それじゃあ、また来世で。 - 1/3

 ふう、ふう、と息を漏らしながら、男は重たい足を引きずって歩く。近くまで馬車で運んではもらったものの、ここから先は入り組んだ狭い道となっているため、どうしても自分の足で行く必要があった。痣者となってからは年々代謝が悪くなって、最近では汗もあまりかかない。蝉時雨せみしぐれにもみくちゃにされながら、随分と痩せてこけた男は目のくぼみに少しの汗を溜めつつ目的地までを懸命に歩く。
 もう、この足で墓参りに行けるのは今年が最期だろうと。
 男は、義勇は悟った。
 だからこそ、近頃は世話になりっぱなしの奥方たち﹅﹅﹅﹅に、墓参りへ行くなら一緒に行きましょうかと聞かれときも義勇は断ったのだ。彼女たちも、目を離した隙に彼がその辺で野垂れ死ぬんじゃあないかと、心配しているのだろう。義勇はやにわに笑って、そして心配する妻たちに「ガキじゃねぇんだ、一人で行かせりゃいい」と言い放ってくれた宇髄にも感謝せねばと考える。
 その時、急に激しく咳き込んで義勇は足を止めた。口元を抑えた左手に鮮やかな血痰がついているのを確認すると、着物を汚さないように懐から手拭いを取り出す。握りしめる形で手の平の血を吸わせ、そして汚れていない部分で濡れた口端も拭いた。隻腕の生活にも、慣れたものである。同じ痣者の炭治郎や不死川は、幸いにもどうやらここまで症状は重くないらしい。それを聞き、よかった、よかったと義勇は安堵していた。自分が、彼らの分まで業を攫っていければいいと、男は本気で思っている。
 だが、それは自分が死んだらいいとも思っている訳ではない。
 ただ、できるだけ己よりも、他の仲間たちには長く生きていて欲しかった。うんと生きて、家族に囲まれていて欲しかったのだ。
「……錆兎。久しぶり」
 温い風に若白髪が混じりつつある、少し伸びた義勇の髪が揺れる。
 目の前には、生涯忘れることのなかった彼が父と眠る墓石が佇んでいた。刻まれた家名は聞き慣れないものであり、それは父の死後、複雑な生まれである錆兎が「ただの錆兎」として生きることを決めて名乗らなくなった本来の姓であると後に鱗滝から聞いた。
 筋の浮いた手で、太陽の下で熱された墓石を撫でる。人の体温よりもずっと高いはずのその熱は、義勇の冷えた指先で触れることにより、愛した彼の温もりに近づいた。
「俺……来年はもう、行けそうにないんだ。ごめんな」
 よいしょ、と屈んで、背負った状態の手向ける花々や清掃道具を降ろすと、まずは周辺に生えた雑草を抜く。
「でも、もうすぐで会える。錆兎にも、錆兎のお父さんにも。俺の父さん、母さん。蔦子姉さんにだって」
 物言わぬ墓石は、独り言にしては大きな声に耳を傾けるように、小さくなった友の背中を見下ろしていた。
「……俺が……そちらに行くときは。そうだな、錆兎が、迎えに来てはくれないだろうか?」
 やつれてもなお、儚さを孕んだ整った容貌に穏やかな笑みを浮かべ、義勇は顔を上げた。そっと語りかければ、目に滲みるほどの眩しい日光から墓石が庇うように義勇へと影を作ってくれていることに気付く。
 長く厚い睫毛を震わせ、そのまま撓垂しなだれるように墓石に身を委ねれば、義勇は目を瞑った。
「最期くらい、甘えてもいいだろう?」
 けほ、と乾いた咳が続く。墓石を撫でて、もう一度彼の名前を呼んだ義勇の声に対し、あの頃と同じように「仕方のない奴だ」と笑う声が聞こえたような気がした。
 何年経とうと、誰と出会おうと。
 今でもこんなに、義勇は色褪せない彼に会いたかった。

 ◇

 夕暮れごろに帰れば、宇髄の妻たちと、その子供たちが義勇を出迎える。
 どうも遅いから迎えに行こうと思ってたんです、と心配から泣き出してしまった須磨に「須磨さん泣かないで」と義勇が困ったように笑って、墓参りついでに師が暮らす狭霧山の方まで足を伸ばしていたのだと話した。心配かけさせんなって、と言いながら胸を撫で下ろしたように話す、乳飲み子を抱いたまきを﹅﹅﹅。疲れたでしょう、お疲れ様と義勇を支えて玄関まで共に歩く雛鶴に加えて、義勇に「だっこ」と足元に纏わりつきながら甘えにくるのは宇髄家の長女と長男であった。
