「旦那様、冨岡様。お帰りなさいませ、ご無事で何よりで御座います」
「ただいま。息災だったか」
「ええ、お陰様で」
女中が出迎える式台玄関の前は、いつも藤の花の香りが絶えなかった。
立派な土塀で囲まれた屋敷は、やや小さいながらもしっかりと武家屋敷の佇まいをしている。
そこは錆兎が幼少期を過ごした家であり、錆兎と義勇が待機時などに寝起きしている家でもあった。
鬼殺隊を志した頃は帰って来ることもないだろうと、思い出深い父との屋敷を手放す事も考えた。だが錆兎が鬼殺隊となった際、鱗滝が代わりにずっと管理してくれていた事を初めて知り、祝いの品としてこの屋敷の鍵を渡されたのだ。
誰しも帰る場所があれば、生きる理由がより明白になるものだと。
入隊後に義勇と再会した後、錆兎の誘いで義勇もこの家に帰って来るようになり、今ではすっかり二人の帰る場所となっている。
長期にわたって不在となる際には藤の花を家紋とする者に紹介された、屋敷から程近いところに住む女中に清掃や留守を頼んでいるため、こうして数ヶ月ぶりの帰宅となっても屋敷の中から、立派なナナカマドが植えられた庭まで、全て変わらず美しく保たれていた。
「トキさん、それよりお孫さん無事に生まれたんだって? おめでとう。少ないがこれ持ってってくれ」
「えええ、いや、こんなの受け取れませんよ。お気持ちだけで」
「構わん構わん。初孫だろ、めでたいじゃないか」
毎度不在中の清掃や管理をしてくれている初老の女中に、錆兎が少ないとは言い難い祝いを握らせる。
給与も頂いているのに申し訳ないと遠慮するが、最終的に押し切られてしまった女中は頭を深々と下げて、少し強引なところのある主人から祝いを受け取った。
「はあ、もう、いつもお気遣いいただき有難うございます、本当に」
「気になさるな、オレがしたくてしてるんだ」
今回も鬼狩りで家を空けるとのことで普段通り仕事を請け負ったものの、しばらくして鎹鴉から負傷による入院が長引くと聞いた際には、女中は心配で倒れそうなほどであった。
一足先に退院した義勇は着替えなどで何度か屋敷に戻っては来ていたが、しかしその後も錆兎がいる蝶屋敷と任務先を往復する日々が続き、なんだかんだとゆっくり帰ってこれたのは数ヶ月以上振りとなる。
義勇にも少し疲れも見えていたが、錆兎が隣にいるためか顔色は良い。
「……これ、あの。よかったら、娘さんに。つまらないものですが」
すると義勇が静々と、女中に持っていた紙袋を差し出した。
初孫が生まれたとは聞いていたが、何せ最近は非常に慌ただしい日々を送っていたため、祝いの言葉をかける程度のことしかできなかった。
ようやく祝いが渡せると、先ほど錆兎と買い出しをしながら義勇が選んだものは、産後で疲れているであろう女中の娘に向けて、いかにも高級そうな洋菓子の詰め合わせである。
「あらっあらあら、あらあら……まぁまぁ……いいのですか本当に」
無言で頷く義勇。
「ご養生に専念なさってくださいと、お伝えください」
控えめな声量と、穏やかな口調。
そしてゆっくりと話す様子から、義勇が戦う姿を見たことのない女中は彼が剣士であることが、今も信じられなかった。
先に戻ると錆兎に告げ、てちてちと音がなりそうな歩みで屋敷に入って行った、何とも言えない義勇の背中を女中は思わずほうと目を細めて見惚れる。
「……はぁ、相変わらず冨岡様はお綺麗ですねぇ。お顔もですけど、所作が」
「だろう。ずっと見ておきたい」
「あははっ、今日から暫くずっと見れるじゃないですか」
まるで武人とは思えないほど、どこか華のある義勇の立ち居振る舞いはなんとも言えない品の良さがあった。
それもそのはずで、何せ彼の生家は広大な土地を所有する、いわゆる豪農であったと聞く。
つまるところ、義勇は生粋の坊ちゃんなのであった。
しかし義勇は自身の家がどのようなものなのか全く自覚がなかったようで、鱗滝は本人から聞く話や、その控えめな性格から平凡な商家の子だろうと思って引き取ったらしい。当時から、妙に世間知らずだとは思っていたそうだが。
だが鬼殺隊に入隊させるに当たって改めて義勇の身元を詳しく調査した結果、発覚した事実を前にどうしたものかと考えた夜もあったそうな。
鬼に姉を殺されてさえいなければ、義勇は今も父が残した土地という名の財産を冨岡の長男として管理していたであろうし、生涯、刀を持つことすらなかっただろう。
茶道や花道なら一通り姉と習っていたが、剣道や柔道などは危ないからと父には一切させて貰えなかった──そんな話を聞いた時、父に稽古で吹っ飛ばされ続けていた錆兎からすると、生きる世界が違いすぎて目眩すらしたものだ。
話を聞くところによると、義勇の父は我が子に対して過保護な人であったのだろうなという印象を錆兎は持った。
義勇の記憶にある父はいつも笑顔で、近寄れば仕事中であっても抱き上げてくれる、とても子煩悩な人であったとも。
