった。 
「ていうか、気づけなくてごめんな。ちゃんと聞いてれば、もっと座席とかもあらかじめ配慮できてた。悪い」
「そっそんなことないよ!」
 櫂の謝罪に、伊吹は思わず声を上げた。
「……ボク、その、昔からなんだ。昔から、バスに乗るとこうなっちゃって」
 本来なら、伊吹の方から相談するべきだった。けれど、そうすることで櫂に迷惑をかけるのも、輪に入れてもらっている分際で、自分を中心に人を動かしてしまうことになるのも、怖くて仕方がなかった。
 言えなかったのは、伊吹の方なのだ。
 けれど、結局いろんな人に迷惑をかけてしまっている。
「こうなるってわかってたのに……ボクが言わなかったんだ」
 悲しくもないのに、感情が昂ぶると、どうして涙が出てしまうのだろう。
 伊吹は俯いて、目尻に滲んだ涙を袖で拭った。
 小さくなっていく声を聞きながら、やがて黙り込んでしまった伊吹の頭を櫂は見下ろす。
「……なんで言わなかったんだ?」
 櫂が問うと、風が吹いた。
 伊吹の髪がふわりと揺れ、少しずつ顔を上げる。
 それは涙ぐんでいて、目尻が赤い。
 また、自分が泣かせてしまったのだろうかと櫂は内心で焦りを覚えつつも、伊吹がなぜか徐々に顔を赤らめていく様子を見ていると、不思議と罪悪感とは違う別のものが湧き上がってくる。
「……か……櫂くんと……」
「俺と?」
 伊吹の女のような声が上ずって、緊張していることがわかった。
 伊吹は、まだ自分の恋心すらしっかり自覚できていないというのに、ただ、櫂のことを独り占めにしたいという気持ちだけは理解できていたのだ。
 ただ、その独占欲がどこから来るのか、肝心なところが分かっていない。
 どうしてこんなにも、櫂の近くにいたいと思うのか。優しくされるとドキドキしてしまうのか。櫂の迷惑になると、苦しくなるのか。
「……しんどくても櫂くんと一緒にいたかった……から」
 ぎゅっと自分の手を胸元で握り締めながら、鼓動にすらかき消されそうな小さな声で告げる。
 キョトンとする櫂。
 思わず、バカだな、と言おうとしたのを、櫂は思いとどまった。思ったことをなんでも口にしてしまう悪癖をもつ少年が、ここで踏みとどまるのはなかなかないことである。 
 けれど、正直なところ、バカだとは思う。
 そんな事情があるのなら、ちゃんと言って欲しかった。けれどいま思えば、班ごとのバスの座席決めのときに伊吹が苦笑いしていたのも、最初に誘ったときに不安そうにしていたのも、それは口下手な伊吹から出されていた無意識のサインなのだと思えた。
 けれどそこまで察しろと言うには無理があるし、確かに櫂には落ち度などないはずであった。
 それなのに、どうして気づけなかったことを申し訳なく思うのか。
 言って欲しかったと、僅かな怒りに似たものを感じるのか。
 それは些細なことでも伊吹に我慢などさせたくなかったからなのだと、櫂は自分自身でその解にたどり着き、握り締められた伊吹の手をとった。
「バカだな」
 やはり言ってしまった。
 伊吹は、また泣きそうな顔をする。
「つーか、お前がゲロっても小便ちびろうと俺はなんとも思わないし、それよかしんどいの我慢される方が嫌だ」
「……お、おしっこは漏らしてないもん……」
「例えだよ、例え」
 普段は気弱なくせに、櫂に言いたい放題言われると、たまにこうして言い返してくる伊吹が櫂は好ましいと思う。
 そうだ。
 こういう、自然体の伊吹が櫂はよかった。
 無理などしていない伊吹の方がいい。
「だから、なんだ。その、今後はちゃんと言ってくれ」
 意識して特定の誰かに人に優しくするのは、この頃の櫂は得意ではなく、気恥ずかしさが勝ってボリボリと痒くもないのに頭を掻く。
「……一緒にいてやるから」
 模範解答が分からない。
 櫂が余計なことを言うとストップをかけてくる三和も、ここにはいなかった。
 また泣かせてしまったらどうしようと櫂は手探り状態で、あやふやな感情をどうにか言葉にする。
 握ったままの伊吹の手は少し冷たくて、手の大きさは櫂と変わらないのに、指が細くて爪が小さかった。
 男と女が混ざったような奴だと、伊吹が聞けばまた泣きながら怒りそうなことを櫂は思う。
