待ちぼうけ

 土曜日の午前授業が終わり、その放課後。
 後江高校の校門前で、やたらと目立つ白い制服の青年が一人。
 とりわけ、整った面立ちから道ゆく女子生徒たちの多くがチラチラと視線を送っているものの、視線の先のにいる青年が周囲へ愛想を振りまくことは一度もなかった。
「あの福原の子、最近よく見るね」
「ねー。彼女待ってんのかな」
「ええー? 福原の子がぁ?」
 ──福原高校。
 その学校に対する世間からの印象は、いわゆる「自由な校風」と言うものが一般的であり、対して進学校として名高い硬派な宮地学園とは同じ都内の私立校であってもイメージは大きく異なるものだった。だが、それらもあらゆる分野に特化した生徒を育成すると言った教育方針に伴い、職人気質な生徒が多く在籍することから囁かれるようになったただの風説に過ぎない。
 どこぞの有名デザイナーとタイアップしたことから、学園設立時より話題となった真っ白な高等部の制服も相まって、良くも悪くも他校とはいろんな意味で一線を画している“華やかな”学園生活を楽しむ生徒たち。
 そんな福原高校に通う生徒が、平凡を絵に描いたような後江高校の校門前で今日も誰かを待っている。
 その様子は、どこか手の込んだ騙し絵のようにも見えた。
 長身に加えて儚げな印象の、容姿端麗な色素の薄い青年を周囲が「新設された芸能科の子ではないか」などと勝手な憶測を好き勝手に述べているなど本人は露知らず。早朝の薄暗い空に舞う淡雪のように、どこまでも真白の青年は佇んでいるだけで目立ち、男性的とも女性的とも形容し難い曖昧な面立ちに、雄々しく恵まれた体躯のバランスはどこか非現実的で確かに美しかった。
 なお、そんな青年が福原校内では「元ヤン」と恐れられながらも、近頃では頼れる先輩としての姿も板に付き始めつつある、優れたヴァンガードファイターなど誰が思うだろう。
 フワリと広がった、あまり丁寧に整えられていない長めの髪を揺らしながら、青年はぼんやりとどこでもないどこかを見つめる。
 ──少し早めに来すぎたかもしれない。
 己に向けられている視線を不快に思い、店で時間を潰せばよかったと小さくため息をつくが、それすらも絵になる始末。気高い猫のようなところがある青年にとって、待ち人以外に向けられる好色な視線など、今となっては嬉しくもなんともなかった。
 己に触れていいのも、容姿を褒めていいのも、見つめていいのも、たった一人だけだと青年は思っている。
 不快に思いつつも悪態すら飛ばさずに、こうして行儀良くしているのは、相手が待ち人が通う学校の生徒だからであった。変に目立って、彼に迷惑はかけたくない。
 当たり前であった一人の時間がこうも不安に感じてしまうなど、最近の自分はよっぽど参っているらしいと己に呆れる。そうして青年が憂いを帯びた表情で携帯を取り出し、なんらかの連絡が入っていないかと確認しようとした、その時だった。
「伊吹」
 ふと、耳障りのいい声が背後からする。
 伊吹と呼ばれた青年が振り向くと、視線の先にはこれまたやたらと目立つ男子生徒が少し慌てた様子で駆け寄って来た。
 高度に洗練された剣にも似た繊細な美しさと、割れた硝子のような精悍さを併せ持つ、群衆の中で一際浮いている美丈夫が「すまん」と言って伊吹の前に立ち、翡翠の瞳を向ける。
 その目を見ると、思わず目をそらしてしまうのはいつものことだった。
「遅い」
 伊吹が俯いて低い声で告げる。
 その不機嫌そうな態度に、待ち人──櫂は少し笑って悪かったと告げると同時に、「駅前で時間潰してくれててもよかったのに」と申し訳なさそうに話した。
 それも、そうである。もう、伊吹も十七になるのだから──厳密に言えば、早生まれの彼はまだ十六だったが──時間の潰し方くらい、いくらでも考えはあった。実際、先ほど時間を潰していればよかったと後悔したところである。
 けれど、そんなことをしている時間すら惜しかった。早く会いたかったのだと、本当のことを言って甘えることを、天の邪鬼を絵に書いたような伊吹ができるはずもなく。
 櫂のなにげない言葉に対して、小さな口からスルスルと出てくる言葉は依然として可愛げのないものだった。