愛妻家でもあり、義勇を産んですぐに亡くなった母がどれだけ美しく、素晴らしい女性であったかを、母を知らない義勇を膝に乗せていつも話してくれたとも言う。
しかしどうやら義勇が成長するにつれ、生写しを疑うほど亡き妻に似てきたことが災いし、息子が同じく早逝することを恐れてか、父は幼い義勇を過剰なほど箱入りに育てるようになった。
義勇が接するのは父と姉、雇われた使用人や家庭教師と、お稽古の先生。
あとは父の仕事関係で家に訪れる大人のみという、狭い世界で十年近くを過ごしていた。
大きな家の前に広がるだだっ広い庭だけが、小さな義勇の唯一の空。
納屋から出てきた、一枚板の日向榧で出来た古い将棋盤の前で、ただ一人。姉の幼なじみであった青年が教えてくれた詰将棋ばかりを、幼い義勇は黙々と嗜んでいた。
それが、普通だと思っていたのだ。
そんな弟の孤独に寄り添ってくれたのが、歳の離れた姉の蔦子である。自ら弟の遊び相手となり、時には父に隠れて外にも連れ出してくれた。
怖がりな父さんをどうか憎まないであげてね。私が、ずっと一緒にいるから──蔦子は幼い義勇を抱きしめると申し訳なさそうに目を伏せ、なぜそんな顔をするのだろうと義勇が不思議そうに首を傾げながら「ぼくは父さんも姉さんも大好きだよ」と伝えると、蔦子は目を潤ませ「姉さんも義勇が大好きよ」と笑った。
庭以外の外を自由に駆け回れるようになったのは、父が病で亡くなり、使用人もいなくなった後。
蔦子が一人で義勇を育てるようになってからだとも。
外の世界に対して無知で、その世間知らずっぷりと中性的な容姿から近所のいじめっ子には泣かされ、凶暴と名高い近所の犬によく知らずに近寄っては尻を噛まれたのもこの頃であった。
義勇の父は良かれと思ってしたことなのだろうが、そんな幼少期を送っていれば誰でも自ら人の輪に入っていくことを躊躇する子にもなるだろう。
現に義勇は多少はマシにはなったとは言え、今でも人との交流が得意とは言えなかった。
父が鬼狩りをしている自分を知れば、まず泡を吹いて失神するだろうなと義勇が言い、その箱入りっぷりが如何程であったのかが伺える。
そしてそこまで大切に育てていたご子息に手を出してしまった自分は、義勇の父上と死後会った際、果たしてなんと報告すべきかを錆兎は今から必死に考えていた。
おおよそ錆兎が「お義父さん」とでも呼べば、怒りで顔を真っ赤にしながらちゃぶ台をひっくり返す類の父であるのは明白である。
一方で、そんな錆兎はもしも父が生きていれば、陸軍の幼年学校に入学する予定であった。
鬼殺隊を志すにあたって辞退はしたが、実際に手続きまでしていたのだ。
父と同じく軍人の道を進むつもりであった錆兎と、裕福な家庭の箱入り息子として育った義勇。
恐らく、互いに鬼に人生を狂わされていなければ、出会うことすらなかった。
だがそんな異なる二人であっても、錆兎は義勇を絶対に見つけていただろうという妙な自信がある。
たとえば、軍服を纏った己が、だだっ広い庭でぼんやりと風に髪を揺らし、流れていく雲を眺める義勇の元に土産話を抱えて帰って来るのだ。
おおい、おおい、と呼びかけて名前を呼べば、義勇が庭から出て来て錆兎におかえりを言うような、そんな夢の話だ。
近くにある家へと帰る女中を見送り、錆兎も久方ぶりの我が家へ帰ると嗅ぎ慣れた藤の花の香りが出迎えた。きちんと揃えられた草履の横に自身の下駄も添えて、義勇がいるであろう仏間に向かう。
そこに鎮座するのは細かな彫刻が施され、金箔と漆で飾られた中々に立派な造りをした仏壇であった。
その前で、何かを報告しているのか、言いつけているのか、妙に長々と手を合わせる正座の義勇を襖の外から暫し見つめる。
「オレの父上はなにか言ってるか?」
「お前も無事に帰って来たのなら、早く挨拶をしろと言っておられる」
「はっはっは、違いない」
義勇が仏壇の前から少しずれて退くと、先ほどまで自分が座っていた場所をトントンと叩いて「こっちに座れ」と視線で錆兎を呼んだ。
言われるがままに大人しくそこに座って胡座を掻けば、仄かに義勇の温もりが残っている。錆兎が座ると同時に義勇は「荷解きをしてくる」と言って、立ち上がり、仏間を後にした。
気など遣わなくていいのに、義勇はいつもこうして父と二人になる時間をくれるのである。
錆兎は目を細め、懐から土産として買ってきた輸入物の紙巻き煙草を取り出すと、かつての父がしていたように煙草を咥えてからマッチを擦った。何度か燻らせると、義勇が上げてくれた線香の隣に煙草を添える。
帰ってくるなりこうして欠かさず線香を上げてくれるのが、背を預け、何よりも信頼に値する友であり、錆兎が心底惚れ込んだ愛しい人だ。
胡座を掻いた膝に頬杖を突きながら、目を閉じて微笑む。
何があったか、など。己が言わずとも、どうせ義勇から聞いているはずであった。だから、薄暗く静かな仏間で、錆兎は自慢気に口を開く。
「……父上、どうだ。あれは、中々の器量好しだろう?」
それが錆兎なりの、「ただいま」であった。