こどもとおとな

 伊吹コウジにはなすべきことがある。
 中退した高校では同級生のほとんどが大学進学した中、伊吹と言えば今年からヴァンガード普及協会に転がり込み、一社員としてあちらこちらへ駆け回っていた。
 早生まれの十九歳。時間はたっぷりあるように見えたが、それでも彼には時間が足りない。
 伊吹は、絶えずどこか急いている。
 クランリーダーという大そうな資格を得て、上層部から支部長就任の打診──伊吹には公式記録などはなかったが、ダークゾーン支部長が十代であることが大きな話題を呼び、本部も若手を採用することに味を占めたのであろう──もあったものの、それも断った。
 そして代わりに選んだのは、異例の本部職員としての入社である。
 まだ十代である彼に対して最初こそどこか刺々しい態度で接してくる者も中にはいたが、今となっては伊吹に向けられる視線とは、期待であり、敬意であり、時には畏怖であったりもした。
 伊吹コウジは万能である。
 そう、見えるようにしている。
 実際は不得意なことも多かったが、それすら欺く詐欺師でもあった。
 隙を見せず、誰にも気を許さず、笑みすら浮かべない。誰と一緒にいようとも、意識はいつも数歩引いたところにあるのだった。
 そんな伊吹を揶揄して影で鉄仮面などと呼ぶ輩がいることにも気づいていたが、伊吹はどうとも思わない。
 なすべきことのためなら、己の贖罪のためなら、それでクレイとこの世界が救われるなら、伊吹にとって全てが些細なものに過ぎなかったのだ。
 それが、たとえ無理が祟って身体を壊しても、である。
「また泊まりか」
 直属の上司になって、暫く経つ。
 長身の類いに入る伊吹より背も高く、厚みも二周りほど違う壁のような男が伊吹を射るような眼差しで見つめる。
「ちゃんとシャワーは浴びましたよ」
「そういう話はしていない、家に帰ってしっかり寝ろと言っている。今月に入って何度目だ? 手が足りぬのなら言え。本部に補充させる」
 その言葉に伊吹は少し面食らって、思わずコーヒーを淹れながら神崎の方に視線を向ける。
 この男、神崎ユウイチロウの元で働くことこそ。伊吹が普及協会に潜り込んだ、第一の目的でもあった。
 ユナイテッドサンクチュアリ支部に在籍していたクランリーダーたちは思っていた通り、神崎のやり方に反旗を翻して続々と支部を去っていった。
 そして残った職員の中でも重役を担っている者の中に、“偶然”伊吹の入社当時から目に掛けてくれていた──そうなるように仕向けたとも言える──者がおり、そこからは全てがトントン拍子に事が進んでいくこととなる。
 協会本部直々に、『君の能力と腕を見込んでの頼みなのだが、神崎支部長の補佐を頼まれてくれないか』という打診を、伊吹は二つ返事で快く引き受けた。
 全ては目的と使命のため。
 私情などなかった。
 この世界に組み込まれたシステムのように、伊吹は淡々と描いていた計画の通り、“あの日”からタスクを消費するように生きているだけである。
 だからだろうか。プロファイリングしていた神崎の言動と、実際の神崎の言動にいささか相違があることが増え、時おり戸惑うのである。
「……なんだその呆けた顔は」
 神崎が飲む分のコーヒーを淹れながら、伊吹はハッとした。隙を見せてしまうところであったと咳払いをして、少し早口に「いえ」と言葉を続ける。
「まさかあなたに気遣われるとは思わなかったので」
 今度は神崎が変な顔をした。失礼な小僧だな、と言いたげである。
「失言でしたか」
「聞くな馬鹿者」
 伊吹が出したコーヒーを一口飲みながら、支部長室に置かれた最高級のエグゼクティブチェアに腰掛ける神崎は眉間に皺を寄せる。
 これも寄越されてきた当初は、もっと不気味な子供のはずであった。
 それが、共有する時間を重ねていくたびにこれだ。おまけに伊吹が淹れるコーヒーは相変わらず渋く、何度教えようと上達する兆しは見えない。
 正直なところ飲めたものじゃなかったが、それでも神崎はいつも黙ってそれを飲んだ。この優秀な部下は仕事もファイトも器用にこなすのに、こういったことをさせるとてんでダメダメなのである。
 それでも追い返さずにそばに置くと決めたのは神崎であり、今もこうして飽きもせず面倒を見ていた。伊吹からすれば自分が神崎の面倒を見ている気でいるのだろうが。
 また、神崎は己にとっての危険因子は傍に置いておく主義でもある。
 なにかを企んで、偶然でもなくここまで辿り着いた強かさは嫌いではない。
「今日はもういい」
「はい?」
「帰って寝ろ。送迎を呼ぶ」
 神崎がそう告げると、伊吹の視線が僅かに泳ぐ。非常にわかりづらいが、これが伊吹の精いっぱい慌てているときの表情であった。
「どうしてですか」
「どうしたもへったくれもなかろう。子供は黙って大人の言うことを聞くものだ」
「横暴です」
 再三言うが、伊吹には時間がない。それなのに、休むなど出来るわけがなかった。
