​「おはよう」を君と

 学校に行っていない間の時間をどう過ごしているか、と聞かれて何も答えれなかった三月。

 けれど、最近は少し変化が訪れた。
 瀬戸口くんが僕の家で寝泊まりをするようになった。
 とは言っても帰って来ない日だってあるし、そんな日が暫く続いたかと思えばふらりと帰ってくる。今日も、そうだった。
 目覚ましが鳴ったわけでもなく、甘えん坊な子猫たちに顔を舐められて目を覚ますいつもの朝。少しだけ違うのは、布団の端にある、丸まって眠る大きな身体。
 みゃあみゃあと鳴く子猫たちに踏まれても寝ている彼に小さく笑い、起こさないように「おはよう」を告げた。
 前に二人で遊んだ日の帰り、通り雨に濡れて成り行きで彼の家に上がらせて貰った事があった。「なにもないけど上がって」と苦笑いする瀬戸口くんの言うとおり、あそこは本当に何もない家で、生活感の欠片もなく呆気を取られたことを覚えている。
 冷蔵庫の中は空っぽ、手の着けられていない配給物資と必要最低限の家具。
 畳まれた清潔なタオルを渡されたあと、自分の家だというのにマグカップはどこだろうと探す家主の背中に大きな溜め息が出た。
 それこそ寝るための部屋、という感じで。
「……最後に帰ったのは?」
「さあ……いつだっけ?」
 始終、そんな調子。結局、マグカップは見つからなかった。恐らくこのタオルも女の子に洗わせたものだろうとすぐに察しがついて、二度目の溜め息が出る。
 存外寂しがり屋な彼はきっと大半を人の家──まぁ、相手は女の子なんだろうけど──で過ごすのだろうという想像は容易に出来たし、実際そう。
 そして家に誰かを呼ぶこともなかったのだろう。だって格好つけな彼が、マグカップの一つも出せないなど前代未聞とも言えるからだ。何より、ゴミ箱は空っぽ、布団が敷かれた形跡も何もない。
 聞き飽きるほど好きだとは言われたけれど、僕たちは恋人だの何だのと名前のある清い関係を築いているわけでもない。
 たまにセックスはするし、遊びにも行くけど。それだけの関係と言うにはなんだか生々しいし、“割り切った関係”として言葉を濁してきた。
 けれどこの人、瀬戸口隆之とは思った以上にどうしようもない男なのだな、と改めて実感したのは彼の家に訪れたあの時だろう。
 どうして誰も叱らないんだろうか。
 彼を好きだという女の子はたくさんいるだろうに、どうして誰も言ってあげないのだろう。
 こんな家だから、余計に寂しくなるのに。
 その日から、少しだけ僕は瀬戸口くんとの関係を見直そうと試みた。
 僕の部屋の合い鍵を渡してあげたのだ。
 縛ろうとは思っていない。バカな彼に、帰る場所を一つ増やしてやろうと思っただけ。他の人にあまり迷惑かけちゃダメだよ、なんて、僕が瀬戸口くんの中にいる不特定多数の内の一人でないことを前提に、だけど。
 人のことをとやかく言えるわけでもない。けれど彼の生活水準は、ついこの間までラボでモルモットをやっていた僕以下なのだから相当深刻であることは確かだった。
 当の本人である瀬戸口くんは一瞬ポカンとして、そして徐々に顔を綻ばせた。嬉しい、嬉しいというのが彼の顔を見て伝わり、なんだか僕の方が恥ずかしくなる。次に、彼は子供みたいに僕に抱きついた。
 頭一つ分も違う、背の高い年上の人を可愛いと思うだなんて少し可笑しいけれど、合い鍵一つでここまで屈託なく喜ばれたら良い気分にもなるというもの。
──仕方ないから、僕が君を叱ってあげる。
 抱きついてきたどうしようもなく甘えたな彼をその時ばかりは怒らず、大きな背中に手を回した。
 その日からというもの。
 翌日目を覚ますと、隣で瀬戸口くんが知らぬ間に寝ているという日が増えた。
 最初の頃こそラボでの暮らしで野生動物のように物音に敏感になっていた自分が、彼の訪問に全く気づけなかったという事実に驚いていたけれど、そんな動揺も一瞬のこと。
 それよりも、僕の隣で丸まって寝ている大きな体がまるで飼い猫みたいで、思わず込み上げた笑いを必死に堪えたものだ。
 そして時は冒頭に戻り、いつものように転がり込んでいた瀬戸口くんの姿を確認すると、僕の体温が残る布団を大きな身体にかけてあげる。
 これはもはや日課となりつつあった。
