それじゃあ、また来世で。 - 3/3

 白い呼吸が、夜を舞う。
 冬が深まる年の暮れ。本殿とは別に建てられた厳かな高床式の神楽殿では、龍笛や篳篥が奏でる耳心地のいい音色に、和琴の透き通るような高音が優しく寄り添っていた。
 その中心で、青と白を基調とした神楽装束を纏い、無機質な面で顔を覆った舞手が一人。剣鈴けんれいを手にした若い舞手が披露するのは、代々受け継がれてきた魔除の意味を持つとされる剣の舞である。
 時期や選ばれた舞手によってその年の演目が異なる神楽だが、今宵は拾まで演目がある水の演舞であるらしい。水と戯れるように流麗に舞うその人影が男性なのか女性なのかは曖昧で、ただただ、結われた黒髪の毛先が描く動線までもが、息を呑むほどに美しかった。
「……綺麗」
 魅了された観客たちのどこからか、惚れ惚れとした声が上がる。誰しもが目を奪われ澄んだ世界観に惹き込まれる中、宍色の髪を揺らす今年で高校二年生となった一人の少年──錆兎だけが、眩しげに目を細めていた。
 水の演舞は演目の数こそ多いが、他の舞と比べると舞手も多いために基本の舞ともされてきた。煉獄家が代々正式に受け継ぎ広めている炎の演舞や、宇髄家が受け継ぐ音の演舞に次いで水の演舞も舞われることは多く、継承者が極めて少ない希少な舞と比べればとりわけよく見る方であろう。
 だが、ここまで水の演舞を優雅に舞った舞手は、いまだかつていたであろうか。
 伸ばされた指先から、顔の角度まで。まさしく一寸の狂いもなく、身体そのものが流れる水のようだった。身体に染み付いた型をなぞるように舞う姿は、人の規格から外れた神々しさすら孕んでいる。
 今年の舞手に選ばれた恋人が、水に溶けて消えてしまいそうな不安すら錆兎は覚えるが、結局はその美しさに圧倒され、口元には思わず笑みが溢れるばかりであった。

 ◇

 見事な舞を披露し終えた少年、義一は更衣室も兼ねた社務所にて、無事に舞い切ったことにホッと一息つく。
 神社を管理している産屋敷の方々に労いやお褒めの言葉を賜り、その他関係者とのやりとりも終え、ようやく待機していた巫女たちが重たい神楽装束を脱ぐのを手伝ってくれた。
 舞を披露していた際は血が巡り、身体中に熱が籠って仕方がなかったが、いざ終わると真冬の風に滲んだ汗が冷やされてどうにも冷える。
 床暖房も完備された、割り当てられた暖かな個室で義一が一人。色気もへったくれもない下着姿で丁寧に汗を拭っていると戸がノックされ、「オレだ」という聞き慣れた声が続く。
「あ、いいよ。どうぞ入って」
「義一、お疲れ様──って、おい。せめて下くらい履け」
 神楽を舞っていた時は、あれほど優美で美しかったというのに。
 いま目の前にいる義一はやぼったいトランクス一丁で白い素肌を恥ずかしげもなく晒したまま、用意された椅子の上で寛いでおり、その光景に錆兎も呆れて顔を顰めると頭を抱えた。
「風邪を引いたらどうする」
「風邪引きたくないから汗拭いてたんだもん」
 今年で十七になるというのに、義一は未だに手がかかる。仕方のないやつだと肩を竦めた錆兎は恋人の手からタオルをぶんどって背後へ周り、代わりに拭きづらそうな背中などを撫でるように拭いてやった。
「ねぇ錆兎。俺、ちゃんと綺麗だった?」
 首筋に張り付く、汗で湿った長い後ろ髪も忘れず拭いてくれている錆兎に甘える義一は、褒められたい一心で肩越しに錆兎を見つめる。
 厚い睫毛に縁取られた、黒目がちの大きな瞳。返事を待つ義一の瞳は爛々としていて、なんだか子犬に似ていた。
「……綺麗だったよ。惚れ直す程度には」
 ごまかさずに言うと、義一は無邪気に喜んだ。この言葉は、紛うことなく本音である。
 義一に連れられ、初めて神楽を見たのが小学生の頃。義一も父や祖父から水の演舞を習っていると聞き、いつか彼もあの舞台に立って、舞って見せてくれるのだろうかと考えていたものである。
