梅雨らしく雨が続いた連日。漸く止んだ月曜日の夜には纏わりつくような夜風が吹き、日も暮れて気温こそ高くはないがどこか暑苦しい。
そんな空気から逃げるように、今日も主要駅から徒歩数分程度のところにあるマンションの一室へと義勇は転がり込んでいた。
もはや見慣れた部屋。そこはシンプルでシックな家具で統一されており、いかにも男の一人暮らし、と言った雰囲気が漂っている。それでも単調さや物寂しさを感じさせないのは、整頓された部屋の中でも彼の趣味と遊び心が反映されたインテリア雑貨がところどころに置かれているからだろう。それらが良いアクセントとなり、纏まりはあるがどこか落ち着く優しい空間を作り出していた。
彼は、好きなものが存外多い男である。ああ見えて、思い出はきちんと取っておく主義でもあったのだ。
一人暮らしなのに皿やコップ類がやたら多いのも、彼が陶器市を見て回ったりするのが好きだから。
義勇が箸置きを集めるようになったのだって、いつかの彼が「こういうの可愛いだろ。こいつ、義勇っぽいから買ってきた」と言い、何でもない日に三毛猫の箸置きをプレゼントしてくれてからのこと。
それからだ。それから、大学生となり、一人暮らしをするようになっても、義勇は小さな箸置きを集めたり眺めたりすることが趣味であった。動物全般がそこまで得意ではないのに、動物を象った愛らしい箸置きばかりを買って集めてしまうのは彼の、錆兎のせいであったのだ。
あのとき、錆兎がくれた可愛い三毛猫の箸置きを、義勇は二十歳になった今も勿体ぶって一度も使えずにいる。
我ながら健気だ。
出会わなきゃよかったと、陶器で出来た三毛猫が目に入るたびに後悔するのに、使うことも捨てることも出来ず、ただ眺めるだけの日々が過ぎていく。
「あ、義勇。チーズケーキあるけど食う?」
家主である錆兎の声がかかり、義勇は声がしたキッチンの方へ黙って視線を向けた。
リビングに置かれた大きなソファ。それを背もたれにして、夏用の籐カーペットが敷かれたフローリングに座り込む義勇の前には、ガラス天板の美しいローテーブルが佇む。その上で、彼が淹れてくれた冷たいカフェラテがしっとりと汗を掻き、時折りカランと涼しげな音を立てていた。
ここが、この部屋の中で過ごす義勇の定位置。ソファに並んで座っているとカップルのようで気恥ずかしく、錆兎がなにも気にしないなんてことは義勇も分かっているが、変に意識してしまうからといつも床に座るようにしていた。
錆兎が仕事を終えたであろう時間帯に義勇の方から家に行っていいかと聞いて、彼が二つ返事で「いいよ」と言い、会いに行く。それが、義勇が大学生になってからのルーティンとなっていた。
二人で会うといっても大したことはしない。映画を観て感想を言い合い、並んで夕食を作って、休日前には錆兎があてもなく車を出して夜の街を走ったり、あとは深夜のコンビニで一緒に無駄遣いをするだけだ。その、中身のない逢瀬のために義勇は夜のメトロに揺られ、改札を通って三番出口へと向かい、わざわざ駅まで迎えに来てくれている錆兎の元へ駆けて行く。
高校生の頃は遅くに出歩くなと言われ、夜に彼の家へ行くなど一度も許してはもらえなかったが、大学生ともなると過保護な錆兎の言動も減った気がする。
大人として扱われているのか、どうでもよくなったのか。悪い風に捉えてしまい、試すような行動ばかりをとってしまう悪循環。決して迷惑だとは言ってこない錆兎の本音を聞きだす勇気もないまま過ごす夜は、空っぽだけれど特別なものだった。
少なくとも錆兎には二年前までは恋人がいたと記憶しているが、今はいないらしい。だから彼は毎日のように自分を家に上げてくれるのだろう。ならば、このまま居座ってしまえば、錆兎の婚期はどんどん遅れるのではないかなどと。
二十歳になった今だって、根本は昔と変わらない。義勇が嫌った、嫌な子供がそこにいた。
本音は、毎日のように来るなと言って、遠ざけても欲しかった。
だが、現実の錆兎は理想とは違って「もう一緒に住もうか」と残酷な冗談を言ってくる。
その言葉に、義勇だって「うん」と言いたかった。言いたかったが呑み込んで、「住まないけど」と、冗談が通じる大人の振りで必死に誤魔化す。
そうしないと、錆兎が困るからだ。
困らせてやろうかとも思うが、嫌われたくなかった。
いつも通り義勇を弟として接する彼と、間抜けなほど何も変わらない自分。そんな変わらない間柄が、この先も一生続くのだ──なんて義勇は絶望していたのだが、今日だけはいつになくぎこちなかった。
いつもと違うことが、この、変わらないはずの部屋と二人の間で起きている。錆兎は一見いつも通りに見えるが、対する義勇の様子がおかしいのは明らかだ。
それもこれも、数日前の義勇の行動が発端で、今夜だって本来は錆兎の家に集まるつもりはなかった。それなのに今日に限って、錆兎の方から「来るだろ」とだけ義勇にメッセージを寄こしてきたのである。
本当に行く気がないなら、拒めばいいだけのこと。けれど義勇はバイトを終えた後、馬鹿正直に錆兎の家がある最寄駅で下車していたのだから救いようがない。
普段は「来い」なんて言わないくせに。いつも俺に選ばせるくせにと、義勇は気まずさと八つ当たりと、これまでの鬱憤が混ざり合った感情で口を閉ざし、チーズケーキを食べるかどうかを聞いてきた錆兎への返事を保留する。
その、なんとも言えない雰囲気に錆兎は気付いているのか気付いていないのか。返事のない義勇に首を傾げると、わざわざチーズケーキが入った箱を持ってリビングの方へと顔を出した。
こういう時の錆兎は、少しだけ犬っぽい。
「これ、食う? こないだ行った結婚式の引き出物。冷凍してたの忘れててな、横浜のなんか有名な奴らしい。横浜だし多分美味いんじゃないか」
スイーツや流行りものなどに関して老人並みに疎い錆兎は、横浜のがつくスイーツはなんでも美味しいと思っている節がある。神奈川県へ頻繁に足を運ぶこともないくせに、その横浜に対する絶対的な信頼は相変わらず何なのだと、懸命に真顔を保っていた義勇も徐々に可笑しくなって、相好を崩した。
かっこいいんだか年寄クサいんだか、物知りなのか適当なのか、犬っぽいんだかウサギなのかハッキリして欲しい。
でも、そこも含めて好きなのである。
義勇の気分を落ち込ませるのも、喜ばせるのも、その全てが錆兎だった。
「……うん、食べる」
まさか己の年寄クサさに義勇が笑っているとは錆兎も思わない。家に上がってからもずっとぎこちなかったが、心なしか普段通りになった義勇に錆兎も笑顔を浮かべ、二人分のチーズケーキを切り分けるためにキッチンへと戻る。
やや大きめの方を義勇の皿へ乗せて、残りは冷蔵庫へ。義勇が気に入ったら、また切ってやろうと考えながら。
少しして定位置に座っている義勇の前に、可愛らしい梅の形を象った瀬戸焼の取り皿が、チーズケーキを乗せてやってくる。それは義勇も初めて見る皿であったので、また増えたなと錆兎が買ってきたであろう新入りに眼差しで挨拶をした。
「ありがとう。……錆兎、この前も引き出物でバームクーヘンとか貰ってた気がする」
「まあな、オレの年齢的にもこういうのって続くんだよ」
あと一、二年もすれば錆兎も三十の大台に乗る歳であり、周囲では示し合わせたように結婚ラッシュが続いている。
結果、人望のある錆兎の元には立て続けに招待状が届いている状態で、祝いの席を蔑ろに出来ない性格である以上、近ごろは頻繁に誰かの結婚式へと出席していた。
祝儀で包む出費も当然それなりにあるが、それよりも友人の幸せそうな様子や周囲の楽し気な雰囲気は見ていて満たされるものがあり、決して嫌いではない。
「いざ参加すると、結婚式って楽しいんだよな。飯も美味いし、めでたい席でみんな笑ってて空気もいいし」
