ベッドの上で義勇は布団にくるまったまま、ずっと間接照明に左手を翳していた。
視線の先にあるのは中指にはめられた、シンプルながらもどこか上品さのある指輪。それは錆兎に貰ったばかりの代物で、サイズも測っていないのに何故か義勇の指にピッタリであった。
今日は、二人にとっての記念日である。
義勇が以前に何気なく行ってみたいと一度話しただけのガラス工房でガラス細工体験に連れて行って貰い、工房の近くで開催していた陶器市を見て周って、揃いの箸置きと可愛い小皿を買った。
そして夜は回らないタイプのちょっと良いとこの寿司を食べ、海が見たくなったと義勇が呟けば錆兎がそのまま車を走らせてくれたのである。
海開きもされていない中途半端な時期の夜の海は静かで、浜辺を散歩したがる義勇に錆兎は「危ないから少しだけな」と言い、手を繋いで歩いてくれた。
今年の夏はどこに行こうかと、散歩ついでに旅行の計画を立てる。本当は錆兎と行くのならどこでも良かったが、それを言うと彼が困ることも知っているので義勇は海鮮丼が食べたいと言った。
どこに行きたいかを聞いているのに、まずは食べたいものを答えるのは義勇の〝あるある〟である。こう見えて存外、義勇は食べることが好きであった。特に、和食と魚介類には目がない。
さっきも寿司を食ったのに、お前は本当に魚が好きだなぁと笑う錆兎の横顔を見つめながら、魚と言えば水族館も良いと言って、じゃあ北海道辺りはどうかと錆兎が言う。
どうやら、北海道には鮭の故郷を謳っている水族館もあるらしい。
鮭か、良いな、と義勇が頷く。水槽に手ェ突っ込んで食うなよと錆兎が冗談めかして言うので、食べるに決まっているだろうと義勇がふざけて返せば彼がケタケタと笑った。
いつものように大雑把ではあるが夏旅行の行き先も決まり、義勇は後日お気に入りの本屋にて北海道に関する旅行ガイドを何冊か買って来ようと、また楽しみが一つ増えていく。
インターネットでほとんどの情報が見られる便利な時代ではあったが、義勇は旅行の計画を立てる際はいつも紙媒体のガイドブックを広げ、錆兎と一緒にあれやこれやと言いながら決めるのが好きだった。
赤ペンなどで色々と書き込んだページをわざわざファイリングして、データではなく印刷した旅行先の写真などと一緒に残すのだ。それを数年ぶりに見返せば、錆兎と一緒に過ごした楽しかった日のことばかりを思い出せる。
今日も良い日だった。隣に錆兎がいて、優しくて楽しくて、それだけで義勇はずっと幸せだった。
夜の散歩を終え、一緒に暮らす家へ帰ろうと車に乗り込む。すると運転席の錆兎が後部座席に隠してあったらしい紙袋を徐に取り出し、そのまま「ほい」となんでもないように言って助手席に座る義勇の膝へと置いた。
紙袋を渡された時は何なのか見当もつかずに首を傾げる義勇。錆兎になにかと聞いてはみるも、彼は「開けてみな」としか言わない。
義勇はブランドものには疎く、紙袋には何か書いてあるようであったがそれが何を売っている店なのかが分からずに、促された通りに紙袋を開けた。
出てきたのは可愛らしくリボンが巻かれた小振りな箱。菓子類だろうかとリボンを解いて蓋を開ければ、さらに小さく畏まった箱が出てくる。
そこまで来ると、流石の義勇も分かってしまう。
驚いて固まってしまった義勇の反応に錆兎が笑って、代わりに箱を手にとった。そして義勇によく見えるように、箱が開かれていく。
中には思った通り、こぢんまりと行儀よく、一つの指輪が収まっていた。
次に錆兎は恭しく義勇の手を取ると、左手の中指へその指輪を愛おしそうにゆっくりと通す。
「薬指の予約」
などと、言って。
錆兎と出会ったのは、小学生の頃。同じ気持ちになったのは、高校生の時だった。
思い返せば中学生くらいの時からほのかに意識はしあってはいたものの、お互いにその感情を持て余すばかりで特別なにか言うでもなく、一番の友達として一緒に過ごすだけの変わり映えのない日々を送っていた。
けれど義勇は、それだけで良いと思っていた。
義勇にとっての一番は錆兎で、錆兎にとっての一番も、もちろん自分だろうという自惚れた確信。何も伝えなくても当然のようにそれが死ぬまで続くという幼稚な考えが頭にあり、それよりも伝えてしまうことで何かが変わって、いずれ終わりが訪れるくらいならずっと曖昧なままで良いとも。
しかしそれぞれ別の高校へと進学してから、電車通学となった義勇が駅から出て偶然目にしたもの。それは、自転車を押している錆兎と、知らない女子が並んで帰っている背中であった。
