錆兎はベンチに座って人を待ちながら、履いて来た真新しいスニーカーの爪先をじっと見つめていた。
先日、買ってもらったばかりのスニーカーはまだあまり足に馴染んでいないが、今のところ痛みなどはない。しっかり店先で測ってもらい、試着もして良かった。近ごろ足のサイズが気付くとすぐに大きくなっている気がする。
中学生になってから初めての中間テストでは、英語を除いてそこそこ良い成績を収めた。そのことを知った錆兎の父は休日にわざわざ車を出すと、息子に新しい靴を買い与えるためショッピングモールまで連れて行ってくれたのである。
運動靴なら既にあると錆兎は伝えたのだが、父曰く何処か良いところへ出掛けるときに履いて行くための上等な靴くらい男なら一足は持っておくものだ、とのことであった。お前も中学生になったんだ、そろそろこう言うことにも興味を持つと楽しみが増えるぞと父は言う。
趣味とは別に、靴でも服でも、車でもいいな、バイクでもいい。自分をより良くするためのとっておきをガキの頃から見つけておけば、大人になるのが楽しくなるからと、黒のセダンの運転席から助手席に座る息子へ父が話した。
つまるところ、この靴は歳の割に物欲のない息子に対して父なりの褒美という訳だ。
錆兎は父子家庭の育ちである。幼い頃、知らない男と出て行った奔放な母のことは正直あまり覚えておらず、錆兎は母を恨んでもなければ気にすることもなかった。
それは父が息子の努力をちゃんと認め、常に一番の味方でいてくれたからであり、錆兎は母がいなくとも寂しい思いをしたことなど今まで一度もない。
そんな男手一つで錆兎を育ててくれている父は日々仕事に追われる身であり、帰って来られない日も多いものの、それでも合間を縫っては親子の時間を作ってくれる良き父である。
連休が取れた日には釣りだのキャンプだの、疲れているだろうに幼い頃から色んなところに連れて行ってもらい、多くのことを教わった。
ショッピングモールから家に帰る途中。
錆兎は買ってもらった靴の入ったビニール袋を眺めて、いつものように「何処か良いところへ出掛けるとき、って例えばどう言うところ?」と父に尋ねた。
礼儀作法、家事のことからサイフォン式コーヒーの淹れ方、釣り餌の付け方やテントの設置方法まで。今までなんでも教えてくれた逞しい父に問うと、信号待ちをしている車内で父は息子の方を見てニイっと笑った。それは何かを企んでいるような、まるで悪人のようにも見える笑顔である。
「なんだァ、お前、分からんのか。そんな良い靴履いてだぞ、行くとこって言えば一つだろうよ」
父のよく分からな言い回しに、いつまでも答えに辿り着かない様子の息子は小首を傾げるばかり。父はやれやれと言った様子で、青信号になるとハンドルを握り直してゆっくりアクセルを踏み、笑ったまま前を向いた。
そして、いつものしゃがれた低い声が言ったのだ。
──デートとかに決まってるだろう、良い靴を履くのにもってこいだ。男ならそう言うのもちゃんとしとくもんだ。
「錆兎!」
父の言葉を思い出すと同時に呼び声にハッとして、錆兎が顔を上げる。
視線の先にいたのは、錆兎の知る中ではこの世で一番、綺麗な人。暑い今日は長い癖っ毛を団子にまとめ、清潔感のある涼しげな格好をした義勇が小走りで駆け寄って来る姿が目に入った。
「義勇」
どうしても口元が少し緩んでしまい、咳払いをしてから表情を引き締めた。
ただでさえ義勇とは歳の差があるのだ。必要以上に子供っぽいところは見せられまいと、錆兎は妙な気を張ってしまう。
「すまない、打ち合わせが長引いてしまって……待っただろう」
「待ってない。オレも今来た」
本当は気温が三十度近くなる初夏の青空の下で待ち合わせの十分前に着き、さらに義勇が遅れた分も待っていたので合計して二十分も前からベンチに座り込んでいたのだが。