 そんな期待が、今日、現実となった。
 それも、想像を遥かに上回る美しさで塗り替えながら。
「……このあとさ、みんなでご飯食べに行った後……錆兎、どうするの?」
「オレ?」
「うん」
 義一がなにやら急にモゴモゴと言葉を濁し、錆兎に問う。
「ん〜別に……帰って寝っかな、普通に。義一の舞も見れたことだし、今なら良い夢見れそうだ」
「そ、そう」
「義一は親戚の集まり行くんだろ? 天満さん帰ってきてたらさ、またサウナ行ってフットサルしようって言っててくれよ」
「……う……うん」
 普段であれば、親戚の集まりをとても楽しみにしている義一らしくない。どうも歯切れの悪い様子に、錆兎は少しの思案顔。やれやれと肩を竦めて「なんだよ、なにかあんのか」と声をかけ、汗も拭き終えた義一の身体に自分が羽織っていたコートをかけてやると、目を合わせるため前へと回り込む。
「……あのね」
「うん」
 錆兎の顔を一瞥し、義一が口を開いた。
「お父さんたち、たぶん今日は……宇髄さんのお家にそのまま泊まるんだ。俺も去年までは、そうしてたんだけどさ……」
「ああ、そうだな」
 いつものように義一が何を言いたいのかを察して、先回りをしてやりたいのは錆兎も山々なのだが、今回はどうにも難しい。なので辛抱強く言葉を待っていると、義一の顔は見る見るうちに赤くなって、ようやく小さな声で話し始めた。 
「……俺……神楽で疲れてるし、家で……留守番するって言っちゃった。錆兎も呼ぶから大丈夫だって言ったら……それなら安心だってお父さんも納得して」
 暗に、お呼ばれしていることに気づき、目を丸くする錆兎。
 それも、二人きりの家に。
「……明日のお昼まで、二人でいれるよ」
 座ったままの義一が言い終えると、照れ隠しに目の前の錆兎に抱きついて、そのまま硬い腹へと顔を埋めた。ピュアなんだか積極的なんだか、絶妙なラインを狙ってくる義一の無自覚なあざとさに、錆兎は目を瞑る。
 そんなの──行くに決まっている。
 ここで行かないと言える男なんてのは、この世にはいないだろう。
 錆兎が「行く」と即決すると、抱きついたままの義一がぴとっと腹に頬をひっつけたまま、上目遣いで微笑んだ。
「むふふ……よかった。あとね、錆兎に見せたいものもあるんだ」
「見せたいもの?」
「……うん」
 頭を撫でてくれる錆兎の体温に、義一は満足げに微笑んで頷いた。この可愛い恋人が一体何を見せてくれるのだろうかと、錆兎は「楽しみにしておくか」と笑って、その後は甲斐甲斐しく義一の着替えを手伝ってやったのだった。

 ◇

 義一の家族や親戚たちの輪に錆兎も加わり、賑やかな食事会を終えた二人は静かな夜の街で手を繋ぎながら冨岡家へと向かっていた。閑静な住宅街は、この時間になるとすれ違う者は誰もおらず、まるでこの世界には自分たちしかいないような気すらしてくる。
 冬の夜は長くて、冷たい。なぜか明けそうにない夜を前にすると言い表せられない焦燥感により、義一の足が一瞬すくんで、胸を締め付けた。
 その正体がなんなのかは、今も分からない。けれど、握った錆兎の温もりに触れると心が軽くなって、義一は彼とならどこまでも歩いて行けるような気がした。
 錆兎そのものが、義一の中では唯一の夜明けのようにも感じる。
 宍色の優しい灯火に導かれるまま、無事に帰路へとついたあとは各自で風呂や着替えも終えて、準備は万端。
 だが、今は義一の部屋に、錆兎が一人残されていた。さっそく恋人の時間が始まるのかと思いきや、ちょっと待っててと義一に言われたので、錆兎は大人しくベッドのすぐそばの床に座って待っている。
 見せたいもの、とはなんなのか。
 皆目見当がつかず、錆兎が気長に恋人を待っていると突如としてドアが開き、「じゃーん」と言いながら義一が姿を現した。
