06/衣装交換

 義勇の仕事が立て込んでいた数週間。
 ようやく修羅場を抜けたから会いたいとの連絡があり、錆兎は授業が終わると義勇が住む方面へ向かう電車に乗り込んだ。
 その両手には、途中に寄ったスーパーで買って来た食材。凝ったものは作れないが、簡単なものなら作ってやれる。あとは糖分を摂取できる菓子類や、ジュースなども。
 普段は散歩や本屋巡りが趣味である義勇は意外にも外出すること自体は多いものの、在宅での仕事が主である都合上、忙しくなるとどうにも篭りがちになってしまう。
 元より食への関心がさほどある訳でもなく、量はそれなりに食べる方だが連日カップ麺でも苦でない男だ。きっとここ数日は、ロクなものを食べていないに違いないと錆兎は踏んでいた。出前と通販で買い込んだインスタント麺、あとは近所のコンビニ飯と言ったところだろう。
 まったく、世話の焼ける──と言いつつも、そんな義勇の世話を焼いている時が一番、錆兎が満ち足りている様に見えるのは決して気のせいではない。
 錆兎は面倒見も良く親切で情に熱い男だが、人の食事の世話まで甲斐甲斐しくする趣味はなかった。何も食べていないのならともかく、形式はどうであれちゃんと食事を摂っているなら何も言うことはないだろう。人様の食生活にあれそれ口出しできるほど、錆兎も栄養バランスがどうだのと細かく考えながら食べている訳ではない。
 しかし、義勇だけは別だ。
 他者に対してどこまでも平等に接する、誠実で公平な男の中の特別。それが、義勇だった。彼の食生活が数週間にも渡って乱れていれば、心配にもなる。
 具合を悪くしていないだろうか、また痩せてしまってはいないだろうかと、そんなことを考えてしまうのはひとえに義勇を愛しているからこその心配であった。
 駅を降りて少し歩いた先。多くの樹木が植えられた敷地内はまるで広々とした庭園の様であり、中心に見えるのは、たった十数戸しか部屋数のない高級低層マンション。
 そこは都心部にあるとは思えないほど、上品な静けさに包まれていた。
 何度訪れても、ここはホテルか何かか、と言いたくなる様な瀟洒な外観。
 良いとこの家に生まれた長男坊が住んでいると言えば納得の住まいなのだが、それにしても極々一般的な家庭で育った錆兎からすると、どうにも慣れない。
 そこそこ頭が良いとされる都立高校のブレザーに身を包み、両手には庶民の味方であるスーパーの袋。合鍵を渡されてはいるが、念のためその姿のままフロントで名前を告げると、義勇からすでに来客予定を聞いていたらしいコンシェルジュによって居住エリアへと通される。
 場違いすぎやしないかと思いはするが、生まれ持っての度胸もあって錆兎も流石に慣れつつあった。最初こそ怯みはしたが、何年もこうして通っているのだ。後藤と名札のついたコンシェルジュにも、流石に顔を覚えられている。
 何食わぬ顔で義勇の部屋を目指し、過去に渡されたカードキーをかざして恋人が住む部屋へと足を踏み入れた。
「義勇ー、来たぞ」
 声を掛けるが、反応はない。
 こりゃ疲れて寝てるかなと思いながら、やたら広い玄関を抜けて廊下を進むと──。
「あっ、錆兎。いらっしゃい」
 サニタリールームから、ひょこっと顔を出した義勇。いつもと変わらぬ、錆兎を前にした時だけに見せる嬉しげな笑顔を浮かべて、髪は下ろしたまま。その出立からすると、どうやら風呂にでも入っていたのだろう。
 錆兎が久し振りの義勇に目を細めて「お邪魔します」と言おうとしたが、その場で固まった。
「すまない、出迎えてやれなくて。でも後藤さんにはちゃんと錆兎が来ますって言っておいたから、入る時はスムーズだったろう?」
「……おい」
「ん?」
「なんだその格好は」
 もう春とは言え、まだ肌寒さもある。それなのに義勇はと言うと、錆兎がいつの日か置いて行ったワイシャツを一枚だけ纏った状態で出て来たので、言葉をなくした。
 うっかりスーパーの袋を落としそうになる錆兎。
 体格差もあり、大きすぎてダボダボの錆兎のワイシャツ。裾は義勇が履いているであろう、下着もちょうど隠してしまっており、なんだかいっそう際どく見える。
 下着について履いているであろうとは言ったが、それも推測でしかないのが恐ろしいところである。
 どうか履いていて欲しい、頼むから。
「ああ、すまん。前に錆兎が雨でずぶ濡れになった時に置いて行ったのを拝借した。洗濯してちゃんと置いておいたんだが……アイロンもしたんだぞ? ほら、ここの襟元もピシッと」
「いやそうじゃない。そうじゃないだろ、なんでそんな……なんか……ほぼ半裸なんだ」
「えっと……これはだな。忙しさにかまけて洗濯をサボっていて、その……着るものがなにもないことを風呂を出てから気づいたんだ。衣替えもしていなかったし」
「下着は」
「下着はあった」
 シュレティンガーの下着問題が解決し、人知れずホッと錆兎が胸を撫で下ろす。
 仕事で忙しかったのなら、仕方がない。錆兎も寛容だ、それくらいは理解がある。