これは、なんてことのない雑談のはずである。
なのに、錆兎から結婚に関する言葉が出ると義勇はどうも落ち着かない。
乾き始めた口内を宥めるように、義勇はチーズケーキを一口。濃厚な舌触りにコクのあるチーズの風味。程いい酸味と絡む甘みは絶妙で、確かに美味ではあったものの不安や焦燥で味覚が遠のき、あの時に食べたオムライスがフラッシュバックする。背後のソファに腰掛けた錆兎が「美味いなこれ」と呟いたのに対して義勇は曖昧に頷いた後、恐る恐る口を開いた。
「……錆兎は、結婚したいって思う?」
唐突に問われ、錆兎が義勇の方を見ると小さな口へとチーズケーキを運んでいる最中であった。頬張り、少し膨らんだ義勇の白い頬がソファに腰かけている錆兎からは見える。
「結婚ねぇ」
「……うん」
なんと、答えてやるべきか。
一口が特別大きな錆兎は義勇への最適解を考えている間に、小さなケーキなどあっという間に食べ終えてしまう。嚥下し、残った皿をローテーブルに置くと独占状態のソファへ豪快に凭れ、義勇の端正な横顔を一瞥した。
結われていない伸びた癖っ毛が、咀嚼をするたびに優しく揺れている。可愛い、とうっかり口から出そうになるのを抑え、男は肩を竦めてから天井へと視線を移した。
義勇の問いが、何を意図した上での質問なのかが分からないほど、鈍くはない。ただ、あまり真に受けすぎるのも健全ではない気がする。
今さらだろうとは、思いもするが。
「今は別に考えてないよ」
無意識に、安心させるような言葉を選んでしまう己に男は頭が痛くなる。
「良い縁があったら付き合うし、結婚もするんじゃないか。今はまだ無いってだけだろ、焦るもんでもないし」
この曖昧な距離感に甘えているのは、錆兎も義勇も、どちらも同じなのだった。
錆兎の言葉を聞き、義勇は「ふーん」と頷くと、再びチーズケーキを小さな口に運ぶ。
その声には、微かな嬉しさが滲んでいた。
「これ、美味しい」
「そ? よかった」
錆兎とて、なにも朴念仁を気取っている訳ではない。良い歳でもあるし、際立って経験豊富なわけでもないが人並みに誰かと付き合ったり別れたりもして来たのだから、察することくらいは出来る。
出会ったばかりの幼い義勇に懐かれていた自覚は確かにあったが、それが他の意味も含んでいると気付いたのは、ここ数年のこと。転機が訪れたのは義勇が高校二年生くらいになってからで、そこからだんだんと義勇の気持ちを知るに至った。
ただし本人が懸命に隠そうとしていたので錆兎からは一切の反応を示すこともせず、好きにさせていた。この子が大人に近づいていけば勝手に目が覚め、己がただのオッサンに見えてくるはずだと。そうすれば義勇も兄貴離れするのではないかと、錆兎も高を括っていたのである。
あれから数年が経ち、義勇は大学へ進学。今年の冬にはめでたく成人を迎え、一緒に酒だって飲めるようにもなったが──不思議なことに、今も義勇からの視線は変わっていなかった。
義勇は、今も己を好きでいてくれているらしい。そのことに嫌悪感はなく、だからこそこうも毎日のように家へ上げていた。
とは言え、だ。
まず大前提として、錆兎からすると義勇は世話になった先輩の、その妻である蔦子の弟にあたる。
義勇が大人になるにつれて好みの別嬪に育ち、性格も可愛いらしいからと言って軽率に手を出していい相手ではなかった。また、義勇を大切に思っている自分だからこそ、今になって手を出してしまうのは一種の裏切りのようにも感じる。家に上げている時点で手遅れな気もするが、一切手は出していないのでセーフだと思いたい。
このように頑なに己を律している錆兎ではあるが、片や蔦子とその夫は後輩の葛藤など露知らず、呑気に「錆兎くんになら義勇を任せてもいいと思っている」と無責任な太鼓判を押し、二人が一緒になることをむしろ歓迎しているのだから逃げ場がなかった。どこの馬の骨とも知れない輩に可愛い弟が振り回されるくらいなら、信頼している後輩に貰って欲しい、というのが先輩夫婦の主張で、今だって義勇が毎日のように錆兎の家に行っているとあの夫婦が知ったら、生暖かい期待の目で見られるに違いない。
迷惑とは思わない。そこまで義勇を任せてもらえるのは光栄でもあったが、買い被り過ぎだろうと男は頭を抱える。
二人が思っているよりも、自分はずっと、ただの男に過ぎないというのに。
今までの恋人は全員が女性で、これと言って同性に惹かれたこともなかったので異性愛者を自認してはいるが、それを踏まえても大人になりつつある今の義勇は確かに美人だと錆兎は思う。内面に関しても頭は良いのに肝心なところで抜けていて、普段はおっとりしているが意外と頑固なとこもあり、甘えたで照れ屋で素直で、優しく努力家な性格も魅力的と言えば、確かに魅力的であった。
身も蓋もないことを言ってしまうと、義勇はシンプルに、可愛かったのだ。いじらしいというか、放っておけないと言えばいいのか。
いくら世話になった知人の身内であっても、全く眼中にもない人物が週に何度も家に転がり込んで来れば、情に厚い錆兎も流石に迷惑だと言うであろうし、家にも上げなければ相手にもしなかった。
それも、義勇だから全てを許している。これほどまでに、男とは分かりやすい。
義勇だから駅まで迎えに行って、泊まらせて。連絡が無ければ心配もするし、どこかへ行くときは車を出してやったりもしてきた。
親切をしたり、手を貸したりは誰にだって出来ることだろう。だが、一切の感心も下心もない相手に自分のパーソナルスペースを易々と差し出せるほど錆兎はお人好しではない。
錆兎はそこまで、出来た男ではなかった。
気になる子と、ただの友人への接し方は明確な線引きをするような、極々当たり前の、どこにでもよくいる男であったから。
ただ、確かな懸念点は義勇がまだまだ若いということ。
己が大学生の頃にはそこそこ楽しい青春を送っていたこともあって、大切な義勇には三十路近い男に執着するのではなく、健全な大学生活を楽しんで欲しかった。
義勇から向けられる好意に対しても、幼い頃にたまたま出会っただけの己を神格化して、美化している節があるとは錆兎も常々感じており、もっと色んな人との恋愛を経た方が良いのではと。
義勇の思いを軽んじている訳ではないが、十歳近くも離れた年下からの「好き」を大人の方が本気にすべきではない。
理性と、常識と、情と、その他諸々の不純物。
義勇がなにも言ってこない内は、錆兎も気付いていない振りを貫いてきた。これまで通り特別扱いをしながら気が済むまで可愛がって、手は出さずに一線を引きつつ巣立つのを見守ろうと決めていたのに。
「錆兎」
錆兎よりもずっと遅れて、漸くチーズケーキを完食した義勇が皿を置く音に小さな呼び声が混じる。
「……こないだ言ったの、酒の勢いじゃないから」
そして、逃げていた話題から向き合うため、腹を括ったと思しき声色で義勇が言い切った。
「……錆兎のことが好きだって、言ったこと」
遡ること、五日前。
二十歳になった義勇に酒を飲んでみたいと言われて、二月から不定期に始まった二人だけの晩酌会がその夜にも行われており、義勇の口に合う酒を探しながら、美味しいつまみの作り方などを教えていた。
一緒に飲むようになって気付いたことだが、義勇は思っていたよりもずっと酒に強くて、そういえば姉の方も可憐な見た目をしていながら誰よりも酒豪であったことを錆兎はふと思い出す。
大学時代、美人な蔦子を酔わせたいとゼミの忘年会などでは多くの愚か者が挑みはするが、いつも決まって彼女の一人勝ち。積み上げられた死屍累々を肴にして「惚れた男の前でしか酔わないようにしてるの」と蔦子が言い、自身の顔よりも大きなジョッキを細腕で傾けて飲み干す姿は、その場の誰よりも勇ましかった。