 そこには──泊まりに来た際などではよく見慣れた、寝巻き姿の義一。ただ、いつもと違うのは、お馴染みの寝巻きの上からなにやらちぐはぐ﹅﹅﹅﹅な羽織を纏っていることであろう。
 燕脂色の生地と、黄色や緑があしらわれた亀甲柄の鮮やかな生地。それぞれ異なる生地が左右で使用されている羽織は不自然であるのに、なぜか驚くほどに義一に馴染んでいた。
「……これね、俺の曾々おじいちゃんの羽織なんだ。ほんとは刀とかもあったらしいけど、それは戦争の時に全部持ってかれたから、なくなっちゃったって」
 義一は、物憂げな眼差しで身に纏った羽織を見つめる。
「でも、この羽織だけは宇髄家の人がずっと繋いで守ってくれてたんだ。今年から俺が舞を奉納するからって、宇髄のおじい様が出してくれたの。冨岡家が舞を奉納するのは、俺が初めてだったから」
 話しながら、錆兎の隣に義一が腰を下ろす。
 随分と大切に守られてきたのだろう、保存状態がかなりよかったと思われるその羽織は、ちっとも色褪せてはいない。驚くことに生地にも艶が残っていて、それはまるで今日を心待ちにしているようにも見えた。
「変わった……羽織だな。二つの生地が合わさってるのか?」
「ね、なんかすごいよね。こことかさ、よく見ると直した跡がいっぱいあるんだよ」
「あ、ほんとだ。一体、なにしてたらこんな破れたりするんだ……?」
 注視しないと分からないほどだが、確かに広範囲にわたって直された跡がある。まるで、血を血で洗うような痛々しい激闘が繰り広げたかのような生々しい痕跡に、錆兎の顔が引き攣った。
 気を遣って触れはしないながらも、しげしげと羽織を眺め続ける錆兎の横顔。義一は、その横顔を網膜に焼き付け、何らかの思いを馳せるように目を瞑る。
「……錆兎はさ、前世って信じる?」
 義一が、突拍子もないことを言い出すのは、よくあることだ。
 おっとりとしていて天然な彼が、なにもかもを脳内で自己完結した後にポロっと発する言葉は時に奇想天外で、それが錆兎にとっては面白く、好ましかった。
 しかし、唐突に前世を信じるか否かを問う義一の言葉に、今回ばかりは錆兎も笑うことができない。
「俺……この羽織を見た時、なんだかすごく懐かしい気持ちになったんだ」
 青いような黒いような義一の瞳には、薄い涙の膜が張られている。
「寂しくて、切なくて、息が詰まって……でも、元気が出るんだ。ああ、生きててよかったって、そんな事を思って」
 義一は言葉を続けながら、錆兎の肩に顔を埋め、そのまま身を委ねた。あれだけ羽織に触れることに躊躇していた錆兎であったが、目の前の義一がなぜだかポツンと孤独に佇んでいるように見え、男は衝動のまま肩を抱く。
「……それで……なんでかな、錆兎に……会いたいなって思った。昨日も、今朝も会ったのに。会いたくて会いたくて、たまらなくなって」
 ──奉納の神楽を初めて教わった時、義一はまだ小学校にも上がっていない頃だった。
 同じく祖父から舞を継いでいる父に作法を教わることとなったのだが、そこまで運動が得意でなかった義一は自分が上手くできるかが不安で仕方なく、当日の朝には「練習に行きたくない」と勝手にプレッシャーを感じて泣き出してしまい、家族全員にあやされ慰められていたのである。
 なにより少年の不安に拍車をかけたのは、自分が舞うのが水の舞であった点だ。音の舞であれば、小さな頃から可愛がってくれていた天満が舞って見せてくれていたので馴染みもあったのに。なぜ自分は水の舞なのだと、激しく戸惑ったのを覚えている。
 天満ちゃんと同じ音がいい、水なんてわかんないと、泣き疲れた幼い義一が言うと付き添ってくれていた姉は小さな弟を抱き上げて「冨岡は代々、色んな人の支えがあって水を任されているの。お姉ちゃん、義一のかっこいい水の舞が見たいなあ」と鼓舞した。
 大好きな姉がそこまで言うのなら、と。
 あの時の義一は、姉に背中を押されて、嫌々練習に赴いたのだ。