 疲れた様子を神崎に見せてもいない。そして自身が丈夫であることを、伊吹が一番分かっている。やるべきタスクは山積みで、それを一人で全てやり切るには一分たりとも無駄にはしたくないというのに。
「コーヒーが不味かったんですか」
「それはいつもだ」
「……いつも不味いんですか?」
「あ、いや。……それは今はどうでもいいだろう」
 珍しく伊吹が一瞬ムッとしたので、神崎は見せつけるように不味いコーヒーを一気に飲み干した。
「いいか、未成年が過労死などしてみろ。洒落にならんと言っている」
「オレは死にません」
「一〇〇何回目のプロポーズだ、それは」
「なんの話してるんですか?」
「ええい、もういい。貴様は黙れ」
 年齢がこうも開いていると洒落も通じない。神崎は盛大なため息をついて席を立ち、応接用のソファを指差して「そこに座れ」と伊吹に指示を出す。
 説教でもする気だろうかと、納得していない様子の伊吹はどこかむくれたような顔をしつつも言われた通りに腰掛けた。
 それはどこか、親に叱られた幼い子供のようにも見える。
 渋々腰掛けた伊吹を見届け、神崎は席を立つと羽織ったジャケットを脱ぎながら伊吹の元へ近づく。
「あの、自分は支部長にご迷惑をおかけするつもりもございませんし、これからも支部の運営に関してはなんの滞りもなく」
 そこまで伊吹が続けようとすると、いつの間にか正面に立っていた神崎が伊吹を見下ろしていた。
 次の瞬間──あっという間に両肩を掴まれたかと思えば、やや乱暴にソファへ横倒しにされる。
 反応が遅れた。これは万全の調子であればあり得ないことであり、伊吹はここで初めて自分が疲れていることを自覚する羽目になる。
 今まで神崎に必要以上のスキンシップをとられたことはない。なにかに気づかれたか、隙を見せてしまったか、などとほとんど眠れていない状態の伊吹の頭は自由を奪われたことにより一気に臨戦態勢になっていく。
 体格差のある者を相手にするには、なによりも俊敏性が不可欠だ。現にいまも、抑え込まれた腕は動かない。
 ならば、かくなる上は──
「午前中はここで寝ていろ。昼時には起こしてやる」
 押し倒された状態から、神崎の上体にめがけて喰らわせようとしていた蹴り技を、伊吹は神崎の言葉を聞き、寸前のところで止める。
「……聞いているのか」
「……は……え、えっと……」
 神崎には気づかれないように無音で振り上げた脚をゆっくり下ろし、毒気を抜かれたような表情で神崎を見上げた。
 己の大きな上着を伊吹にかけつつ、「ここから抜け出して仕事を始めるようなら強制的に帰らせてやるからな」と脅すものの、口調はともかく言葉そのものは優しいものである。
 帰らされるのは免れた。伊吹にとって数時間ですら無駄にするのは惜しかったが、空調の整った支部長室で横になると瞼が徐々に重くなっていく。
「……でもオレ、寝たくないです」
「まだ言うか」
 常に駆け回っていないと、思考を逸らせていないと、伊吹の足元はすぐに暗くて冷たいものに捕まってしまうのだった。
 使命のために尽していなければ、片時でも忘れないようにしないと、罪悪感で息が詰まって、呼吸の仕方を忘れてしまう。
「……嫌な、夢を見るから」
 伊吹コウジは罪人だった。
 そう、思っている。
 償いのために差し出せるのは、このちっぽけな命くらいしかないと、そう信じていた。
「オレがなにもかもを消してしまう夢を」
 神崎は、腕で自身の顔を覆いながらぽつりぽつりと話す青年の前で目を伏せる。
「くだらぬな」
 メサイアスクランブルの一件を、この男が知らないわけがなかった。立凪グループによって散々改竄され、揉み消された殆どの全貌を“あの方”から全てを共有されている。
 だから、伊吹を引き取った。最初はそれだけであった。
 まさか向こうからやってくるとは思っても見なかったが、脅威となる可能性がゼロではないならば、いっそ目の届くところに置いておいたほうが良いだろうと判断したのだ。
 それがどうだ。
 優秀だと、若きカリスマだと、万能だと散々騒がれていた者が、知れば知るほどただの図体のデカい子供であったのだから。
「お前みたいな子供になにができると言うんだ」
 神崎は、伊吹の今までを知っている。
 それでも、知ってもなお、神崎が伊吹を見込んだのは、いまの伊吹のヴァンガードに対する姿勢と、その異常なまでの真摯さが好ましかったからだ。
 万が一にでも、この男になら裏切られてやってもいいなと、思えたのだ。
 だから自ら傍に置いた。
 酒の一杯も付き合えない子供を。
 不味いコーヒーも、良しとした。
 伊吹は神崎の言葉を聞きながら、徐々に瞼を閉じる。やがて、ゆるやかに上下する上体を見守って、神崎はため息をついた。
「……手のかかる」
 それでも、存外寝顔が幼い部下を見下ろす視線はどこまでも穏やかなものである。
 なお、昼過ぎに起こすと言っておきながら退社時間までたっぷり寝かせ、起きたあとは嘘をついただのなんだとの騒ぐ伊吹を強引に愛車の助手席に座らせて家に帰したのは言うまでもない。