それは、間に合わなかったと言うにはあまりに遅かった。鎹鴉による伝令に従って赴いた先ではなく、日頃の警邏任務中に妙な胸騒ぎがして向かった地域で起きたこと。
鬼にとって、そこが特に美味い部分なのだろう。なぜならこのような遺骸を、義勇は過去に何度も見たことがあったからだ。腹のちょうど柔らかい部分をこそぎ落とすように食い荒らされ、肋が剥き出しとなったおおよそ女性の亡骸が目の前で物言わぬ肉塊となり、複雑にひしゃげている。女性だと推測できたのは、血を吸った織物の色合いと、血の海に広がった長い黒髪から。
逆に言えば、それ以外のことはなにも分からないほどに、惨たらしい有様であった。
目を背けたくなるような惨状と飛び散る残骸。そして咽せ返るような血の匂いが、杉板を使った屋根の下で充満し、少年の肺を圧迫する。
鳴りを潜めていた鬼の頸を道中で斬り、その口元についていた鮮血から被害者がまだ近くにいると察した義勇は血眼になって周辺を駆けずり回った。山間の農村地域であるそこは山の稜線が空を覆い、平地よりもずっと深い闇に包まれている。おまけに雲の多い夜で星はおろか月も隠れ、手元すら見えないほど、まさしく墨を流したような闇で満たされていた。
川の支流に沿って建てられた家々ですらも点々としか見当たらない。山の傾斜がきついため河岸段丘に細長く作られた耕地と並走しながら、転がり込むようにたどり着いたその家で、義勇は女性の亡骸と、近くに座り込んだままの三歳か四歳くらいの幼子と出会ったのだった。
「……だあれ」
辿々しい幼い声に、義勇は先刻、鬼と対峙した時よりもずっと狼狽して足が竦む。
喉の奥がぎゅうっと締まって、身体の中心が浮き出るほどに心拍数が上がるのだ。鼻の毛穴が開き、じっとりした油が滲み出て、次第に指先から冷たくなっていくのが分かる。
見るに堪えない、数刻前まで確かに人であったはずの肉塊は、入隊して一年も経った今では厭でも見慣れつつあった。けれど生きている遺族と出くわすと、義勇が己の奥底に沈めて蓋をしたはずの苦しみを想起させ、そして苦々しい胃液が迫り上がってきてどうしようもなくなる。石でも飲み込むように強引に嚥下したのち、動揺から呼吸が止まっていたのを義勇はそこで漸く気づいた。
夜も深く、幼さもあって現状が一切理解できていない子供が怯えるでもなく泣きじゃくるでもなく、呆然と母親と思しき女性の亡骸の隣に座っている光景。異質で、奇妙で、悪い夢でも見ているんじゃあないかと義勇は思う。
何らかのこだわりの強い鬼でもなければ、鬼とは通常、柔らかな子供の肉を好むはずだ。それなのに食われずにここにいるということは、異変に気づいた母親によって、ことが済むまでどこかに隠されていたのだろうと義勇は考える。
今日が、白く浮かぶ山影や川面で多少の視界が得られる、月明かりの差す夜でなくてよかった。この闇はこの子の母親を奪ったのか、それともこの子を守ったのか。今だって、何も分からないまま。本来は友が握るはずだった刀を義勇は握って、鬼狩りの真似事をしている。
視界がどんどん狭まっていく動揺の中、彼なら何と言うかという、これまで何百、何千も繰り返してきた思考の末に言葉を振り絞った。
「……きみを、迎えに来た」
声変わりをしたばかりの、掠れた少年の声が弱々しく上擦る。
一歩、家の中に足を踏み入れれば静かな空間で血溜まりだけがパシャパシャと鳴き、重い足を引きずるように幼子の元へ辿り着くと義勇は無言で子を抱き上げた。腕の中で子はジッとしたまま、何も言わない。それがどうしようもなく悲しくて、虚しくて。己はいつまでも、どうしてこうも無力なままなのだろうかと十四歳の少年は唇を噛む。
あとで埋めに戻ることを亡骸に誓いながら、一旦は動物などに荒らされないように閉めた戸に角材を立てかけ、子を抱いた義勇はその場を後にした。
冷えた風が吹く中、義勇はとりあえず近くの藤の花を家紋としている屋敷にこの子を預け、それから彼女を埋葬し、今後については上に判断を仰ごうと考えを纏める。鬼によって孤児になった子供は、場合によっては育手に引き取られることもあるからだ。
義勇も、そうだった。
雪がちらつき、冬支度を終えた山の中で草履も履かず、姉の着物だけを身に纏ったまま行き場もなく数日間ほど山を彷徨い、やがて野垂れ死にそうになったところを一人の猟師に発見された。その後は縁あって、師である鱗滝の元へとやって来て──。
この子を、師の元に預けることも一瞬、頭をよぎる。けれどもう、鱗滝は子を引き取りはしないだろう。
義勇があの山を離れて一年は経つが、鱗滝が新たに子供を引き取ったとは聞いていない。それに、この先も暫くは師が積極的に自ら子を引き取ることはないんじゃあないかと、義勇は思っている。
否、引き取って欲しいとも、正直のところ思いはしなかった。
これは師である鱗滝にも己と同じく、まだもう少し喪に服していて欲しいという身勝手なワガママに過ぎない。なにより、いま弟弟子などが出来たところで、とてもではないが義勇には気に掛けてやれる余裕もなかった。