 知らない演舞と、初めての経験。いざ練習が始まっても、ちっとも乗り気でなかった義一であったが、父が見せてくれた水の舞を前にすると、小さな身体の内側で細胞がざわめき立った気がした。
 わずか、五つか六つの子供であったというのに。義一は──この舞を遠い昔、がむしゃらになって己の身体に叩き込んだような感覚に襲われたのである。
 本来であれば、一朝一夕で身に付く舞ではない。それを、あれだけ嫌がっていたにもかかわらず、義一は少し教えただけで祖父や父よりも優雅に舞ってみせた。
 この光景に父は困惑、母は驚き、姉は「義一はやっぱり天才なのよ」と誰よりも興奮気味にはしゃいでいたのだとか。
 あの時はただただ上手だと褒められたことが嬉しくて、己の違和感の正体がなんなのかを考えもしなかった。偶然、自分に向いていただけ。それくらいの解釈で片付け、長年思考の隅へと追いやっていた。
 だが、十七となった今年。奉納する舞手が義一に決まり、宇髄家の祖父にこの羽織を託されたことで、己の中で停滞していた水が、激流を伴って動き始めたような気がした。
「……俺の曾々おじいちゃん、義勇さんって言うんだって」
 錆兎の鼓膜を、一人の知らない、誰かの名前が震わせる。
「冨岡家が初めて水の舞を奉納するにあたって、俺の家のこともいろいろ教えてもらった」
 今は亡き義一の曽祖父は、義勇と親交があった宇髄家の者が冨岡家へと養子に出した子であったらしい。だから、厳密には義一と義勇の間には血の繋がりはなかった。
 また、重い病を抱えていた義勇は生涯独身のまま若くして亡くなったため、一応は冨岡家の世継ぎであった曽祖父ですら義勇のことは覚えていなかったのだと。産みの母や実の父、そして義勇と親交があった人々から教えられた彼の人柄を元に、父へ抱いた印象は、責任感が強く、真面目で不器用、頑固で口下手で、けれどなによりも愛情深い人というものだった。
 義勇が病死してからは曽祖父はこれまで通り宇髄の家で育ち、水の舞は竈門家と村田家の者が率先して教えてくれていたらしい。 
「一度は途切れかけても……俺まで義勇さんの羽織が届いたのってすごいよね。優しい人たちが、ここまで繋いでくれたんだ」
 桜が、花開く季節だった。
 その日の早朝、義勇は眠るように亡くなった。
 前日の夜に、明日は養子にあたる我が子を抱いて、宇髄家の子供も連れて桜を見に行こうと宇髄の妻たちと話していたのに。翌朝、起こしに行った子供達の声に義勇が目を覚ますことはなかった。
 春一番が吹き込む風が強い日で、どうしたことか中庭に面した義勇の寝室の戸が不自然にも全開となっており、桃色の花びらが大量に部屋の中へ吹き込んでいたらしい。
 眠っているとしか思えない穏やかな義勇の顔と、桃色の花びらが彼を囲む光景を見て、周囲は彼に優しい迎えが来たのだと悟った。
 それらは宇髄家の記録に残っていたという、冨岡義勇の最期。
 義一はこの話を聞き、脳裏には見知らぬ情景が浮かぶ。
 ふと、戸を開くような物音に目を覚まし、顔を傾けると朝焼けを背にして、狐の面で顔を覆う少年が横たわる男のすぐそばに立っていた。
 当時はもはや身体を起こすだけでも、僅かに痛みが伴うようになっていた男は──彼は。
 ──己は。
 左手を──少年に伸ばした。
 風が吹き、庭に咲いていた桜の花びらが部屋の中を舞う。少年の愛おしい髪色にも似ているその花びらに目を細めていると、少年が狐の面を外し、恭しくかしずくように膝をつく。なにより愛した口元の傷と、笑うとできるエクボの影。伸ばした手を握り、痩せた頬を撫でてくれた暖かな手が存外小さくて、彼が己の元から去った年月の長さを実感した。
 何年経とうと、誰と出会おうと。
 今でもこんなに、色褪せない彼が恋しいまま大人になってしまった駄目な男を、少年は咎めもせずに優しく抱きしめてくれたのである。
「……よく生きた」
