人通りの少ない電車のホームで蹲る少年の背中を見かけ、慌てて声を掛けたのが最初であった。
少年が着ているのはここから随分先にある、私立のいわゆるお坊ちゃん学校の学ラン。おおよそ、通学中に気分が悪くなって途中下車するに至ったのだろう。
俯いた少年の顔は見えないまま。「立てそうか」と声を掛けるも、彼は首を横に振るだけ。
その場で放置するわけにもいかず、仕方がないと判断して断りを入れてから抱き上げると、軽い少年の身体は強張ってはいたが大人しかった。
ベンチに座らせ、水でも買って来ようかと周囲を見渡した時、少年が初めて顔を上げたのだ。
貧血気味なのか、随分と青白い。小さな顔には、これまた小さな鼻と小さな口がこじんまりと、ちょうど良い位置に行儀良く配置され、切れ長で分厚いまつげに縁取られた黒目がちな瞳がヤケに際立っていた。
「……ありがとうございます」
今にも倒れそうな少年が上目遣いでこちらを見上げた瞬間。
大学四年生となる青年、錆兎は目を丸くすると頭が真っ白になった。
その少年を──錆兎は知っている。
否。厳密に言うと間違いなく初対面ではあるが、錆兎の内側で眠っていた記憶が一瞬にして呼び起こされると、何度も口にしたような、初めて聴いた音のような名前を無意識に口にしていたのだった。
「……義勇?」
錆兎の顔を見上げ、義勇と呼ばれた少年も青い顔のまま同じく驚愕の表情を浮かべて「え」と間抜けな声を上げる。
「……さびと」
教えていないはずの名前を呼ばれ、錆兎も確信した。
直後、ただただ見つめ合うだけの二人のそばを快速列車が通り過ぎる。
夢に何度も見た、死に別れた前世の恋人が目の前にいる。
そう悟った錆兎は呆然としたまま、無言で小さな少年を抱き締めた。
◇
そんな再会から、かれこれ三年。
雪がちらつく冬の日。高校一年生となった義勇は、今日もまた錆兎が住むマンションのドアの前で彼の帰りを待っていた。
オートロックを通っているので、当然ながら合鍵は渡されてはいる。しかし勝手に部屋まで入るのは如何なものかと、いまだに玄関までしか遠慮して入れずにいた。
義勇は結婚したばかりの姉夫婦の邪魔になりたくないという本音を隠し、高校生になってからは自立という名目で一人暮らしを始めている。だから、帰りが遅くなったところでアレコレ言う人はいない。
両親は義勇の幼い頃に他界。幸いにも残された遺産は姉弟が二人で暮らすには十分過ぎるほどの額ではあったが、それでも小さな頃から面倒を見てくれた姉には窮屈な思いをさせたと言う意識が義勇にはあった。
だから新婚生活くらい、夫婦水入らずで過ごして欲しかった。高校生で一人暮らしなんて、と当然ながら心配性な姉夫婦には猛反対されたが、結局は許してくれた。
義勇が一人で住むマンションから数駅ほど離れた場所。そこに、錆兎の住む部屋があった。
週に二、三回。たまにこうして、錆兎の顔を見にわざわざ学校帰りに訪れている。
忙しい彼の迷惑になるのは嫌で、約束なんてものはしていない。
本当は昨日も二十時くらいまで玄関で待っては見たが、錆兎は残業だったのか帰っては来ず、流石の義勇もそのまま大人しく帰った。
会えたらいい、顔が見られたらそれでいい。
義勇は降りしきる雪を眺めたくて、その日は廊下でぼんやりと錆兎を待っていた。
すでに日は暮れて、そろそろ十九時前。二時間以上はここで待っていることになる。
漏れる吐息は白く、冬の冷たい空気は心地が良い。言い出せずに飲み込んだ言葉の数々が、この冷え切った空気で全て洗われるような気になれた。
それでも流石に冷え込んで、ブレザーの裾から覗く指の先を、もう所々がダマになって固まり掛けているカイロを揉んで暖める。
あともう少し、あともう少しだけ。そんな、願うように夜空を見上げていると、義勇がこの部屋の前にやって来て初めてエレベーターが止まる音がした。エレベーターホールの方に、視線を送る。
そこには買い物袋を片手に抱えた、待ちに待ったスーツ姿にグレーのピーコートが視界に入る。
そして少し焦ったような、錆兎の顔。
やっぱり、と彼の口が動く。
「おかえり」
「おかえりじゃない、なんで連絡しないんだ。それに中で待てと何度言えば分かる」
やや苛立ったような声。キーケースを出しながらこちらに近付いて来た錆兎を見上げて、また怒らせてしまったと思いはするが、義勇もこうなることは分かり切っている。
「うん、ごめんなさい」
義勇が静かに言うと、鍵を開けようとしていた錆兎はため息をつきそうになるのを耐えた。呆れている。言葉を間違えてしまった自分に。
「……義勇、オレは怒ってるんじゃない。こんな寒い中でな、オレのことは待たなくていい。鍵も渡しているだろう、中で暖房をつけて、好きに寛いでいて良いと言っているんだ」
このマンションの前にあるコンビニで、顔を見たかったという理由で二十時過ぎまで立っていた少年に、錆兎が悩みに悩んで合鍵を握らせたのは義勇が高校生になったばかりの頃。
