どうやら、考え込んだまま少しばかり寝落ちをしていたらしい。
身体を揺すられているような気がして錆兎が目を覚ませば、不安そうにこちらを見下ろす義勇と目が合った。いつまでも呼びかけに応じなかった錆兎がやっと目覚めたことに義勇は力が抜け、安堵のため息を漏らすと「よかった」と呟く。
また、心配をかけさせてしまった。なにか安心させるような言葉をかけてやりたいのに、頭が熱されて上手く言葉が出てこない。
参ったなと思いつつ、胸を撫で下ろした様子で微笑む義勇の可憐さに見惚れ、錆兎は小さく「すまん」とだけ呟いた。
「雑炊、出来たけど……食べれそうか?」
触れた錆兎の身体が先ほどよりも熱く、熱が上がっていることを義勇は察する。昼に薬を服用できなかったこともあり、錆兎が朝に飲んだであろう解熱剤の効果もとっくに切れている頃だ。
食欲はないだろうが、少しでも食べてもらいたい。義勇が問うと、錆兎はゆっくりと頷いて「たべる」と答えた。
「よし、取り皿持ってきてやるからな。少しでも食べて、薬飲もうな」
「ん」
普段の錆兎であれば、義勇の世話になるわけにはいかないと己を律するところなのだが、如何せん今の頭では現在が大正なのか令和なのかもあやふやである。目の前に義勇がいて、愛する彼が己の不調を心配してくれているということだけは、辛うじて分かっていた。
ベッドから上体を起こし、うつらうつらと船を漕ぐ。ちゃんとしなければ、義勇を正しく導いてやらねばと言ういつもの余計な気構えもなく、あの頃のように義勇へ素直に甘える気でおり、錆兎は義勇が出て行ったドアの方を恋しそうに見つめた。
「錆兎、自分で食べれそう?」
「だいじょうぶ」
取り皿とレンゲを持ってきてくれた義勇が、サイドテーブルに置かれてあった片手鍋の蓋を開けると、フワッと優しい出汁の香りが寝室に広がる。鼻が詰まっているため詳細な匂いまでは分からないものの、卵の優しい色味と米が絡み、上に散らされたネギというビジュアルはシンプルながらも美味しそうで、取り分けてもらっている最中も錆兎の腹が鳴っていた。弱っていてもしっかり腹が減るあたり、さすが錆兎だと義勇も小さく笑う。
「はい。熱いからふーふーするんだぞ」
雑炊をよそった取り皿を持たせてもらい、忠告通りに吹き冷ましてから食べている錆兎をベッドの縁に腰掛けた義勇がにこやかに見守る。静かな時間が流れ、錆兎が何度も「おいしい」と言いながら平らげていき、あっという間に片手鍋の中は空となった。
これで少しでも、元気になってくれたらいいのだが。
処方された薬を飲ませ、夜になにかを食べたくなった時のためにプリンやゼリー類も買ってあることも伝えた義勇は、錆兎を寝かせると使用した食器と調理器具を洗いにキッチンへ戻った。
本音を言えば夜も看ていてやりたいが、むしろ錆兎の迷惑となるのではないかと考えてしまって言い出せない。出会ってから錆兎の家に泊まったことなど当然ながら一度もなく、錆兎の顔を見るために義勇がアポなしで家へとやって来ようと、遅くとも十時までには車に乗せられて家へと送り届けられてきた。
いま、錆兎に泊まってもいいかと聞いたら、いいよと言ってくれるだろうか。
けれど、それはズルいと感じる。弱っている錆兎に変なエネルギーを使わせて、疲れさせるのは避けたい。
食事もとらせた、薬も飲ませた。スポーツドリンクや食べやすいものも買い置きして、溜まっていた洗濯物を洗い、乾燥機も回し、畳むところまで終わっている。
してやれることは、やった。ここにいる理由も、いていい理由もない。
錆兎にとって今世の自分は、傍にいたいからという理由だけで、一緒にいさせてやれるほどの存在でもないと。義勇は、自分の立場を理解していた。
「錆兎、俺……帰るな」
寝室にいる錆兎の顔を、もう一度だけ見に行く。
ベッドの隣へ屈み、目線を合わせると宍色の髪を撫でた。今日はいっぱい、どさくさに紛れて錆兎に触れられて嬉しいと、些細な幸せを噛み締める。
何も言わず義勇を見つめる錆兎の顔が精悍なのに可愛らしくて、ずるい男だなあと抗議のつもりで形の良い鼻先をつついてやった。
「……明日には、元気になっていますように」
祈るような義勇の言葉を前に、錆兎の朦朧とした意識の中で、とある記憶が蘇る。
あれは──確か毒素のある血鬼術を吸ってしまい、免疫力が落ちていたところで錆兎がらしくもなく風邪を引いてしまったのだったか。安静にと言われ、二日ほど自宅療養をしていたときのこと。たまたま非番であった義勇が添い寝してやろうかと言いに来て、うつったら厄介なのでしなくていいと、断ったのに。
大丈夫だ、俺は水柱だからと的外れなことを言いながら、結局義勇が隣で寝始めたのである。
明日には元気になっていますようにと義勇が祈るように言って、布団の中で錆兎が咳き込むと背中をさすってくれた。義勇のうろ覚えすぎる、でたらめな子守歌の歌詞に二人で笑って、癒やされ、眠った夜のこと。
あの時も、義勇は卵雑炊を作ってくれたのだ。美味しくて、あまり食欲がなかったのに今日のように一気に平らげ、次の日も食べたいとねだった。
