カサブタが乾く頃

 一人の子供が、薄暗い路地裏を駆け抜けていく。
 まるで羽根でも生えているのかと見紛うほど軽やかに。スモッグの合間から時おり見える日光でも輝くブロンドを、深く被ったフードの下で揺らしながら壁を登り、あらゆる障害物を越えて、とうとうターゲットであった一人の男を狭い小路に追い込んだ。
「な、なんなんだ! このガキ!」
 足場の悪いフェンスの上で器用に仁王立ちする小さな人影を見上げながら、いかにも小悪党といった風貌の男が吼える。しかし、人影は顔色を変えない。それどころか気怠げに頭を掻きながら、ハアをため息をつく始末であった。
 ──早く帰ろう。
 そう思うと同時に、おおよそ二メートル以上はある高さから生身で飛び降りる。
 行き場を失い、己を見上げるしか出来なくなった間抜けな小悪党を目掛けて。
 落下の最中、体重の掛け方を器用に調整しながら、男の骨の何本かを折る程度に止めて踏みつけにする。潰れた蛙のような音がして、気を失った男を興味もなさそうに見下ろしたあと、何食わぬ顔で足首を掴み、そのままズルズルと引きずって入り組んだ小路を抜けた。
 先の大通りには、白いオートバイに跨がった数人の大人たちが待ち構えている。
 治安維持局──セキュリティの者たちであった。
「よくやった坊主」
 おおよそ、この小隊の中で一番階級が高いであろう男に馴れ馴れしく話しかけられ、少年は整った顔をあからさまにしかめた。
 口も開かず、決して愛嬌を振りまくことも媚びることもない。そっぽを向くと引きずってきた男を転がすように引き渡す。
「いつも悪いな。この辺りはむかーし商店が連なっていた地域でよ、狭い道が多いもんだから」
 昔話に興味はなかった。物心がついた頃から今まで、この街は、少年の世界とは灰色に覆われていたのだ。
 妙にコミュニケーションを図ろうとする目の前の男を、少年は砕けたアメジストのような瞳を細めて睨み付ける。そしてようやく口を開いたかと思いきや、サテライトで生まれ育った若者たちの間で使われている、おおむね共通語に訳すと「うるせぇ黙ってろ」と言った意味のスラングを吐いて、なにかを急かすように手を差し出した。
 可愛げのない態度に部下らしき青年が「このガキが」と凄むが、男はそれを「いいんだ」と笑って制止した。
「ほら、約束だ。またなにかあったら頼む」
 そして子供の細い指に握らせたのは、いくらかの金銭であった。
「お前の話はいつも長い」
 声変わりをしたばかりの、少し掠れた子供の声は中性的な外見と相待って、どこかチグハグとした印象を周囲に与える。ふんぞりかえるように胸を張り、相手がセキュリティであろうと物怖じしない、尊大とも言える態度はスラムの子供にしてはあまりに気高かった。
 挨拶もしないまま、少年は握った何枚かの札を数えることもなく無造作にしまうと、再び小路へ消えていく。
「……いいんですか? あんなガキに手伝わせて」
 あっと言う間に見えなくなった小さな背中と、上司の顔をセキュリティの青年は見比べた。
「いいのさ。所詮は余所者の俺たちが、この辺りの地域一帯を熟知してる盗人と追いかけっこしたところで、遊ばれるだけだ。こっちのが効率的だろ」
「はぁ……はやくマーカーが普及してくれりゃいいんスけどね」
「ま、あと数年はかかるだろうなあ。この前もシティの方ではデモがあったそうだ」
 徐々に荒廃が進むサテライトにおいて、路地裏から地下通路までをも知り尽くしている逃走犯を見つけるということは、シティ出身者で構成されたセキュリティにとっては非常に困難なことであった。
 この頃には既にマーカーと呼ばれる識別システムは開発されたものの、人権保護団体の抗議によって普及は難航。警備員の人員確保や監視カメラの設置、警備体制の見直しなどが幾度となく繰り返されたものの、セキュリティたちもサテライトの盗人一人を捕まえるだけでも頭を抱えていた歴史がある。
「俺も早くこんなとこの管轄から外れたいですよ……」
「そう言うな。ここで鍛えられた奴らはシティに行ったら出世するぞ」
「だってこの特別車両、本部じゃなんて呼ばれてるか知ってます? ロバですよ、ロバ」
 少年から預かった違反者を拘束しながら、青年がいささか小ぶりなオートバイを指して不満げに話すのを「ロバ、かわいいじゃないか」と男は笑って相槌を打った。
 一部の決闘者たちによる娯楽としてライディングデュエルは既に広まってはいたものの、まだ公的機関におけるDホイールの運用は少なく、当時のセキュリティが使っていた違反者追尾システム車両と言えば通常のオートバイを指していた。
 そして、先述したようにサテライトで逃走者を追うには小回りが効く車体が必要となり、Dホイールやマーカーと言った技術の運用が成される以前の、サテライトにおけるセキュリティと言えば何度も改良を重ねられた、非常にコンパクトな小型オートバイに跨がっている姿が主流であった。
「俺たちがこんなにこの地域に合わせて作られたロバに跨がっても、捕まえられねぇ悪党がいるんじゃあ、いっそう猫の手も借りたいってもんだろ」
 少年に踏みつけにされ、気を失っている小悪党が「うう」と呻く。
 せっかく治安維持局に就職したというのに、一年目から過酷な現場に送られたこともあってか、僅かにあったサテライト住民に対しての嫌悪感や差別意識が、半ば八つ当たりのように青年の中で増幅していく。
 それでも、先ほどの少年の目を卑しいガキめと軽蔑できない己が、不思議で仕方がなかった。
 あの瞳は、妙な神聖さを帯びていたのである。
「……しっかしまぁ。公僕の犬が野良猫の手を借りてるなんて、こんなのお上に知られりゃどうなるか分からないんですから。使うなら、バレないように上手く使ってくださいね」
「はい、ごもっともで……」 

 ◇

 野良猫呼ばわりをされていることなどいざ知らず、ブロンドの少年は息を切らしながら灰色の街を走り抜けていた。
 その足が向かうのは薄暗い一軒の雑貨店である。
 子供にしては重い回転扉を肩で押して中に入ると、商品が陳列されている棚などは見当たらず、暇そうな店員が頬杖をついているカウンターが一つ。妙な作りの店内には陳列棚の代わりに、壁一面に取り扱っている食品類などの品目がずらりと記されていた。
 壁を見上げ、備え付けられた紙を取ると少年は強い筆跡で必要なものを書き、カウンター越しの店員に渡した。
 アジア系の店員は気怠げにそのメモに目を通し、一つの品名を指さすと「これね、まだ入ってきてないね」と訛りの強い、辿々しい共通語で少年に告げる。
「なぜだ」
「船、おくれてるね。次の便、すこしかかる。オーナーが言ってた」
 少年は困ったような、怒ったような複雑な表情を浮かべた後、すこし考えてから口を開く。
「シティ基準の指定合成添加物が入っていない缶詰は他にあるか。ああ、いや、日系人が消化できる物があれば欲しい」
 店員は「ああね、ちょっと待って」と頷き、裏につながっている倉庫へと消えて、幾つかの缶詰を持ってくると「えらんで」と少年に促した。
 並べられた缶詰を一つずつひっくり返し、品質表示ラベルの中に教わった成分が入っていないかを隈なく確認する。脳裏に浮かぶ人物の好き嫌いを考慮しながら、選んだのは大和煮と書かれたものであった。
「これを代わりに包んでくれ」
 店員が紙袋に購入したものを詰めている間、少年は先ほどセキュリティから手渡された金銭の殆どをカウンターに置く。
 会計後、紙袋を抱え、店を後にしながらポケットの中に残った僅かな金額を指先で確かめ、次はふと目についた菓子類を取り扱う店の中へ入っていった。
 きっと、今ごろ落ち込んでいであろう幼なじみのため、甘いものでも買って帰ろうと考えたのである。

 ◆

 帰路につき、抱えた荷物の中身を他の者──特にマーサ──に見られたら面倒なことになるため、少年は人目につかない、裏庭に面した窓から孤児院の中へと忍び込んだ。