「いま義勇がお前ら抱っこしたらコロッと死んじまうっての。あとで父上にしてもらいな」
「ちょっとぉ! まきをさんッ、死ぬとか縁起悪いこと言わないでくださいよっ! めっ、ですよ!」
「もう……あなたたちワアワア騒がないの」
 一昨年の暮れ。嫁も迎えず一人暮らしを続ける義勇を気にかけてくれていた宇髄の妻たちが、毎月のように義勇の顔を見に来てくれていた時のこと。門の前で声をかけても返事がなく、嫌な胸騒ぎがした妻たちが屋敷の庭から敷地を覗けば、口からも鼻からも大量の血を吐いて倒れている義勇を偶然見つけた。
 一度は生死の境を彷徨いはしたが奇跡的にこうして歩けるほどまでに快復し、そして今となっては義勇も一人で暮らしていた屋敷には戻らず、宇髄家へと身を寄せている。
 当時は義勇の身を案じて我が家に迎え入れたいと話す宇髄の妻たちに、気遣いは嬉しいが余所者の自分が人様の家庭に身を寄せるなんてと義勇が頷くことはなかった。だが、そんな頑固な元同僚の言葉を黙って聞いていた宇髄が突如として声を張り上げ「本当に申し訳ないと思ってるなら、黙ってここにいろ。うちの妊婦に余計な心労をかけるな」と一喝し、以降は多少の申し訳なさを抱きつつも宇髄の子供たちの相手をしながら、穏やかな毎日を過ごしていた。
「ぎゆー、へとへとー?」
「うん。ちょっとヘトヘト」
 ひと際甘えん坊の、面白いほど宇髄に顔がよく似た長女が義勇の腰に抱きつくように歩き、その幼い可愛らしさに思わず目を細める。
「おともだち、げんきだった?」
 そして、話し始めるのも早かった、利発で優しい長男が義勇の顔を嬉しげに覗き込んだ。
 墓参りに行くと言っても子供には難しいだろうと思い、今朝、どこに行くのかと聞かれた際には「友達に会いに行く」と答えたのだ。
 そのことを思い出し、義勇はなんと答えるべきかと一考。けれど、答えは思ったよりもすぐに出た。
「……うん、元気だったよ」
 義勇が痩せた左手で長男の頭を撫でてやり、皆で廊下を歩く。
 昔、病に冒される前の、存命だった両親の顔を自分もこうして、覗き込んでいた気がする。用もなく廊下を歩く姉の腰に抱きつくと「なあに、どうしたの甘えん坊さん」と姉が笑いかけては頭を撫でてくれた。
 一人のときには、思い出しもしなかったであろう記憶の数々。己の命に終わりが近づいていることも分かっていながら、義勇は不思議と、今が幸せだった。
 生きるということの意味を、この頃にはやっと思い出せていたのである。

 日も暮れて、妻たちが子どもたちを寝かしつけに向かったあと。宇髄と義勇だけが残った部屋で、二人は中庭から見える月を肴に酒を酌み交わしていた。
 隊士だった頃は、宇髄とこんな風に酒を飲んだりするようになれるとは思いもしなかった。義勇が柱となった時には宇髄は既に音柱を務めており、仕事上でお互い必要最低限の話をすることはあっても、身の上話をするほどの関係性ではなかったのである。
 正確に言えば、義勇が誰ともそういったことを一切話さなかった、という方が正しいのだが。意図的に、自分のことを話すのは避けていた。剣士であった己は、失ったものを思い出すとなにも出来なくなる気がして、振り返ることすらも恐れていたのだ。
 だから──宇髄や、その妻たちに錆兎や姉の話をしたのも、この家に身を寄せてからのこと。
 話を聞いてくれた宇髄の妻たちは自分のことのように泣きながら耳を傾け、宇髄は「あの世で待ってくれてるだろう」と静かに頷いてくれた。義勇も、そうだといいなと思う。優しい人たちにたくさん助けてもらったと、嬉しかったことも。抱えきれない悲しみもあったけれど、自分は生まれて来て確かに幸せだった。それらを全て、待っていてくれているであろう友や家族に話したかった。
「宇髄」
「んー?」