なお、当時の蔦子の恋人で、今は夫にあたる先輩の方は「蔦子ちゃんは僕よりもお酒が弱いから、忘年会とかで飲まされそうになってたら錆兎くんが助けてあげてね」と女の可愛い嘘にまんまと騙されていたので、錆兎は「任せてください」と余計なことは言わずに頷いておいたのだが。
女の嘘はある程度、見て見ぬ振りをするのが男の道理である。これは錆兎が幼い頃、父から教わった格言の一つだ。
思わぬ姉弟の共通点を見つけてしまい、なんだか懐かしくもなる。今や小学校入学を控えた双子の姉妹と去年の暮れに生まれた息子という子宝にも恵まれた先輩夫婦とは長らく飲みに行けてはいないが、その分義勇と穏やかに楽しく、酒を飲み交わしていた。
このように姉と似て逞しい肝臓を持った義勇が、酒で暴れたり失言をすることがないのは、錆兎が一番知っている。たとえ酔ったとしてもニコニコと機嫌よく笑って横に揺れ始めるか、トイレが少々近くなる程度の可愛いものばかりだということも。
だからこそ。五日前の晩酌の際に手を握られて言われた、「錆兎の恋人になりたい」という一言がどれだけ真剣なものであるかも、錆兎は理解しているつもりであった。
あの日、義勇は返事はいらないと呟き、でも応えてくれるならば態度で示して欲しいと言って珍しく錆兎に凭れて甘えるように眠った。
今まで義勇がなにも言ってこないのをいいことに、曖昧な距離感に甘えて好きに愛でていた罰が当たったのだろう。悟った錆兎はとりあえず義勇を横抱きにして寝室にあるベッドへと寝かせ、片づけを終えた後、思考を整理するためにも自身はソファで眠りについた。
翌朝。錆兎が目を覚ましたころには義勇の姿が寝室から忽然と消えており、電話もかけてはみたが義勇は出なかった。
あの言葉が酒の勢いから生じた失言ではなく、自分が何を言ったのかも義勇はしっかりと覚えていたのだろう。だから、錆兎の顔を見れずにその場を去った。
以降、毎日のように錆兎の家に来ていたのがぱったりと止んで、連絡をしてみても辛うじて既読がつくだけ。結果、このままじゃ埒が明かないと、錆兎の方から半ば強引に「来るだろ」と部屋へ呼んだのが今日。
義勇の言葉を、真剣に考えて良いべきかを正直、今も悩んではいる。
錆兎が交際してきた女性は大半が同級生で、社会人になってから一度だけ年上の女性と縁があったものの、年下に関しては一度も関係を持ったこともなければ、そういう目で見たことすらない。
それが、十歳近くは年下の、それも弟同然に可愛がってきた男子大学生に手を出すなんてことは社会通念上、よろしくないだろう。いくら義勇に惹かれているところがあるとは言え、令和の光源氏でもあるまい。
「……オレはやめときな。気持ちは本当に嬉しいけどさ、義勇はもっと外に目を向けた方が良いと思うんだ」
このまま押されると、うっかり責任を取ってしまいそうになるのを男は耐えた。
「それって、俺が……蔦子姉さんの弟だから? 歳の差あるから?」
不安げな義勇の声に、胸が痛む。その痛みを、義勇にはもっと相応しい恋愛を経験して、自分以外を見て欲しいという理性で抑えた。
「……俺が、男だから?」
女であれば手を出してくれたのかと、暗に義勇が問うた。
伝えるべき言葉に悩み、遠くを見る錆兎。仮に義勇が女であっても全く同じことを言っていたとは思うが、そもそも女である時点で、それは錆兎が可愛いと感じた義勇ではない。
錆兎が知らない、全く別の他人である。
「あー……いや、そういうことじゃなくてだな」
ついに錆兎が身体を起こして顔を覗き込もうとするが、義勇は振り切るようにその場から立ち上がった。
「……帰る」
「えっ」
「ごちそうさまでした」
居心地が悪くなると、耳を塞いで逃げてしまうのは己の悪い癖であることも、義勇は分かっている。
だが、錆兎をこれ以上困らせるくらいなら、自分はこの場にいない方がずっと良かった。
「最後まで聞けよ」
何も言わずに帰る支度をしている義勇の腕を、慌てて立ち上がった錆兎が掴んだ。しかし、掴んだ腕はダランとしていて、力も入っていない。
「振られる理由を?」
錆兎の方を見ないまま、義勇が言う。
「そんなの、泣きそうになるから聞きたくない」
錆兎が自分に泣かれると弱いことも分かっていて、あえて義勇は言葉にしていた。
かつて嫌な子供だったのが、嫌な大人になっただけだと、また少し自分を嫌いになる。
「わ……分かった、分かった。もう言わない。でもこんな時間だぞ。今日は危ないし泊まってけ」
「危ないって……こちとら二十歳の野郎なんだが。自分でどうにか出来る」
長身の部類に入る錆兎には届かずとも、今の義勇は身長だってそれなりにあり、筋力も平均的な男子大学生程度はあるのだから決して貧弱な訳ではない。
それの、どこが危ないと言うのか。住んでいるマンション近くのコンビニへ夜中に行くこともあるが、たまに声を掛けられる程度で危険を感じたことは今まで一度もない。
しかし錆兎から言わせてみれば、容姿端麗でどこか物憂げな表情をした義勇が、こんな時間に外で一人フラフラするなど不安で仕方がなかった。
「男女問わずしつこいのに絡まれたら思考フリーズする奴が何言ってんだ」
「無視してたら、そういう輩は雑な暴言吐き捨てて大体は諦める。もう慣れた」
他人になにを言われても、どうも思わない。この顔で二十年生きてきて、身勝手な好意や憎悪は散々浴びせられてきた。
今さらなにも感じなければ、落ち込んだり悲しんだりすることもないのは、事実である。
「オレが義勇にそういう目に遭って欲しくねぇの」
それなのに、自分の代わりに嫌だと言ってくれる錆兎に、どうしようもなく救われるのも事実であった。
「送ってってやるからちょっと待ちな。下だけ履き替えるわ」
酒類を嗜む錆兎が、義勇が来るときはいつも車で送ってやれるようにと、泊まることが決まるまではノンアルコールビールで済ませているのも知っていた。
部屋着として履いているダルダルのスウェットを脱ぎながら、掛けてあったジーンズに手を伸ばす錆兎の情けないような可愛いような、それでもやはりかっこよく見えてしまうズルい背中を眺めて、義勇は泣きたくなってくる。
「ばか」
「なんてー?」
「ばか錆兎」
「はいはい、バカですよ」
忙しない感情が暴れ、一周回って腹立たしくて仕方がない。
どれだけバカだのアホだの言っても、そこも好きだという一言が付いてくる。
「ほら、あんぽんたん。これ持っとけ」
ジーンズを履き終えた錆兎から手渡されるのは、薄手のカーディガン。それは汗を掻きづらく、身体に熱がこもりやすい義勇のために車内のエアコンを低めに設定してくれる錆兎が、必要以上に義勇が身体を冷やさないようにといつも待たせてくれるもの。
小学生時代の夏休みに遊んでもらった際も、蔦子に義勇の体質をあらかじめ聞いていた彼は何度も「暑くないか」と幼い義勇を気遣ってくれていた。
しんどくなったらすぐに言えよと少し過保護なくらいの優しさにドキドキして、そんな些細なやり取りが今も鮮明に蘇る。錆兎にしてもらった嬉しいことは、その全てを昨日のことのように思い出せた。
けれど彼の優しさに触れるたび、今までの彼女にもしてきたのだろうかと考えては憂鬱になることも、年齢を重ねるごとに増えた気がする。
車窓に取り付けられた可愛い柄のサンシェードも、きっと錆兎が選んだものではなかった。
誰の為に買ったのか、誰と買いに行ったのかなど、聞けるはずもない。義勇には、嫉妬をする資格すら持ち合わせてはいないのだから。
気遣われるたび、好きな人には不器用なくらいであって欲しいと思ってしまうのは、求めすぎなのだろう。些細な気遣いで過去にいた誰かの影を感じて傷つくくらいなら、浅慮な行動にため息をついたり、譲歩をしたりしたかった。