 だから優しくしなければ、と思う訳でもなく。そもそも、櫂は男女の違いで接する態度にさほど差はつけていない。
 ただ、伊吹には、優しくしたいと思える。
 女にしては肉付きも悪くて、男にしては筋肉らしきものもなくて、ただただ骨っぽくて、ひょろひょろでちっこくて、手足だけ妙に立派なちぐはぐな体を見れば、なんとなく守ってやりたいとも思う。
 伊吹が先導者だからだろうか。または、常になよなよしているからだろうか。櫂の何気ない一言で嬉しそうにしたり、泣きそうにしたり、たまに怒ったりするからだろうか。
 青白かったはずの伊吹の顔は、またみるみるうちに赤くなって、眉が派手に垂れたのち、伊吹は握られていない方の手で目元を拭った。
 結局泣かせてるし──と櫂が遠い目になっていると、伊吹の方から小さな力で手を握り返される。
「……わかった」
 少し顔を上げて、泣きそうな赤い瞳が上目遣いで櫂の方を見た。
 ──これは、セーフだったのか、アウトだったのか。なにやら伊吹は泣きそうではあるが、悲しそうではない。怒っている様子もないが、一体どういう感情の顔なのだろうか。
 分からない。
 櫂にはおおよそ乙女心なんてものが、何一つ分からなかった。
 けれど伊吹が、櫂の手を握ったままなので、悪くはなかったのだろうと思うことにした。
「……あー、まぁ、そういうこった。んじゃ、そろそろバス戻るか」
 櫂が声をかけると、伊吹は不安そうに「うん」と頷く。
 きっと、また気分が悪くなってしまうことを危惧しているのだろう。
 櫂はそんな伊吹を横目で見ながら、バスに連れて戻ると、座席に腰掛けて自分の太股をポンポンと叩いた。
「なに?」
 休憩所から目的地まではあまり距離はないものの、念のために新しくエチケット袋を取り出しつつ伊吹は櫂の挙動に首を傾げる。
「ここ頭のっけて横になれよ」
 櫂は「ほれ」と言って、また自分の脚を叩いた。
 ひっくり返りそうになる伊吹。
「な、なに言ってるの……そんなの恥ずかしいよ」
「恥ずかしいこたねぇよ。横になって楽な体制にとるってーのは基本だろ」
 人の気も知らないで、この男はどこまで無神経なのだろうか。
 伊吹は車酔いとは別の意味で顔を青くして「それならボクはここで一人で横になるから、櫂くん後に戻ってていいよ」と投げやりなことを言う。
「あー? かっわいくねーこと言いやがって。俺がしてやるって言ってんだよ」
「ファイトの時も言ってるけどそうやって上からもの言わないでよ。櫂くんの悪い癖だよ」
 呆れたように伊吹は「相手がボクだからいいけど他の人とファイトした時に喧嘩になっても知らないんだから」などとブツブツと言い、隣り合う座席を仕切る肘置きを下ろそうとするも、櫂がそれを手で阻んでしまう。
 一向に下ろせない肘置き。
「いいから寝てろ、意地っ張りが」
 そう言って肩を抱き寄せ──否、掴まれて強引に引っ張られると、伊吹の上体はバランスを崩して櫂の脚の上に倒れ込んだ。あまりに労りとは程遠い扱いである。これでは気遣っているのか、ムキになっているのか分からない。
 そのまま顔ごと櫂の脚に埋まった伊吹は硬直しながら、櫂の家の匂いを感じる。
「あ……あの」
「俺の服にゲロっても許してやるよ」
「そうじゃなくて」
 そうこうしている内に伊吹の様子を見に来た担任は、櫂の膝で寝ている──押し付けられているともいう──姿を見て、「櫂は友達思いだな」などと呑気に感動しており、目が腐っているのかと伊吹は抗議しようとしたが生憎そんな余裕などない。
「ほら、着いたらちゃんと起こしてやるから」
 櫂は満足げに言うと、自分が羽織っていた薄手の上着を伊吹にかけた。
 これが、ほかの男子生徒同士の行いなら当然からかわれていただろうに、よりにもよって櫂が自らするものだから誰も笑うことはなく、妙にソッとされていることがいっそう伊吹を居たたまれなくする。
 バスが、動き始めた。
 けれど、振動の少ない中央部の座席であることと、横たわっていることで揺れを感じることがない。
 ちらりと見上げれば、櫂が目を細めて笑っている。
 こんなにめちゃくちゃなのに、笑顔だけは本当に天使のように眩しい。美少年というものは、トコトンたちが悪いと伊吹は思う。