 他の孤児院の仲間たちは、外遊びの時間らしい。賑やかな子供たちの笑い声を聞きながら、少年は静かになった我が家の中、とある一室の前にたどり着く。
 教え込まれたノックを、面倒そうに二度。
「遊星。開けるぞ」
 静かに告げると、ドアの向こうからすかさず「入るな」と噛み付くような声が聞こえた。こういった攻撃的な態度の時に、部屋の主である遊星がどういった状況なのかなど、手に取るようにわかる少年は何も言わずにドアノブを回し、部屋の中へ足を踏み入れる。
「入るなと言った!」
 尻尾を踏まれて怒った猫のように青い顔でこちらを睨み付ける遊星は、不自然にシーツで胸元まで隠していた。その様子を見て、少年は自分の勘が当たったことを察する。
「聞こえなかった」
 紙袋をテーブルに置き、遊星の元まで近づくと貧弱な力で握りしめられたシーツを有無を言わせず剥ぎ取る。案の定その胸元が吐瀉物で汚れており、その瞬間、遊星はパニックを起こしたようにワアワアと泣き出した。
「……ジャック……あの、おれ、気持ち悪くなって、でも、……っ寝てて……バケツ、間に合わなくって……」
「うん、うん」
 言葉の一つ一つの全てに返事をしながら、ジャックと呼ばれた少年は黙々と汚れた服を脱がしてやり、シーツと共に床に投げた。煤だの泥などがついているが、体を冷やすよりマシだろうと自分の羽織っていたパーカーを着せて「遊星、口をゆすげ」と、マーサが用意してくれたであろう水が入ったコップを握らせる。
 それでも泣いてばかりの遊星は、コップを握ったままずっと俯いていた。
 遊星は──ジャックの幼なじみは、生まれつき病弱であるとか、そう言うものでは決してない。
 それどころかどちらかといえば丈夫な方で、痩せてはいたが風邪もほとんど引かず、外で遊ぶとなると活発なジャックやクロウについていけるような体力の持ち主だった。
 ただ、サテライトに出回る安価な加工食品のほとんどに含まれる添加物の一部を、遊星の体がうまく消化できなかったのである。
 ただ、それだけのこと。
 マーサは他に原因があるんじゃあないかと何度も医者に診せたが、それはもとよりアジア人、とりわけ日系人が消化不良を起こしやすいとされる添加物であることが発覚しており、シティではそれらが含まれている食品類のほとんどは既に店頭にも並んでいないという話であった。
 成長するにつれ症状はマシにはなるが、子供のうちはやはり吐いてしまう子も中にはいると。
 遊星が、不運にもそれに該当した。
 シティでも流通しているカップ麺などは平気であったが、しかしいつもそればかりを食べさせるわけにもいかない。けれど、調味料やインスタント食品にさえ微量に含まれる添加物を、遊星の体が頑なに拒むのだ。
 このサテライトにおいて食べられるものが限られてしまうと言うことはそれなりに深刻な状況で、食べた物を消化できないばかりに骨が出るほど痩せてしまった遊星の体を太らせるため、マーサがあの手この手で食事を与えていたのはつい最近までのこと。
 そして幸いにも、遊星は成長と共に、数年前に比べれば食べられるものが格段に増え、昨今では遊星の体重も心配するような数値ではなくなっていった。
 誰もが安堵した。
 だが、今もこうして忘れた頃に症状が出るのである。
 機嫌よく遊んでいるかと思えば、突然嘔吐するその姿は他の子供たちからするとやはり異様で、時に無神経な者から揶揄われることもあった。
 その経験から、幼い遊星にとって吐くことは恥ずかしい、見られたくないこととなっていき、先ほどのようにパニックを起こして泣き始めることも少なくない。
「汚れたらちゃんと言うんだ。不衛生だろう」
 汚れた口元をタオルで乱暴に拭い、骨の浮き出た背中をさすってやると水で口をゆすぐ遊星の横顔を見つめる。
 厚い黒い睫毛に乗った涙が光っていた。
「……おれが吐くと、ビョーキがうつるって……」
「お前のは病気じゃなく体質と聞いただろう。誰だ、誰に言われた」
 ジャックの問い詰めるような声が急に低くなり、遊星は首を横に振る。
「……おれが名前を言ったら、きっとジャックは相手を殴りに行くから言わない」
「なんだと」
「そしてマーサにお前が怒られるんだ。そんなのはいやだ」
「ならば殴って黙らすようなことはしない。約束する」
 遊星は疑うような目でジャックを見つめた。けれど人形のように整った、愛らしい中性的なその顔が「本当だ」と言うと、遊星はいつも信じてしまう。
「……カルロンと、アマドが」
 ジャックは後でその両名に飛び蹴りでも食らわせようと考えながら、「そうか」と頷くのみであった。確かに、殴らないと言う約束は守っているとも言える。
 絵に描いたような可憐な顔に似合わず、己の幼なじみが存外凶暴であることを遊星は誰よりも知っている。言ってよかったのだろうかと、遊星は名前を口にしてからやはり少し後悔した。
 喋り始めるのが同世代の誰よりも遅かったこともあり、いまでもあまり上手く言葉が出てこない遊星に対して「口でも縫われたんじゃあないか。だから飯も満足に食えないんだ」と意地の悪い者が揶揄って笑おうとも、その背後からジャックが走ってやってくれば、いつもそれらは鬼でも見たかのように散っていった。
 遊星が、それらの稚拙な雑言を言われたところで気にしていないことを──そんな態度だからこそ、標的にされていることも──ジャックは知っている。だが、それでも遊星の幼なじみは自分を侮辱された時と同じように、陶器のように白い顔を真っ赤にして怒るのだった。
 己には足りないものばかりだと幼い遊星は常々考える。背も、体重も、言葉も、そして自尊心も。常に腹が減っていて、けれど食べるのは怖かった。その空腹を埋めるように本を読み、隙間を埋めるように骨の浮いた腕でジャンクを漁る。
 どうしようもなく生き物として不完全のように感じる瞬間が、一日に何度も手土産もなく遊星の元を訪れた。ジャックのように気高くもなれず、彼と全く同じものになりたいとも、また、思わなかった。
 なれないのだ。
 まずは生き物にならねばなるまいと、遊星と名のついたそれは真剣に考えていた。
 それでも、代わりに怒ってくれる彼を見ていると、何もかも違う己がジャックの一部のようになれたようで、遊星は嬉しくもあったのである。
 仲がいいのねと、微笑ましく映る幼さでなんとか歪さが隠されていたような二人だった。
「ああ、そういえば。お前は一度吐くと、いつもその後の食事が億劫になるだろう」
 遊星のパニックが落ち着き、ジャックは買ってきたものの存在を思い出すと紙袋を押し付ける。
 その重さからなにが入ってるのかを察して、喉から絞り出された遊星の声はかすれていた。
「ま……また買ってきてくれたのか?」
「ああ。これはお前が食っても絶対に大丈夫だ。なんと言ってもシティの市場にも並んでるものだからな!」
 ふふん、と得意げに腕を組んでふんぞり返るジャックに対し、遊星は浮かない顔をした。
 紙袋の中を覗けば、思った通り。どう見ても近場の市場で見かけるものより上等そうな食べ物が詰まっている。
 それは幼い頃、遊星の体重を増やすためにマーサが何度か買ってきては、食べさせてくれたものであった。
 ジャックは、いつも隣で見てきた。これなら遊星はたくさん食べられるのかと問うと、マーサは「そう。なかなか食べさせてやれないのが、かわいそうだけど」と申し訳なさそうに言って、缶詰の中身をほぐしていた。
 それから、ジャックは遊星にとって食事が億劫にならないようにと、おまじないのように缶詰を買ってきてくれるようになったのだ。
 当然値の張るそれらを、発育がいいとは言え、自分と年齢も変わらない幼なじみがどのようにして手に入れているかなど、遊星は詳しいことはわからない。
 しかし危険なことをしていることだけは、その優れた観察眼で察していた。
「……ジャック、ありがとう。とても嬉しい」
「ふん。またビービー泣かれたら適わんだけだ」