それなのに、その優しさがたまらなく好きだと感じる矛盾の連鎖。
「いらない」
差し出されたカーディガンを受け取らないまま、義勇が目を伏せる。
「いらなかったら後ろの席に投げといていいから」
そんな態度を取られても、錆兎は怒りもしない。ため息すら、ついてくれない。
それどころかカーディガンを広げて、義勇を包むようにフワリと肩へかけた。
錆兎が使っている、柔軟剤の香りがする。わざわざ洗ってくれたのだと思うと、錆兎に「また家に来てもいいよ」と言ってもらっている気がしてしまう。
「……錆兎が俺のこと、大事にしてくれてるのも分かってるんだ」
ダイニングテーブルに置きっぱなしのキーケースと財布を手に取った錆兎が、聞き取りづらい声量で話し始めた義勇に視線を向けた。
「他人が良かったな。せめて錆兎にとってどうでもいい奴になりたかった」
肩に掛かったカーディガンの裾を握って、感情が読み取れない表情で義勇があくまでも独り言のように話す。
「俺のことどうとも思ってないくせに、大切にだけされるのってしんどい」
子供の頃に出会わなければ、先輩の弟でなかったら。終わりもなく意味もない、もしも話ばかりが次々と浮かぶ。
こんなことを考えても、なにも変わらないのに。
錆兎の恋人に、なれるわけでもないのに。
好きだと、言って貰えやしないのに。
己が回り道をしている間にも、また知らない女性があっさりと横から錆兎を奪っていくのだろう。今度こそ、錆兎は結婚するかも知れないと、次は何度泣けばいいのだろうか。
錆兎は義勇の僅かな声の揺らぎに目敏く気付き、どうにか義勇を宥めようと言葉を挟もうとするが、義勇は聞く耳を持とうとはしない。矢継ぎ早に、畳みかけるように、錆兎に言葉だけを投げかける。
「俺、たぶん、錆兎が思ってるより錆兎のことが好きだ。錆兎が……男と付き合ってるの内緒にしたくても、俺はちゃんと秘密に出来る。弟みたいなもんって周りに紹介されても一々傷つかないし、不満も言わない」
なにがいけないのだろう。
どうしたらよかったのだろう。
きっと、己の全部がダメで、錆兎に好きになってもらえなかった。
「一回、付き合ってみて、なんかやっぱ違うなってなったら、ちゃんと別れる。ごねないし、家にも押しかけないし」
男とは付き合えないと、弟にしか思えないと、木っ端微塵になるまでこっ酷く振られて玉砕したい気持ちは、今もある。それなのに、錆兎の優しさが己を貪欲にしていくのが義勇には分かった。
もしかしたら、と思うのがやめられない。
「……ワガママも、変な嫉妬も我慢出来る。これまでも、そうだったから。錆兎が俺を優先しなくても、文句言わないし」
鼻の奥が、ギュッと詰まって痛い。
小学生の頃、錆兎に「男がそんなすぐに泣くもんじゃない」と言われ、義勇は泣き虫をやめたはずだ。
憧れていた錆兎のように強くて優しい人になるのだと努力した結果、こと私生活においては泣くことなど滅多になくなった。それが、錆兎の前になると根っこの甘えたが邪魔をして、涙腺も何もかもがダメダメになってしまう。
義勇が瞬きの回数を増やし、口からゆっくり息を吐きながら泣きそうになるのを耐えていると、黙って聞いてくれていた錆兎が「はい、意義あり」とおもむろに挙手をした。
「ワガママかどうかはともかく。上手くごまかしてるつもりだろうけど、ヤキモチに関してはずっとダダ漏れだったぞ。その度にオレは何故か、必死にお前の機嫌をとってきた」
錆兎の指摘に、義勇は眉間を寄せると涙目で睨みつける。
「……機嫌なんかとってもらった覚えない」
「お前がいきなり高校の文化祭に来いって言い出したことがあったな? あれ、確か高二とかの時だったか」
「しらない」
「オレはあん時、何度も、お前に今年は文化祭に行かなくていいのかと聞いた。そしたらお前が……なんであれ機嫌悪かったのか今も分かんねぇが、来るなって可愛くないこと抜かしたから、無視してほっといたわけだ」
「あの時は俺が高校生になっても顎の髭が生えてこないのを、錆兎が『お前は髭似合うツラじゃねぇからいいだろ別に』って言ったのがムカついたんだ」
「なにがしらないだよ、覚えてんじゃねぇか」
覚えている。
くだらないことで臍を曲げて、本当は文化祭に来て欲しかったのに、来なくていいと強がってしまったことも、全て。
義勇は覚えていた。
当時は今よりも錆兎との埋まらない歳の差をどうにかしたいと思っていたからこそ、子供扱いには敏感だった気がする。顎鬚が似合わないと指摘され、それすら子供扱いのように感じ、拗ねて怒ってしまうほどにはコンプレックスまみれの十代だった。理想と現実の乖離が大きくて、常に誰かが羨ましくて、自分には何もないと感じる。身体は勝手に大人の男へと近づいていくのに、思考は幼稚で浅はかなまま。周囲が気にも留めない、余計なことに傷つくばかりの痛々しい日々。
子供扱いをしてくる錆兎なんてもういいと臍を曲げてはみたはいいが、寂しくてたまらなかった。
後になってからやはり文化祭に来て欲しくなり、それを言い出せたのはなんと文化祭の前日。それも、夜のことだった。
「お前から、やっぱ文化祭に来いって電話貰ったけど、オレはあの頃に付き合ってた子との予定が先に入ってた。だから、そのことも伝えて無理だとキッパリ断った。ここで甘やかすのも違うと思ってな」
錆兎の言い分はごもっともである。たった数年前のことではあるが、我のことながらとんでもない子供だったなと義勇は遅すぎる反省をした。
「そしたら、電話口のお前が頷いて喋んなくなった。数秒待って、分かったってだけ言って電話を切りやがった」
電話が切れた後、義勇は自業自得だと己に言い聞かせ、枕に顔を押し付けていたのだったか。
己に呆れて、涙も出ない。電話をするまでに三時間も悩んだが、いざかけてみると数秒足らずで錆兎から彼女を優先するから行けないと断られ、他に会話もしないまま一方的に電話を切った。
文化祭の出し物がみたらし団子であったので、それを錆兎に食べて欲しかったなあと、くだらない後悔を飲み込んで目を瞑ったあの日の夜。
小学生や中学生の頃は、もっと素直になれたのにと夢の中ですら悔やんだ。くだらないことで怒ったり拗ねたりするのをやめて、昔みたいに素直に甘えたいのに、どうして上手く出来なくなったのだろうと、己に深く失望もした。
朝が来て、待ち人が来るはずもない文化祭の当日。
続々と知らない女子生徒たちから一緒に写真を撮ってくれとせがまれ、廊下にまで冨岡目的の女子が並んでいると教室中が盛り上がり、肝心な義勇本人はと言うと棒立ちで完全な客寄せパンダ状態という地獄絵図。
去年は錆兎と一緒に文化祭を回れると言う楽しみがあったので堪えられたが、今年はそれがない。せめて早く帰れたらいいなと、そればかりを考えていた。とにかく、早く帰って、早く錆兎に謝りたかった。
その他大勢から意味もなく好かれたって、唯一自分を見て欲しい人には何も思われていないことが可視化されたような現実が目に滲みる。気分が悪いことにして帰ろうかなんて悪知恵を働かせて辟易していると、義勇のスマートフォンが鳴ったのである。
「……オレはあの日、義勇を優先したよ」
それは己に向けられる多くの黄色い声に混じった、無機質な電子音だった。
「お前にガチャ切りされたあと、すっげぇ悩んだが最終的に彼女に電話して断りを入れて、当然ながらブチギレられて。もう勝手にしろって言われて、後日そのまま振られたけどな」
急いで電話に出ると、錆兎が疲れたような声で言った。
校門前にいるけどオレは帰ったほうがいいのか、と。
義勇は客寄せパンダという職務を放棄して、クラスの女子に着せられた浴衣姿のまま校舎の階段を駆け降りた。
