義勇が鱗滝の元で世話になり始めてから、数ヶ月が経とうとしていた頃。山で衰弱しきった状態で発見された当時の義勇は立ち上がることすら困難であったが、今では鬼殺隊を志して日々厳しい鍛錬に明け暮れている。
とは言え、既に剣士として頭角を現している兄弟子の錆兎が行う本格的な鍛錬について行くことは未だ難しく、義勇は錆兎の背を追うような形で基礎的な体力作りに勤しんでいた。
姉の隣で華道だの茶道だのは散々やって来たものの、今まで義勇が武道の類を極めた経験は一度もない。
それどころか、良いとこの家の子である義勇は山を駆け回ったことすらなかった。
冨岡家と言えば代々広大な土地を所有、管理し、親戚には医師や財界人がいるような家系である。最愛の妻に先立たれてからは心配性に拍車が掛かってしまった、子煩悩で愛情深い父。そんな父が存命であった頃、義勇には多くの制限が掛けられており、特に怪我に繋がるようなことは一切させて貰えなかった。
父は幼い息子が転んだだけで「今すぐ医者を」と騒ぐような人であったと、義勇は記憶している。そしてそれを長女の蔦子に「父さんは大袈裟なのよ」と叱られている姿を頻繁に見掛けたものだ。
そんな、箸より重いものを持ったことがないを地で行く典型的な箱入りのお坊ちゃんには、ただの体力作りであろうと最初は拷問に等しく、狭霧山を行き来をするだけの単純な鍛錬でもしょっちゅう山中で倒れてはいつも錆兎が探しに来てくれた。
けれども意外なことに、義勇が弱音を吐いたようなことは一度もない。
錆兎に負ぶられながら、背中にしがみついて自分が情けないと泣いてしまうことはあっても、もう止めたいとは決して言わなかった。
同じ歳でありながら勇敢で逞しく、優しく強い錆兎に義勇は強い憧れを抱き、自分も錆兎みたいになれるかなあ、と言うのが義勇の口癖である。
だがその都度、錆兎は言うのだ。オレみたいになるんじゃなく、お前も男ならオレを超えるくらいでいろと。
それは、義勇なら必ず成し遂げられるだろうと言う、友を信じているからこそ出る錆兎なりの厳しい愛情であった。
義勇の努力を、錆兎は一番近くでよく見てくれている。
とんでもなく世間知らずで、惜しみなく愛されて育ったが故に他人の悪意にはめっぽう疎く、泣き虫な割に頑固で諦めが悪い。そしてなにより素直で純粋な義勇のことを、誰よりも近くで。
錆兎からすると義勇とは放っておけない存在で、危なっかしい弟分で、心から大切な友なのだ。
時に年相応のくだらない意地の張り合いや小競り合いも多少あれど、二人は正反対なようでありながら基本的には仲が良く、互いを尊重していた。特に義勇は錆兎に懐いており、どこに行くにしても錆兎の後ろを引っ付いて回ろうとする。
ねえねえ錆兎、どこ行くの、なにするの、おれも行っていいかなと、錆兎が「好きにしろ」と言わずとも後ろからピョコピョコ付いて行く義勇の姿を、鱗滝はまるでカルガモの親子のようだと眺めていた。
そして今日は、義勇が鱗滝の元にやって来てから、初めて町へ買い出しに行く日。
鱗滝は錆兎に金銭を預けながら「義勇を見ててやってくれ」と静かに告げ、錆兎は「分かりました」と真剣な顔で頷く。
「おれ、町で買い物ってしたことないんだ。あ、お祭りは行ったことあるよ。姉さんと義兄さんが小さいころに連れて行ってくれたから」
「そうか」
錆兎と二人でお出かけ、と朝から機嫌の良さげな義勇。
一方で買い物をしたことがないなどと、これまでの経験上もはや想定通りですらあった義勇の発言に対して、今後の彼が生活を送る上で困ることがないように自分がしっかりと教えてやらねばと、錆兎は兄の顔で微笑んだ。
