そのウサギ、獰猛につき

 櫂は、優しい男である。
 周囲から──とりわけテツやアサカから、甘やかしすぎだと難色を示される程度には伊吹に甘かった。
 とはいえ、もとより櫂は穏やかな人柄であり、伊吹以外に対しても声を荒げることなど滅多にない。怒らない秘訣、と言っても、これは苦労を重ねた幼少期から根付いてしまっている、『他人に期待しない』といった淡泊で合理的な生き方を徹底しているからとも言えた。
 櫂は怒らない。自分の機嫌は自分でとることが出来、常に穏やかだった。
 そのはずが。
「もっと自覚しろといつも言ってるはずだが」
 櫂の声が、刺々しいのは気のせいではないだろう。
 後孔を割り開いている櫂のペニスに押し出されるように嬌声が漏れそうになるのを必死に耐えながら、伊吹は不安から櫂の首に手を回した。
 通常、櫂の部屋で行われる普段の営みであれば、多少声が大きかろうとさほど問題ではない。
 しかし、いまは違う。
 見慣れない部屋。知らない場所。
 おおよそホテルだと見当はつくが、なぜここにいるのかが分からないため声を出すことには抵抗がある。
 こんなところで──なぜ、櫂に抱かれているのか。
 発端は、高校に通いつつも賃金の良い派遣バイトなどで娯楽費を稼ぐ伊吹に、当時の同僚が話しかけてきたことから始まる。
 学校と同じく、職場でも極力あまり人との関わりを持たない主義の伊吹であったが、男はことあるごとに伊吹に話しかけてきた。
 第一声は「きみイケメンだね」であった気がする。
 魅力的な異性や櫂に褒められるのならまだしも、好意もない同性に突然容姿を褒められたところで気味悪さが上回った。最初は無視を貫いていたものの、顔をあわせる度に話しかけてくる為うんざりしていたが、短期間であれ世話になる職場で事を荒げたくなかった伊吹は、仕方なく対応していたのだが。
 バイトも終盤。男はいつものように伊吹に声をかけてきた。その日も伊吹は生返事をしながら自分のやるべき仕事だけに集中し、相変わらず値踏みをするような目で容姿を褒めてくる男のことは視界にすら入れずにやり過ごす。
 伊吹がいま、こうも労働に熱心であるのには、理由があった。
 今度の連休中、櫂から小旅行に行こうと誘われたのだ。
 それは高校を卒業した後はヨーロッパへ飛ぶこととなっている櫂と、今のうちにたくさん思い出を作ろうと話したあとの誘いであった。
 伊吹は「考えておく」などとその場で言っておきながらも、少しでも旅費を貯めようと、誘われたその日の晩には既に、比較的高賃金である力仕事がメインの募集へと滑り込んでいた。
 もとより、働くことは好きだ。力仕事も苦ではなく、伊吹はそこそこに労働を楽しんでいたのだが。
 いかんせん、足りない。
 否、額面は悪くないのだが、短期間での募集ということもあって、このバイトが終わったあとのことを伊吹は考えていた。
 高校生という身分が邪魔をして応募できるバイトも限られており、だからと言って求人の多い接客業は自信がない。
 これからどうしようか、と悩んでいた矢先。いつも話しかけてくる男が言ったのだ。
「このバイト終わったらどうするの?」
 伊吹は「べつに」とだけ答え、いいから仕事しろ、と内心で悪態をつきながら手を動かす。
「俺さ~知り合いが店始めたんだよね。んで、キャスト募集してんの」
「ああそう」
「伊吹くん、ヴァンガードファイターでしょ?」
 思わず手を止める。
 初めて、男の顔を見たかも知れない。
 伊吹の視線を受けて、男は「雑誌で見たことあるよ。福原高校の主力さん」と目を細めた。
「なにが言いたい」
「いやね、知り合いが店始めたんだけど。そこがヴァンガードバーつって、店のキャストとヴァンガードしながらお酒飲めますよって店なのね」