息を切らしながら走って、転びそうになりながら走って、後悔や言い訳すらも追い越す速さで走って。そうして校門前にいた宍色の髪を揺らす大きな背中を見つけると、義勇はそのままの勢いで抱きついたのだった。
驚いた様子の錆兎が何かを言う前に、義勇は抱きついたまま「ごめんなさい」と言うと、錆兎は笑って「本当だよ」と言うだけ。あとは、なにも言わずに義勇の頭を撫でてくれた。
「……そんなの忘れた。錆兎が悪い」
忘れるわけがない。錆兎が大好きだと、再確認した日だったから。
「……そうだな、やっぱオレが悪いわ」
けれど、たとえ嘘でも、忘れたままにしておきたかった。
「ごめんな」
大好きなままだと、こんなにも辛いのだから。
錆兎という人を見つけて好きになった自分を誇りたいのに、むしろどんどん嫌いになってしまうことが、義勇は怖かった。
「……錆兎は、俺が……錆兎のこと好きじゃなくなるの待ってるくせに」
「違うよ」
「違うくない」
義勇が、一度だけ目尻を拭う。
「錆兎は俺が他の人を好きになっても、何しててもどうでもいいんだろ。幸せになって欲しいとかいつも言うけど、それも無関心を優しさで包んで、それっぽく言ってるだけにしか思えない」
錆兎を好きなままではいけないと、分かってはいてもこれまでの思いが邪魔をして、なにも行動が出来なかった。
錆兎以外の誰かを好きになる努力をしなければと、自分を無条件に好いてくれる女子と付き合うことも考えたが、人の好意を利用するのは気が進まず、結局のところ告白を受け入れたことはない。
自分が利用するならば、相手も自分を利用してくれそうな人が良かった。
薄情で、淡白で、そして後腐れのない関係が己には相応しいとも。
「……俺、この前アプリで男の人と会ってきたんだ」
「……はい?」
思わぬところから飛んできた義勇のカミングアウトに、錆兎の声が半音ズレる。続いて、握っていたキーケースを床に落とす音。
そこにはあからさまな動揺が見て取れた。
「なにしてんだお前」
「これは当てつけと確認が半々だ」
「当てつけって言っちまってんじゃねぇか。せめて胸に秘めろ」
「うるさい」
そういう出会いの場があることを義勇も知ってはいたが、利用しようと思ったことは一度もなかった。と言うのも、義勇は己が純粋なゲイなのか、もしくは錆兎という個人が大好きなだけなのかが、分からなかったからである。
男女問わずに錆兎以外の誰にもこんな感情を抱いたことがないため、恐らく後者だろうとは見積もってはいるが、もしかすると前者である可能性も捨て切れない。
「……俺、ほんとは錆兎が好きなんじゃなくて、年上の男なら誰でもこういう気持ちになるのかもって確かめたかった。良い人だったら運が良かったと思おうって」
男子大学生という肩書きと、下手な自撮りからでも分かる容姿の良さでマッチング自体は容易く、義勇はその中からなるべく錆兎に近い雰囲気の人を探した。
「それで、飯に行って……なんか……普通に優しい人だったんだ。俺が口下手で何も喋れなくても、ずっとにこにこしててくれて。また会おうって言ってくれたから、それで、うんって言った」
判断基準は顔が似ているかどうかではなく、あくまでも錆兎と同じ年頃で、加えて自分より背が高いかどうかだけ。メッセージでのやり取りを行ない、その中でも特に落ち着いた雰囲気の人と、会うことを決めた。
待ち合わせ場所にやって来た男は、清潔感のある穏やかそうなサラリーマンという風体。その人は言葉遣いが丁寧で、無理強いもせず、自分の方から義勇のペースに合わせてくれようとしているのがよく分かり、人見知りな義勇も落ち着いて話が出来た。
「……次、会う時は、たぶんホテル行くと思う」
無知な生娘ではないのだ。義勇だってこういうアプリを使う以上は、そういうことが目的である人も多いことは分かっている。どれだけ親切そうな人でも、相手からそういう目で見られている自覚もあった。
男と男がどのように行為に及ぶのかも、知っている。
全部知っていて、次に誘われたら相手に委ねてもいいかと義勇は考えていた。
「……でも、別に、俺が男と寝たところで……」
錆兎じゃなくても、いいやと思える日が来るなら、その方がずっと良い。
「錆兎が、今だって……面倒くさいなって……引き留めてやらないといけないのかなって義務感、感じてるのも……ちゃんと……分かってるし」
耐えていたものが我慢出来なくなりそうで、義勇はついに俯いた。
「……錆兎が、行くなって言うなら行かない。その人の連絡先も消すし、アプリも消す」
外に目を向けろと錆兎は言いはするが、同時に彼は義勇に対して過保護気味な傾向にある。そのため、義勇がアプリで出会った得体の知れない男性とそういうことをするとなれば、黙っている訳がない。
だが、それは親心に近いものだ。義勇を好きだから、独占したいから、誰にも触られたくないからと言った理由で行かないで欲しいと言うのとは、また違う。
「でも、そこまで俺に干渉するなら、代わりに俺のことを抱いて欲しい」
そんなこと、彼は出来やしない。
義勇から見た錆兎はいつも優しくて、正しくて、かっこよかった。そんな彼は義勇がどれだけ望もうと、下心の欠片すら抱くわけがない。天地がひっくり返っても、何があっても、錆兎が自分をそう言う目で見ることがないと義勇は確信を抱いていた。
錆兎がこうして家に上げてくれたり、送ってくれたり、口うるさくなるのも全て、錆兎が単純に優しい人だからだと義勇は思い続けている。
「そのつもりもないくせに、どうなる気もないくせに、どうでもいいくせに。行くなとか惰性で言われても、傷つくし腹が立つ。俺が錆兎以外の誰かを好きになっても、誰とどうなろうと錆兎には関係ないって思うなら、最後まで責任もって突き放してくれないと俺はずっと苦しいままだ」
いま、錆兎に対してとても卑怯なことをしているなと、義勇は己を軽蔑した。
自分の口からは言えないからと、間接的に錆兎の方からさようならをされることを望んでいる。
「錆兎はひどい。嫌いだ、大嫌い」
どうにか堪えていたのに、突き放して欲しいがために本心とは真逆の言葉を口にした瞬間、義勇の瞳から己への落胆が溢れた。
一歩、二歩。後退って、錆兎から少しでも離れようとする。けれどその距離を埋めるように錆兎がすかさず近づいてきた気配がして、馬鹿を言うな、いい加減にしろと怒鳴られることも想定していた。
ここまで迷惑をかけたら、彼はもう家に来るなと言ってくれるだろうか。試すばかりの無意味な日々が、終わるのだろうか。大好きな彼を困らせて、悪くもないのに謝らせて、振り回す嫌な子供は窮屈な心から消えてくれるのだろうか。
いつか、錆兎のことを大好きだった人として過去にしまえるのだろうか。
多くを考えながら身構えて、背中を丸める義勇に、体温の高い錆兎の手が伸びる。
そして、その大きな手は叱責するでもなく、義勇の濡れた頬を寡黙に撫でた。
緩い涙の線を指がなぞったあと、探るように、宥めるように、控えめな力加減で抱きしめられて背中をさすられる。
錆兎は、俺に泣かれるのが弱いだけだと、義勇は己に言い聞かせた。本当は、面倒だと思っているに違いないと。彼はうんざりしていて、参っているんだと。
分かっている振りをしなければ、そう言うことにしておかなければ、抑え切れなくなるのだった。
「……うそ、好き。……だいすき」
数秒の嘘ですら保たないくらい、大好きな人だから。
大人しく錆兎の腕の中に収まる義勇だが、鼻を啜り、肩に顔は埋めはしても錆兎の背中へ腕を回すことまではしない。
出来や、しなかった。小さな一歩で踏み越えられる一線を、義勇はいつも手前で踏み止まっている。