 嬉しくないはずがない。ジャックが、ここまで自分のことを思ってくれていることが遊星は純粋に嬉しかった。けれど、その喜びよりも上回る、不安のようなものがある。
「でも、これ、どうやって……買ってきたんだ?」
「マーサに金を預かったんだ」
 嘘だ。その確信すらあるのに、適切な言葉が出ない。
 ジャックが部屋に入ってきた時、いつもと歩幅と歩き方が違っていた。おそらく、足首あたりを捻っている。高所から飛んだのか、その時に体重の掛け方を誤ったのか。
 そこまでは、わかっている。
 遊星は、鋭く、賢い子供であった。
 そして、兄弟同然に育ったジャックのことが心から大切であった。
 友の思いを素直に受け入れたい自分と、危険なことをしているであろうジャックを止めたい気持ちが小さな胸の中でせめぎ合い、苦しくて仕方がない。
「遊星? また気分が悪くなったか?」
 唐突に黙り込んでしまった遊星の顔をジャックが覗き込んだ。己の体調を気遣ってくれるその優しい声で、また少し鼻の奥が痛くなる。
「そうじゃ、ないんだ」
 こんなとき、遊星は己がどうしようもなく情けなく、無力に感じた。
「……ごめん、おれが普通じゃないから。ジャックがいつも……」
 結局、危ないことをやめてくれとも強く言えない。こんな時、クロウであったらもっと上手に言葉を選べたのだろうなと思うと、また自分が情けなかった。
 言葉は、難しい。
 知識はあっても、それに感情を乗せるとどこまでも沈んでいって、遊星は口を閉ざしてしまう。
 今よりもっと幼い頃から、遊星は本を読むのが好きだった。孤児院の皆が勉強を嫌う中でも遊星は勝手に字の読み書きを身につけ、適当なジャンクを拾ってきては、それをバラして再び組み立てる遊びが好きだった。
 次第に、なぜそれが廃品となったのか考えるようになっていった。おおよそ足りないと思われる部品や壊れた配線を、別のジャンクからとってきては自己流で組み替え、再び動くようにしてはマーサや他の者を驚かせた。
 そんな遊星であったが、外で走り回ることも嫌いではなかったものの、妙に他の子供たちは遊星を遊びに誘うのを躊躇していたように感じる。
 浮いていた、と言うよりも、気を遣われていた。自分たちと遊ぶより遊星は小難しい本を読みたいだろうし、複雑な配線をいじくり回していたいだろうといった、そう言った類の気遣いだ。
 けれど遊星は気にしなかった。少し寂しくはあったが、それでも何かに没頭していれば他のことを考えないで済む。拾ったり、もらったりしてきた本を無差別に読み漁り、廃品でできた山を登って、おおよそ周囲から見ればガラクタでしかないそれに命を吹き込むのが遊星の毎日で遊びだった。
 けれどそれも、歳も近く、比較的話すことの多かったジャックが「そんな暗いところでずっと本を読んでいたら病気になるぞ」などとふんぞり返って、ついに遊星の腕を掴んで外に連れ出すまでのことだった。
 変わり者だと言われる遊星から見ても、ジャックは特別変な人であり、遊星に負けず劣らずの独特の感性を持っていた。
 そして一際目を引く整った顔は少女のようなのに、仮に「女男」などと揶揄われたりでもすればジャックは相手が泣くまでし返すような、非常に負けん気の強い暴れ馬のような少年でもあったのだ。
 一度癇癪を起こすと歯止めが効かないので、それを止めたり加勢しているうちに、もやしっこ同然だった遊星にも体力が自然とついていったように思う。
 けれど全てに対して暴力的と言う訳ではない。売られた喧嘩を買うのはいつも自分より体が大きい相手からばかりで、幼い相手や力の弱い者をジャックは一度も相手にしなかった。善悪の線引きが、遊星と近かったのだ。
 ジャックが突拍子もないことをしたり言ったりするものだから、遊星はそれが面白くて、気がつけばずっと一緒にいるようになり、今に至る。
 遊星は友として家族としてジャックが大好きであり、ジャックもきっと自分を愛してくれているという確信すらある。
 それでも伝えきれない言葉は山ほどあって、その全ては己の不甲斐なさに繋がっていると思うと苦しくてたまらなかった。
 泣きそうな顔で謝る遊星に、ジャックは「なぜそんなことを言う」と首を傾げ、まるまった背筋を撫でる。
「お前はお前のままでいいんだ、遊星」
 叱るような、言い聞かせるような、そんな強い口調でジャックが遊星に告げる。
 見失うなと、言われているような気がした。
「きっとすぐになんでも食べられるようになる。食えるようになれば背も伸びる、体重も増える。この俺が言うのだから必ずだ」
 発育不良手前の薄い体を抱きしめて、彼の生まれがサテライトでなければこんな風に苦しむこともなかったのにとジャックは歯痒く思い、そのたびに運命を呪った。
 普通に生きることすら困難で、息苦しいこの箱庭が少年たちにとっての世界であり、全てであったから。
 生き抜く術を常に模索しながら、その片隅でいつかここから抜け出そうと己に誓う日々は薄暗かった。
 けれど腕の中の体温は、この世界で見つけたものである。
 腕の中の遊星が声を押し殺して泣いていることに気づき、ジャックは口で深く呼吸をして、つられて泣くのを耐えた。
 明日が、今日より少しよくなればいいと思う。遊星が、今日より普通に食事ができるようになればいい。そのうち美味しいと言いながら、なんでも好きに食べられるようになればいい。
 それだけで、よかった。
 それが、よかった。
「俺が隣で見ててやる」
 友の明日を少し良くするためなら、ジャック・アトラスはどんな無理も平気である。
 変声期前の、女なのか男なのか曖昧な声を殺して遊星が泣くのを、既に声変わりを終えたジャックの声が静かに宥めるのがいつものふたりだった。

 上から差し込む日光が疲れた目に滲みて、朝が来たことを理解する。
 昨晩からつけたままの作業用ライトを消し、遊星は一度大きく伸びをしてから、己の空腹に気がついた。
 作業に没頭すると食事も睡眠も疎かになってしまう。丈夫な体とは言えどいつか痛い目に合うぞと己をたしなめつつ、遊星は黒ずんだグローブを外して頭を掻いた。
 ──そういえば風呂にも入っていない。
 着ているタンクトップの胸元を掴んで念のために嗅ぐが、思いのほか酷いものではなかったので良しとする。とりあえずシャワーの前に食事を取るかと切り替え、出したままの工具を片付け始めた時であった。
 聞こえてきた軽やかな足音、歩幅の刻み方。クロウが起きてきたことを察して、遊星は顔をあげると「おはよう」と挨拶を交わす。
「おはよーさん……って、遊星お前また徹夜したろ!」
 クロウが起きてくると、昨晩と同じ格好、同じポジションに遊星がいた。
 作業の後は必ずシャワーを浴びる遊星の習慣を知っているため、ヨレヨレの服とオイルに汚れた体を見ればすぐに分かるのだ。
「お前、ほんと、まじでぶっ倒れんぞ」
「ああ、いや、すまない。新しいことを試していたら、つい」
「つい、じゃねーんだよ! あーもう、俺がなんか作っといてやるから。遊星は先にシャワー浴びてこい」
 おそらく出勤前なのであろうクロウが、荷物を置いて袖をまくる背後で「自分でする!」と遊星の焦ったような声が響く。
 仕事前の友人に食事を作らせるなど、あまりに図々しい。しかしクロウはわたわたする遊星の方をキッと睨みつけた。
「お前が作る飯なんざ、たかが知れてんだよ! パンにハム乗せりゃ飯だと思いやがって! いいか、ちゃんと清潔になってからテーブルに座って、落ち着いて、ゆっくり飲み食いすんのが食事って言うんだ!」
 遊星がクロウに言い負かされるのは、なにも珍しいことではない。波長があっている二人が喧嘩をすることなど幼少期にまで遡ってもほとんどないものの、遊星の不摂生を世話焼きのクロウが叱ることは、近ごろ再び一緒に生活をするようになった今では頻繁に見られる光景となっていた。
 遊星はクロウの真っ当な言葉に何も言えなくなり、「でも」だの「その」だの言いかけたが、結局は折れて「ありがとう」とクロウに礼を言う。