「義勇。外でも錆兎の言うことをちゃんと聞くこと、一人にならないこと。町で迷子になっては大変だからな。昼間だから鬼は出なくとも、良くないことを考える悪い大人は多いんだ」
「はい先生、良くないことってなんですか?」
「良くないことは良くないことだ」
「わかりました!」
「本当に分かってんのかお前は」
「わかってるもん」
育手となってからは様々な事情を抱えた個性豊かな子供たちを育ててきた鱗滝ではあったが、義勇のような育ちの子はさすがに初めてで、何かを積極的に経験させてやるにしても最初はまず心配が勝ってしまう。
けれどそれを補うように義勇の隣にはいつも、同世代の子の中では随分しっかりしている錆兎がいてくれた。
錆兎も義勇の予測不能な言動に振り回されることはあるが嫌ではないようで、笑ったり呆れたりしながらも自ら進んで義勇の手を取っては兄として多くのことを教えてやっている。
もとより錆兎という少年は、守りたい存在があればあるほど、その強さがより発揮される傾向にあった。
義勇という弟であり友という身近な存在が出来たことで、錆兎もここへ来たばかりの頃に比べ、より剣士として目覚ましい成長を遂げていた。
そんな風に異なる形で互いに支えあう少年たちを見ていると、二人は出会うべくして出会ったのかもしれない、などと鱗滝は考える。
「じゃあ、行ってきます」
「いってきます」
「気を付けて行っておいで」
小さな二つの背中を見送り、天狗の面の下で師が小さく微笑んだ。
◇
この辺りでは一番多くの店が軒を連ねる商店街に到着し、義勇は錆兎の羽織の裾を握りしめながら物珍しそうにあちこちを見渡していた。
教育に関することも全て家庭教師によって行われていたため、義勇は余り家から出ることのない幼少期を過ごしてきた。
だからこそ賑やかな場所には慣れておらず、義勇からすれば喧騒や人混みも刺激が強過ぎて目が回り、不安から無意識に錆兎の方へと引き寄せられていく。それでも錆兎は何も言うことはなく、ほぼ密着状態で隣を歩く義勇の不安を汲み取って、全て好きにさせていた。
「人、多いな」
「うん……」
購入予定の品々が置いてある店へ、錆兎が迷うことなく真っ直ぐ歩いて行くのを義勇は隣で見ながら何度か瞬きをする。
「……錆兎は一人で買い物できるの?」
「ん? できるよ」
唯一の家族であった父が鬼に殺されるまでは、錆兎は父と二人暮らしであった。
役人の父が働きに出ている間、錆兎は小学校に通い、帰って来てからは買い出しや家事などを手伝いの一環として一通りこなして来た為、今もある程度のことは一人で出来る。
けれど周りには似たような生活を送る同級生が多く、それはさして特別なことでもなかった。
幼い妹や弟がいるような家庭は、更にここに子守りまで加わるのだ。一人っ子で父と二人暮らしの錆兎に課せられた手伝いなんてのは楽な方で、程々に自由な時間もあった。
しかし。錆兎がなんでもないように「一人で出来る」と答えたのに対し、筋金入りの坊ちゃんであった義勇は衝撃を受けている。
義勇は鱗滝の元に来るまで、米の炊き方すら知らなかった。教えてもらった今では出来ることも随分と増えたが、それでも義勇には分からないこと、経験のないことの方が圧倒的に多い。
ただ、勉強だけは良く出来る。だが、それだけだ。他には花を生けたり、茶を点てることも出来たが、生きる上で必要となる当たり前のことを義勇は余りに知らなさ過ぎる。
錆兎のようになりたいと憧れを強く抱くようになってから、自身の未熟さや世間知らずな部分を、義勇は恥ずかしいとすら思うようになっていた。
「……おれも……一人で買い物とか……出来るように、なるのかな」