見慣れた大きな上り坂。そこに差し掛かると錆兎が押す自転車のキャリアを隣の少女が掴んで一緒に押し始め、仲睦まじそうに二人が坂道を登って行くのが見えた。
その瞬間、義勇は家とは逆方向に目一杯走った。
だが結論から言うと、あの時一緒にいた少女と錆兎の間には何もなく、球技大会の後で帰りが遅くなった体育委員同士、疲れた疲れたと言いながらたまたま途中まで帰っていただけであったと。
彼女が自転車を後ろから押してくれていたのも、大会中に錆兎の肩に硬球が当たって打撲の軽傷を負っていたので、それを気遣ってくれていたらしい。
そんなことなど露知らず、義勇は錆兎に彼女が出来たのだと思い込んで本人に直接訊ねるでもなく、日を追うごとに錆兎を避けるようになった。
ずっと同じだと思っていた感情が、独りよがりのものになっていく。自分だけが向けててもらえると思っていた錆兎の眼差しも言葉も体温も、こうもあっさりと知らない誰かに奪われていくことに義勇はただただ呆然として、己が失恋したなど思いもせずに、どうしてこんなに辛いのだろうと塞ぎ込んだ。
そして錆兎の方もずっと特別に感じていた幼馴染から避けられ始め、もしや恋人でも出来たのではないかと。
似たような勘違いですれ違う二人。
しかし義勇は錆兎に彼女が出来たのか否かを怖くていつまでも聞けないでいたのだが、一方の錆兎は単刀直入に「恋人でも出来たのか」と言葉を濁すことなく義勇に直接訊ねた。
それも、義勇が二人で会うことを避けようとするので、わざわざ駅の出口で帰ってくる義勇を待ち伏せてまで、だ。
狼狽する義勇。
先に彼女を作ったのは錆兎の方なのに、何故そんなことを聞かれないといけないのだと。半ば八つ当たりのような感情と混乱で言葉が詰まる。
彼の問いかけの理由も深く考えぬまま。しかし冷静になると、あくまでも自分たちはただの親友なのだった。
勝手に裏切られたような気になって、拗ねて怒っている自分が間抜けで、気持ち悪くて恥ずかしくて。そしてこんな感情になるのは、自分だけなのかと思うと平気な様子の錆兎がずるいと感じる。
だから「そうだとしても錆兎には関係ない」と、心にもない言葉で突き放すことしか出来なかった。
だがこのとき初めて、義勇は言葉に言い表せない喪失感を前にし、自分は錆兎に恋をしていたのかも知れないと──初めて気が付いた。失恋をしたのだと、ようやく中心にあった気持ちに辿り着く。
ハッとして錆兎の方を見るが、彼は可愛げのない言葉に言い返すでもなく、たっぷりと間を置いて「そうか」と頷くだけ。錆兎の顔がよく見えなくて、ひどいことを言ったと、謝ろうとした義勇の言葉に被せるように「なら、もう連絡は控える」と錆兎が義勇の目をまっすぐ見つめて言う。
怒っている様子も、呆れている様子もない。その目が少しだけ寂しそうに見えたのは、本当にただの自惚れだったのかも知れないが。
「じゃあ」
駅の前で、踵を返した錆兎の背中に置いて行かれた義勇が立ち尽くす。
走って追いかけた方がいいだろうことは分かるのに、けれど追いかけたところでどうするのだと思考が散らばった。
錆兎には彼女がいて、想いを伝えるにしても迷惑を掛けるだけだと思うと足が動かない。伝えなかったことの後悔とはよく言うが、義勇からしてみれば、変わってしまうことへの恐れが勝るのだ。
一歩も動けなくなって、その場で俯いたまま涙が滲む目尻を袖で拭っていると、通り掛かった人の良さそうな大学生くらいの青年に「大丈夫?」と声を掛けられた義勇は一人にさせてくれと苛立ちを押し殺して黙って頷いた。
しかしそれをどう解釈されたのかは分からないが、ポケットティッシュを差し出される。さらに強く首を横に振って「本当にいいんで」と言った声が上擦って震え、馬鹿馬鹿しくて情けなくて鼻を啜ると「とりあえずあっちに座ろう」と心配した様子で肩を抱かれた。錆兎以外が勝手に触るなと思いつつも、それすら全てどうでも良くなっていく。
もう、錆兎が触れてくれることもない。
徐々に、駅の出口で男子高校生がメソメソ泣いているのは確かに如何なものかと思考が冷静になり、大学生の言葉にも一理あると思い始める。
やや自暴自棄な義勇が言われるがまま、見ず知らずの青年に己の不甲斐なさでも聞いてもらうかと、そんな軽い気持ちでついて行こうとして──目の前が、ふと真っ暗になる。
比喩的なものではなく、物理的に。
頭から何かを被せられていて、それから錆兎の匂いがした。
彼のブレザーだと気付き、義勇が顔を上げようとした時にはグッと男の強い力で腕を引かれる。力加減は少し痛いくらいで、ついて行こうと必死になると足がもつれてしまい、何度か転びそうになった。