「オレと駅まで並んで歩くのがそんなに恥ずかしいかよ」
 なんでそうなる。伊吹は己の発言を反芻しては、妙な顔をした。
「そんなこと言ってねぇだろ」
 案の定、目の前の櫂も困ったような顔をしていた。
 伊吹は次に複雑な顔を浮かべる。
 まるで痴話喧嘩をしているようなやりとりに、目立つ二人の男子生徒に向けられる周囲の視線も居心地が悪いものになりつつある中。けれど、櫂は気分を害されたような素振りは見せず、つぎの瞬間には大きな目を細めて伊吹を見つめた。
 この男の笑顔は、昔から変わらない。二人の関係が変わっても、お互いの立場が変わっても、それでも変わらなかった。
 そして伊吹が、昔からこの顔にめっぽう弱かったのも変わらない。
 この笑顔を見るたびに、数えるのも面倒なほどの何度目かの「好き」が喉に詰まって胸が痛むほどだった。
「俺は終わってすぐ伊吹に会えてよかったけど、お前が人にジロジロ見られるのはあまり良い気持ちじゃねぇから。嫌な言い方に聞こえたら悪かった」
 自分にだけ聞こえるような声で、目の前の人誑しは平然とそんなことを言ってみせた。
 伊吹がなにかを言おうとして、櫂は言葉を聞く前に伊吹の手首を掴んで引き寄せる。
 手を繋ぐことはしない。ただ、自分のすぐ隣に伊吹を立たせて「行こう」と目で告げた。
 景色から一際浮いていたはずの真っ白な青年が、あっという間に日常に溶け込んでいくのが自分でも分かる。周囲の不快な視線すらも、感じなくなっていくほどに。
 徐々に校門から離れて人通りも少ない道へと入っていき、櫂が取り留めもない話をする最中、伊吹は通学カバンを持っていない方の手で櫂のブレザーの裾をつまんで歩いていた。
 握る指先には力も入っておらず、伊吹の行動に櫂は気づいていない。
 彼らを後ろから見た誰かだけが分かる、そんな小さな主張だった。
「──でさ、明日の日曜にでも一緒に行かないか?」
 伊吹は不意の櫂からの誘いに、曖昧に頷きながら「べつに良いけど」とこれまた可愛げのない言葉を添える。こんなとき、もっと嬉しそうなリアクションでもとれたらいいのだが。
「そこ行くなら、福原からも近いし現地の駅で待ち合わせしても良いんだが」
 待ち合わせ。
「……ああ、わかった」
 嫌だなと、伊吹は漠然と思う。
 思うだけで、口には出さない。
 櫂を待つ間の時間とは、伊吹にとっては時に終わりのない坂道のように果てしなく、そして苦しいものに感じることがあった。
 今日も、そんな日だったのだ。
 そんな日が多くなっていっているような気がする。拙いな、と伊吹は焦りすら感じた。
 いつの間にか櫂がいない時間よりも、こうしてそばにいる時間の方が当たり前になりつつあるのだ。それを自覚すると、今まであった悲しいことが、一気に騒ぎ立てて体中を駆け巡っていく。
 誰も、こんな毎日が、ずっと続くなど微塵も信じれていないのに──
「今日、泊まってけよ。で、そのまま明日一緒に行こう」
「……え、と」
「あ。泊まるんなら服とか取りに行くか? 俺の貸してもいいけど」
 まるで伊吹の全てを見抜いているかのような言葉に思わず、伊吹の足が止まると同時に、ブレザーを握る手に力がこもった。
 すると、当然ながら裾を引っ張られていた櫂も、つられて足が止まる。
 櫂はキョトンとして、重みのかかった一点を見下ろす。そこで初めて伊吹が裾を握っていることに気づいたらしく、伊吹の指先を見下ろして何度か瞬きをしてみせた。
「ち、ちがう。これは虫が!」
 バレてしまったと、青いような赤いような顔をしてトンチンカンな嘘をつこうとした伊吹が慌てて手を離そうとする。しかし、離れていこうとする伊吹の手を櫂が握ったのは、一瞬のことだった。
「……んじゃ、決まりだな」
 そのまま伊吹の手を握って、指を絡める。
 静かな住宅地を再び櫂は歩き始めると楽しげにくくくと笑った。
 ──離せ、その一言を伊吹が言えなかったのは、また喉が詰まっていたからである。
 いつだって、“今日”の彼は、思い出の彼よりも色鮮やかなのだった。

 それが、愛しくも、苦しい。
 けれど今なら、少しの幸せを感じられる気がした。