 義勇が崩していた姿勢を改めて正すと、真っ直ぐに宇髄の方を見る。
「……たぶん、俺は……もう長くない。自分のことだから、よく分かる。きっと、来年の桜を見れるかどうかだろう」
 淡々と、義勇が落ち着いた声色で話す。宇髄はなにも言わず、依然として月ばかりを見上げて、義勇の言葉が続くのを待った。
「それで……相続とかの話を、ちゃんとしておきたいんだ。もちろん書面にも残しておくが、一旦は宇髄の耳に入れておきたい」
 炭治郎と禰豆子の二人に、これだけを残してやりたいと。あとは宇髄の子供たちに受け取って欲しいことも含め、義勇はずっと前から一人で考えていた全てを語った。
「俺の着物や、屋敷の土地も……金になりそうなものは全て売ってもらって構わない。とは言え貯め込むばかりで質素な暮らしをしていたものだから、売ったところで大した額にはならないだろうが」
 世話になったのに、面目ないと義勇が頭を下げた。
 そこでようやく、宇髄が義勇の方へと隻眼を向ける。
「……あの妙ちくりんな羽織は?」
「え?」
「お前が隊士の頃に羽織ってただろ。姉上と、錆兎ってやつの羽織繋ぎ合わせた奴だよ。竈門の妹が丹精込めて直してくれたってのに、あれも金に換えちまっていいのかよ」
 宇髄が片眉を上げて問えば、義勇は言葉を詰まらせる。
 隊士であった頃に比べると義勇の口数も増え、自分の意思をそれとなく伝えられるようにもなった。表情も見違えるほど柔らかくなり、特に宇髄の子供たちに向ける笑顔はかつての無機質な水柱の面影を一切感じさせないほどである。
 だが宇髄は、漠然とこれが素の冨岡義勇なのだろうと思えた。
 穏やかでよく笑う、少し口下手なだけの、どこにでもいる思慮深い青年がそこにいたのである。
 鬼殺隊の解体後、生き残った隊士たちは家元へ帰るなり、隊内で親しくなった仲間たちと暮らすなり、それぞれが家庭を持ったりと目まぐるしく環境は変化した。一方、隊では風柱を務めた不死川は各地を放浪しながら気ままに生きているようで、たまに宇髄家へと寄っては、律儀にも妻や増えた子供たちの分も合わせて土産を置き、再びなにも言わずに去っていく。
 息災ではあるらしいので何よりだが、なんだか野良猫のような人ですねえと妻たちが言い得て妙なことを言ったので、その時ばかりは宇髄も笑った。
 そして水柱である義勇ときたら、不死川のように自由を謳歌するでもなく、他の隊士のように家庭を持つでもなく、仲間と集うでもなく。元水柱とあろう者が、近隣の商店で細々と手伝いをしながら慎ましく暮らし、鬼殺隊士の頃に賜っただだっ広い水柱邸で一人、終わりを待っていたのだ。
 宇髄は、義勇に妻は貰わないのかと聞いた。子供の一人くらいは、授かるべきだと。そういう価値観が当たり前の時代で、けれど義勇は「そのつもりはない」と言い切ったのである。
 老い先の短い自分が、誰かを残す側になりたくないと義勇は言う。
 それに、子を残すにしてもシモが不能気味である自分には困難だと思わぬ事実を打ち明けられ、宇髄は目を丸くしてから「え、勃たねぇの」と明け透けなことを問うた。それに対して義勇も表情を変えることなく「生憎、十三の時からずっとそうだ」と何でもないように頷いた。
「妻は貰わずとも、養子を貰うことくらい一度は考えたがな、それも……もういいんだ。俺が末代でも、姉さんも両親も責めやしないだろう」
 そんな会話をして、しばらく経ってからだ。
 義勇が大量の血を吐き、倒れていたところを妻たちに発見され、宇髄家へとやって来たのは。
 宇髄はかつての同胞に死が迫っていると悟り、せめてみんなで看取ってやりたいと涙ぐむ妻たちの意向も汲んで、この家で彼を引き取ることを決めた。あれからなんとか生還を果たした義勇ではあったが、それでも日を追うごとに目に見えて弱っていく。
 出来ないことが増え、事あるごとに咳き込み、身体も小さくなっていくのだ。