それでも、自分の手を引いて歩くのが錆兎の背中であると分かってからは余計に視界がぼやけて、涙が止まらなくなる。
「……なんで泣いてんの」
明らかに怒っている、錆兎の声。
走って来たのか、少し息を切らしていた。
「……ごめんなさい」
「お前ほんと……いっつも人のこと散々振り回した後にビービー泣いて」
「うん」
「人の気にも……いや……オレにも、なにかしらの落ち度はあったかも知れないが。それは、謝る」
義勇のことを叱りきれずに、最後は自分の方から折れて甘やかしてしまういつもの錆兎がいた。
掴まれた手が痛くて、でも嫌じゃない。むしろ、ずっとそうしていて欲しいとすら思う。
少し歩いて駅から離れ、ついに義勇は我慢できなくなると、大きな上り坂に差し掛かる手前の道で錆兎の背中に抱きついた。
夕日が地平線に引っ張られ、空の色が分刻みに変わっていく時間帯。
「……錆兎。俺、錆兎が好きなんだ」
これを言ってしまうことで、自分たちの関係もこの空のように変わるかも知れなくても。
錆兎は優しいから、きっとここまでしてくれるのだ。そこに他の感情などなく、お前のことをそう言う目で見ていないと、言われることも全て承知で義勇が言葉を紡ぐ。
「錆兎に彼女がいるのも、分かってるけど……」
友達にも、戻れなくなったとしても。
ただ、最後のワガママとして自分が錆兎を想っていることを聞いていて欲しかった。受け入れなくていいから、受け止めて欲しい一心で義勇が訴えると、錆兎の手が義勇の髪に触れる。
優しい手付きで頭を撫でられ、抱きついたままだった義勇が、恐る恐る顔を上げた。
そこには──何とも言えない顔をしている錆兎が、小首を傾げて義勇を見下ろしている。
「…………彼女って、なんの話だ?」
慎重に、言葉を選んだ様子の錆兎から一言。
「……へ?」
それからは、義勇が見かけた女子は同じ委員会の子であり、本当に何もないのだと言う錆兎による必死の事情説明が続いた。義勇の方もただの勘違いから生じたヤキモチで、当然ながら恋人なんていないと。俺には、錆兎だけだとも。
どちらも相手に何度も謝り続け、いやいやそんなそんなと言い合いが続き、一息ついた頃。
一瞬黙った錆兎が「オレも義勇だけだ」と真面目腐った顔で突然言い出しては、もう我慢しないとでも言う風に、誰もいないとは言え道のド真ん中で義勇を力強く抱き寄せる。
驚きと嬉しさと恥ずかしさで義勇は固まってしまい、その間も「オレのになってくれ」だのなんだのと小っ恥ずかしいことを延々と耳元で言われ、頭を真っ白にさせながら頷いていると、空はすっかり夜になっていた。
そんな、ロマンに欠けているような、自分たちに相応しいような馴れ初めから、今。
車の中からずっと付けたままの指輪は何度見ても眩しく、これをはめてくれた際の錆兎が言った「薬指の予約」という一言を思い出し、義勇はベッドの上を転がった。
愛する人と、こんなに順調でいいのだろうかと考える。
義勇は小さな頃から錆兎が大好きで、それが今もずっと続いていた。
昔は当然のように錆兎の一番は自分だろうとすら思っていたのに、歳を重ねて一緒にいる年数が増えてくると、大好きな人が自分のことを同じように好きでいてくれていることがどんなに幸せなことかと噛み締める機会が増えていく。
家に帰ってから溺れるように愛し合い、その間も錆兎はずっと優しかった。自分がはめた義勇の指輪にキスをして、誓うように好きだよと言ってくれることが夢のようだとも。
「義勇、お待たせ。風呂沸いたけど入るか?」
男らしくパンツ一丁のまま、サニタリールームの方から出て来た錆兎がベッドの上の義勇に声を掛ける。
風呂が沸くまで素っ裸のままだと風邪を引きかねないと、錆兎のTシャツを着せられていた義勇がモゾモゾと布団から抜け出し、ベッドの近くまでやって来た錆兎に両手を広げる。
抱えて、風呂場まで連れて行けと言うことらしい。
理解した錆兎が仕方がない奴だと困ったように笑い、「今日は一段と甘えただな」と言いながら恋人を横抱きにした。
「昔のこと思い出してたんだ」
「昔のこと?」
「……今と変わらず、俺はずっと錆兎のことが好きだったなって」
錆兎の首に、腕を回してしがみつく。
どれだけ引っ付いても、どれだけ一緒にいてもちっとも足りない。お前だから必死になるし、情けなくもなるといつかの錆兎は言ったが、義勇の目に映る錆兎はいつだって世界で一番カッコよかった。
義勇は幸せそうに「錆兎、大好きだ」と何万回目の言葉を呟いてから、触れるだけの甘ったるいキスをする。
義勇を抱いて歩く錆兎は義勇と目を合わせると、愛する人の言葉にこの世の誰よりも幸せそうにはにかんだ。