「よろしい。早く入ってこい、作っておいとくから」
「……クロウの飯はすごく美味いから、朝から食べれて嬉しい」
「はいはいどうも。このクロウ様が、お前の好きなもん作っといてやらあ」
「あの、オレはクロウの、仲間思いで慎重で、責任感が強くて、頼れて優しくて叱ってくれるとこも好きだ。感謝する」
「なに……急にめっちゃ褒めんじゃん……いいってことよ」
 相好を崩して頷き、大人しくシャワーを浴びに行く律儀な遊星を見送ったクロウは手のかかる次男だなと笑う。
 鼻歌まじりにモーター音がやけにうるさい冷蔵庫から取り出した食材を並べ、そしてもう一人が昨晩からいないことふと思い出した。
「……あれ、そういや長男はどこ行った」
 しかしなにも言わずジャックが出かけることはよくあることで、彼のあの腕っ節の強さも加え、クロウが特に心配することはない。
 だが、確か彼も夕飯を食べずに出ていったように思う。
 遊星に軽食程度のものを作ってやろうと思っていたが、一人前を作ろうとするとどうしても多く作りすぎてしまう。ならば一人分を作るよりも、二人分の方が楽ではあった。
 一度並べた食材と睨めっこをして、クロウはため息をつく。
 しょうがねぇなぁ、と独り言ちる声がキッチンから聞こえた。

 排水溝に流れていく泡を見下ろして、頭から少し冷たい水をかぶるのは気持ちがいい。遊星は黒くなってしまっている爪の間を擦り、目の皮が弛むのを感じながら食事を取った後は仮眠をしようと大きなあくびを漏らした。やはり、夜の目も寝ずに働きすぎるのはよくない。そうは思いつつも、どうしても時間も忘れて没頭してしまう。
「遊星、俺仕事行ってくるわ。飯作ってるからちゃんと食うんだぞ」
 箍を緩めているとシャワー室の外からクロウの声がして、バルブを回すと遊星はシャワーを止める。
「ああ、ありがとう。腹が減っていたから本当に助かった、気をつけて行ってきてくれ」
「あいよー」
 シャワールーム越しに一度は話を終えるも、クロウは「あ、それとな」と何かを思い出したように言葉を続けた。
「ジャックのヤローが昨日の夜から帰ってきてねーんだ。一応二人分作ってるからよ、あいつが腹減ってそうなら食わせといてくれるか」
 確かに、言われてみれば昨晩外出した姿は見かけたが、今朝は見かけていない。遊星は「ああ、わかった」と、改めてクロウを見送る。
「……最近、多いな」
 彼は夜な夜な出歩いて、女遊びをするような男でない。唯一考えられるのは仕事であったが、ジャックがいま何の職に就いているのかを遊星は知らなかった。
 ジャックはクロウほど世渡り上手でもなければ、遊星のように手に職がある訳でもない。おまけに、あの尊大な態度である。接客業などさせてみようものなら致命的で、大抵の職場はすぐに辞めさせられていた。
 しかし、近頃は月に決まった金額を纏めて置いていくことがあり、その額が妙に高額であったことから、おおよそキングの頃に得たネームバリューを使って、なにかしら仕事にありついているのだろうと遊星は思ってはいたものの、では彼がなにをしているのかと聞かれればなにも知らない。
 根掘り葉掘り聞こうとは、あまり思わなかった。
 だが、ふと昔のこと思い出してしまう。
 幼い頃のジャックが、遊星のために無理をしてくれていたことを。
 遊星が感傷に浸っているその瞬間、表のドアが開閉する音がした。クロウが忘れ物をとりにきたにしてはタイミングも合わない。そして、聞こえてくるのは重みのある足音であり、遊星はジャックが帰ってきたのだと察する。
 鷲掴んだ硬いタオルで雑に水分をとってから下着だけを身につけて、シャワールームを出る。
「ジャック」
 そこにいたのは、やはり彼であった。
 遊星に声をかけられ、ゆっくりこちらを向く。
 見たところ怪我をしている様子もない。少しホッとして、「おかえり」と出迎えた。怪我はないが、顔つきは、少し疲れているように感じる。
「遊星……ちゃんと乾かしてから出てこいと、お前はいつも俺に言ってくるというのに。なんだ、濡れっぱなしではないか」
「お前が帰ってきた音がしたから」
「犬か貴様は」
 遊星が首にかけたタオルを取ると、優しくはない力加減でガシガシと髪を拭かれる。痛いと抗議をするが、ジャックは力を緩めずに遊星の髪を拭き続けた。
 子供の頃に比べれば、遊星も十分なほど背が伸びた。ジャックの言った通り、成長と共に食べられるものが増えてからは筋肉もつき、体重も増え、今となっては精悍で、立派な青年である。だが、遊星がジャックの背を追い越せた瞬間は、結局一度もこなかった。
 己が特に屈まなくともジャックに頭頂部を見下ろされているのを複雑な心境で受け入れながら、少しの痛みに耐え、大人しく髪を拭かれる。
 ジャックは今も遊星より頭ひとつ分ほど背が高く、体の厚みは到底敵わないものであり、顔つきだけなら少女のようだった愛らしいかんばせも、今や雄としての色気を充分に孕んだ色男へと順調に成長を遂げていた。
 まさに顔と体は、芸術品のようである。性格には多少癖があったが。
「仕事に行っていたのか」
 さすがにパンツ一丁で、ジャックに髪を拭かれながら真面目な話をする気は起きない。それでも一応聞いておこうとは思い、遊星は少し重い口を開く。
「まあ、そうだな」
「危ないことじゃあないよな」
「お前がそれを言うのか」
 あの頃、ジャックがセキュリティの真似事のようなことをしていることがマーサにバレたとき、ジャックは当然大目玉を喰らった。
 子供が危ないことをするなとマーサは怒り心頭に発し、それでもジャックは頑なに最後まで「ごめんなさい」を言わなかったのだ。
 自分のせいで、と遊星は思ったものの、しかしここでジャックに謝れば、余計に彼を傷つけることも分かっていた。ジャックと遊星の二人は、お互い、自分以上に相手のことを知り尽くしていたから。
 だからその日の夜、遊星はジャックのベッドに潜り込んで、静かにありがとうと告げただけ。するとジャックは「いいんだと」夢のように綺麗に目を細め、遊星を抱き込んで笑った。
 暖かくて、少しかなしい。
 それが心地良くて、遊星も自らジャックの背中に手を回した。
 不自由な世界で、自分を理解してくれる人が一人でもいてくれることは互いの救いでもあった。
 思い出すのは苦しいことよりも、不器用な幸せの方が多い。
 それは、遊星が周囲の者に恵まれてきたことの証左でもあった。
「そもそも、そこまで心配もしていないだろう、白々しい」
 ジャックが呆れたように遊星の言葉を突っぱねる。
 遊星はそれなりに心配もしているのだが、ジャックのあんまりな物言いが可笑しかった。
「クロウがほっとけと言うんだがな。お前はすこし向こう見ずなところがあるから心配ではあるんだ」
「その言葉をそっくりそのまま返してやる」
 いつもの、軽口の応酬。
 水の滴っていた遊星の髪を拭き終え、ジャックの大きく厚い手が離れる。
 顔を上げれば透き通った紫の瞳と目が合って、遊星は綺麗な顔だなと漠然と思う。そして、何の前触れもなくジャックに掴まりながら背伸びをすると、すこし高い位置にある形のいい唇にキスをしてみせた。
「──ま、だが、オレはお前を信じているからな」
 不意打ちではあるが、ジャックの表情は変わらない。ただ、遊星を見下ろす瞳に熱が灯ったような気がした。
 そう言えば初めてキスをしたのは、いつだっただろう。最初の方は、緊張のようなものがあった覚えがある。さすがに初めて服を脱がし合ったときのことは今も覚えているのだが、些細な始まりは全て記憶の彼方であった。
 ゆっくり唇が離れると、遊星はジャックの胸に額を押し付け、体を預ける。 
「……オレは信じてると言う言葉を使う度に、お前にのろいをかけているんだ」
 目を瞑ればジャックの心音がする。
 抱き合って眠った、あの日の夜とそれは同じであった。