 乾燥機が止まるまでもう少しかかるとのことで、見苦しいが少し耐えてくれと言う義勇に「全く見苦しくはないが」と口を滑らしながら、スーパーで買って来た食品類をキッチンへと運んだ。
「もしかして夕飯、作ってくれるのか?」
「ああ。どうせ仕事中は袋麺生活だったろ」
「バレたか。ありがとう、嬉しい」
 ミネラルウォーターしか入っていない空っぽの冷蔵庫に買って来たものを仕舞いつつ、隣で鼻歌混じりに「錆兎のごはん」と繰り返す義勇を、錆兎はチラリと一瞥。
 クラスメイトが、なにか言っていた様な気がする。こう言うシチュエーションを、確かなんとかと言うのだ。
 そう言うことにはどうにも疎い錆兎が黙々と片付けを行い、卵パックを手にした瞬間。ハッと、彼シャツとやらの単語が脳裏に浮かぶ。
 初めてこの言葉を耳にした時、錆兎は恋人にたかだか自分の服を着せることの何がそんなに良いのだと呆れ腐っていた筈だ。
 けれど見下ろした義勇が、大きなシャツの長い袖から指先だけを出して、まさに服に着られている様な光景は形容し難い愛らしさがある。歳上の義勇から、普段はなかなか抱くことのない幼さというか、あどけなさと言うか。そして義勇が錆兎の服を着ていることで、ほんの少し優越感の様なものも感じる。
 これが、彼シャツなるものの威力。
 バカにしていたが、なるほど、良い文化だ。
「へっぷし!」
 真顔のまましみじみと噛み締めていると、義勇が豪快にくしゃみをした。
 そう言えば義勇が風呂上がりであったことを思い出し、錆兎は慌てて寒々しい姿で鼻を啜る恋人に自分のブレザーを着せる。
「とりあえずこれでも着てろ。ただでさえお前は寒がりなんだから」
 着せられたブレザーも、当然ながらかなり大きい。そして図らずも今年でかれこれ二十代半ばを迎えた義勇に己の制服を着せた様な有様となってしまい、なんだかそういう類の戯れの様にも見えてしまう。
 上にはシャツだのブレザーだのをキチッと着込んでいるのに、下はパンツのみという姿。それも、下着は裾で隠れていてよく見えないと来た。
 いささか、アブノーマルすぎやしないだろうか。まだ自分たちはキスすらもしていないと言うのに。
 しかし、錆兎のブレザーを着させてもらった義勇はと言うと、袖から手が完全に出ないことについてただただ衝撃を受けていた。シャツを拝借した時も思ったが、本当に服が大きい。身長の割に義勇の身体が幾分か薄いことを差し引いても、果たしてここまで差が出るものなのか。
 義勇は錆兎のブレザーをしげしげと眺めて、恋人の急成長に驚くばかりである。
「……錆兎は何を食べたらこんなに大きくなったんだ……」
「……お前よりもデカくなるぞと気合いを入れたらこうなったんだよ」
 気合いでどうにかなるのか、錆兎は流石だなと、義勇がややズレた方向に感心している一方で、自分の制服を身に纏う義勇を眺めながら錆兎はなんだか堪らなくなってくる。
 下心がどうというより。恋人が、単純に可愛い。
 出会った頃、スラっと背が高くて大人びて見えていた義勇が、幼く感じた。
「義勇。……ちょっといいか」
「なんだ」
 名前を呼び、こちらを見上げた義勇を錆兎は一度、思い切り抱き締めた。
 義勇とはキスやセックスなどの触れ合いは、自分で自分の責任が取れる年齢になるまではしないと、錆兎は決めている。
 だから二人にとって抱擁とは、恋人としての最大の愛情表現であった。
「……錆兎、お前も寒いのか? 暖房入れようか?」
「……いや、いい。これでいい」
 義勇を腕の中に閉じ込め、目を瞑ると確かな温もりを味わう。
 義勇が袖から指先だけが見えている手で錆兎の頭を撫でていると、「あ」と呟く。何かを閃いた様な表情を浮かべて、錆兎の腕をスルリと抜け出した。
「ちょっと待ってろ」
 そう言って、リビングの方へ向かう義勇の後ろ姿。大きな制服を着せられて、慌ただしく白い素足で歩く背中はやはり艶かしいと言うより、愛らしい。腕からいなくなってしまった義勇の体温を恋しく思いながら、錆兎は残りの食材などを全て冷蔵庫にしまう。
 今日はオムライスを作るつもりであり、先にサラダだけでも用意しておくかと手を洗っていると、義勇が戻ってくる足音がした。
 そしてフワリと、肩に何かを掛けられる。見ると、それは義勇のカーディガンであった。
「それはこの前洗濯したばかりだったから、まだ残ってた」
 むふふ、と笑う義勇。
 これだと肌寒くないだろうと、表情が物語っている。
「……オレに着せてないで、義勇がこれ着てたらいいんじゃあないのか」
 錆兎がごもっともなことを言うが、義勇は首を横に振った。
「錆兎のブレザー、少し借りてたい。だから、ちょっとの間だけ交換」
 いいだろうか、などと義勇が言うので、錆兎はまた義勇の腕を引いて抱き寄せた。
 義勇が、可愛い。分かりきったことを錆兎は再確認したあと、キョトンとしたまま「いいってことか?」と相変わらずマイペースな義勇に錆兎は「いいよ」と言って、少し笑った。