夏は長い。その日も、この国は暑かった。雲一つない青空はまるで広大な海のようでもあり、その上を父の組織である《カエサル》のヘリが泳いでいくのが見える。
光定は覇気の宿らぬ瞳のまま、立ち入り禁止の屋上でぼんやりとそれを眺めていた。
両手にはヌルくなった缶ジュースと、昨晩から電源を落としたままの携帯電話が握られており、とっくに授業が始まっていることなど光定は分かった上で空を眺めている。
もう、このまま帰ろうかとさえ思いながら、ロボオタクが不良の真似事をしているようだと自嘲し、そのまま日に焼けた目を瞑った。
──じゃあ、このまま見殺しにしろって言うのか。
それは昨晩、光定がユリに言い放った言葉だった。怒鳴られた彼女は傷ついた顔をして、「違う」と言った声が震えていたのを覚えている。
手を伸ばせば届く距離で、名前の知らない誰かが悪意に苦しめられていることが耐えられなかった。
だからこそ《カエサル》へと入隊し、父親の七光りだと言われながらも血の吐くような努力を怠らなかったのに。
それでも、守れないものはある。
現実だった。鼓膜には今も悲鳴が焼き付いている。
すでに動かなくなった機体の中で、あの火の中で何人が犠牲になっているのだろうと考えながら、血塗れで動け動けと喚き散らし、モニター越しのユリに「動かないで」と宥められて出た言葉か“あれ”だった。
その後のことは父の判断で鎮静剤が投与されたのか、機体の中で意識が途切れて覚えていない。
「……なにかを守れても、仲間を傷つけてたら、意味ないよなぁ……」
額に巻かれた包帯の下にある傷が、心と連動するように痛む。
汗でシャツが張り付く不快感。それらをぬぐい去ることのない、湿った風が慰めるように光定を撫でていった。
謝らなければ、けれど、どんな顔をして。
そんな、光定以外は誰も訪れることのない屋上に、聞き慣れない軽い足音。
こんな緩やかな風にも飛ばされそうだと思った。瞑ったままの目をゆっくりと開くと、赤毛を揺らした白い顔が空の青に浮かんでいる。
「おサボリさんですか?」
「……レンくん」
忌々しいまでの夏空の下、長袖のシャツにカーディガンを羽織ったままの格好で、不思議な転校生は汗一つ流さず光定を見下ろす。
「どうしてここに」
まさかの来訪者に、さすがに困惑を隠せない。
彼の突拍子もない行動には慣れてきたはずだったが、まだまだ驚かされることは多かった。
「ケンジくんが呼んだんでしょう?」
「……呼んでないよ」
あれれー、と首を傾げながら無遠慮に隣に腰掛けるレンを横目で見つつ、フェンスに凭れていた姿勢を立て直す。
この場所は、誰にも言ったことないのに。今更、不思議がったところでレンにはなにも通用しないことなど分かってはいるが。
「悲しいことでもありました?」
まるで猫のように、意地悪そうに笑う。なんでも知っていながら、あえてそれを光定の口から聞こうとしているような、そんな目であった。
そんな訳がないと思いながらも、レンが醸し出す得体の知れない空気に呑まれてしまうと、光定はいつも居心地が悪くなる。
「……べつに、そんなことは」
拗ねた子供のような声が出て、光定は少し恥ずかしくなった。ふぅん、とレンは興味なさげに相づちを打つ。自分から、話しかけておいて。
「でも、悪いと思ったのなら謝らなきゃ。女の子は泣かせちゃダメだと思うんです」
「なっ……!」
百面相のようにコロコロと表情を変える光定を、目を細めて優しげに見つめる様子はいっそ不気味である。
表情筋をピクピクと動かし、青ざめる光定の鼻の頭を、レンはおもむろに白い指の先でツン、と触れた。
その指先は、相変わらず驚くほどに冷たい。
「怖かったんですよね」
「なに……」
「独り善がりだと分かっていながらも、諦めることも、見捨てることも、選べなかったんでしょう」
耳から毒が流し込まれるように、歌うようなレンの声だけが聞こえた。