 そう言ったコンセプトの店は、世間ではさほど珍しくもなかった。伊吹は興味なさげに「へぇ」と頷くと、男は「三千円出すって」と言う。
「は? なにが」
「時給。伊吹くんのことさぁ、そいつに話したら、もーテンションあがっちゃって。顔も綺麗、背も高い、おまけに現役高校生のめちゃ強ファイター! レア度高すぎ~つって。ね、働いてみない? 俺もさぁ、紹介料貰えんだよね!」
 時給、三千円。
 伊吹は部活のこともあり、あまりバイトに時間と日数を捻出できない。
 しかし、夜の数時間、客とファイトをしただけで一体いまの何倍稼げるのだろうと考えると目がくらむ。
 いや、上手い話には裏がある。騙されない、と思いながらも脳裏に浮かぶのは「温泉とかいいよなぁ」と笑う櫂の顔である。
 櫂は知人のレストランでピアノ演奏などをして、そこそこ良い額のバイト料を稼いでいた。叔父の支援もあり、おまけに無駄遣いもしない性分ため、自由に使える蓄えは十分にある。
 一方で、伊吹が到底楽ではないバイトをしている今でも、櫂は心配そうに「無理しなくて良い」だの「俺が連れて行きたいだけだから」と気遣ってくれるのだ。
 櫂との思い出を作りたいのは伊吹だって同じだ。
 それなのに、旅費まで櫂に出させるなど言語道断。
 伊吹は男の方を見た。
「……変なこと、しねーだろうな」
「しないしない! お酒出す店だけどぉ、伊吹くんが未成年なのはオーナーも知ってるし。伊吹くんは制服着て、ジュースかお茶飲んでヴァンガードしてたらいいだけ!」
 それだけで三千円。
 嘘だ、絶対に嘘だと思いながら──伊吹は、体験入店という形で男の紹介を受けることになったのである。
 そして短期間の派遣バイトが終わり、後日男に連れて行かれたのは賑やかな繁華街の中にある雑居ビル。縦に並んだ目映い看板は、どれもラウンジかスナックの店名、といった風情であった。
 乗り込んだエレベーターが伊吹と男を運び、該当の階につく。そこにはウサギの形をした看板が点灯しており、丸くふざけたフォントで【バニーファイター】などと描かれていた。
 訝しげな顔をしていると、伊吹は「さあ、入って入って」と男に誘導されるがままに店内へと押し込まれる。
 足を踏み入れた先。
「いらっしゃいませー」
 伊吹と男を出迎えるキャストたち。
 こういった店なのだから、女性キャストが大半だと思っていたのだが、どうやら全員が男のように見えた。
 それも、比較的目鼻立ちの整った、見目麗しい美青年たちである。
 そして、伊吹は絶句した。
 キャストが男であったから、ではない。
 その店の制服と思しきものが──胸が大きく露出するように改造されたシャツに加え、性器の大きさが目立つタイトな下着。その上から網タイツ、おまけにヒールを履き──頭にはウサギの耳を模したカチューシャを乗せていたからである。
 バニーガールならぬバニーボーイ。
 字の通り脱兎ごとく回れ右をしようとするも、予測されていたのか既に店のドアには鍵がかけられていた。
「くそっ! お、おまえ、未成年に、こんなこと! 日本の警察が黙っちゃねぇぞ!!」
 こんなときばかりは未成年を盾にする伊吹である。
「べつにえっちな接客はしないから大丈夫だよぉ」
 ヘラっと男が笑い、指パッチンをすると奥からぬらりと巨漢が現れる。いい笑顔を浮かべた、壁のような大男であった。そして相変わらず網タイツにうさ耳である。
 夜闇にこんな姿の大男が突然現れたら失禁してもおかしくはない。
 制服と言うことは、こいつもキャストなのか、コンセプトどうなってやがるんだ統一感くらい出しやがれと伊吹は経営方針に文句をつけながら白目を剥いた。
「着替えさせてあげて」