腕を組んだまま言い放つ錆兎の言い分に義勇が「うっそだあ」と言いたげな顔をしていたが、錆兎はもう一度その視線に「今来たんだ」と強く念押しする。
義勇はまだ何か言いたげではあったが、頑なな錆兎に折れた様子で「そうか、なら良かった」と言い、それ以上は何も言わない。可愛らしい気遣いに目を細め、鞄からハンドタオルを取り出すと少し身を屈めて錆兎の顎に垂れた汗を拭いた。
タオルからは義勇の匂いがした。顔を上げると、義勇が「今日は暑いな」と綺麗な顔で言って、次に汗が滲んだ錆兎の額を拭く。視界いっぱいの義勇になんだか照れてしまい、何処を見れば良いのかが少年には分からない。
「ありがとう」
錆兎がやや明後日の方向を見ながら言うと、義勇は優しげに微笑むだけ。
錆兎と義勇は信じられないことではあるが、前世で結ばれていたという確かな繋がりがある。今年の春に奇跡的な再会を果たしたことをきっかけに、今でもこうして逢瀬を重ね、そして錆兎の告白を機に一応は交際関係にあった。
だが世間体のこともあって、清く正しいお付き合いに留まっているのだが。
「ん? その靴、下ろし立てか?」
錆兎の方に視線を落としていた義勇が、いかにも真新しい靴の存在に気付く。今まで何度か休日に会っていたが、初めて見る靴に義勇が尋ねると錆兎はせっかく拭いてもらったのにもかかわらず、またジンワリと汗が顔に滲んだような気がした。
「あ、うん。そうだ。こないだの中間試験の結果が戻ってきて……それが結構良い結果だったんだ。褒美に買ってもらって。英語は、まぁ……小学生の時から苦手なもんで、それだけ微妙な点数だったが」
変に意識してしまい、なんだか早口になってしまう。
父に義勇のことは、当然ながら話していない。だから、あのデートという一言はきっと父なりのジョークなのだ。けれどもそう言われてしまうと、そうした方がいいのかもしれないと男心に妙に響いてしまい、買ってもらったばかりのスニーカーを錆兎は律儀にも義勇に会える今日この日に満を持して履いて来てしまった。
それを義勇本人に気付かれてしまい、なぜだか恥ずかしくなってしまうのは思春期特有のものなのだろうか。
自分だけが子供っぽく、舞い上がっているような気がして。
「──そうなのか。かっこいいな、良く似合ってる」
けれど素直な義勇が、飾り気のない言葉で言う。
錆兎は義勇の方をちゃんと見た。生ぬるい風が吹き、彼の白い肌が青空を背に浮かんでいる。
義勇が発するありのままの思いを乗せた一言。それに、歳下として焦りがちな錆兎はいつもあっさりと救われてしまう。
錆兎の靴を褒めた義勇は楽しげに笑うといそしそと錆兎の隣に腰掛け、自身が着て来たシャツを見せるように裾を指先で引っ張った。
「これ。俺も錆兎に会うから、この前買って来たやつを下ろしたんだ」
見てくれ、なんて義勇が無邪気に言う。
「…………お前はなんでも似合うよ」
錆兎はまんまと、歳上の恋人の言動に事あるごとに骨抜きになる。
なにも、錆兎の複雑な気持ちを汲んで義勇も気遣った訳ではないのだろう。俺も一緒だと、ただ純粋に嬉しく思って話してくれたに過ぎないことは錆兎も分かっているのだが。
こんなにも暖かな義勇が錆兎の言動に対して、子供っぽいだのと、そんなことを思うはずがないのに。毒気を抜かれたように錆兎は顔を手で覆うと、深く息を吐いた。
駄目だ、可愛い。この世で義勇が一番可愛いと、錆兎は天を仰ぐ。
「あ、でも俺は柄が大きなものは似合わないぞ。凄いことになる。柄に俺が着られてるみたいな」
「それはそれで見てみたいな……」
どこかズレている天然な義勇の返しにも錆兎は慣れた様子で応じ、足元のスニーカーを一瞥した。
やっぱり、履いて来て良かった。好きな人に気に入ったものを似合っていると言われるのは、心の底から嬉しい。
「それにしても中間テストか、懐かしいな。こう、響きが」