怖がりな義勇が踏み出せない一歩を前に、これまで義勇に何度、似たような選択をさせてきたのだろうと錆兎は辿ってきた道のりを振り返る。義勇の跳ねた癖っ毛に高い鼻の先をくすぐられながら、今までずっと義勇にとって一番良い未来を考えてきたつもりではあったが、思い返してみると己がどうしたいかは後回しにしてきた。
一体、己は義勇にどうしてやりたかったのだろう。
気持ちに気付いていながら知らない振りをして、突き放すこともなく可愛がって、卑下させて泣かせて怒らせて。そして挙げ句の果てに、よく分からない男とセックスをさせたかったのだろうか。
錆兎は、考える。
綺麗で素直で可愛くて、悪意に疎く純粋で、天然で放って置けない義勇は誰からも愛されるからこそ、自分じゃなくても幸せになれると信じていた。
けれども、そうではないとしたら。義勇は自分じゃないとダメかも知れないと、馬鹿な男が勘違いしそうになる。
待ち合わせ場所にいる錆兎を見つけると、義勇はいつも何十年振りかの再会くらいに喜びながら駆け寄ってくるのだ。そんな義勇の姿に、昨日も会っただろうにと錆兎は内心呆れはするのだが、同時に愛しくて笑顔を浮かべてしまうのも嘘じゃない。
今日は錆兎とここへ行きたいと、義勇がメモした店だの催しだのが書いてあるリストはいつもギュウギュウで、一日では到底回りきれず、しばらくするとすぐにまた増えていく。
そして錆兎もテレビやネットで見たり、部下や友人などから聞いた施設や催しについて、義勇を誘えば喜ぶだろうかと考えることが増えていった。
義勇とは色んなところへ足を運んでは来たが、出先でなにかを買ってくれとせがまれたことはない。だから、買ってやるつもりで欲しいものはないのかと聞くと「錆兎と一緒のものが欲しいから、錆兎が選んで」と面倒なことを言われるのだ。
折れた錆兎が色々と悩んで、邪魔にならないキーホルダーやら趣味ではない文房具を仕方なくお揃いで買ってやると、義勇はそれを宝物のように扱う。笑わせるために変なものを選ぼうと、何を渡しても義勇が顔を綻ばせて「嬉しい」と言うから。
いつしか、錆兎も真剣に選ぶようにもなった。
全力で好きだと惜しみなく伝えてくれる義勇の幸せを本気で思うのなら、男がすべきことはなんなのか。
義勇が落ち着いた頃合いを見て腕の中から解放し、乱れた前髪を整えてやった後、優しい声色で義勇の名前を錆兎が呼んだ。
「義勇。ちょっとここで座って待ってろ、すぐ帰ってくるから」
そう言って、先ほど自分が座っていたソファに義勇を座らせたかと思いきや、なにやら彼は一人でどこかへ行こうとしている。義勇が不安そうに「どこ行くんだ」と涙声で問うと、錆兎は肩越しに義勇の顔を見つめた。
「ゴム、ないから買って来る」
頭が働かず、普段であれば理解出来る言い回しの意味すら分からずキョトンとする義勇。
「コンドーム」
察した錆兎が言い直して、数秒の間。次第に、耳まで赤くなっていく義勇が取り乱したようにソファの上で膝立ちになると、縋るように錆兎の服を掴んだ。
「ち、ちが、そんな話じゃない!」
確かに、半端に干渉をするならば代わりに抱いて欲しいと義勇が言ったのだが、それは本心ではない。あれは錆兎が絶対に、そんなことをしてくれないと思っていたからこその発言である。
叶うなら錆兎と一緒になりたいとはずっと夢を見ていたものの、それらはあり得ないことなのだった。天地がひっくり返っても、錆兎が自分を恋人として愛してくれることはない。ましてや、セックスなどするはずがなかった。
いつでも正しい錆兎は、そうでないといけない。錆兎にとっても自分を抱くという選択は本意ではないに決まっていると、義勇は信じてすらいる。優しい彼に無理強いさせるくらいなら、義勇は自分の心なんてものは二の次でいいとも。
大好きな錆兎に、ちゃんと振られたかったのだ。一番辛いことは、なかったことにされること。
振られたくて、片思いを全て終わらせたくて。その一心で、義勇はこのような暴挙に出たと言っても過言ではなかったというのに。
「……じゃあなんの話だよ」
「な……なんのって……」
服の裾を握られたまま、錆兎が問うが義勇は答えられない。
沈黙が続き、錆兎はソファの上で黙り込んだ義勇の言葉を待ち続けた。
「……やっぱオレなんかやめとけば?」
義勇のこの反応を見る限り、まさかの義勇の方に抱かれるつもりが一切なかったことに錆兎は気付き、お互い空回っているなと苦々しく思う。
「大事とか散々言っときながら、この通り土壇場で焦ってお前のこと平気で抱ける男だぞ」
義勇には自分ではない、別の誰かと恋愛をして欲しいという兄心からの願い。それなのに、いざ義勇の身体に知らない男の手垢がつくのを想像して、錆兎は憤りに近いものを覚えたのである。
義勇は自分の恋人でもなければ、所有物でもないというのに。
どこまで自分は身勝手な男なのだと、うんざりもする。
「普通にロクでもないだろ」
義勇が会ったというサラリーマンは論外だとしても、それでもまだ自分ではない誰かの方が義勇を正しく愛せるのではないかと思考が引っ張られそうになって、今も己の服の裾を握る義勇に視線を移した。
少し赤いままの、それでいて不安そうな顔。なにより目尻が濡れているのは自分が泣かせたせいであった。
一体、誰のために己はここまで頑ななのだろう。
義勇のためだと言うのなら、義勇を泣かせている時点でそれらは破綻している。
錆兎は溜め息と共に自分の頭を掻くと、脱力したように義勇の隣へと腰掛けた。目を瞑っていても、義勇がオロオロしている様子が気配で感じ取れる。
「……義勇、お前のスマホどこ」
気だるげに目を開いて問えば、義勇は履いてきた九分丈のナローパンツに慌てて手を伸ばし、ポケットからスマートフォンを取り出した。
錆兎が前髪を掻き上げ、座り直すと上体ごと義勇に向き合う。そのまま疲れ果てたように、もしくは観念したように義勇に告げた。
「ここでアプリもオッサンの連絡先も消して。オレの前で」
錆兎は──男女の友情は肯定派で、恋人に束縛なんてものも今までしたことはなかった。
一種のマナーとして自分は行かないようにしていたものの、異性がいるプライベートの飲み会に彼女が行ったところで、怒ったこともない。コソコソと隠れて行かれるのは流石に気分が悪いが、あらかじめ異性がいることを申告される分には行ってらっしゃいと快く送り出してきたのだ。
信用しているなんて言えば聞こえはいいが、実際はそこまでの執着もなかったのだろう。
能動的に、相手が好きで、どうしようもなく恋焦がれた経験が錆兎にはなかった。当然、付き合っている以上は情も湧いて、可愛いな、好きだなと思う瞬間はあるが断片的で、その一瞬だけだ。
ドラマのような大恋愛を、したことがある人とは果たしてどれだけいるのだろう。
錆兎の目には、この世の大多数が足並みを揃えるように恋に落ちて、消耗品のように愛をしているようにしか見えなかった。周囲に言うことはしないが、結局優先されるのは相手への絶えない恋慕や燃え上がるような愛情ではなく、価値観の一致や安定だろうと。現実的で冷め切った恋愛観を、錆兎は秘めていた。
好きで好きで、大好きで、愛して止まないという感情を誰かに抱き続けられるのは才能だ。
そして、義勇にはその才能があった。だからこそ、義勇から向けられる感情は錆兎の味気ない固定観念をひっくり返すほどに、真っ直ぐで眩しく感じたのだ。
若さが持つ莫大なエネルギーゆえなのか、本当に義勇の目には自分しか見えていないのか。
すれ違った人々が一瞬は目を奪われるほどの端正な容姿に恵まれ、性格も可愛らしい義勇の前には、多くの手が伸ばされているというのに。それでも義勇は目移りすることなく、飽きもせずに錆兎に様々な色の「好き」を見せてくれる。