「承知」
 まるで小枝を摘まむように伊吹は大男に連れて行かれ、奥のスタッフルームでは伊吹の色気もなにもない、ただただ汚い絶叫が響いた。
 それが、なんと一ヶ月も前のことだ。
 伊吹自身も驚きなのだが、一ヶ月もこのバイトを続けていた。身バレが嫌なキャストに許可された、目元を覆うマスクを装着しながら──後から知ったが、あまり名の売れないアマチュアの選手などもキャストにいたのである。彼らも、身バレを防ぐためこうしたマスクを付けていた──伊吹はサラリーマンや、中には女性、カップル客を相手にしていた。
 制服は馬鹿らしいが、基本は本当にヴァンガードをし、たまにゲストの酒を作る程度の仕事内容。
 夜遅くに帰ってくるためカードショップが開いてない、しかしそこそこ腕の立つ人とファイトがしたいサラリーマンや、単にお酒を飲みながら若い男とファイトがしたい女性客、彼女にヴァンガードを教えたいけれど、デートでショップは少し退屈だからと連れてきた男性客、など。
 客層は穏やかで、基本的には平和であった。
 そう、基本的には。
 時には尻を触られたり、金を握らされて個室に連れ込まれそうになったこともあるが、そこらのエロおやじ相手に腕力で負けるような柔な身体でもなく、魔法の言葉「困りますお客様」を唱えながら全力で押し返せば問題なかった。
 結果、そこそこ楽しく働いていたのである。この衣装には相変わらず不満はあったが、水着だと思って心を無にすることにした。
 ややオネェが混じっているオーナーも昔はプロ選手であったこともあってヴァンガードの話も気軽に出来、同僚とも空き時間にファイトをしたりと、実に有意義な労働時間であったのだ。
 けれど櫂にはさすがにこのような格好をしているとは言い出せず、バイト先をごまかすようになるも、それでも着実に旅費だけは貯めていった。
 そして、そんな日々が続いた今日──事件とも言えない、小さな出来事が起きてしまう。
「はい、イブちゃん。これドリンクね」
 なお、イブちゃんとは伊吹の源氏名である。
 伊吹は店ではいつもウーロン茶を貰っていた。ゲストからドリンクを貰うと、伊吹の給料に幾らかプラスされるシステムである。
 ゲストグラスとキャスト用のグラスは形と大きさも異なり、基本的に取り違えることはない。
 伊吹は二つ分のグラスをボックス席へと運び、伊吹を気に入っていつも指名してくれる女性ゲストと乾杯をし、そして自分のグラスに口を付けた。
 思えば、その日は酷く喉が渇いていたのだ。
 部活で居残りをして、会場の手配や合宿の手続きなどを行なっていた。帰宅して風呂に入り、そのまま電車に乗り込んでバイト先へ。小走りしたこともあり、渇いた喉を潤すため、伊吹はグッと飲み干した。
 お茶などを入れる通常のキャストグラスは、ゲストグラスに比べて小さく、一気に飲み干すには問題のない量である。
 しかし。
「……ん?」
 ウーロン茶の風味は、する。
 するが、舌に張り付くのはなんとも言えない違和感。
「あれっ? これ普通のウーロン茶だ?」
 向かいに座る女性客が首を傾げた。
 彼女が頼んだのは、確か──ウイスキーのウーロン茶割り。
 まさか、と思うと同時に顔が熱くなっていく。
 これは伊吹の成人後に発覚することであるが、伊吹は洋酒にめっぽう弱い体質であった。
 味は嫌いではないのだが、日本酒や焼酎を飲むときと比べて、格段に酔いやすくなってしまうことが分かり、以後、伊吹は日本酒を好むようになる。
 喉の渇きから、体質に合わない酒を一気に飲み干し、伊吹の顔は瞬く間に赤くなり、頭がぼんやりし始める。
 ──これはまずい。