 寝ていないからだろうか。昔のことを、思い出してしまったからだろうか。なんだかジャックから離れ難くて、そのまま凭れて見せたが己を抱きとめる体は微動だにしない。
 同じように歳を重ねた、別れも経験した。それでもまた、こうして一緒に暮らしている。
 育った環境も、善悪の基準も、話す言語も、性別ですら同じなのに、まるで違う生き物のように感じる彼の背中を見てきて、それはこれからも遊星の網膜に映るのだろう。
 二人の間に、今までも、現在も果たして恋慕らしきものがあるかは定かではなかった。深くて質量のある愛情に似たものはあったが、それを恋愛感情に結びつけるには重すぎて、単純にカテゴライズ出来るようなものでもない。
 初めて遊星がジャックとそう言う意味での触れ合いをした時も、初めてのキスの記憶と同じく、なぜそうなったのかはあまり覚えていなかった。
 けれどそれはきっとジャックも同じで、強いて言うならば、相手の一番深いところに触れてみたいという衝動と好奇心しかなかったのかもしれない。
 ジャックは無抵抗のまま遊星の信頼という呪いを受けながら、普段よりも饒舌な遊星を前に、彼が徹夜明けであることを察する。
「……言っておくが、お前が心配するようなことはしていない。女性誌で写真を掲載させてくれと、カーリーの伝で仕事をもらっただけだ」
「……あんな夜更にか」
「スタジオが空いてなかったそうだ」
 信じていると言いながら、あからさまに低くなった遊星の声にジャックは笑いそうになるのを耐えた。徹夜明けの遊星は、少し面白い。
 遊星は納得したような、そうでもないような妙な顔をして「お前を信じる」と二度目の呪いをジャックに立て続けにかける。
 まったく手が掛かる、と先ほどどこかで聞いたようなことをジャックは遊星に思いながら、少し湿った髪を撫でた。
 近頃はタイミングも合わず、体を重ねていない。いわゆるご無沙汰と言うやつで、体を密着させているうちにジャックは久しぶりに遊星に触れたくなった。
 この時間もまだ家にいるということは、遊星にも修理の仕事は入っていないということだろう。
 先程のキスと言い、甘えるような態度から、遊星も同じ気持ちなのだろうとジャックは勝手に解釈し、次は自分の方からも唇を重ねようと遊星の顎を掴んだ。
 ──が。その瞬間、遊星はふいっと体を躱す。
「服を着てくる。寒い」
「ちょ……ちょっと待たんか」
 数年前にサテライトの市場で購入した、色気もなければゴワゴワで肌触りもよくない下着姿のまま遊星はその場を去ろうとする。なお、その下着はジャックが新しいものをシティで買えと言っても「ゴワゴワが落ち着くんだ」と言って一向に買い替えない下着のうちの一枚であり、いつか絶対に捨ててやろうとジャックは企んでいる。
「なんだ。オレは飯が食べたい。クロウが作ってくれたんだ」
「貴様あれだけ煽っておいて……最初に手を出してきたのは、そっちの方だったぞ」
「あれはキスをしただけだ。お前が綺麗だったから」
 遊星も一度スイッチが入ると乗り気になるのだが、彼の場合はこのスイッチが入るまでが遅く、加えてタイミングもよく分からないためジャックもよく頭を抱えていた。
 その気ではない相手を抱くのは趣味ではないものの、ジャックも近頃はこの年下に振り回されてばかりであり、それもあまり面白くない。
 今回ばかりは少し強引に行った方がいいだろうかと考え、健康的で張りのある、遊星の体を抱き寄せようとした、その時だった。
「それに、クロウはジャックの分も作ってくれている」
「……む……」
 ジャックの手が止まる。
 インスタント麺もいいが、こうしてクロウが作ってくれる手料理も、もちろんジャックは好ましく思っていたからだ。
「匂いからして、あれはナスと豚バラを焼いたやつだ」
「……むむ……」
 豚バラの脂が絡んだ、トロトロのナスの食感を思い出す。
 思えば仕事の前、軽く軽食をとってそのままであった。腹の虫が、可哀想な声で鳴く。
「きっとおいしい。いや、間違いなく美味しい」
 そして最後に畳み掛けるような遊星の言葉で、ジャックはすっかり大人しくなる。なんだかんだと言っても、まだ若い男二人にとっては性欲よりも食欲の方がやや勝る部分がある。
 遊星は「着替えてくるから手を洗って、食器類を出しておいてくれ」と指示を出し、言いくるめられたジャックはその背中を恨めしそうに少し睨んだ後、またおあずけを喰らったと頭を搔く。
 だが、確かに腹も減っている。
 不服ではあるものの、ジャックはコートを椅子にかけると手を洗い、二人分の食器をテーブルに並べた。
 そしてまだ暖かい、遊星の推理通りであったナスと豚バラの炒め物を丁重に運んで、遊星が戻ってくるのを椅子に座って腕を組んでしばらく待つのだった。

「……うまい」
「美味いな」
 着替え終えた遊星が席につき、マーサの元にいた頃のように「いただきます」と手を合わせて食事をとる。最近は片手でとれる簡単なものばかりを食していたため、遊星は久しぶりに箸を握っていた。
 暖かな手料理が、空腹を満たしていく。
 先ほど解凍した、冷凍庫にストックされていた白米と一緒にナスを食べながら、遊星は「うまい」とまた呟いた。
 そんな様子を、ジャックはちらりと盗み見る。
 幸せそうに頬張っている遊星を顔を眺め、思わず破顔した。喉の奥でククっと笑い声が漏れ、見られていたことに気づいた遊星が「なんだ」と少しの照れ隠しで眉間にシワを寄せた。
「いや、美味そうに食うなと」
「美味いんだから、美味そうに食うだろう」
 遊星は話しながら、大皿に乗った惣菜をまた自身の取り皿へおかわりする。
 本来、遊星はよく食べる方である。食事をおざなりにしがちではあるが、その体つきを見てもわかるように今や少食とは無縁であった。
 けれど、ジャックの記憶の中にある幼き頃の遊星は、おずおずと食べたり、顔を曇らせる姿のほうが記憶に染み付いている。
 再会し、生活を共にすることとなった今。
 ずっと一緒にいた幼なじみについてまた新たな発見をするとはジャックは思っても見なかった。
 好物のものを食べる時、遊星はウンウンと頷く癖がある。
「よかったな」
「なにがだ」
「食事を楽しめれるようになって」
 今でも、確かに特定の添加物を取れば遊星の腹は緩くなる。だが、あの頃のように吐いたり、脱水症状で苦しむことはなくなった。
 遊星はすっかり食べ終えそうなクロウの手料理を味わい、ジャックの言葉に「ああ」と頷く。
「ジャック」
「なんだ」
「このあと抱いてほしい」
 ぶ、と吹き出しそうになるのを呼吸を止めることでジャックは未然に防ぐ。
 ジャック・アトラスとあろうものが、口から米をぶちまけるわけにはいかない。
「どう言う心境の変化なんだ。さっきはいいと言っただろう」
「腹が満たされたら次は性欲が」
「野生動物か?」
 やはり遊星のスイッチはわからない。ジャックはやや呆れたようにため息をついて、「眠くないのか」と一応は徹夜明けの身体を気遣う。食後は眠気がいっそう増すであろうことを見越して。
「平気だ。終わったら寝るから、後片付けは頼む。この皿洗いはオレがするから」
「後始末程度、言われなくともする」
 先程断られたことを根に持っているのか、どこか拗ねたようなジャックは可愛いらしい。
 遊星が最後のナスを口に運びながら、なにも言わず目の前の端正な顔を楽しげに見つめた。
「……いま俺を面倒だと思ったろう」
「対処に困るなと思っただけだ」
「なにが違う?」
 冗談だ、などと言ってすかさず遊星が追及から逃れるのを、憎たらしいとジャックは呟く。
「こう言う穏やかな時間が、またジャックと過ごせてオレは単純に嬉しい」
「藪から棒に……機嫌取りのつもりか」
「そう言うわけじゃあないが」
 食事を終え、遊星は「ごちそうさまでした」と両手を合わすと、俯いたまま静かに呟いた。
「サティスファクションが解散したあと、お前にピアスを開けてもらったのを覚えてるか」
「ああ……まあ、唐突だったからな。覚えている」
