愛が、駆ける

 火曜日の授業は三限からだというのに、朝から大学に向かうのはその人がいるからであった。
 構内の外れに設置された、小さな喫煙所。日に焼けて色褪せたベンチと錆びた灰皿が置いてあるだけの、ただそれだけの空間に彼がいる。
 今や殆どの人が室内に設けられた喫煙所を利用しているというのに、その人だけは夏でも冬でもそこにいた。
 マッチの箱と当時はマイルドセブンとして流通していた銘柄をこさえて、文庫本を片手に長い足を組んで黄昏れる人影。
「先輩」
 呼ぶ声が掠れて、少し咳払いのあと。顔を上げれば、優しげな青い目を細めて彼が笑う。
「こんにちは、遊作。元気そうだな」
 それが彼の、先輩の、いつもの挨拶である。
 彼がそう言うと元気であるような気がして、はい、と頷いてしまうのは、きっとこの人が魔法使いだからなのだと、サンタクロースにも会ったことがないと言うのに遊作は本気でそう思った。
 あまりに瞳を見つめすぎると吸い込まれそうで、時に彼が話すたびに動く喉仏に視線を移しながら、天気の話と、本の話と、日々の暮らしの話をするだけの時間はなによりも穏やかである。
「そういえば、そろそろ続きは書けたのか?」
 先輩は本を閉じると、少しだけ子供のような顔をしてこちらの顔を覗き込んだ。
 先輩の言葉がなにを指しているのかをすぐに察して、遊作は少し照れくさそうに、鞄から紙束の入ったファイルを取り出す。
「まだ荒削りなんですが、とりあえず書き終わりまして」
「読んでも?」
「はい。コピーなので、持ち帰って貰えたら」
 照れからやや早口になりながら押し付けると、先輩は受け取るや否やファイルの中身を取り出してパラパラと紙を捲った。
「……今読んじゃ駄目なのか?」
「目の前ではちょっと」
「読む」
「聞いてました?」
 遊作が言うと彼はいたずらっぽく笑って、その笑顔が存外幼く、形容しがたい安らぎのようなものを覚える。
 施設で育った遊作は一度は進学を諦めたものの、周囲の助力や国からの補助などを活用し、二十歳になってから漸く大学入学を果たした。けれど、慣れない人混みを前に貧血を起こした春のこと。
 隅で蹲っていた背中を周囲が避けて通る中、唯一「大丈夫か」と声をかけてくれたのが彼だった。
 救護室まで肩を貸してくれた彼からは少しタバコの匂いがして、お大事に、と去り際にかけられた声を今もずっと覚えている。
 そして、この人気のない喫煙所が二度目の出会いであった。
 人混みを避けるように静かな場所を探していたとき、一人でタバコを吹かす彼を見かけたのだ。片手で本のページを器用に捲る、その姿は春の強風の中だと言うのに彼の周りだけ時が止まったように静かだった。
 どこの学部なのだろう──救護室へ送ってくれたときは実験衣を着ていたので、おおよそ理学部か工学部であることは予想できた。
 今まで、他者との関わりを避け続けていたというのに、無性に彼のことを知りたくなっていく。
 だから吸えもしない適当なタバコを持って、吸い方を教えてくれなんて馬鹿なことを言いながら、後日、声をかけたのだ。
 ──吸い方を?
 遊作が言えば先輩は一瞬キョトンとしてから目を細め、「いいよ、おいで」と笑って手招きをした。
 見た目こそ同じ理系と言うにはどことなくアウトロー感すらあったものの、話してみれば先輩は存外穏やかなひとで、静かで優しいその人柄から、まるで凪のようだと思った。
 聞けば同じく施設育ちで似た苦労を重ねたこともあり、遊作が金欠の際には食事に誘われ、おまけにバイトまで紹介してもらうなど、生活の面でも多く助けられたものである。
 そんな、速読を特技の一つとする先輩が、遊作が綴った物語を一枚、また一枚とページを捲くっていく。
 それはゲーム機などがなかった施設でよく読んでいたSFミステリーが好きで、いつか自分でも書いてみたいのだと、酒の席で彼に話したのが始まりであった。
 本の虫である先輩は「いいじゃないか」と遊作よりもなぜか乗り気で、書いたら一番に読ませて欲しいと約束まで取り付けられ、逃げ場を失った遊作は筆を取り、そして今に至る。
 コピー用紙に印字された文章に夢中で、伏せた長い睫毛を見つめられていることにすら気づかない様子の先輩と、ここぞとばかりにジッと横顔を見つめ続ける遊作の間に流れる時間は、この世界のどこよりも優しい色をしていた。
「……面白い」
「もう読んだんですか」
 端正な横顔が肯く。
「大まかに。帰ってからじっくり読もう」
 そう言って、先輩は勢い良く顔を上げた。普段は冬の夜のように静かな人なのだが、その目は爛々としている。
「面白いよ、遊作。やっぱり天才なんじゃないのか?」
「……やめてください、小説書いたのもそれが初めてなのに」
「特にこの」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。いつものように感想はメールでお願いします」
「今さら照れるな」
「勘弁してください」
 先輩はそれ以上なにか言おうとしたが、遊作が手の平を突き出して制止をかけたため、少しムッとしてから「分かった」と渋々口を閉ざした。男は、遊作が賛辞を拒むとたまに子供のような顔をする。
 先輩は映画を観たあと、意外にも感想大会を持ちかけるタイプであった。美味しいものを食べれば美味しいと言い、美しい花を見れば綺麗だと言って、好みの音楽を聴けば好きだと言う。
 そして面白い本を読めば面白いと語るように、己の感性に素直で、誠実な人だった。
 遊作は、自身が綴ったそれを、彼が「好きだ」と言うたびになんとも言えないくすぐったさを感じる。
「……遊作の書いた話を、オレはもっと読みたいな」
 ──嗚呼、あの人は──きっともう、一人の男の人生を変えたあの一言を、覚えてはいないのだ。
 郵便受けに押し込まれていた結婚式の招待状。
 その封筒に書かれた不動の名前を眺めながら、売れない作家・藤木遊作は頭を擡げて、大学生時代のとある思い出を走馬灯のように辿りながら、アパートの前で棒立ちになっていた。