 毛布がある場所なら教えてあげてるのに、この人はわざわざ狭い僕の隣で眠るのが好きらしい。
 片手で猫たちをあやしつつ、もう片手では慣れた手つきで無造作に床に置かれた瀬戸口くんの制服のシャツを拾い上げ、ベランダにある二層式洗濯機に突っ込んだ。これは疎開するという近所の人からいただいたもの。 今までは新市街のコインランドリーまで足を運んでいたが、洗濯機も貰ってからは節約としてこればかりを使っている。
 譲り受けて使い方を教えてもらって以降、この洗濯機で自分以外のものを洗ったのは瀬戸口くんのシャツが初めてだった。
 洗った後は、自分のシャツのついでにアイロンもかけてあげるまでがワンセット。だって、しわくちゃの服を着てる瀬戸口くんなんて他の人に見せれないし、などとちょっとだけお嫁さん気分になってみる。
 間違っても僕は瀬戸口くんのお嫁さんではないけども。幼い頃、そうなりたかった時期があって、今も自分に向いているなとは少し思うのだった。
 家事は好きだ。人の世話をするのも、嫌いじゃないし。もともと僕は仲の良い相手ならば見返りも無くとも何かをして上げることが苦ではないようだった。
 それに、瀬戸口くんは。
 してあげると……その。大袈裟なくらい喜んで感謝してくれるから。
 やり甲斐があるというか、えっと。仕方がない人だなあと思いながら、つい世話を焼いてしまう。
 瀬戸口くんは上手い。
 なんというか、僕がいなきゃ駄目だと思わせるような行動をとるのが上手だ。
 学校や人前では、何をやらせても器用で誰よりも上手にやってみせるのに、こうして僕と二人の時は途端に世話を焼きたくなるような駄目な一面を見せる。
 これが計算ならまんまと引っ掛かっているなと苦笑いしながら、二人分の朝ご飯の支度まで既に計算し始めている僕がいた。
 顔を洗って冷蔵庫の中を確認。
 芋と卵、クローン豚のハムが目に入り、オムレツでも作ろうかとエプロンを腰に巻く。
 猫たちのご飯には、前に茹でて小分けにしてあるササミを使って何か作って上げよう。階級が上がってからと言うもの、猫たちにもそれなりに美味しいご飯を食べさせてやることが出来るようになった。
 缶詰めなども店に行けばあるけど、ご飯が手作りなのは僕の趣味。
 思えば、今日は日曜日だ。
 ジャガイモを短冊切りにしたあと、玉ねぎを薄く切り、暖めておいたフライパンにオリーブオイルの代用として大豆油をしいた。このご時世、オリーブオイルなんて中々手に入らない代物である。
 日曜日だからと言って特にすることもない。買い出しは昨日の出撃後に時間があったので済ませたし、戦車の整備は月曜日の早朝から舞とする予定となっている。
 別に行きたいところも無い。
 考え事をしつつ、切った野菜をフライパンに入れて調味料をふり、ジャガイモに火が通るまで炒め、そういえば瀬戸口くんはどうするのだろうと気になった。
 今もぐーすか寝ているということは、彼も別に用事がある訳でもないのだろう。
 ならば瀬戸口くんを誘って何処かに行っても良いけど、昨日も夕方頃まで出撃があってお互い忙しかったのだ。
 そして彼は出撃後も夜な夜な何処かに行っているし、あまり連れ回すのも可哀想に思えてくる。
 行き先は知らないけれど、例えそれが女の子の家だとしても、そこで冷たく接するのは僕の役目ではない。
 干渉する権利もないからだ。
 十分火が通ったことを確認し、弱火にしたらここでコンソメを加える……と、そういえばコンソメがなかったことを思い出した。
 やはり出撃後に慌てて行くと、買い忘れとは多くなるというもの。代わりに味のれんのおじさんから教えて貰って作った、お手製の鶏ガラスープと醤油を併せて使い、プラスチックの加わっていない、離乳食などにも使われる無添加の牛乳を加えたあとは暫く煮詰める。
 僕は相変わらず休日の過ごし方が下手だった。
 約束も何もない時は部屋の掃除をしているか、時間がないときにもすぐにご飯が食べれるよう、保存のきくものを作り置きしたりしている。
 動いていないとなんだか不安になり、結局は整備に行こうと学校まで向かうことも多々あった。
 具材が煮立つ音。
 水で溶いた小麦粉を加えてトロみをつけると、暖かいままボウルに移し溶き卵とよく混ぜ合わせる。