 伊吹はぐらつく頭で即座に近くのボーイを呼び止めると、ことのあらましを説明し、その後事情を聞いたオーナーが慌てたように「個室で休みなさい」と伊吹を誘導した。
 ゲストに心配されつつ、「大丈夫れす」とやや怪しい呂律で応え、店の奥の個室へと伊吹は倒れ込む。
 眠い、あつい、ねむい。
 明日は学校が休みだから、バイトが終わったら櫂の家に行く約束をしていたのに。
 伊吹は冷たい革のソファに転がって、櫂の名前を呟きながら、あらがえないほどの睡魔におそわれ、眠りについた。
 ──そこまでは、覚えている。
 覚えているのに、気がついたら櫂がいた。
 そして冒頭の「もっと自覚しろといつも言ってるはずだが」という櫂の台詞に戻る。
 櫂のペニスの先が結腸をえぐり、ズルズルと引き抜かれると背筋に響いて淫らな声が鼻から抜けるように漏れていく。なんで、セックスをしてるんだっけ、と伊吹は首を傾げながら「かい、なんで……ここに」と問いかけた。
 一方、櫂は伊吹の言葉に「やっと頭が起きたか」と言いながら伊吹の足を抱えなおし、少しの間だけ腰を止めてやる。
 呆れた口調でありつつも、それはやはり安心している声であった。
「おまえは一向に家にこねぇし、心配だし。そしたら知らねー番号から電話かかってきたんだよ。んで、迎えに来いだの言われて……迎えに行ったら、おまえはその格好だしよ」
 そう言えば、こんなことが起きるなんて思っても見なかったため、緊急連絡先に櫂の番号を書いていたような気がする。
 酔いが醒め、頭がはっきりとしつつある伊吹はサーッと血の気が引いた。
 まさか、酒を飲んで倒れたあげく、こんな夜中に櫂を店に呼ぶ羽目となり、嘘もバレたという事だろうか。申し訳なさと惨めさから死にそうになるが、伊吹はチカチカする視界をなんとか凝らして櫂の顔に焦点を合わせる。
 この疲労感。どうやら、この身体は何度か達しているらしい。一体いつから行為に及んでいたのか。
「だ、だからってなんでセックス……」
 動いていないのに、櫂に満たされていると気持ちがいい。
 最近はバイトや部活に精を出してばかりで、会ってはいたが櫂とはなかなか身体を重ねていなかった。
 徐々に覚醒した頭で周囲を見渡すと、内装からしてここはやはりホテルのようである。
 場所の安全性はともかく、一応は借り物である制服でセックスなどしてはならないと分かっていながら、それでもまだ酔いの残る頭は抱かれる心地よさには勝てない。
 胎内のペニスに媚びを売るようにギュッと締め付け、無意識下で櫂に甘い視線を送ってしまう。
 吸いついてくる粘膜と頬摺りをするような肉ヒダの感覚は櫂にとっても非常に気持ちがいい。
 しかし、それとこれとは別である。櫂は本当になにも覚えていない様子の伊吹の言葉に、顔が強ばった。
 キョトンとする伊吹。
「……おまえが、おまえが俺の顔見るなりバカみたいにデッケー声でねだって、オーナーさんが気遣ってくれたんだろうが……!」
 終電も過ぎた時刻。電話を切った直後、携帯のアプリでタクシーを呼びつけて、櫂は慌てて伊吹を迎えに行った。
 そして案内された個室ではあられもない姿で横たわる恋人がおり、着替えさせようとするが一八〇センチ近くはある長身の男を自立させるだけでも精一杯で、着替えさせるなど不可能に近い。
「もうそのまま着て帰っていいから」
 困り果てていた櫂にオーナーは優しく声をかけ、櫂は「すみません」と厚意に甘えると自分の上着を着させ、伊吹の分の荷物を抱えて個室を出ようとした。
 その時、酔いが回ってフニャフニャの伊吹がふと目を覚ます。
「……なんれ櫂がいるんら」
「お、起きたか……! 伊吹、着替えできるか? 手伝うから着替えよう」
 上着の前を閉じていたにしても、こんな格好のまま恋人を出歩かせるのは人並みの抵抗がある。