 噛み締めるような少年の声を聞き、己のこれまでは回りくどく遠回りではあったけれど、正しかったのだと。自分自身を長らく責め続け、憎み、踏みつけにした苦々しい日々を。
 義勇はその全てを愛し、肯定することがようやく叶った。
 安堵して、その温もりと風に舞う桜の花びらに身を預けて目を瞑る。
 そんな、身に覚えのない、懐かしく幸せな終わりの瞬間。誰かに教えられたわけでもない、記されたわけでもない。この魂に色濃く焼きつく、知らないのに知っている確かな記憶を──義一は間違いなく自分のものだという、確信すら抱いた。
「……義勇さん。今日、初めて聞いた名前。知らない名前なのに、不思議と聞き馴染みがあってさ」
 確証なんてものは、どこにもない。
 ただ、そうだったらいいなと、思っているだけ。
「……それで、なんとなく……錆兎に義勇って、呼んでみて欲しくなった」
 錆兎との出会いが、運命でありますように。
 義一は、ずっと思っていた。
 出会うべくして引き合わされたのだと。そう思えるくらいに錆兎との日々は尊くて、愛しくて、幸せで。
 そのきっかけは、もしや遠い過去を生き抜いた義勇にあるのではないだろうか。彼の頑張りが、このような形で実を結んだのかもしれないと──義一は漠然とだが、我が身のように思う。
「……変でしょ? 変、だよね。すごく変だ」
 涙声で、義一が笑った。
「曾おじいちゃんですら覚えてない義勇さんを、俺は……とても身近に感じて、それでさ」
 溢れた一筋の涙を誤魔化すように、義一は羽織の袖で顔を覆う。こんなことを言ったら錆兎を困らせるだろうに、自身のあやふやな言動が徐々に恥ずかしくなって、義一が押し殺すように笑顔を浮かべれば、錆兎は包み込むように優しく己を見つめていた。
 羽織ごと義一を抱きしめ、錆兎は噛み締めるように優しく微笑む。
 口元には、あの美しくも痛々しい傷跡はない。だが、しっかりと二つのエクボがあった。
 よく生きた。そう言って褒めてくれた、あの少年の顔が目の前にあったのである。
「──義勇」
 愛した声が、己を呼ぶ。
 どんなに月日が経とうと、会いたくて、恋しくて。失ったことを思い出すと、何もできなくなってしまうほどに守りたかった彼の声だった。
 同じように歳を重ね、同じ思いを抱き、彼と言葉を交わせることをどれだけ夢見たことか。
「お……っおいおい待て待て。なんで、お前がそこまで泣くことがある……!」
「わかんない。わかんないけど、嬉しくて……」
 止まらなくなった涙は、義一の顎を伝って羽織に滲む。思わぬ大号泣に慌てふためいた錆兎が義一の濡れた頬を撫でて、落ち着かせようと丸まった背中をひたすらさすってくれていた。 
 ずっと、己は生まれる前から錆兎に会いたかったのだ。
 そのために、今の時代に生まれてきたのだろう。
 託され、繋ぎ、繋いでもらって。それは気の遠くなるような時間を費やして、男のたった一つの夢が叶った瞬間であった。

 ◇

 なかなか泣き止まない恋人をあやして、せがまれるままに口づけを施し、そして「抱いてほしい」と求められた錆兎は今日も義一に振り回されていた。
 義一と晴れて恋仲となり、こういった行為も何度か回数を重ねてはきたが、今でも錆兎はちっとも慣れやしない。
 整頓された部屋にある、シングルベッドの上。共にキスをしながら下着まで脱がせ合ったあと、一糸纏わぬ姿の義一は仰向けのまま横たわり、耳まで赤い顔も自らの腕で覆っている。
 必死に酸素を取り込もうと浅い呼吸を繰り返す、哀れで美しい恋人の、長く白い足の間。
 そこにいる錆兎はフーッと鼻から長く息を吐き、今にも暴れだしそうな理性をなんとか落ち着かせた。
 先ほどまで錆兎の指による、しつこい愛撫により愛でられ拡げられた義一の後孔はヒクヒクと息づき、注がれたローションが愛液のごとく垂れてシーツに染みを作っている。たった一人の愛おしい雄を受け入れるため、自ら望んで差し出した卑猥な粘膜は熱く蕩けて、可愛がられるのを切なげに待ち望んでいるようであった。