 チームサティスファクションの解散後、クロウは「自分にできることを見つけたい」と、仲間を失った苦しみの中でも身寄りのない子供たちを引き取り、自らなずべきことを模索していた中で、遊星はと言うと鬼柳に対して深い罪悪感を抱き、しばらくの間はずっと塞ぎ込んでいた。
 後にラリーたちと出会い、Dホイールを完成させると言った目標が生まれるまでの遊星は魂の抜けた人形のようで、ようやく少しずつ前を向けるようになっても、以前のような笑顔を浮かべることはなくなっていった。
 そして当時のジャックも、かつての仲間がどう言う末路を辿ったのかと考えるとなかなか前を向くことができず、やれることと言えば遊星のそばにいてやれることくらいであった。
 そんな時だ。
 遊星が、唐突にピアスを開けてほしいと言ってきたのは。
 遊星はアクセサリーの類は滅多につけない。機械いじりの邪魔になるためか、腕時計も、ましてや指輪に至っては一つも持っていなかった。
 ジャックとは違って着飾ることにそもそも興味もなさそうな幼なじみが、ピアスを欲しがるような素振りを見せたことなど一度もない。だからこそ、遊星の口から「開けてほしい」と言われた時のことはジャックもよく覚えていた。
 己の身体に至っては軟骨だのボディピアスだの好きに開け、おまけにタトゥーまで彫るようなこともしてきたのに、遊星の体には小さな穴を開けることすらジャックは妙な罪悪感があった。
 けれどそれが今の遊星の頼みだと言うのならと、ジャックはベッドの上で遊星の薄い耳たぶに針を通した。特に痛がる様子もなく、遊星の瞳と同じ色の石がついたシンプルなファーストピアスをつけてやると「ありがとう」とだけ静かに言ったことまで、覚えている。
 だが、今の遊星にはあの時のピアスホールは、もうない。
「そういえば、塞がったのか」
 食事を終え、両手を合わせたジャックに「ああ」と遊星が頷く。
「開けて貰ったピアスの穴がふさがった頃。お前がキングになっていた」
 あの頃、遊星は目に見える繋がりが欲しかったのだ。
 ジャックがまだ傍にいた頃は、定期的に塞がらないようにピアスを通したりしていたものの、いなくなってからはピアスホールに触れることもなくなった。
 それから時が過ぎ、世間にはキングであるジャック・アトラスが生まれたのだ。
 曇った液晶越しに見る、遠い誰かとなった幼なじみの顔を眺めながら、遊星は思わず自分の耳に触れた。
 そのときはすでに穴はほとんど塞がりかけており、無理にピアスを通せば痛むであろうことは明らかで。
 そして、そのとき思ったのだ。
 ジャックとの繋がりも、もう消えてしまったのだと。
「……もう一緒に笑ったり、軽口も言い合えないのかと思った」
 かつて隣で見ててやると言ってくれた存在が、忽然と消えてしまう瞬間の喪失感を、遊星は今も鮮明に思い出せる。
 けれど、あの時裏切られたとは思えなかったのは、彼を憎めなかったのは。ジャックが自分に注いでくれた時間と、感情の重さを知っていたからだった。
 どこかで、やっと自分から解放させてやれたと安堵していた己がいたのである。
 鬼柳とはもう付き合うな、お前のそれは優しさでもなんでもないとジャックに散々言われながらも、意固地になって鬼柳の傍に居続けた。自分がいなくなれば、彼が本当に一人になってしまうようで、怖くて、たまらなくて、その全てが友のためではなく自分のためであったと気づいたのは、かなり後のことであった。
 鬼柳がセキュリティに連れて行かれた後、ジャックが「行くぞ」と言って放心状態の己を引きずってくれていなかったら、今ごろ自分がどうしていたのかを遊星は考えることすらできなかった。
 だが、いまこうして。日常の中にある当たり前の食事という行為を楽しめている遊星の今に、ジャックが「よかったな」と言ってくれるのだった。
 消えてなど、いない。
 たとえピアスホールが塞がろうとも。
 ジャックはあの頃のことを覚えていて、そして今も近くで思ってくれている。
 恋慕があるかどうかは、わからない。けれど、ジャックの一部であり続けたいと今も思う。
 幼い頃、なにも気にしていない素振りをとってはいたものの、ただ人前で泣くのが悔しいだけだった。だのに、トイレの中で隠れて泣く遊星を目ざとく見つけては、トイレのドアを豪快に破壊してそれは聞いてくるのだ。
 誰にされたんだ、と。
 ヒーローを名乗るにも乱暴で、破天荒すぎる男だった。
 よく分からないことに拘り、勘が鋭く、手もすぐに出れば、足癖まで悪くて、口がよく回る。
 そんなジャックが、可笑しくて、優しくて、時々かなしくて、遊星は今も大好きだった。
 遊星にとって、太陽とはジャックの形をしていた。
「遊星」
 名前を呼ばれ、顔を上げる。
 ジャックは少し言葉に迷った様子で、それでも相変わらずの強い眼力でこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「……こんど、外食にでも行かないか」
「……がいしょく?」
 唐突な誘いに、遊星は小首をかしげる。
 こんな風に改まってジャックに誘われることは、中々ないことだ。
「……俺はサテライトを離れ、シティで過ごすようになった。サテライトとは雲泥の差とも言える生活水準の高さに驚き、おまけに食事は何を食べても新鮮で、美味かったんだ」
 サテライトに出回るものは、そのほとんどが加工食品である。スモッグの影響もあってかなかなか野菜は育たず、近くで獲れる魚など臭くて誰も食べやしなかった。
 そんな中で生きてきたジャックは、瑞々しい野菜に、臭みのない魚、厚みのある肉。その全てに驚いたものだ。
「……新鮮なものを美味い、と腹いっぱいに味わって。そして不思議と浮かぶのは、遊星、お前だった」
 この街の食事であれば、遊星はあんな幼少期を過ごさずに済んだのだ。
 シティで暮らし、痛感する。
 ジャックは静かに、置いてきた友のことを想った。
 すでに成熟し、多少の影響はあれどサテライトの食事にも遊星の体が慣れていたことは知っている。けれど、だから、もういいのだと割り切れるような人間でも、ジャックはなかった。
「だから、その。お前の作業はひと段落ついたあたりに、二人で一緒にシティに食事にでもと。カフェなど入ったことはあっても、レストランなどはあまりないだろう」
 思えば、何度もセックスはしてきた仲だが、デートなどといった経験はこの二人にとって皆無に等しい。
 改まって誘うのが妙に気恥ずかしくなると、ジャックは言葉を端折った。肌の色素が薄いため、赤くなるとすぐにわかる。視線をやや斜め上に向けながら、ジャックは遊星の返事を待った。
 当然、「いいな」と乗ってくることを見越して。
「だめだ」
「そうか、なら店は俺が…………あ?」
「二人はだめだ」
 想定外の回答に、ジャックは何度か瞬きをする。
 なんやかんやとジャックに甘い遊星に、断られるとは思っていなかったのだった。
「な……っ二人がダメなら、なになら良いと言うんだ!」
「クロウも連れて行きたい。あとは、アキ、龍亞と龍可も。それと……」
「まだいるのか!? すでに勢揃いではないか!」
 ジャックは椅子から転げ落ちそうになりつつ、前のめりで遊星に噛みつく。
「大勢の方がいいだろう」
「う……うぐ……」
 そうじゃない、遊星と二人きりがいいのだ──などと、ジャック・アトラスが素直に言えるわけもなく。
 ジャックは太い腕を組み、ドスンと座り直した。
「もういい、勝手にしろ」
 そんな拗ねたジャックの百面相を、遊び過ぎたかと悪びれもせず遊星は眺める。遊星としては、二人きりがいいと言ってくれるだろうかと、多少は期待したのだが。
 むくれた彼を置いて遊星は席を立ち、空いた食器を台所に運びながら、いまも眉間にシワを寄せているジャックに目を細める。
 こういうところは、可愛いと思う。拗ねて八つ当たりをしてくるのは、甘えている証拠だと考えている遊星はどこか満足げでもあった。