なに一つ、分っていないままであると言うのに。
自分たちの兄弟子や姉弟子たちが、これまで一人も最終選別から帰ってはこなかったことを聞かされた彼が、なにを思ってあの山の鬼をほとんど一人で斬ったのか。
師のやるせない思いを背負い、顔も知らない兄姉たちの仇を、なぜ一人で討とうとしたのか。果たして彼の斬った鬼の中に、執拗に狐面を食い荒らした悪鬼はいたのか。彼はなぜ、死んだのか。なにが、彼の刀を折り、頭を潰したのか。見せしめのように、折れた刀を握っていた右半身だけを残して他を食ったのか。
彼が、己に半分とは言わずとも少しでも重荷を分けてくれていたのなら、なにかが変わっていたのだろうか。彼は死なずに済んだのだろうか。
なにも、なに一つとして、分からない。
分からない中で、唯一確かなのは、重荷を分けてもらったところでなにも変わらなかっただろうということだけ。
弱い自分には、きっと、何もできなかった。
彼は、なにも義勇が無力であったから一人で背負ったわけではない。彼が自分の無茶な決意に義勇を巻き込まなかったのは、恐らく友には生きていてほしいと思っていたからであろう。生きてくれと、彼が願ってくれた結果の命であることも、義勇は正しく分かっているのに。
それでも、半分の、その半分くらいは寄越してほしかった。
刃こぼれだらけの折れた日輪刀の尖先が、残った彼の肉片と帰ってきたとき。師が、顔を俯かせて肩を震わせていた。
あの子の正義感の強さを、優しさを知っていたはずなのに。儂が話さなければ良かったと、嗚咽を漏らす背中を義勇はただただ亡霊のように襖の隙間から見つめるばかりで、謝ることも寄り添うこともできなかった。
今も昔も、無力なままだ。
義勇は虚ろな目で山を降りる。その青いような黒いような瞳に光が灯らなくなって、久しく。
「どごいぐの?」
訛りが混じった幼い声で、義勇は現実に引き戻される。
「おっかちゃも、そこおるの?」
義勇の頬を、冷たい夜風が撫でて去っていった。風に攫われた雲の狭間から、様子を見にきた月が顔を覗かせる。
「……いないよ」
淡い月光の下で、薄っすらと浮き出た喉仏が、義勇の白く細い首に影を落としていた。淡々と呟くように答えれば、腕の中の幼子が鼻を啜り、頼りない薄い胸へと顔を押し付ける。
えんえん、えんえんと、舌足らずな泣き声が夜闇に溶けていく。隊服には涙が染み込み、義勇は言葉で慰めるでもなく、ひたすら前を向いて歩き続けるのみ。
こんな時、彼ならどうしたのだろう。
鱗滝に引き取られたばかりの当時、義勇は精神的にも身体的にも参っていた。
山を彷徨う以前から、目の前で姉が食われて以降は心を閉ざしがちになり、握り飯の一つですら食べきることも出来ず義勇は頻繁に吐き戻していたように思う。とは言え胃の中に何も入っていないため、唾液なのか胃液なのかよく分からないものが口から糸を引くばかりで、義勇は寝間着をしょっちゅう汚していた。
それを、彼は──汚れた寝巻きを文句も言わずに着替えさせては、自分の洗濯物と一緒に何食わぬ顔で洗ってくれていたのだったか。
義勇がどうあろうとも、可哀想だと彼は言わなかった。親戚連中から擦り込まれる呪いのように、かわいそう、可哀想と哀れまれ続けてきた義勇にとって、あの武骨な優しさは救いでもあったから。厠に間に合わずに失禁してしまった義勇に、生きていれば、そういうこともあるさと彼は天気の話でもするように言う。己が惨めでどうしようもなくて蹲ってしまった義勇に「なあに、拭けばいいだけだろう。厠以外で野ションも野グソもできない軟弱者に鬼狩りは務まらん」と言い、彼は泣いてばかりの義勇の腕を引いた。
今のお前が抱える苦しみは、生きているからこそなのだと。
冬の山を散々歩き回り、凍傷によって壊死しかけた小さな足に出来た水ぶくれが破けて痛むというのに、義勇は誰にも頼らずに厠へ行こうとしては失敗して、悔しくて惨めったらしく泣いていた。彼はその都度、仕事を増やすなとどやすでもなく、義勇の内側で消えない矜持を立派だと讃える。
そうして義勇がようやく自分の意思で自由に行き来できるようになった頃、彼は「おお、やったなあ」と笑って頭をガシガシと撫でてくれた。
痩せた身体がグラグラと揺れるほどに撫でてくるものだから、義勇は笑って、そして少し泣いた。悲しくもないのに涙が出るのは、初めてであった。大好きな姉よりも幾分か乱暴な手つきが、当時の義勇にとっては不思議と励ましになったのである。
だから、義勇はしがみついてくる幼子の頭をガシガシと撫でてみたのだ。
もう、会うことの叶わない彼をなぞる。仕草を、生き様を、夢を、言葉を、剣を、すべて。
「……大丈夫だ。お前は、死なせないから」
声変わりをしたばかりの上擦った声は、彼に似ても似つかない。
そうしている間に泣き疲れた子供の寝息が聞こえて、義勇は瞳を覆う涙の膜が溢れないように夜空を見上げた。
いつの間にか雲は去り、隊服を彩る銀の釦に月光が反射しては、義勇の身体の中心で星のように瞬いている。
彼の命と引き換えに得た隊服は、剣は、義勇にはまだ少し、重く感じられたのだった。