 けれど散々嘔吐したことで不覚にも体力を使っていたらしく、伊吹は櫂に背中をさすられている途中でウトウトし始め、そのまま何事もなく到着時まで櫂の膝の上で眠った。
 そして、その間。
 やはり黙っていれば綺麗だなと、櫂は失礼なことを思いながら、伊吹の寝顔をジッと見下ろし続けたのである。

 ドライブで訪れる際のサービスエリアで浴びる風は、なぜかいつも特別に思えた。鼻の頭を赤くさせ、冬の訪れを匂いで身近に感じる。
 先日まで秋物を着ていたのに、もうすっかり冬物の出番であった。先日卸したばかりのチェスターコートを纏い、伊吹はポケットに手を突っ込んでベンチの上で縮み込んでいる。
 多忙な日々によって筋肉も落ち、幾分か細身が目立つようになった体に纏う、そのグレーのロングコートは長い髪も相俟って、遠目から見ると女性のシルエットにも見紛う。しかし立てば一般男性よりも高いその背丈によって、周囲を余計に混乱させた。
「おまたせ」
 声がして、伊吹は顔を上げる。
 伊達眼鏡にマスク。今やプロファイターだというのに、お粗末な変装でドライブをしようと唐突に誘って来たのは今となっては恋人である櫂の方だった。
 温かいお茶と、なにやら美味しそうな匂いがするプラのパックを幾つか持って伊吹の元にやってくる。
「おせぇよ」
「悪い。屋台のお兄さんにバレて話してた」
 そりゃ、そんな変装ならバレないほうがおかしいだろうと思いつつ「ああそう」と頷いて、伊吹は櫂からペットボトルを引き取った。
「なんかこれ有名らしい。勧められたの買ってきたけど」
 そう言って伊吹の隣に腰掛けて、櫂がパックを開くと二人分の焼きおにぎりらしきものから、ソースのかかった粉物、中華まんまで。こういう出先でないと中々食べないようなものが一通り並んでいる。
「多いな」
「食えなかったら俺食うよ」
 お好きなものどうぞ、と笑いながらパックを並べる櫂の手元から、まずは焼きおにぎりを手に取って頬張った。
「……うまっ」
「よかったよかった」
 恋人の丸く膨らんだ頬を見つめ、満足げに頷く櫂は伊吹の分のペットボトルを開封してから、自分のものを開封して一口飲む。
 デートで訪れるレストランや、いつもの手料理も悪くない。
 ただ、少し寒くても、こういう食事を外でたまにつまむのも良いものだと櫂は思う。
「そういえば伊吹、お前車酔いしなくなったよな」
 多いと言っておきながら、黙々と焼きおにぎりを食べ終え、次に中華まんに手を伸ばしている伊吹に声をかけた。
 痩せた体のどこに入るのか。普段は食事がおざなりな伊吹だが、食べれる量自体は意外にも多い。
「中学の時とか空手の試合でバス乗りまくったからな。三半規管鍛えられたんじゃね」
 今となっては自身も車の免許を持ち、スムーズに運転するほどになった伊吹だが、かつて彼がバスの中で顔を真っ青にしていた幼少期を櫂はふと思い出していた。
 櫂が知らない、伊吹の数年間。その間に、伊吹は多くのことを克服しているように見えた。
 今でも、それが少し寂しく感じる。
 だが、確かに車酔いはなくなったものの、洋酒を飲んで吐き気を催した伊吹が長い間トイレで苦しんでいるときには、無理やり口に指を突っ込んで吐かせてやる役目は相変らず櫂であるため、さしてやっていることは昔と変わりないような気もするのだが。
 櫂が感傷に浸って妙にぼんやりしていると、伊吹はイカ焼きのようなものを頬張りながら、焼きおにぎりを掴んで櫂の口に押し付けてやる。
 もご、と鳴く櫂。
「冷めるぞ」
 唇の端にソースをつけた、相変らず見惚れるような綺麗な顔が櫂を見つめている。
 櫂は思わず伊吹の手から一口食べ、自分で食えよと言われてケタケタと笑った。
 ──あの、社会科見学の帰りのバスも。伊吹は確か、再び櫂の膝枕で強引に寝かされて、学校に着くまで一度も苦しい思いをすることなく、すっかり熟睡していたのだった。
 櫂の知らない伊吹の数年間を、たまに考える。
 けれど、伊吹を綺麗だと思う気持ちは、少年の頃に感じたそれと、なに一つ変わっていない。
 空白の過去よりも、これから歩むこれからのことを考える。
 車に乗って、つぎはどこに行こう。
 伊吹と肩を並べて談笑しながら、知らない山を眺め、櫂は手元の焼きおにぎりを美味しそうにかじった。