 しょうがないなと少し大人ぶってみせ、体を傾けるとジャックの白い頬にキスをする。
 じろり、とジャックの鋭い視線が遊星の方に向けられた。
 遊星はわざとらしく肩を竦める。
「来週の半ばなら、ようやく手が空きそうだ。オレは店のことは詳しくないから、お前に任せる」
「……それは」
「二度も言わない」
 そう言い残して、皿洗いへと向かう。
 そしてしばらくするとジャックが遊星の背後に立った。人のことを犬だの野生動物だの言っておきながら、お前も大概じゃないかと思う。
 現金なやつだなと少し呆れつつも、こう言うところがやはり可愛いのだと遊星はジャックの好きなようにさせた。
「……クロウには二人で出かけるとちゃんと話す」
 腰抱きついてくるジャックの腕の重みが心地い。
「ああ」
「土産も買って帰る」
「そうだな。二人で選ぼう」
 ンな報告一々いらねぇっての、とクロウには呆れられそうだが、ジャックが話すのならそうさせようと、遊星は泡立ったスポンジで食器を撫でて微笑んだ。
 散々世話になっているのに、自分のわがままで遊星を連れ出すことにすこし後ろめたさがあるのだろうか。
「なんだか悪いことでも企んでるような気になるな」
 泡を流し終え、そう言いながら遊星は食器を伏せると肩越しにジャックを見つめた。
「ならば、共犯だな」
 己の方をようやく向いた遊星に、すかさず口づけをして、ジャックが笑った。
 共犯か、いい響きだなと、遊星もつられて笑うのだった。

 自分で誘っておきながら、まさかセックスをするなど想定していなかった遊星は食後のシャワーを終えたジャックの後、面倒な準備を済ませ、自分の部屋のものより大きなベッドが備え付けられているジャックの部屋へと向かう。
 どうせ脱ぐのだからと全裸で向かうと、妙な拘りのあるジャックが情緒がないだのどうこうと文句を言うので、仕方なく下着を履き、洗濯カゴにあったジャックのずいぶん大きなワイシャツを拝借した。
 いつもなら必ずするノックもなく、遊星はそのまま部屋に上がる。
「……なぜ人が脱いだものを着てくる」
「どうせ汚れる」
 後ろ手にドアを閉め、時計を見る。この時間なら龍可や龍亞が来る心配もないだろう。しかし下校時間までにはガレージの方で出迎えてやらねば、などと親のように双子のことを考えている遊星と、一方で自分のシャツを纏った遊星をなんとも言えない顔でジャックは凝視していた。
 こうして見ると普段はさほど気にしない、体の密度の違いを実感する。
 捲った袖すらダボついて、裾も太腿の方まで覆っていた。肩幅が足りずずれ落ちている様子も、悪くはない。何が悪くないのかは、ジャックもよく分からなかったのだが。単刀直入に言うとムラムラするのである。
「途中で寝たら頬でも尻でも好きな方を叩いてくれ」
「その時はさすがに寝かすわ、たわけが」
 遊星はジャックの言葉に笑いながら、ベッドへ上がる前に下着を脱いだ。いつも、行為が始まってから脱ぐと行方不明になるのである。
「……オレが寝たくないんだ」
 低い声で告げた遊星が膝をつき、ベッドの上で胡座をかいていたジャックの元まで近づくと、二人は同時に唇を重ねた。
 先に舌を差し込んできたのは遊星の方で、キスもセックスも、喧嘩もなにもかも仕込んだのが自分なのかと思うとジャックは気分がいい。
 裾から手を差し込んで腰を撫でると、遊星はジャックの舌を吸い、発情した青い瞳を向ける。
 随分と助兵衛になったなァと、仕込んだ当事者でりながら他人事のように感心し、準備の際にすでに軽く慣らしてきたらしい後孔を皮の厚い指で撫でた。きゅう、と指の腹にまで粘膜が吸い付いてくるのがたまらなくそそる。
 深爪になるほど丁寧に処理された指の先を一本挿入し、前立腺にも届かない浅い部分をほぐし始め、すでに遊星の中に注がれていた、体温によって暖められた熱いローションが女性の愛液のように糸を引き、ジャックの手に落ちてくる。
 すると意図的に焦らしてくるジャックに痺れを切らしたのか、遊星は名残惜しそうに唇を離し、いつまでも弱いところをいじめてくれない悪い男に唇を尖らしてふやけ始めた視線で睨んで見せた。
「……はやく広げてくれ」
 自らも腰を落とし、指の一本ですら貪欲に咥えようとする。
 首に抱きついて息を吐き、必死になっている遊星の様子を見て、ジャックは乾いた唇を舐めるとちょうどペニスの裏側に当たる部分を指で押し込む。
「ッ、あ!」
 自分でも思ったより大きな声が出てしまったのか。遊星は自身の手の甲に口を押し付けた。太いジャックの指で、前立腺を擦り上げられながら奥の方まで広げてくれているのがわかる。徐々に指が一本ずつ増やされ、前戯だと言うのにジャックに借りたシャツを押し上げる己のペニスから、ダラダラと滴るカウパーが止まらない。
「あーあ……もう汚れているではないか」
 気にもしていないくせに、わざとらしくジャックが言う。
 それでも叱っているような口調に遊星の背筋がゾクリとして、ごめんなさいと小さく呟いた。ジャックの空いた方の手が、勃起した遊星のペニスに伸びる。
「ここも俺にさせるのか? 人使いが荒いなァ」
「あ……ぅ、おれ、自分でできる、から……」
 シャツの布の上から滲みた先走りをジャックの指で塗り広げられるだけで、どうしても内腿が強張る。遊星は普段行う事務的な自慰のときのように触れようとするものの、ジャックに広げられた直腸の粘膜が熱くてたまらない。この状況下でのペニスへの刺激は、今の遊星にとってはいっそう物足りなさを感じさせるだけであった。
 濡れた音と共に、遊星がゆっくりとペニスを扱く。
 彼がすでに、もう随分前から中だけで達することができる身体になっているのもジャックはもちろん知っていたが、余計に敏感になるのが怖くて、生温い愛撫しか自身に施せない遊星をただただ眺めたかった。
 適当にいくつかのボタンが留められたシャツから覗く汗ばんだ胸元も、肌に張り付いた髪も、裾から伸びたライダーらしい美しい筋肉がついた長い脚も、その全てがジャックの目を楽しませるには十分である。
「あッ!? あ、待……っあ、ああっぐ、ぅっ、ッ!」
 楽しませてくれたお礼とでも言うように、指でも届く範囲の、手前の方に鏤められた遊星の弱い部分を圧迫してやる。
 すると、手で扱くよりも粘度の高い、精液混じりの先走りがドロっと溢れるのがよく分かった。
 雄の尊厳を奪われながら、指で犯されるだけで頭の奥が茹って、視界がチカチカと光る。
 イく、と言う予感が脳内でイっている、に変わってもジャックが指によるピストンを止めてくれないので、遊星は「もうイったから!」と半ば怒ったように言って手首を掴むが、グチュグチュと中のローションを掻き混ぜる下品な音は止まない。膝立ちの姿勢で、力も入らない。腰を逃しても抱きこまれていて逃げもできず、玩具のように扱われ、そうしてジャックの気が済み、ふやけた指を抜いた頃には遊星の後孔はすっかり開いたままになっていた。
 身体が弛緩してもたれかかってくる遊星をベッドに寝かせ、汗だの涎だの鼻水だので汚れきった、情けなくも愛おしい顔をジャックは見下ろす。
 シャツのボタンを外し、遊星を脱がせた後はジャックもタンクトップを雑に脱ぎ捨てた。ジャックが服を脱いで行く光景を、遊星は焦点の定まらない目で見つめながら、自分が脱がせたかったなと少し残念に思う。
 露わになるジャックの身体。そこには、あの頃のタトゥーは入っていない。
 腰や耳の後ろに入れていたものも全て、キングには相応しくないと言う理由で除去手術を受けさせられたとは聞いた。いまはもう、痕も名残もない白い肌しかそこにない。
 ジャックのタトゥーを気に入っていた遊星は当初寂しくも感じたが、こちらにきて体を再び重ねるようになった昨今、ようやく慣れてきつつある。
 そんなことを考えていると、いつの間にか剥き出しとなっていたジャックのペニスがすでに頭を擡げつつあり、それが己の痴態を見た上でのことなのだと思うと、遊星には今も期待よりも恥ずかしさに近いものが混ざってしまい、ようやく視線を逸らした。