そのどれもが眩くて、優しくて、綺麗だった。価値観や安定なんてものもそっちのけで、ただただ好きだと言う純粋な感情がそこにある。この、届けられる想いを素直に受け入れて、同じだけの想いを自分からも返してみたかった。
義勇の恋人になれたら、毎日がさぞ楽しいのだろうなと思えるほどに。義勇がずっと、美しかったから。
漠然と考えていたことだったが、そんなことを考える時点ですでに己は義勇に惹かれていたのかも知れない。
惹かれて、愛しくて、隣にいて欲しかったのかも知れない。
義勇の白い指先で撫でられるスマートフォンの液晶。アンインストールされて姿を消すアプリケーションのアイコンと、未練もなく消される連絡先に心の底から安堵して、男はやっと、自覚した。
「消した?」
「……うん」
錆兎が問い、義勇が頷く。
どこか緊張した様子の、端正な義勇の横顔。沈黙が続いた先で、錆兎の手が義勇の顔にかかっている髪のひと束に触れる。その瞬間、ビクッと義勇の肩が跳ね、ソファの上で少しずつ逃げるように錆兎から距離をとった。
思いがけず拒まれ、真一文字に口を結ぶ錆兎の背中からはほのかに哀愁が漂う。
「……あ、あの……やっぱり、さっきのは無しだ」
スマートフォンをポケットへしまった顔の赤い義勇が視線を落とし、行儀良く膝の上に両手を置いた。
「さっきのって?」
動揺していて、錆兎の拗ねたような声に義勇も気付きやしない。
「か……代わりに抱いてって言ったやつ。なんか、勢いで言っただけ……だから」
錆兎に触れられることは義勇も当然ながら嫌ではないが、恥ずかしさでどうにかなってしまうに違いない。
風呂に入る程度なら問題なかった。一緒に銭湯にだって行ったことがここ数年の間にも何度かあり、そこでは錆兎の身体を意識するなんてことは一度もなかった。
けれどベッドの上で服を脱ぎ、あまつさえ股を開いてどうのこうのとなるのは話が違う。それに、生々しい男の裸体を前にして錆兎の表情が曇ったりなどしたら。それこそ義勇は、申し訳なさで死んでしまうだろう。錆兎のナニが萎びれて、一切の反応も示さずに気まずいまま「やっぱり無理だ」と言われる光景しか、義勇の脳裏には浮かばなかった。
だから、そんなことは出来やしないし、やれもしない。
「もう……こんなことしない、ごめんなさい」
出来ることならこのまま走って逃げたいが、いかんせん錆兎が妙に近かった。
徐々に義勇が離した距離の分だけ詰めてきており、おまけにどこか不機嫌そうに見つめられているのを感じる。おおよそ、自分が面倒なことを言ったから、優しい錆兎も怒りを抱いているのだと義勇は解釈した。
「……好きに……ならなくていいから。きらいにならないでいてくれたら、おれは……それで……あの……ごめん……」
謝ることしか出来ない義勇が尻すぼみになりながらも懇願すると、ジッと義勇の顔を見つめるばかりであった錆兎が漸く口を開く。
「……どうでもいいオッサンとは成り行きでホテル行こうとすんのに、オレに勢いで抱かれるのは無理なわけ?」
普段は大きく感じていた、錆兎の部屋にある三人掛けの広いソファ。その上で肩を押され、バランスを崩した義勇が仰向けで寝そべるような姿勢になると、間髪を容れず錆兎が覆い被さる。
ソファには、義勇の肩にかけてやったカーディガンがグシャグシャになって広がっていた。
義勇は己の思いが通じ、錆兎に愛されるなんてことはこれっぽっちも想定していない。そう思わせてしまう原因を作ったのは、紛れもなく今まで曖昧な態度を取り続けた自分にあるのも錆兎は分かってはいるが、納得は出来なかった。
あれだけ好きだ好きだと態度で示して、強情な男をここまで丸め込んでおきながら、義勇は肝心な錆兎からの返事を最初から聞くつもりなどなかったというわけだ。
もし、錆兎が今日のやりとりもなかったことにしたら、そしたら義勇はどうするつもりなのだろう。
一人の男を想いながら一生独り身でいる、なんてことは通常であれば現実的ではないが、なんとなく義勇ならばやりかねないと錆兎は思ってしまうのだ。
自惚れなのは、百も承知である。ただ、いずれ錆兎の重荷にならぬようにと義勇がどこかに行ってしまいそうで、そんなことは許さないという焦燥が男の背を押す。
多少強引でも、義勇の思いに応えるつもりであると言うことを分かって欲しかった。
「あ、っ……」
錆兎が義勇の汗ばんだ首筋に顔を埋め、緩やかな抵抗を尻目に白い肌へと甘く歯を立てる。ビクッと、組み敷いた若い身体が跳ねた。刺激に不慣れで何をされているのかも分かっていない無知な姿に、情けないことだが興奮する。
押し倒した義勇の脚の間へ割入るように身体を捩じ込んで、抱き締めるとグッと体重をかけて密着した。服を着ているとは言え、まるで正常位のような格好に義勇の目が羞恥で潤んで、頭の中がパンク寸前にまで膨れ上がる。
はあ、と錆兎の吐息が首にかかって、また首筋へ唇が落とされていく。それがたまらなく熱くて、義勇の思考も溶けていった。
このまま錆兎に、本当に抱かれるのだろうか。
ありえないはずの〝もしも〟が真実味を帯び、鼓動がうるさくて仕方がない。
自分で触る時には怖くて手前しか弄れたことのない中の、刺激も知らないずっと奥の方がジクジクと熱を持ち始める。自制心に反して、己の身体は錆兎に抱かれる準備を勝手に始めているのだと義勇は嫌でも気付かされた。
「だ、め……駄目だ、錆兎……こんな」
抗おうと義勇も懸命に押し返すが、筋力の差も大きく文字通り手も足も出ない。
静かな部屋で、布が擦れる音と二人の速度が異なる吐息だけがやけに大きく聞こえる中。義勇にやんわりと身体を押されている錆兎が、心の冷静な部分で思考をする。
己が如何に本気かを見せつけるためだけに、少し義勇を分からせてやろうと思っただけで、本当にここでおっ始める気はなかった。お前を抱けるんだぞと、態度で一度示して、義勇の勘違いを晴らそうと。
それなのに、それだけであったのに──普通に勃起しそうなのである。
非常に、よくなかった。
小さく掠れた声で、だめ、だめ、と義勇が耳元で繰り返してくるのは煽っているのか、抵抗のつもりなのかが判断出来ない。
思い返せば社内での昇格などが重なり、錆兎もそれなりに忙しく、休日には義勇といることが日常的にもなっていたのでかれこれ二年くらいは恋人のいない生活を送っていた。
長らくご無沙汰の独り身。とは言え錆兎は昔から身体を動かすことが趣味ということもあり、風俗などのサービスに頼らずとも毎日欠かすことのないランニングや筋トレを行うことで、それらの欲求をたまの自慰だけで自然に発散出来ていたのだ。
色気のない数年間を過ごし、己の精子もそろそろ枯れただろうかと他人事のように笑っていたと言うのに。
十歳近く年の離れた男子大学生に、股間がキツさを感じている現状。よりにもよって履いているのがジーンズで、圧迫感も凄まじい。どうして部屋着のスウェットから履き替えたのだろうと、錆兎は後悔しつつあった。
せめてコンドームを購入してから、それに初めてはベッドですべきだと言う理性も、もちろんある。あるのだ、が。
義勇のシャツの裾から、手を入れるのが止められない。
「あっ」
義勇の驚いたような声が可愛くて、もっと聞きたくなってしまう。滑らかな皮膚と、その下で感じる筋肉や骨の凹凸。至って平均的な肉付きをしている青年の身体に女性のような柔らかさが当然あるわけもないのに、触れている手のひらが心地いい。悪戯な手は義勇の脇腹を撫で、唇は首筋に這わせてからキスを落とし、そのまま吸い付いて淡い痕を残してやった。
セックスを覚えたばかりの高校生のようでみっともないと、軽率な行動に自分自身を蔑みはするが止めようがない。義勇の仕草や反応を、もっと見たいと言う雄の好奇心が勝る。
ギシッと、ソファが軋んだ。