 本人の言う通り、彼はもう長くはない。その覆りようのない現実が悲しいか否かと問われると、宇髄は決して悲しくはなかった。周囲から薄情だと責められても仕方がないが、こればかりは、もういいんじゃあないかとも宇髄は思う。
 なぜなら冨岡義勇は、死に行くのではなく、生きることを全うしたのだから。
 剣士として、一人の人間として。文句のつけようもなく立派な人生であった。本当に見事な、生き様であっただろう。
 同じ柱として、剣士として、男として。宇髄は一人の男が迎える最期を、心の底から誇りに思うのだ。
 故に、もういいんじゃあないかと思う。孤独に剣を極め、ひたすら前を向いて歩み続けてきた剣士が最期に行きついた死に場所が、幸いにもお節介な女性たちと元気な子供たちがいる、この賑やかな場所でよかったとも。
 とは言え、未だ納得できないことがあった。
 まるで、自分が生きた痕跡など跡形もなくなればいいと言っているような、義勇の終わらせ方についてだ。
 妻も養子も貰わない、なぜなら誰かを残して逝きたくはないから、それも分かる。子は残さない、身体がそれらに向いていないから、それは仕方がないことだ。資産以外を残せない、だから遺産も全て世話になった人々や可愛い弟弟子たちに分け与え、着物も土地も全て売ってくれていい。
 どうか自分のことは忘れて、生きている人たちが、幸せであればそれでいいと。
 義勇の思いは、確かに美談かもしれない。けれど、宇髄は地味で質素な美談が、辛気臭くて大嫌いなのだった。
 コブがついてようと、穴が開いていようと。人生とは人が持つ異なる派手な凹凸があればあるだけ、素晴らしいものになるというのが元音柱の持論である。
 義勇の引き際は美しいばかりで、もう一癖も二癖も足りない。あれだけ華々しい軌跡を辿ったと言うのに、これではすべてが水の泡だ。
「……あの、羽織は……俺の骨と、一緒に埋葬してくれたら」
 やはり想定内のつまらない答えが返って来て、宇髄は大きくため息をこぼす。
 剣士としては確かに一流であっただろうが、この男は作家としては三流だ。
「錆兎との、繋ぐって約束はどうすんだよ馬鹿が」
 その言葉に、義勇は「でも」と口を挟もうとしたが、宇髄も負けじと言葉を被せる。
「嫁たちと、話し合ったことがある。いいか、よく聞け」
 宇髄が手にしていた猪口を置くと、月明かりに照らされた青い元同僚の顔をまっすぐに見据えた。
 随分と気温も下がった、夏の夜風が義勇を宥めるように、大丈夫だと語りかけるように中庭から開け放たれた部屋へとそっと吹き込む。
 かつての、姉の手のように。
 懐かしい温もりを帯びて、義勇と宇髄の間に漂う空気を震わせていた。
「──つぎ生まれて来る四人目の子供を、正式に冨岡家の養子にする」
 一瞬の間。時が止まって、義勇はたっぷりと時間を取ってから「はぁ?」と声を絞り出した。
「……ま……待て。話が、ちょっと、急すぎる。そ、そもそも……お前の奥方たちがそんな、自らの命を懸けて腹を痛めて産んだ子だ。お前も知っているだろう、お産は言葉の通り命懸けなんだ」
 らしくもなく、義勇は言葉を矢継ぎ早に言い放つ。
「その、尊いものを夫で父親のお前が……易々と、俺みたいな……余所者に、子を……っどう血迷ったらそうなる。慰めでも嬉しくはない、よしてくれ」
 義勇の声や顔から読み取れるのは、動揺と、澱みのない怒りだ。
 義勇は、宇髄の子供達を本当の甥姪のように可愛がってくれていた。同じように妻たちにも敬意を払い、自ら子供らの相手を買って出て、三人目が生まれた時には感極まって鼻を啜る義勇に嫁たちまで貰い泣きをしてしまったほどである。
 命は尊く、そして生まれてくる時には溢れんばかりの祝福を受け、子供とは愛されるべきだと義勇は信じて疑わない。これは冨岡義勇という男が、幼き頃に周囲に惜しみなく愛された証で、幸せな幼少期を送ったという証左でもある。
 養子をもらうことは特に珍しいことではないとして、そのような価値観を持つ義勇からすると、宇髄の発言はまるで自身の子を軽んじているようにも思えたのだろう。それは義勇の逆鱗に触れるものと言っても過言ではなく、顔を真っ赤にしながら子の行末について本気で激昂した男に対し、宇髄は満足げに目を細めた。