 縦に割れつつある義一の蜜壺。セックスを覚えてしまった若い二人が、秘めやかにもどれだけ求め合ってきたのかを雄弁に語り、錆兎だけの甘い雄膣に成り果てようとしている。
 錆兎はコンドームの封を切り、臍にもつきそうなほど勃起してしまっている己の膨張したペニスを手で支え、恋人を守るための薄い膜を慣れた手つきで纏った。コンドーム越しであろうと浮き出た血管と太い裏筋の主張は激しく、カリ高で大きく張った亀頭は精液溜まりを圧迫する。
 数時間前まで、優美な舞でその場の人々を魅了していたその人が、いまや己という一人の男に組み敷かれているという優越感と罪悪感。尻たぶを掴んでペニスを当てがい、義一の顔を見やれば、いつの間にか腕は退かされ発情し切った濡れた瞳に愚かな雄が映り込んでいる。
「……錆兎……奥まで、きて。俺のここまで、錆兎の形にして……?」
 義一が自身の白い臍の下を撫でて乞うと、もう男には止まることなど出来やしなかった。
 腰を掴んでそのまま正常位の形でペニスを挿入してやり、義一の脚が覆い被さる錆兎の腰に絡むことで二人はより隙間なく密着する。
 凹凸の大きな肉ヒダを抉りながら腰を進め、指で散々圧されて虐められた前立腺を太い竿でさらに圧迫してやると、義一は鼻から抜けるような声を漏らして鳴いた。甘やかな絶頂の度に括約筋が断続的に締まることで、敏感な恋人が挿入だけで軽く達してしまっていることを錆兎に報せる。
 だが、まだ──奥まで、届いていない。
 充血して硬度が増している亀頭が、更に粘膜を蹂躙する。やがて辿り着いたのは、結腸手前の頑なな肉輪であった。
 最初から、激しく突いたりなどはしない。義一が大好きなのは粘膜を捏ねるようなストロークであり、ゆっくりと追い詰められ躾けられること。控えめな抽送で、ちゅ、ちゅ、と閉ざされた肉輪の機嫌を伺えば徐々に義一の意思には反し、雄に屈して開いてしまう。やがて僅かに開いた隙間に亀頭を押し付けて、錆兎は愉しそうに目を細めた。
 そして、ここでようやく力強いピストンを叩き込んでやる。
 教え込むために。義一の本能に、自分が誰のもので、誰の雌であるかを知らしめるように。
 義一の目の前に、火花が散った。たった一度、突き上げられただけで音を上げ、敗北を許すようにペニスを咥えこまされた敏感な肉輪。つがいの雄を求めて降りてきた結腸を、錆兎は乾いた唇を舐めてから褒美でもやるように犯してやることにした。
 結腸を抜かれ、腰が引かれると、また押し上げられる。そこは初々しい二人が覚えたばかりの、とても気持ちがよくなる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅とっておきの場所。
 孕む準備でも出来ているように、義一から香り始めた咽せ返るような雌の匂いに煽られ、錆兎は恋人を掻き抱きながら目を閉じもせずに乱暴に唇を重ねる。布が擦れ、ベッドが軋み、皮膚と皮膚がぶつかる音と、互いに舌を絡め合う濃厚なキスの合間に漏れる義一の嬌声。
 この、身体の内側から錆兎で満たされるのが、義一はたまらなく好きだった。
 己がぐずぐずに溶けて、錆兎の一部になってしまうような錯覚。
「ぁっ……あ……ッ錆兎、すき……好き、だいすき……さび、と」
 流し込まれた唾液を幸せそうに飲んだ義一は、縋るように錆兎の名前を呼ぶと太い首に下から腕を回してしがみつく。
 好き、という言葉は──幼少期から何度も義一に告げられてきたもの。
 当時、スイミングスクールで出会った頃の義一は人見知りによって誰とも話せず、いつも一人で黙々と授業を受けていた。そんな義一に、初めて声をかけたのが錆兎であったのだ。