 櫂が安堵したように再び伊吹を座らせて、子供に話しかけるように優しく促すと伊吹は首を横に振った。
「ほら、その格好少し寒いだろ? 一緒に着せてやるから」
「せっくすしたい」
 言葉のキャッチボールが不可どころか、爆弾を投げつけられ櫂は遠い目となる。隣のオーナーは「あらあら」としか言っていなかったのが幸いか。
「……後でな、後でシよう? いまは着替えが先」
「セックスするんだよ! しようっていってるだろ!」
 そのまま伊吹は櫂に抱きつくと、オーナーもいるというのに思い切り濃厚なディープキスを櫂に仕掛けた。
 どうしてこうなる。
 押し返そうにも、通常時の腕力の差が歴然であることに加え、伊吹は櫂にしがみついてくる始末。
 舌を必死に吸い、唾液をすする様子は可愛いのだが、今はそれどころではない。
「……っ伊吹! いい加減にしろ! 人様に迷惑ばかりかけて!」
「ああ、いや、うちのミスなのよ、伊吹くんはいつもは真面目に……」
 オーナーが伊吹を庇う声を聞きながら、なんと引き剥がして櫂が叱りつけると、恋人に浴びせられた大きな声に伊吹は目を丸くして、やがてぐすっと鼻を啜った。
「……かいくんがおこった」
「な……っ」
 普段の逆ギレもなければ、憎まれ口もない。
 伊吹は肩を落とすとさめざめと泣き始め、櫂の罪悪感にダイレクトアタックを仕掛ける。
 ──俺が悪いのか?
 頭痛がし始めた重い頭を抱え、それでも伊吹との対話を続けようとした。
「い、伊吹。あのな、俺は」
「櫂くんと」
「え?」
「りょこういくからしごとがんばったのに」
 どうして怒るの、と伊吹は膝を抱え、子供のように塞ぎ込んでしまう。
「……あぁ、あのね、志望動機聞いたときも……その、親しい人と旅行に行くからって、だから短期間でいいってイブちゃん言っててね……普段は本当にまじめで凄く良い子なのよ。イブちゃんもこっちのミスでお酒飲んじゃったのよね、ごめんね。くるしいね」
「……うぅ~……っ」
 伊吹をあやすオーナーの言葉が鼓膜でこだましながら、櫂はぽかんと口を開けていた。
 確かに、近々旅行に行こうとは言った。伊吹は考えておくとも。
 楽しみにしてそうな素振りなど見せなかったし、だから、ただ自分と旅行を行くだけで、部活で疲れているだろうにこんな遅くまで、慣れない接客までしているなどと、櫂は思っても見なかったのだ。
 伊吹は阿呆だ。
 この現状、どう考えたって伊吹の行いは阿呆であり、自業自得としか言えなかったが──櫂はなにより相談して欲しかったし、伊吹に嘘をつかせたくなかった──それでも、やはり惚れた弱みなのだろうか。
 櫂は大きくため息をつくと「伊吹、行こう」と優しく声をかけて、頭を撫でる。伊吹は櫂の声が優しくなったことを理解して、支えられると同時に櫂に抱きつきながら、フラフラと立ち上がった。
「あの、うちのがご迷惑おかけしました。お店で大きい声出してすみません」
「ぜんぜん。お大事にして。私こそ本当にごめんねイブちゃん」
 オーナーは櫂と伊吹を見て優しく笑うと「ああそうだ」と呟く。
「ここから近いホテルなら東口の方にあるわ」
「……ん?」
「あと、別にそれ汚れても構わないから。イブちゃん短期入店で、渡したのは貸衣装だったし。それもイブちゃんが退店したら廃棄予定だったの」
 なにを言ってるのか、理解できないほど櫂は鈍くはない。
 つまりは、そういうことを言っている。
「いやほんと、イブちゃん良い男掴んでたのね~羨ましい。その子、本当に頑張ってたの。責任は私にあるから、だから怒らないであげて」
 ポン、と肩を叩かれ、そのまま上の空のまま裏口から店を後にする。櫂は伊吹を支えながらエレベーターに乗り、さすがにこんな状態の伊吹を抱くなどありえないだろうと、伊吹に視線を送る。