 何が面白い、と義勇が噛みつく。
「いや。やっぱりお前は俺たちの子供を、託しても良いと思える男だったなと」
「なに、世迷言を言って──」
 義勇が言い終わる前に、宇髄が言った。
「……全部、嫁たちが言い出したんだよ」
 不快感を表すように、義勇の眉間に深く刻まれた皺。だがそれも、宇髄の言葉によって溶けて消えていく。
「……奥方……たちが?」
 宇髄が命じたわけではなく、今も大きな腹を抱えて子を育んでいる妻たちからの提案だと聞き、義勇は余計に混乱した。
 そんなことをしてもらう義理は、己にはない。なまじ同僚として肩を並べた経験のある宇髄の提案であれば理解できる部分も少しばかりあるが、妻たちにとって己は、決戦後に初めて顔を合わせ、ほんの一年か二年程度、共に暮らしただけの他人であった。
 義勇はもちろん、他人だとは思っていない。師である鱗滝や、炭治郎と禰豆子に確かな愛情を抱くように、一家にも心の底から幸せになってほしいと思ってはいるが、それは全て義勇の一方的な思いに過ぎないのだ。
 誰かの幸せを願ったり、誰かの命が続けば良いと祈ることはあれど、義勇の中で自分が第三者からそう思われることはありえないことだった。
 なぜならば、そう義勇に対して思ってくれた人たちは、一人残らずに亡くなってしまったのだから。
 両親も、姉も、──錆兎だって。
「……お前が、俺たちに姉上と錆兎の話してくれたろ。あの日から、ずっとずっと、あいつらも真剣に考えて三人で話し合ってたって」
 自分が死んでも、きっとなにも変わらない。
 泣いてくれる人はいるだろう、花を手向けてくれる人はいるだろう。それも分からないほど周りが見えていないわけではなかったが、自分が死んだとして、それでも変わらず愛した人々の営みは絶え間なく続いていく。その中で自分は小さな泡となって、語り継がれることもなく消える事を義勇は望んでいた。
 なにも変わらなくても、よかった。誰にも覚えてもらえなくても、生きた証が残らなくても。己が生きたと言う事実は、揺るがないのだから。
 姉の命を繋いだ、錆兎に託されたものを繋いだ。
 それで、それだけで。冨岡義勇という男のくだらない一幕は、全て終わってよかった。
「あいつらが、繋いでやりたいって頭下げてきた。それで俺は、いいなって思って便乗しただけだ。本心でそう思ったからな」
 文字通り命を懸けて、誰かに繋いでもらえるなんて事を、義勇は願ってはいなかったのに。
 それは、義勇にとってはあまりに身の丈に合わない贅沢だった。
 錆兎を忘れられないまま大人になって、同じだけ他の誰かを愛することも出来ずに、誰かに託すことも放棄した。己が終着点でいいと、義勇は腰を下ろす気でいたのである。
「人ってのは変えようがないこと、どうしようもないことほど後から思い出しては律儀に悔いやがる。悔いて、疲れて、しょうがなかったって……自分自身に許されるのを待ってんだろうな」
 宇髄は、なにも言わなくなって俯いた義勇の、噛み締められた唇と震える顎に気づき、少し笑ってから再び月へと視線を向けた。
「俺はこれまで、しょうがなかったって言葉で踏み倒してきた後悔を一つずつ清算していきたいと思ってる。別の形であれ、今出来る限りの形で。このままお前が末代でくたばったらよ、俺はいつかまた後悔すんだ。ああ、もっと……なんかしてやりゃ良かったなぁって。全部、後になって思うわけだ」
 義勇も宇髄が語るような、どうしようもない後悔には覚えがあった。
 ──たまたま同じ任務に就いた煉獄に、食事でも行かないかと誘われ、断ってしまったこと。
 伊黒に、自分の考えや、思いを少しでも話してみればよかった。甘露寺が挨拶をしてくれる時、目を見て言葉を返せばよかったとも。
 時透が思い出せない花の名前を知っていたのに、教えそびれたこと。悲鳴嶼には十代の時から迷惑ばかりをかけたのに、ごめんなさいも言えなかったこと。