先ほどまで聞こえていたはずの風の音、グラウンドの声、鳥の羽音さえも遮断されていく。
光定の少しくすんだ青い瞳に自身の姿を焼き付けるかのように、レンは鼻に触れていた指を滑らせ、汗の滲んだ頬に触れると顔を近づけた。
隙間なく生え揃ったレンの長い睫毛は赤い。そこから覗く瞳も、ただただ赤く、赤すぎて、黒く見えるほどだった。
「だからって全部を守ろうなんて、愚かですよ」
レンは、光定を見つめながら、光定ではない誰かに縋るように呟いた。
時折、彼が自分に誰かを重ねていることに光定は薄々気づいてはいたが、それが誰なのかは分からない。
ただ、そんな時のレンは酷く苦しそうで、また、何かを諦めているように見えることは確かだった。
愚か──確かに、そうだと思う。
たとえ、それが自分に向けられた言葉でなくとも、光定は己の今を振り返れば、その言葉がいかに的を得ているかが分かる。
自分を突き動かす、この正義がいったいどんな形をしているのかが、光定にはまだ見えていなかった。
それでも、なにもせず、罪なき者たちが悪意に踏み台にされていく光景を見ているだけなんてことは、嫌だと思う。
それだけ。
──誰かの為、ではない。
自分が見たくないから、そうしているに過ぎなかった。
だから、怖いのだった。何も出来ないことが、救えるはずの手を掴めないことが。
「……ああ、怖いよ。僕は……自分が死ぬことより、誰かが苦しむことの方が怖いんだ」
レンの瞳を見つめながら、光定は心の内を吐露した。正義と呼ぶに相応しくない、気づいていながらも見ようとしなかった部分。
自分本位で、駄々をこねる子供のようでいて、そして決して濁ることのない白。
「……だから、これからも見捨てることはできない。たとえそれが……愚かであっても」
「……自分のために?」
呆れたような、レンの声。
光定は頬に触れているレンの細い手首を掴んで立ち上がると、手を握ったまま深い蒼穹を背負って、困ったように笑って見せた。
「……うん、今はね」
あの時のユリも、きっと怖かったのだ。
光定も、きっと彼女と逆の立場であれば、何がなんでも止めていたに違いない。自分の恐れを鎮めることを優先させ、仲間の悲鳴には気づけなかった。
光定はなにかを決心したように、瞳に光を宿すとレンと向き合う。
「ごめん、用事を思い出した」
「そうですか」
聞き慣れた、いつもの興味のなさそうな返事である。レンの手首を離すと、光定は携帯電話の電源を入れながら出入り口まで歩いていく。
ふと、持ってきていたはずのジュースを置いてきたままであることに気づき、背後を振り返るが、レンがすでに開封して飲み始めているのが見えた。
「ぬるくなってるんですけどー」
勝手に飲んでおいて文句を言うレンに、光定は苦笑いしながら「熱中症にならないように気をつけるんだよ」と告げるだけで、屋上のドアを閉めた。
光定が階段を降りていく音がする。
レンはヌルくなったジュースを啜りながら、光定の言葉に思い出を重ねていた。
記憶の中の、青い髪が揺れる。
その背後に、血塗れの、おおよそ人のような形をした塊が転がっていた。竜種の証である羽根はもげ、尾の赤い鱗は無惨にも剥がれている。
青い髪の少年は両手を広げたまま、その塊を庇うようにこちらを睨んでいた。
足を震わせ、顔を青くさせながら。
光定が去ったあとの屋上で、記憶の中で見た瞳と同じ色の空を見上げては、知らないはずの少年の姿を思い描く。
少年には大切な誰かを取られてしまった、そんな気がするが、それ以上は思い出せなかった。
ただただ、植え付けられた喪失感だけがそこにあるばかりで、苦しい。
シャツの袖を捲り、便宜上の父である者につけられた無数の注射痕と痣を眺め、レンはジュースを飲み干した。
「ケンジくんが正義の味方なら、ぼくの味方にはなってくれませんね」
それは少し嫌だなぁと笑う声を、飛行機雲だけが見下ろしている。