 すでにジュニアクラスの中でも上級とされるコースで泳いでいた錆兎は、入ってきたばかりであろう義一からどうしてか目が離せず、気づけばいつも遠くから目で追ってしまう始末。
 馴染みのある校章が記された名札を義一がつけていたのを見かけたことがあり、小学校は同じなのであろう。ただ、これまで同じクラスになったことはなかった。
 以降もあまりに錆兎が義一を見ているため、幼なじみである真菰が呆れて「声かけたらいーのに」と言い、錆兎は迷いつつも腹を括って、自ら義一に話しかけてみることにした。
 それが、二人の──二度目﹅﹅﹅の出会いである。
 一歩を踏み出せば親しくなるのもあっという間で、翌年には小学校でも同じクラスとなった。義一が錆兎の背を追う形で数々の進級テストを乗り越え、ようやく二人が同じコースで泳げるほどになったとき、錆兎と義一はいつまでもはしゃいで喜びを分かち合ったものだ。
 義一は内向的ではあるものの、一度心を開いた相手にはどこまでも素直で懐っこく、思いをしっかり言葉にする少年である。
 まっすぐと目を見つめ、錆兎が好きだよ、大好きと言われるたびに一々胸が高鳴るのに、義一ときたら舌の根が乾かぬうちに「真菰ちゃんもだーいすき!」と同じく親友である真菰にだって変わらず無邪気に笑う。
 その瞬間の、錆兎のなんとも言えない顔に吹き出すのを懸命に耐える真菰は、これみよがしに「わたしもだーいすき」と義一に言い、錆兎へ見せつけるようにキャッキャとはしゃいでいるので質が悪かった(真菰に関しては明らかに確信犯であったが)。
 好きだ好きだと義一に言われ続け、それに対して錆兎がオレも好きだよと半ば反射のように返すのがいつもの二人。
 義一が己と手を繋ぎたがったり、いつも隣にいたがるのは、気を許した友達だからなのだろう。錆兎がそのように納得しつつあったころ、義一が突然「錆兎と結婚できたらいいのになぁ」などと言い出したので、錆兎はその場で転びそうになった。
 思い返せば、ずっと、友情とは別の角度から義一が好きだった。そして義一も、錆兎を思い続けていたのだ。
 いま、このように同じ気持ちで、同じ時間の中、愛し合えることが錆兎にとってはかけがえのない幸福な瞬間なのである。
 共にあることだけが、幸せだった。他の誰かでは決して埋められないほどに。どれだけ二人の間に異なる時間が流れようと、何度だって巡り合って、その度に二人は恋をするだろうという確信があった。
「……錆兎、あの……肌に、ちゅって吸い付いて痕……残すやつ、やって……ほし……」
 揺さぶられながら、義一がおもむろにキスマークを残してくれと上擦った声でねだる。
 肉壁の蠕動によってペニス全体が締め付けられ、包み込まれるようなたまらない快感に錆兎は色っぽく吐息を漏らすと「なんで?」と赤らんだ頬を撫でて優しく問うた。
「……俺、が……錆兎のだって……印、つけられたい」
 言いながら、義一が錆兎に抱きつき、胎内なかも同時に締まる。
「死ぬまでも……来世でだって、錆兎だけの俺でいたい。俺のぜんぶ……錆兎に、あげたいから」
 義一が、錆兎の肩に顔を埋めて囁くように言った。
「お願い……」
 本当は思い切り噛みついてすらやりたいほどに、義一に自分自身を刻み込みたいという強烈な欲望が錆兎にはあった。だが錆兎はいつも己を抑え、律して、愛する人を傷つけないようにと最大限の愛情で示すことを心がけていたというのに。
 それを、いつもこの美しい人は惑わし、錆兎の理性を揺さぶってくる。
 今日の神楽だって、周囲が義一に惚れ惚れとしているのを心から誇らしく思いながらも、薄らと苦味を感じてしまうのは男の醜い独占欲である。それほどに、錆兎の恋人は綺麗だった。穢れのない静かな水面みなものように、何度手で掬おうと指の隙間からこぼれ落ちてしまいそうな、精巧で穢れのない、儚い美しさ。
 義一を傷つけたくはない、抑えろ、我慢、と己に言い聞かせ、錆兎は恐る恐る皮膚の薄い首筋に唇を這わせる。