 胡蝶に、話していて楽しいと、ちゃんと言うべきだった。気にかけてくれて嬉しかったと。もっと、話したいことがあった。姉であるカナエが柱だった時に、たくさん優しくしてもらったことも、聞かせてやればよかったのに。
 けれど、こんなに悔いても、どんなに思っても、もう彼らはそこにはいなかった。
「俺はもう、父親になると決まった時に、後悔は太刀と一緒に置いてきた。他の連中に出来なかったことを、妻と子に、そして今生きてる奴らにしてやるんだってけじめをつけた」
 義勇が、鼻を啜る。
 よく泣く男だ。柱だったあの頃は、面を貼り付けたようにピクリともしなかった表情筋が、本当はこんなにも鮮やかなものだったとは思いもしなかった。今の義勇があの世に行けば、同僚であった柱の連中は腰を抜かすんじゃあないかと宇髄は思う。あの鉄仮面が、思っていたよりも子供みたいに笑う姿を、彼らや彼女たちにも見てほしかった。
 自分はまだまだそちらに行けそうにないが、ありのままの義勇に目を丸くする柱の面々だけは見てみたい。
 不死川がたまたま宇髄家に立ち寄った際に、庭で宇髄の子供たちと遊んでやっている義勇を見かけ「人相変わりすぎだろ」と薄ら怯えていたのは実に傑作であったから。
 己が老いぼれになるその時まで、誰かが待ってくれているならば。共に夜を駆けた、あの頃の仲間たちが──どんな風に盛り上がったのかを、少しでも教えてくれたらいいなと宇髄は愉快な夢を見る。
「安心しろ。お前を看取ったら、あとは生きてるやつらで繋いでおいてやるから。一人くらい冨岡を名乗ろうと俺のガキには変わりねぇ、他のと変わらず立派に育て上げる。その辺は、なんにも心配すんな」
 宇髄天元は、一度こうだと決めたら必ずやり遂げる男であった。
「……そんで、いつかあの世で気が済んだら、姉上と錆兎を連れてフラっと帰ってきたらいいさ」
 こんなことしか出来ないけれど、繋いでやりたいのだと。頭を下げてきた、心から愛する聡明で優しき妻たちと同じく。宇髄も、義勇が酒に酔った勢いとは言え、今でも会いたいと、ずっと恋しいと何度も聞かせてくれた錆兎という少年に会わせてやりたかった。
 人生とは、それくらいド派手な「めでたしめでたし」で締めくくるべきだ。
 冨岡義勇という男の物語を目の当たりにする読者がいるとしたら、彼らもそれを望むはずである。
「約束したんだろ、繋ぐって。男が一度、交わした約束を簡単に破っちゃならねぇ。男と男の約束は、命よりも重いんだ」
 義勇が、残った左腕で濡れた顔を覆う。
「これもお前が、ちゃんと繋いだ縁だ。血の繋がりよりも、人の思いってのは強固なもんだろ。だからそのうち、会いたい奴にちゃんと会えるだろうさ」
 今夜は、見事な満月だった。隊士だった頃、こんなに眩しい月明かりの夜は下級の鬼であれば鳴りを潜めて人を襲う事を避けるため、宇髄は、流れる血も涙も少ない満月が好きだったのだ。
 暗がりに迷い込みそうになる剣士たちを、静かに見守る月が道を指し示す。そして今も、自分たちを包み込むように月は優しく光り続けていた。
「……ありがとう」
 朝が来たら、宇髄の妻たちにも同じ言葉を何度だって伝えようと義勇は思う。
 男はお産に立ち会えないのが一般的だと言うのに、彼女たちが四人目の十月十日とつきとおかがいつなのかを義勇にしつこく伝えていたのは、その日まで生きろと言う意味だったのかもしれないと全てに合点がいく。
 己の世継ぎが生まれることが、待ち遠しいのではない。子の誕生そのものが喜ばしかった。なにより、義勇が錆兎に託されたものを、同じように大切にしようとしてくれている誰かがいること自体が、男には夢のように感じたのだ。
 間違いなく、義勇は幸せだった。
 ──お前は、絶対死ぬんじゃない。繋ぐんだと背を押す彼が送り出してくれた彼のいない世界は苦しくて、眩くて。寂しくもあり、そして息を呑むほどに美しかったのだ。