 これも本当は片栗粉の方が良いのだけれど、近頃また店に並ぶことが少なくなったのだ。最近は色々妥協しつつも、代用となるものを使いこなす調理にも慣れてきていた。
 戦時中ということもあり、食材だって限られている。
 しかし、そんな限られた枠の中でどこまで美味しいものを作れるかが僕の中での課題となりつつあった。
 そしてここでトロみをつけたのは、半熟のトロトロのオムレツよりも、瀬戸口くんは食感のあるフワフワしたオムレツの方が好きだから。
 この間、トルティージャ──所謂、スパニッシュオムレツと呼ばれるものを出してみたら大絶賛されたことを覚えていて、そしてこの人はこういうのが好きなのだと理解した。
 そういえばオムライスだって、彼は半熟卵より薄焼き卵で綺麗に巻かれたものが好きである。
 そして決まってケチャップで絵を描くのだが、それが変に上手な彼を思い出して可笑しさで口元がニヤけた。
 だってあの顔と図体でオムライスにウサギの絵を描き始めるのだから。そんなの、笑わない方が可笑しい。
 しかも微妙に可愛くないウサギ。
 聞くと、そういうのが上手いと子供受けがいいらしい。「君は戦争が終わったら幼稚園の先生になるといいよ」と僕が言うと「悪くないな」と瀬戸口くんが頷き、ウサギの絵(微妙に可愛くない)が描かれたオムライスを食べては美味しいと無邪気に笑うのだ。
 そんな動作が似合う色男、きっと世界で彼しかいないと思った。
 いま思い出しても可笑しくて、そして少し愛しかった。
 ほんの少しの一工夫で「美味しい」の彩りが変わる。
 彼は何を出しても美味しいと言ってくれるけど、だからこそ彼の好む物を作ってやりたかった。
 昼食はどうしよう、もし夜までいるのなら夕食は和食にしてあげようか。色々献立を考えながら、先程まで使っていたフライパンを洗って、再び暖めて油を敷く。
 やはり自分のためだけの食事を作るより、誰かがいる方が料理は楽しかった。
 料理が好きな僕だけれど、本人は情けないことにとてつもなく食が細い。
 一日中食べなくても割と平気だったりするのは過去の経験からだけれど、それでも普段の一食分だって周りに心配される量で足りてしまう。これでも身長を伸ばしたり、筋力を付けるために食べてはいる方だが、それでも「もういいのか」と言われるのがお約束。
 食事を身体が受け付けないと言えばいいのだろうか、自分でも太りたいとは思っているが中々上手くいかない。
 けれど、誰かのために作ったご飯を、その誰かと食べるときだけは僕は自分なりに沢山食べれるような気がするのだ。
 一人は慣れていたけれど、誰かと一緒の方が何事も楽しいことを僕はたった数ヶ月前に知った。いま、もしも、再び白塗りの壁のなかで残飯のような“餌”を与えられながら一人で過ごせと言われたら出来る気がしなかった。
 大切な誰かと笑いながら食べるご飯なら、きっと残飯でも餌でもマシなものになるのだろう。けれど、そんな大切な人には残飯や餌なんて食べて欲しくないから、僕はこうして美味しいものを作りたかった。
 溶いた具材を流し込み、蒸し焼きにする。美味しそうな匂いが漂い、今回も良い出来だと満足げに頷いた。
 料理は愛情なのだ、結局は。
 両面を焼き上げた頃には片手間に簡単なサラダを作り、それが終わると猫たちのご飯を作り始める。
 みんなの朝ご飯の完成。
「ふふ、寝坊助さんを起こしに行こうか」
 足元でゴロゴロと音を立てる一匹の子猫を抱き上げて、瀬戸口くんが眠る寝室のドア開けた。
 起きているかと思ったが、まだ寝ているらしい。静かな寝息が聞こえた。
 布団に膝をつき、顔を覗き込む。
 伏せた長い睫毛、日本人離れした端正な顔をまじまじと見つめていると何だかドキドキしてくる。
 童顔で女顔の僕とは大違い。
 少しだけ寝顔を見つめたあと、大人しく抱かれていた子猫を瀬戸口くんの顔に近づけて、プニプニとした艶のある桃色の肉球を唇に押し当ててみる。
 されるがままの、大人しい子猫がミャオと鳴いた。
「瀬戸口くん、ご飯だよー」
 二人の朝。まだ眠たそうに唸る彼の頭を撫でて、休日の過ごし方の相談をしようと考える。
 これが、僕の最近の何もない一日の少し特別な始まりだった。