 そんな遊星の熱烈な視線に気づいていたジャックは、今度は自分がじっくりと観察してやる。
 健康的な肌は肩まで赤くなり、瞳は濡れて、吐息は湿っていた。
 浅い呼吸のたび、過去にも幾度となくジャックを受け入れてきた後孔が自ら口を開き、中のローションがトロリと溢れるとシーツに緩い染みを作る。
 それの様子を見て、すかさず溢れたローションを指で掬うと、中に塗り付けるようにして再び指を一本、遊星の粘膜に咥えこませる。
 達した直後でたった一本の指からでも貪欲に快楽を得ようとしているのか、腸壁がギュウッと締まるのがよくわかる。それは、足りないと抗議をしているようにも感じた。
「ジャ……ック、も、そこ……しつこい……ッ」
 ゆっくり抽送を繰り返し、敏感になりすぎている前立腺を指の腹で揉むように押し上げると、遊星の勝手に開いた足の内腿がビクッと一度大きく跳ねた。
 ジャックの長く厚い指で的確に弱いところを再び抉られてしまうと、遊星のすっかり慣らされたそこは次に来る衝撃を勝手に期待して、足が開いてしまう。
 もう、中は熟れた膣のようにほぐれているのに、ジャックの前戯はいつもしつこいのだった。
 自分の足の間にいるジャックに視線を送るも、やはり楽しげに指の一本で手前の方を撫でてくるだけ。
 そろそろ、奥の方も満たされたくて仕方がない。
 遊星はたまらず、足の先でジャックのペニスに触れた。恵まれた体格相応のそれは見た目こそ凶器のような迫力だったが、遊星は何度もこれで、可愛がられてきたのだ。
「……こんな、カウパーだらだらにしておいて余裕ぶる、な……よ、あっ」
「いい眺めだなと、堪能しているだけだろう」
 張ったカリ首に、血管の浮き出た十分な太さの竿の部分は、やはり同じ男から見ても怖気付いてしまう。焦らされて不服そうな遊星の抗議を受け、ようやくジャックは自ら自身のペニスを扱いた。その度に広げられるカウパーがぬちぬちと音を立てるものだから、遊星はたまらなくなって「はやく」と普段の余裕もなく急かす。
「もっとゆっくり楽しめ」
「うるさい。お前はセックスの時もお喋りなのをどうにかしろ」
 悪態をつきつつも、ジャックが自らコンドームをつけている様子に鼻息を荒くさせ、遊星はその瞬間を待ち侘びた。片付けが楽だから、と言う理由で、近頃はゴムをつけることが増えつつある。
 支度を終えると、ジャックは片手で遊星の足を軽々と抱え直し、グッと腰を突き出した。一方の手では、ぷっくりと腫れた肉輪を左右に広げられる。はやく、はやく、と言葉にはしないものの、遊星は腰を揺すって自ら先端を押し付けた。そしてようやく、ミチミチと皮膚が広げられる感覚が遊星を襲う。同時に圧迫される腸壁が引きつって、遊星は唸るように喘いだ。
 ゆっくり息を吐きながら、その苦しみにも近い感覚の中に確かな快楽を拾い上げる。前戯の最中から一切触れられなくなったはずの遊星のペニスは緩く勃起し、尿道からは押し出されるように薄い精液のような、先走りのようなものが溢れ出すだけである。
 いつからこんな身体になったのかは、わからない。
 ただ、ジャックに満たされていることと、逃がせてもらえない状況に、信じられないほど自分が興奮してしまっていることだけはわかっていた。
「遊星……」
 耳元で甘く囁かれ、ゾワゾワと二の腕に鳥肌が立つ。
 口を開けば情けない声が出そうで、まだ理性の焼き切れていない現時点の遊星はジャックの目を見て訴えかける。
 動いて、欲しかった。どうか自分勝手に腰を揺すって、思い切り突き上げられたい。
 ジャックは言葉よりも雄弁な遊星の目を見て、愉しげに目を細めた。
 その瞬間、上から多叩きつけられるようなピストンが始まる。
「あっぐ、あ……っあ、あ、あッ、っ!」
 粘膜が捲れそうで、それでも止まって欲しいとは思わない。濁音混じりの低い獣のような声で遊星が呻くのを、ジャックは愛しげに見下ろして首筋にキスマークを落とした。
 もう、突かれるたびに甘くイっている。はあはあと苦しそうに呼吸する遊星の口を、今塞いだらどうなるのだろうとジャックは知りたくなって、舌を絡めながら唾液をかき混ぜるように深いキスを仕掛ける。
 脳に酸素が、うまく行き渡らない。それでも背筋から伝わる強烈な快楽に意識が叩き起こされて、失神すら許されなかった。
「なあ……遊星……」
「っう、ぁ……あ……ひっ、が、あ」
 汚れた遊星の顔はボーッと虚ろなまま。名前を呼ばれていることも果たして理解できているのか怪しかったが、ジャックは気にもとめず話しかける。
「今日は……奥まで咥えさせていいか?」
 奥。それが、どこを指しているのかを遊星は身をもって知っている。
 その言葉で、一瞬遊星の意識が戻った。
 いまだに適切な処理が追いつかない。必死に言葉を紡ごうとするが、頭がふわふわしていて、自分が何を答えたのかも曖昧であった。
「……しょうが、ない、な……」
 ねだるような雄の顔を見上げ、遊星は目を細めると、ジャックの頭を撫でる。
 そこを責められると、脳が焼き切れそうなほどの快楽が遊星を襲うことを、互いに知っていた。だから、ジャックはこうして聞いてくれているのだ。
 遊星の許しを得ると、ジャックは遊星の前髪をかき上げ、その額にキスをする。
 そして、徐々に奥をこじあけるように腰を前後に揺すった。
「ひっぐ……っぁ、が……ッ」
 完全に発情し切った粘膜が、ジャックの狼藉を許した。足の先までピンと伸ばして、徐々に柔らかくなる粘膜のその先が開いていく。
 ぐりゅ、と胎内で音がした。ような、気がする。
 ジャックを受け入れた結腸は熟れきっており、後孔にジャックの恥毛が擦れている感触で、奥までジャックを受け入れたことを遊星は理解する。
「っく……」
 ジャックが、興奮したように顔を上気させ、絞ってくる遊星の粘膜の熱さに酔い、声まで漏らす。
 ぼやけた視界に映るジャックのその顔に、遊星の胸がまた、甘く痺れた。
「……ジャック……」
「ん……きついか?」
 遊星が、ジャックの問いにゆっくりと首を横に振る。
 密着した体は汗ばんでいるが、少しも不快だとは思わなかった。
 ああ、またあとで風呂に入り直さないと──遊星はそんなことを呑気に考え、ジャックの頬を撫でて目を細める。
「……お前の好きにしてくれ」
 遊星が請うように告げた。
 ジャックは、遊星のどこまでも受容的な愛に危うさすら感じながらも、誘われるようにキスをして腰を揺すり始めるのだった。

 ◇

 クロウが帰ってくる前に、いいや、あの騒がしい双子が「ゆうせえゆうせえ」と言いながらやって来る前に、シーツも服もどうにかせねばとジャックは下着一枚のまま、洗濯物を抱えて家中を行ったり来たりしていた。
 あの後、互いに「まだ足りない」を繰り返し、結局夕方あたりまで貪ってしまったのだ。
 相手は頑丈な遊星とはいえ、久しぶりということもあって、つい楽しみすぎた。
 すでに意識は夢の中であるらしい遊星は、「龍可と龍亞がきたら起こしてくれ」と言い残して、シーツも剥かれたベッドの上で全裸のまま、穏やかに眠っている。
 そんな遊星を見下ろし、幼い頃の、細くて頼りげない子供時代の彼を思い出していた。
 張りのある肌は健康的に焼け、Dホイーラーらしく無駄のない筋肉は美しい。
 どこからどう見ても健康体であるその肉体を見て、誰が痩せ細っていた、かつての遊星を想像できるのだろう。
 子供の頃、抱きしめれば折れそうだった体も確かに愛しかった。
 だが、いまの確かな質量もあり、硬く締まった肉付きも、ジャックはやっぱり愛おしく思ったのだ。
「……なあ遊星、なにを食いに行こうか」
 夢の中の遊星に語りかけながらベッドへと腰掛けると、寝息を立てる体を抱きしめて、ジャックは来週のことを考える。

 塞がったピアスホールの痕を撫でると、遊星はくすぐったそうに身をよじった。