八歳も歳の離れた少年に自宅の合鍵を握らせるなど、どう考えても常識としては宜しくないのは百も承知である。しかしこのままでは、余計に何があるか分からない。なまじ義勇は顔が整っているのだ、外で放っておいている内に変なのに声を掛けられる可能性もゼロではないであろうし、それこそ事故に巻き込まれることだってある。
錆兎は痣の影響で早逝し、愛し合っていた義勇に先立たれたあの日のことを、再会した今も繰り返し夢で見ていた。もし己の不注意で義勇の身に何かあったら、それこそ悔やんでも悔やみきれない。
義勇には前世の記憶に縛られず、今を自由に生きて欲しかった。彼を縛ることになる気がして言葉には一度もしたことはなかったが、今も義勇を愛し、一番大切に思っているからこそ。
自分はこの美しい人と、たまたま前世で結ばれていただけの男だ。錆兎は、ちゃんと弁えているつもりでいる。
錆兎の愛した人は、鬼狩りとして生き、人々のために命を枯らし、誇らしい最期を遂げた武人だった。そんな美しい魂を抱えたまま生まれた今の義勇はまだ若く、昔と違ってこれからは色んな人と出会うことになるだろう。
オレを追わなくて良い、好きに生きろと愛する人を想って錆兎は言ってきたが、それでも義勇は懲りずに錆兎の元へ訪れる。
錆兎が腰を屈めて、自分より背の低い義勇と視線を合わせながら「頼むから、こんな寒い中で何時間もいちゃだめだ」と話をしている今も、義勇は口答えもせずに「うん」と大人しく相槌を打つだけ。
必要以上に、触れることはしなかった。積極的に言葉を掛けることも。
義勇はまだ幼くて、きっと懐かしさと恋愛感情の判別がついていない。己を恋しく思うのは今の義勇の思いではないと、ただの刷り込みから生じた勘違いに過ぎないと、大人の自分が代わりに分かっていてやらねばならなかった。
錆兎は客観的に、自分と義勇の関係について考えている。
勘違いをしてはいけない。
もう、自分たちは愛し合ったあの頃の二人ではないのだ。
今の義勇には、今の人生がある。
錆兎は感情を押し殺しながら己にまた同じことを言い聞かせ、冷えて鼻の頭を赤くした少年に優しげに微笑み掛けてから立ち上がった。
「義勇、とりあえずうちに入ろう。夕飯も食って行け、帰りは送ってやるから」
玄関の鍵を開けて招き入れるが、義勇はブレザーの裾を握ったり離したりしてその場で立ちすくんだまま。
錆兎が「義勇?」と声を掛けると、少年はやっと首を横に振った。
「……ほんとに今日は顔が見たかっただけなんだ。だから、いい。ごめん」
マンションの切れかかった廊下の蛍光灯の下で、義勇が微笑んだ。昔と何も変わらない、綺麗な笑顔。少し違うのは、どこか泣きそうな顔にも見えたところか。
それは昔の己なら、絶対にさせなかった顔だ。
必要以上に、触れない。積極的に、言葉も掛けない。だからこれでいい、はずである。だんだんと子供の義勇も分かってくれるはずだった。ただの懐かしさで己を恋しく思っていただけであると。自由に生きよう、記憶に縛られずに、前世ではあっさりと散ってしまった若さを謳歌しようと義勇は気付いてくれる。
好きなように生きて、好きなように他の人を愛して、前世なんてなぞらずとも、過去の恋人がいなくとも幸せになれることを錆兎は義勇に気付いてもらいたかった。
義勇を、愛しているから。
だから──踵を返して走り去ろうとした義勇を後ろから抱き締めてしまった自分を、錆兎は殴りたくて仕方がなかった。
帰りに錆兎が買って来た、惣菜などが入ったスーパーのビニール袋がコンクリートの床に落ちる音。
抱き締めた細い身体は冷え切っており、風邪を引いたらどうするんだと、もっと甘えてくれていいのにと、けれどそうさせないようにしているのは自分であるというジレンマに板挟みにされながら錆兎は小さくて細い義勇を無言で抱き締めた。
まだ、義勇は自分を思ってくれているのではないか。
本当に勘違いしそうになっているのは義勇ではなく、自分自身であることも錆兎は分かっていた。
だからこそ、身を引かねばならない。だって可笑しいだろう、八歳も歳下の子供を、まだ分別もつかない少年を、こんなに恋しく思うなど。
異常だと、己を軽蔑すらするのに、義勇を抱き締める腕にはどんどん力がこもってしまう。
「……義勇、行くな」
耳元で言った、掠れた男の声に少年の肩が少し跳ねた。
今にも駆け出そうとしていた義勇は今やすっかり大人しくなり、それを見た錆兎は腕から解放してやると、自身が着ていた大きなコートを冷えた細い身体に着せてやる。
腰を抱いて落ちたビニール袋を拾い、何も言わなくなった義勇を玄関まで連れて行った。
「……さびと」
甲斐甲斐しく義勇の履いている靴を脱がしてやっていると、小さな声が名前を呼ぶ。
錆兎が顔を上げて、小首を傾げると少し濡れた目尻の少年は、微笑んでいた。
「……おかえりなさい」
その笑顔は、二人が恋人だった頃。散々見た、いつもの義勇の笑みによく似ていた。