熱も下がった翌朝。朝一番に目にした義勇の寝顔が綺麗で、抱き締めながら二度寝をしたことも。今だって鮮明に思い出せるのは、幸せな記憶であったからだ。
「……な、なに?」
射るような眼差しで凝視され、驚いた義勇が頭を撫でる手を引っ込めようとしたのも束の間。その手を錆兎がすかさず取ったかと思いきや、力強く指を絡ませる。
錆兎から触れられるなんてことは、今となってはほぼ無い。突然の触れ合いに義勇は動揺すると分かりやすく身体を強ばらせて耳まで赤らめ、その場から一歩も動けなくなった。
「……さ……錆兎……どう、した?」
前世を盾に、曖昧な態度をとり続ける錆兎を責めて、強引に関係を結ぶことも終わらせることだって出来るだろう。錆兎が義勇を強く拒めないのを、この子だってよく分かっているはずだった。
「気分、悪い? 大丈夫?」
そうしないのは、彼が間違いなく不器用で優しい冨岡義勇だからである。
義勇は、前世と今の線引きをしようとする錆兎を否定せず、尊重し続けてくれていた。惑わすことも迫ることもせず、くだらない男の矜持も鼻で笑わず理解を示し、いつも少しだけ寂しそうにしている。
あの時に死んだ義勇が、錆兎のことを誰より深く理解してくれていた彼が、今は手の届くところで錆兎だけを見てくれていたのだ。
たとえば、義勇が抱いてくれるであろう恋慕が呪いでもなく、全てが義勇自身の意思だとして。目の前の義勇が、都合のいい傀儡などではなく、自分に会いにくるために生まれてきたのだとしたなら。
そう、自惚れてもいいのだろうか。駄目な大人になってもいいかと、心が揺らぐ。
今は熱に浮かされているからなんて、男らしくない言い訳をするつもりはない。ただ、義勇のためというチープな大義名分を取っ払い、自分がどうしたいのかを第一に考えたときに浮かぶ答えを、義勇に伝えてみたいという情けない甘えが、出たのだった。
「……義勇に、ここにいて欲しい」
強く、手を握った状態の錆兎が言う。
「帰んないで欲しい」
暗い部屋の壁に錆兎の声が吸い込まれていき、義勇はその場で呆然とすると、何を言われているのかを脳内で一生懸命整理をする。
ここで間違えたら、錆兎に迷惑をかけてしまう。錆兎を困らせてしまうから、思い上がらず、慎重にならねばならない。
必死に、一字一句、単語を何度も組み替えてはみるのに、まるであの頃のように錆兎が甘えてくれているような勘違いをしそうになる。
意味も無く、ここにいてもいいのだろうか。錆兎がそれを、求めてくれているのだろうか。してやれることもないのに、一緒にいていいのだろうか──義勇は錆兎の手を握り返すと無言でベッドへ上がり、断りもなく錆兎の隣へ潜り込んだ。
それを予期していたかのように、錆兎が布団の中で義勇を抱き寄せる。
「……風邪、ほんとにうつるかも」
ごめんな、と言う錆兎に義勇は首を横に振った。
「……うつっていい」
そしたら、今日のことが、夢ではなかった証になるから。
「うつっても、次は錆兎が看病に来てくれるだろ」
腕の中で、義勇が嬉しそうに語る。
風邪で苦しむことになっても、それが次の約束になるなら構わなかった。錆兎が会いに来てくれるのなら、顔が見られて、言葉を交わせるのなら。それが義勇にとって、一番の幸せであった。
昔も今も、錆兎がそこにいるだけで、義勇にとっての幸せの最低条件が満たされている。
無邪気に笑う義勇の髪を撫でていた手を、錆兎は白い頬へと滑らせて、顔を上げさせれば二人の視線が緩やかに交わった。
薄い涙の膜に覆われた義勇の青藍混じりの瞳には細かな光が集まり、仄暗い部屋の中では星のように輝いている。
いま、腕の中に義勇がいた。
死んで生まれ変わって、彼が海になっても、鳥になっても、星になっても、愛そうと誓った義勇が。
遅すぎる実感に、厚かった胸の氷が溶かされると、錆兎の目尻が少し濡れる。
「やっぱり、綺麗だ」
鼻を啜り、力強く抱き締めた。
「世界でいちばん義勇が綺麗だ」
錆兎がずっと、伝えたかった言葉。震える声で聞かされた義勇は照れたように笑みを浮かべ、錆兎の濡れた頬を慰めるように手を伸ばす。
その瞬間、ちゅ、と間抜けな音がした。唇が重なったことを理解し、錆兎が目を丸くして義勇を見やれば、してやったりとはにかむ顔がそこにある。
「……錆兎はいつもそればかりだ」
恥ずかしいのをごまかすように、義勇が錆兎の胸に顔を埋める。
「……錆兎。また、髪、むすんでくれる?」
元気になったら、あの頃のように髪飾りを贈って、愛していると言ってもいいのだろうか。
「結ぶよ、毎日でも」
あれだけ無意味な意地を張って何度も遠ざけようとしていたくせに、今さら虫がいいと呆れやしないだろうか。
それでも義勇は、駄目な大人だと笑ってもくれないのだろう。嬉しい、俺も愛していると、その時の返事が手に取るように分かって、錆兎は「義勇」と意味もなく名前を呼んだ。
「なあに」
応えてくれた声に、相好を崩す。
そして懐かしくも新しい温もりに抱かれながら、錆兎は静かに寝息を立て始めたのだった。
明日の朝、おはようと義勇に言えることを楽しみにしながら。