 ──白い睫毛に涙の粒が乗っかり、赤い目は泣いたからかよけいに潤んで赤く光っている。
 頭に刺さっていたうさ耳のカチューシャをいじけたように握り締めながら、まだグスグスと鼻を鳴らす姿は幼く、いじらしく、色気もあって妙に劣情を煽った。
 ごくり、と喉が動く。
「……待たせた」
 そして、外に着けていたタクシーに伊吹を押し込んで自身も乗り込むと、「どこ行きます?」という運転手に櫂はハッキリとした口調で告げたのだった。
「東口のホテルまでお願いします」
 ああもう、静まれ俺の性欲といった投げやり感も添えて。

 櫂の説明を聞いたあと、伊吹の酔いはどんどん醒めていき、もはや素面の状態となっていた。
 覚えていない。一時間経つか経たないかの記憶だというのに、なにも覚えていない。
 覚えてない方が幸せかもしれないが。
 伊吹は櫂の顔を恐る恐る見上げて「あ、あの、ほんとに悪かっ」た、と口にしようとした瞬間、動きを止めていた櫂が再びピストンを始める。
 耳をふさぎたくなるような、溢れるローションの水っぽい音と腰が打ち付けられ、ぶつかる肌の音。
 そして後孔に擦れる櫂の恥毛が、めくれた粘膜を刺激してそれすらも快楽として拾い上げてしまう。
 タイトなパンツを押し上げながらすっかり勃起した自身の陰茎が目に入り、無惨にも破られた網タイツと、やや乱暴な櫂の腰遣いもあいまって、まるで犯されているような気持ちになってしまう。
 前戯を施された記憶はないが、身体は可愛がられたことを覚えているらしい。
 いつかのタイミングで可愛がられたらしき自分の乳首が乳輪からふっくらと勃起して、薄い桃色ではなく濃い赤へと色を変えていた。
 きっと、いつものように吸われて、指で扱かれ、押しつぶすように散々責められたのかと思うと、その妄想だけで伊吹のペニスからはダラダラとカウパーが滴った。
「なーに締め付けてんだよ……」
 櫂は目を細め、どこかサディスティックな笑みを浮かべて伊吹の期待に応えるように更にピストンを激しくさせた。
 無遠慮に虐められる結腸と、擦り上げられる前立腺への刺激で伊吹は身体を痙攣させると何度目かの絶頂に達し、腰が仰け反る。
「あっあ、ぁっ!? ひっ、まだ、まだイってる、イってるから、やだ、やだやだやだ!」
 絶頂の最中、櫂は伊吹の腸壁の刺激を楽しみつつも腰を止めない。
 腰を逃がさぬように押さえつけ、上から杭を打つようにペニスを叩きつけると伊吹はガクガクと身体を痙攣させて「うー」だの「あー」だの意味のない言葉をこぼすのが精一杯となっていた。
 普段、禁欲的なイメージすらある伊吹を壊すのは楽しい。
 しかし、伊吹が酒を飲んであそこまで骨抜きになってしまうのは意外であった。
 あのなんとも言えない可愛らしさは女性はともかく、下手すれば男までウッカリ魅了されかねないなどと考えながら、たとえ飲酒が可能な歳になっても嗜む程度にさせるべきだなと櫂は頷く。
 ドロリと押し出された、伊吹の薄い精液を指で掬ってやると、伊吹自身の唇へ気まぐれに乗せた。
 それを、ほぼ無意識で伊吹の赤い舌が舐めとる。
「なぁ、旅行の話なんだけ、ど」
「うっ、ぁ!」
 それを合図であったかのように、櫂は女性器のポルチオのように性感帯として成り立っている腹の奥を圧迫する。
「神奈川の方はどうかなって……って、聞いてないよな今」
「んっ……ぁ、ああっ……ッひ、が、ぁあ」
 伊吹はもはや、話を聞ける状態ではない。
 獣のような声を出しながら、数えるのも面倒なほど達している可哀想な姿を見下ろして、ウサギってそんな声出すっけ、などと呑気に櫂は考える。