人混みは少し怖くて、相変わらず錆兎に引っ付いたままの義勇が不安そうに言う。
ただ町を歩くだけでも、こうして背中に汗をかくほど緊張するというのに。優雅に一人で買い物をする己など到底想像が出来ず、顔を曇らせた義勇を錆兎は横目で見やってから、前を向き、それらを吹き飛ばすような笑みを浮かべた。
「なるさ」
俯いていた義勇が、顔を上げて錆兎の方を見る。
「義勇はこれから、何でも出来るようになる。どこにでも行けるし、なりたい自分にもなれる」
言い切った錆兎は目的地であった日用品などを置いている店の前で立ち止まると、店主の背中に「こんにちは」と明るく声を掛けた。
「おお、坊主じゃねぇか。久しぶりだなあ、今日は友達も一緒か?」
「ええ、そうなんです」
師から頼まれていたものを慣れたように手に取り、たまに店主との世間話も挟む錆兎の背中を見つめながら、義勇の瞳が小さな蝋燭の灯のように揺れた。
どんなことでも絶対に言葉を濁さない錆兎が、〝なる〟と言うのなら。義勇には本当に、そうなってしまうような気がするのだ。
それはどんな約束よりも、義勇を裏切ることはなかった。
「これで以上か?」
「はい」
錆兎が頷き、選び終えた商品を持った店主が会計をしようとする。
「あ」
そこで、何かに気づいた義勇が思わず声を上げた。
「どうした?」
振り向く錆兎と、首を傾げる店主。二人からの視線を浴び、義勇は咄嗟に錆兎の背中に隠れると、恐る恐ると言った様子で商品棚を指差した。
「……ま、マッチ……欲しいって、先生が……言ってた……ょ」
語尾に行くにつれて、どんどん小声になる義勇。錆兎はその言葉を受けてハッとすると、確かに鱗滝が「あと、マッチも頼む」と最後に言っていたことを思い出した。
「マッチも買うのかい?」
「はい、お願いします」
義勇が指した商品棚からマッチを手に取って店主に渡し、会計が終わるのを待つ。
錆兎はその間、背中に引っ付いて離れなくなった義勇を肩越しに見つめると、見られていることに気づいたのか、大きくて黒い瞳がチラリと動いて上目遣いの義勇と目が合った。
良い行いをしたのに、なぜか縮こまっている複雑な思考回路の親友。しかし錆兎は呆れるでもなく、「有難うな、義勇がいて助かったよ」と素直に感謝を口にする。
そして背後に手を伸ばすと、グシャグシャと義勇の頭を錆兎が雑に撫でた。
何かと卑下しがちな義勇には言葉と態度、そのどちらでも伝えた方がいい。それは錆兎がこれまで義勇と関わって来た中で、学んだことだ。
そうこうしていると会計が終わったようで、店主に言われた金額を懐から取り出す為、頭を撫でていた錆兎の手が離れていく。
義勇はポカンとしていたが、ゆっくりと錆兎に撫でられた場所に自ら触れ、錆兎の言葉を反芻した。
そうすることで、義勇の表情がどんどん、柔らかなものに変わっていく。
錆兎の言葉は、不思議だ。
いつも義勇の足りない自信を、どこからともなく引き出してくれる。
買ったものが詰まった風呂敷を錆兎が肩から下げ、店主に礼を告げると二人は店を後にした。
商店街に来た時よりも、義勇の緊張も解れたらしい。なんだか明るくなったような気のする隣の義勇の手を握ると、錆兎が「よし」と言った。
「鱗滝さんが、二人でなんか食って来て良いって。どっか店入るか」
「えっえ、え……こ、子供だけで入れるの?」
義勇のトンチンカンな疑問に、錆兎が耐えきれずに笑う。
「大丈夫、大丈夫。ほら、行こう義勇」
行く途中で、良さげなところがあったのだと。そう言って駆け出した錆兎に手を引かれながら義勇も思わず笑って、賑やかな商店街を少年たちが走って行った。
「今度も買い出し、ついて行ってもいい?」
「もちろん。頼りにしてるよ」