 それは義一が肩につきそうなほど伸ばした髪を上げれば、すぐに見えてしまうであろう際どい場所。みっともないと気が滅入りそうになるのに、赤い鬱血痕が義一の白い肌に咲くと、錆兎は無意識に目を細めた。
「……うれしい」
 義一が、泣きそうな顔で微笑む。
 錆兎はついに抑えが効かなくなると再び義一の唇を奪い、細い腰を掴んで、せめて内側だけでも己の欲望のまま義一を愛そうとした。
 ほとんど真上から腰を叩きつけ、狼藉を働く雄の言いなりになってしまった結腸は強引な腰使いにも熱を帯びて発情し、子種が欲しいと哀れにも薄膜を纏うペニスへと吸い付いてくる。錆兎の濃い陰毛が、湿った肉輪を撫で上げるように擦れて、自分たちが如何に密着しているかをそこで自覚した。
 義一の足先が、ピンと張る。口腔を貪られ、声を上げることも許されず、己を優に上回る体重をかけられて身動きも取れず、こうなると与えられる快楽を甘受するしか許されない。
 やがて、降りてきていた結腸が大きな亀頭を全て呑んでしまったのを義一は胎内なかの圧迫感で理解し、臍の下が熱くて気が触れそうになった。義一のあれほどまでに美しかった目がだらしなく虚ろになって、鼻から上手く息ができず酸欠のようになってから、錆兎は深い口付けから義一を解放してやる。
 そして、結腸の手前にある肉輪へ高いカリ首に引っ掛けては、ズルッと腰を引き、間髪を容れずに最奥を再び突き上げた。手前の前立腺で達するよりも、ずっと尾を引く、抗いようのないオーガズムは十七歳の未発達な身体が受け入れるにしてはあまりに強すぎて、義一は射精も伴わず連続的に女のように達した。
 いく、いった、また、またいっちゃう、だめ、ゆるしてと義一に怯えるように訴えられても、同じく若い錆兎は上手く欲望を押さえ込む手段を知らない。
 涙や唾液でぐちゃぐちゃになった恋人を表面的に宥めて、あとはもう、耐えてもらうしかなかった。
「義一……愛してる、誰よりも、なによりも……」
 錆兎の声は、いまの義一には届いていないかもしれない。深くてしつこいストロークで雄膣の甘い粘膜を嬲られ、吸い付いて媚を売ってくる結腸を問答無用で愛でられ続ける義一の口からは、雄の本能を刺激する喘ぎ声だけが聞こえる。
 錆兎の腰が、ビクッと跳ねた。
 大きく張った睾丸が持ち上がり、ついに子種を送り出すように裏筋がドクドクと脈打つ。自分だけを見つめる義一と視線を交わして、射精に向けての激しいピストンを行うと義一は涙目のまま、ふにゃっと笑みを浮かべた。
「……さ、びと……だーい……すき」
 その、耳に張り付くような蠱惑的な声に誘われると腰を押し込み、密着して、錆兎は薄い膜の中へと大量の精液を吐き出す。
 たとえコンドームという隔たりがあろうと、義一の敏感な粘膜は精汁の熱を察して、身体全体に甘イきを促した。
 同時に達して、二人の荒い呼吸が部屋に満ちる。共に絶頂の余韻が落ち着いた頃、錆兎と義一は見つめあって、どちらからともなく唇を重ねた。
 義一を抱いた上での、射精後の充足感は言葉にならない。このまま、ずっと義一を己で満たしておきたいという馬鹿馬鹿しい願望に脳が溺れると、義一の方から唇を離して錆兎の頬を両手で包んだ。
「……もっと、俺に触って」
 天使のような愛らしさと、小悪魔のような誘い。
 確か、翌日の昼まで義一の両親は帰っては来ないと聞いていた。買ってきたコンドームが足りればいいがと、義一が相手となると己が底なしになることも自覚している錆兎が困ったように笑って、依然として挿入したまま義一を抱き寄せた。

 離れていた、あの時間を埋め合うため。
 そして再び触れ合うことのできる喜びを、噛み締めるように。
 恋しくてたまらなかった温もりを、義一は二度と手放さないとでもいう風に、錆兎の広い背中に腕を回して「大好き」と、何度も何度も同じ愛の言葉を囁いたのだった。