ぼんやりと呟いた義勇だが、ハッと何か思いついたように錆兎の顔を覗き込む。
「じゃあ俺からもご褒美をやらないとだ。そんなに良い点数をとったのなら」
「ごほうび」
「ああ、そうだ。なにかリクエストはあるか? 俺がなんでもしてやるぞ」
始まった、義勇のお兄ちゃん振りたい病が。いつものことに錆兎はやや呆れつつも、今回ばかりは義勇の言い回しが良くない。
もし、もしもだ。自分が自制の効かない男だったら、義勇はどうするつもりだったのだろうか。テストで良い点数をとったのだからと、妙なことでも頼まれたら義勇は果たしてそれでも全て聞いてしまうのだろうか。
少し驚いて、困ったように、恥ずかしそうに目を伏せ、やがては小さく頷くのだろうか。
錆兎ならいいよと、この綺麗な人は言ってしまうのだろうなぁと、そこまで考えてから錆兎は真顔で一度思い切り自分の頬を張り飛ばした。
「さ、錆兎……!?」
思春期なのだ、仕方がない。好きな人の軽はずみな一言でそういうことを考えてしまう程度には、錆兎も健全な男である。
突然、己の顔にビンタを喰らわせた錆兎を前にして戸惑いを隠せない義勇を尻目に、本人はなんでもなかったかのようにいつもの凛々しい表情を浮かべて淡々と言った。
「つ……」
「つ……?」
「冷たいものが飲みたい」
この要望なら無難で高価でもなく、義勇の手も煩わせない。すぐにでも実行出来る素晴らしい解答であろうと、錆兎は己を褒めてやりたい気持ちですらある。危なかった、恋人が魅力的すぎるあまりに、現を抜かしてしまうところであった。
男として、いつ何時も己を律さねばならないと言うのに。
一方で義勇は、嗚呼、暑さで頭がどうにかなったのだろうなと、待たせて本当に申し訳なかったと錆兎を気の毒に思いながら憐れむような視線を送っていた。
「じゃあそうしよう。植物園内にもカフェはあるが、先にお茶しよう」
「ああ」
席を立った義勇に続いて、錆兎も立ち上がる。
するとすかさず義勇は手を差し出して、少し照れて言った。
「……行こう、錆兎」
義勇から滲み出る、手を繋いで歩きたいという甘えた雰囲気。錆兎はまたもや口角が上がりそうになるのを抑えて、あくまでもスマートに義勇の手をとってみせた。
自分より、少し大きい義勇の手。いつか、いつか義勇よりもウンと大きくなって、この手を包み込んで歩くのだと錆兎は己の心に誓う。
「そうだ。良ければ今度、俺が英語の勉強に付き合うのはどうだろう?」
「いいのか? そりゃあ、助かるが……」
「もちろん。俺が手取り足取り教えてやろう」
またちょっとした一言に変な思考へと意識が飛び掛けて、錆兎は一度息を止めてから己を落ち着かせると低い声で応えた。
「……よろしく頼む。なるべく、凄く厳しく頼む」
「き、きびしく……? そんな、根詰めてやらなくても大丈夫だが」
「いや、もう、英語のことしか考えられないくらいにミッチリと。竹刀とか持って」
「なぜ竹刀」
「オレが腑抜けた顔をしていたらそれで一発御見舞してもらうための竹刀だ」
「出来るわけないだろう、俺が錆兎に……」
己よりも小さな身体から放たれる逆らえない気迫に、義勇はタジタジになりながらこの子は何を言い出すんだとでも言いたげに言葉を詰まらせた。
「な、ならこうしよう。今度、二人で図書館にでも行こう。俺がよく行くところだが、綺麗でオススメな場所がある。静かなとこなら、竹刀を持たなくても錆兎も集中できるはずだぞ」
何気ない、次のデートの約束。
錆兎は焦ったように話す義勇を見上げ、「いいな、それ」と今度こそ堪えきれなかった笑みを漏らして言った。
義勇と一緒であれば、何処へだって行きたい。
その日もこのスニーカーを履いて行こうかと、そんなことを考えながら、少年は繋いだ手を離さないとでも言うようにさらに強く握って隣を歩いた。