 ふと、露出した胸を撫で、思い出したようにすっかり膨れた乳頭を指で摘まみ上げた。
 再び、伊吹の苦しげでもある甘い声が上がる。
「伊吹、お前さぁ……こんなエロい身体してさ、なにもされなかったからいいとかそういう話じゃねぇからな」
 これは、櫂が愛した身体だ。
 ぽってりと膨れた敏感な乳首も、肉厚な胸も、白い肌では目立つ、少しくすんだ縦割れの後孔も、噛み痕がよく残る首筋も、張りのある臀部も、長い手足も、柔らかな髪も。
 すべて、櫂が愛でてきた身体だ。
 確かにオーナーは悪い人ではなさそうであるし、見渡す限り妙な接客は行われてはいなかったが、やはり恋人として看過できない。
 作り物のウサギの耳を揺らして、真っ赤な乳首を指の腹で優しく撫で回すだけで、伊吹の後孔はローションや体液の混じった白濁の汁を滴らせながら蠕動し、甘くイきそうになる。
 敏感で快楽に弱く、櫂にいじめられるのがなにより大好きな困った恋人を、やはり躾直すべきであろう。
 膨れた乳首を、痛いくらいに乳輪ごと指で挟み込む。
 伊吹の身体が派手に跳ね、それだけで楽しくなると、櫂は「ちゃんと締めろよ」と言ってズルズルと抜けるか抜けないかまで引き抜き、そのまま一気に腰を打ち付けた。
 乳首が指の間で形が変わるほど押しつぶされ、後孔では櫂の長大なペニスを打ち込まれ、伊吹は虚ろな目になりながらも櫂に言われたとおり、奉仕をするかのごとく櫂のペニスを一生懸命締め付け、緩くならないように括約筋を動かす。
 すべては櫂に気持ちよく、この身体を使ってもらうためだ。
 フーフーと息を吐きながら、自らいっそう足を開くと、櫂のペニスを頬張る後孔を自身の指で割り開く。
 赤い粘膜がぬらぬらと光り、隅々で櫂に埋め尽くされていることが実感できるのが気持ちいい。
「……なぁ、伊吹。知ってるか? ウサギってな、ずっと発情期なんだって。ずーっとセックスのこと考えてんの」
 伊吹が呼吸をする度に、ヒクヒクと動く肉輪を眺めながら、櫂は乾いた唇を舐め、胸を虐めていた指で伊吹の頭の上にあるウサギの耳を撫でた。
「俺らみたいだな」
 くく、と喉の奥で笑う櫂につられ、伊吹も思わず笑った。
 たしかに、いま、旅行に行くのならちゃんと声の響かない部屋をとらねばならないと、互いに思っていたところであったから。
 櫂は伊吹にキスをすると、そのまま腰を固定させて薄いゴムの中に子種を吐き出す。

 その後、二人がホテルを後にするのは、もう日が登ってきたあたりの時刻であった。

 ──後日、櫂に「駄目だ」と改めて叱られ、例のバイトをやめることとなった。
 言っていた期日よりも早い退店となり、伊吹はオーナーに直接頭を下げに行ったが「ああなったら当然よね。気にしないで」と言ってオーナーは笑っていた。
「イブちゃん、それで旅行はどこにするの?」
「え? あ、ああ……神奈川あたりですかね。多分」
 伊吹がそう言うと、オーナーは「そう」と頷いて、にっこりと笑った。
「旅館は壁が薄いとこ多いから、泊まるならそこそこちゃんとしたお値段のホテルをおすすめするわ」
 オーナーの親切なアドバイスに、伊吹は思わず吹き出しながら、今すぐここから消えたいと念じつつも「……はい、そうします……」と静かに聞き入れた。
 目標金額よりは下回ったが、ちゃんと貯金はできた。今日はこれから櫂と会って、パンフレットなどを並べながら行き先を決める予定が入っている。
 オーナーに礼を告げ、伊吹は一つでも早い、後江方面行きの電車に乗ろうと、少し駆け足で雑居ビルを後にした。

 なお、あの衣装はオーナーから「捨てる予定のものだったから」とウサギの耳ごと押しつけられたのだが、その後再び自分が着ることがあるのかどうかは、伊吹の知るところではない。