義勇が瞑っていた目を開くと、そこには上体を起こした錆兎がシーリングライトを背に、無言で己を見下ろしているのが見える。顔が赤らみ、呼吸も少し荒く、彼が自分に興奮してくれているのは一目瞭然であった。そして特筆すべきは、あまりにも据わっている錆兎の目であろう。
嬉しさと、恥じらいと、戸惑い。
経験のない義勇とて、確かな危機感のようなものを察知した。
このままいくと間違いなく、本当に抱かれるだろうという、確信に近いものである。
「……だ、だめだ。錆兎、ちょっと待ってくれ」
「なんで」
「なんでじゃない」
再び覆い被さって顔を近づけてきた錆兎に、義勇も負けじと身体を丸めて対抗するが錆兎の腕力には残念ながら敵うはずもなく、義勇は半ばヤケクソで声を上げた。
「……ば、バイトが終わって、そのまま来たんだ! 錆兎の部屋に行くつもりもなくて、昼間もバタバタしてて雨にも濡れたし汗もかいて、それで……ッ!」
今日の日中は、ずっと雨が降っていた。嫌な蒸し暑さと雨による湿気は不快感が凄まじく、義勇も本来であれば帰宅後すぐに風呂に入って寝るつもりでいたのである。
しかし錆兎からの連絡があったことにより、取り急ぎ制汗剤で身体のべたつきを拭いて、慌てて服だけを着替えてやって来たのだ。まさかこんなことになるとは思っていなかったので、下着も日中に履いていたもののまま。中は、汗だってかいている。
全く、万全ではない。
百歩譲って、今日行為に及ぶにしても、今はまずいのだ。
「に……匂いが、あるかも……しれなくてだな……!」
身体を丸めた義勇の情けない声が、3LDKにこだまする。
錆兎は必死に訴えてくる義勇を見下ろし、キョトンと首を傾げていた。
「……べつに……臭くねぇけど」
「臭いんだ! 臭いに決まってる!」
「いや、汗をかいてんのは分かんだよ。でもそれも結構好きな感じの匂いっていうか」
フォローのつもりでそこまで言いかけ、ふと義勇が見たことのない形相をしていることに気付いた錆兎は大人しく口を閉じた。
セックスをする際に身綺麗にしておきたい気持ちが分からないほど、錆兎も無神経ではない。錆兎が気にならなくても義勇が気になるというのであれば、そこは尊重すべきだろう。
大人気なかった己の行動を省みて男が一応は謝罪の言葉を口にはするが、一向に義勇を解放する気配だけは見せない。困った末に義勇が「あの」と気恥ずかしそうに声をかけてみると、再び錆兎に抱き締められ、かなりの至近距離で顔を見つめられる。
まだなにかするつもりなのかと、身体を強張らせた義勇の反応がどこまでもウブで、男のよくない部分を刺激した。
「……わかった。今すぐはしない、でも諸々の迷惑料もらっていい?」
今日は、色々と疲れた。全体的に自分が悪かったと折れることは出来たが、義勇に振り回された場面も決して少なくはない。
けれど、そんな抗議は犬も食わないだろう。あれやこれやと蒸し返して、あの時はどちらに非があったかなんて話をするつもりもなかった。全ては、義勇を泣かせた自分が悪い。この、一言に尽きる。
ただ、男はこれまでの全てを清算するためにも、欲しいものがあった。
己の落ち度として全てを受け入れるのだから、これくらいは貰っていいだろうとも。
迷惑料と聞き、理解が及ばず何度か瞬きをする義勇。それを勝手に了解と都合よく解釈した錆兎が目を細めたあと、義勇の形の良い顎に手を添えて唇を重ねた。
「……キスしたことある?」
ちゅ、と小さなリップ音。子供のような口付けの合間、義勇の顔を見るとこれまた派手に赤くしていて、なんだか虐めているような気分になる。
それも、間違ってはいないのかも知れないが。
「な……な、い」
「だよな。知ってる」
義勇の返答に気分を良くして、錆兎は再び唇を重ねた。何度か角度を変えつつ、啄むように義勇の唇を愛でたあと、内側を探るように舌を伸ばす。
目を閉じるべきか開いておくべきか、その作法すらも曖昧な義勇は薄く目を開いたままで、錆兎の舌が小さな口腔へと入ってくると一瞬、怯えたように目を閉じた。
錆兎は敢えて、目を閉じろとも言わない。むしろ楽しそうに義勇の反応を眺め、奥の方へと引っ込んだ義勇の薄い舌に吸い付き、誘うように絡ませる。
隙間なく、ピッタリとくっつく二人の口唇。
その中では、無抵抗な義勇の舌が男によって余すところなく可愛がられていた。
びく、びくびく、と義勇の腰が何度も跳ね、錆兎の唾液を流し込まれても、義勇はおずおずと自ら進んで嚥下する。
相手は、今まで自分が可愛がってきた義勇であることも、錆兎はきちんと分かっていた。だからこそ優しく、ゆっくり、足並みを揃えて色々と一から教えてやるべきなのに、義勇の反応を見る限り、仕込み甲斐があるなという風に感じてしまう。
されるがままの義勇が恐る恐る自らも舌を伸ばし、錆兎に全てを差し出してくるのがあまりに卑猥で可愛い。
柔らかな粘膜をたっぷりと可愛がりつつ太い腕は義勇を掻き抱いて、恍惚とした端正な顔がだらしなく蕩けていくのを前に、どうしようもない男は一つの達成感すら覚えたのだ。
義勇の小さな口から、狼藉を働いた厚みのある男の舌が去ると唾液の糸が伝う。呼吸を荒げ、虚ろな目でこちらを見てくる義勇の口元を拭ってやりながら、錆兎は掠れた声で「可愛い」と呟いた。
抱き寄せ、義勇の名を呼ぶ。
すると、未だ肩が上下したままの義勇の腕が、ゆっくりと錆兎の背へと回された。
「……お前は、いつまで経っても危なっかしい」
ここまでしておいて説得力もなにもないのは承知の上だが、小学生の頃から見て来た相手に手を出すなんて、という葛藤がさっぱり消えたわけではない。
一方で、義勇のそばには自分がいるべきだということも、今なら胸を張って言える。
己が義勇に触れたいと思う気持ちも、隣で笑った顔を見ていたいと感じることも。その全てを、錆兎は受け入れることにした。
「よくもまぁ飽きもせずひっついてきて、オレがいないと寂しくて今にも死にそうって顔するからほっとけねぇの」
オレのなにがいいの、なんて野暮なことを錆兎は聞かない。
どうせ、義勇は「全部」などと言うだろうから。
「……そこが可愛いんだけどさ」
義勇の気持ちに応えないと決めていたこれまでの自分も、受け入れることを決めた今の自分も、そのすべては義勇の幸せを願った先での選択だった。
どちらが正しかったのか、それは今後の二人が証明していくだろう。
ただ、隣にいることを決めた以上、今後の己がなすこととは、まだ若い義勇が色んな世界を知って、多くの人々と出会ってもなお錆兎を好きになってよかったと思える男でい続けることだろうと。
「……義勇、オレに全部の責任を取らせてくれ」
義勇がくれた思いを、一つも無駄にはしたくはなかった。
決意を言葉にした錆兎に、目を見開いた義勇が口を開けたり閉じたりを繰り返す。
「……明日になって、冷静になったからやっぱ無しとかは」
「なんじゃそりゃ」
改めて言葉にされると未だ信じられないようで、やっと出た義勇の声は震えていた。キスまでしても信用されていないことに錆兎は苦笑し、半べその義勇と額を引っ付け、青いような黒いような瞳と真っ直ぐに目を合わせる。
「今でも、十分冷静だよ。蔦子さんたちになんて言おうか考えてるくらいには」
実際、錆兎に義勇を貰ってくれないかと何度も言っていた先輩夫婦たちに報告すれば、小躍りをして喜んでくれるだろう。けれどもう少し義勇を甘やかして、好きだと存分に伝えてから、二人の関係が落ち着いたあとに報告すべきかと考えていると、下から義勇の腕が首に回って抱きつかれる。
小さな、啜り泣く声が聞こえた。
「……義勇、オレも好きだよ」
とりあえず、一緒に住まないかという提案も、義勇が泣き止んでからにしようと思う。
錆兎は可愛い恋人を慰めるように頭を撫でて、濡れた白い頬へとキスをしたのだった。