たられば

 工場地帯でもあるこの街を覆うのはいつだって厚い雲だ。
 海の向こうにあるシティに影響を及ばさないため、排出されている煙は単なる水蒸気という触込みらしいが、それが真実かどうかなど確かめようもない。
 油のようなものが処理もされず、そのまま工場付近の側溝を流れていたのを見たことはあり、常日頃から咳き込んでいる者も少なくはなかった。
 それでも、それ以上のことは知らない。知りようが、なかった。
 サテライトで生まれ、育つと言うことは、無知であり愚かであり続ける必要があった。
 その方が、きっと楽だからだ。
 先ほど殴り飛ばしてからと言うものの、白目を剥いて失神したままの男がウンともスンとも言わなくなったことに気づき、青年は舌打ちをして男を二度ほど踏みつけてから空を見上げた。
 今日も、空は厚い雲で覆われている。
「殺したか?」
 青年、ジャックの雇い主が錆びたドアを開けて顔を出して問うた。
 ここら一帯で一番大きな娼館を管理している胡散臭い男であり、ジャックを用心棒として雇っている上司でもある。
 首元まで彫られたタトゥーと、存外きっちり着込んだスーツの差異が胡散臭さを際立たせていた。
 そして、ジャックはこの雇い主のような軽率な大人が嫌いであり、上司とは言え敬ったことは一度もない。
 現状、ジャックが踏みつけているのは娼館の〝元〟客であった。
「殺しはしないと言ってる。殺してやりたいくらいだが」
 ジャックがもう一度、客を踏みつけるのを雇い主は止めもせず、咥えていたタバコを燻らせると「よかった、クソ野郎でも始末は面倒なんだ」と世間話でもするように言ってジャックに近づいた。
 雇い主の言葉に、瞬く間にジャックの白い顔が怒りで巡った血によって、真っ赤になっていく。
「こいつのせいでアルダは顔に傷ができた! 女の顔に、割れた瓶を押し付けて! それでも貴様は何も思わないのか!」
 鈍い音が鳴る。きっと、踏み付けにした男のどこかしらの骨が折れた音だった。それでも怒りが治らないのは、丸腰の娼婦相手に、奴が行った蛮行が許せなかったからだ。
 ジャックが駆けつけた頃には、ベッドは真っ赤になっていた。店では古株の、アルダと呼ばれている女性がシーツで顔を押さえ、胸元には血溜まりができていた。
 ジャックがアルダの名前を呼ぶと、助けも求めず「逃げなさい」と真っ先にジャックの心配をする彼女の後ろで、酷いアルコールの匂いをさせた男が血の滴る割れた瓶を握っていた光景が蘇る。
 瞬時にジャックが状況を理解し、最初の一発を男の顔面に決めたのは完全な無意識で、その後やって来た雇い主に「処分は任せる」と言われ、今に至る。
「俺だって怒ってるさ。それにアルダはもう医者に診せた、なるべく目立たないように善処してくれる」
「どうだか……サテライトで医者なんぞやってる変人は偽善者か詐欺師しかいない。もちろん後者が圧倒的に多いことも知っている。オレは信じん」
 顔中が腫れ上がり、もはやどこが目なのかすらも分からなくなった客を足で蹴飛ばすと、ジャックは雇い主を肩で押し返し、一足先に職場へ戻ろうとした。
「詐欺師でも綺麗に縫えるんならそれでいいだろ」
 ジャックのまだ若い背に向かって、雇い主は喉の奥で笑う。
 地面に落としたタバコの吸殻を上等な革靴で踏み、ヒューヒューと呼吸音が聞こえる、かろうじて生きているらしい客の前に屈むと前髪を掴んで血塗れの顔を上げさせた。
 雇い主は「なあ?」と笑顔で問う。
 もちろん、返事はない。
「治療を終えたアルダを追い出してみろ、貴様の鼻も折る」
「おっそろしいガキだな……そんなことはしないさ、誓うよ」
「どうだか」
「ああ、そうだジャック、お前受付のことも殴ったろ」
「奴は小遣いをチラつかされて規則を破り、裏口から出禁客を通した。それも貴様の管理不足だ」
「そりゃあ、ごもっともですわな」
 雇い主がジャックに出会った日。
 あの日も確か、この図体だけが立派なクソガキは人を殴っていたなと、鼻がひしゃげて血塗れになった醜い客の顔を見下ろし、雇い主は記憶を辿る。
 シティに生まれていたらどこぞの事務所だのに声を掛けられていてもおかしくない、整った容姿と恵まれた体躯は相手を圧倒するには十分で、されど現実はサテライトではどこにでもいる、哀れなガキだった。
 目が合って、数秒。デュエルディスクがぶら下がったジャックの左腕が相手の胸ぐらを離した瞬間、気まぐれで「うちで用心棒しない?」と雇い主は声を掛けた。
 するとロクに詳細も聞かず、淡々とした口調で「盗みとドラッグ以外ならする」とジャックが言ったので、その場で採用とした。
 のちに聞くところによれば、あの日は性格と気の短さが祟って幾つ目かの職を失った直後で、同居人になんと言い訳をしようかと気を揉んでいたところ、子供を怒鳴って殴ろうとしていた輩を見かけ、子供を庇うついでに手が出た後だったと言う。
 怒りと行動が直結している野蛮人のわりに、職を失ったことを同居人に言い出せない繊細さが間抜けで可笑しかった。
 そんな言い方をするものだから、てっきり気の強い女の尻に敷かれていると思っていたが、聞けば同じ場所で育っただけの野郎と暮らしているらしい。
 雇い主はジャックを気に入っていた。飯くらい食わせてやるから同居人もここに連れて来ても良いと言うと、「あいつは香水の匂いで酔うからダメだ」と話すジャックの口ぶりで、ガキなりにそいつを大切にしているのが分かり、雇い主はそれ以上を言うのはやめた。
 香水の匂いで酔うという話はきっと嘘だった。
 ただ、ジャックから見れば雇い主もサテライトに蔓延る良くない大人の一人であり、大切なものからは遠ざけたい存在なのだろう。
 ジャックの嗅覚は正しいと、素直に感心した。
 どれだけ心が荒んでも、普段は馬鹿正直なくせに、守りたいものがある時だけ嘘をつく男を茶化す気にはなれなかった。
「後の片付けは俺がしておくから、ジャックはもう上がりな」
「殺しはするなよ」
「こんだけ殴っといてお前が言うな」
 このガキは凶暴なわりに殺しには厳しい。「心配するな」とヘラヘラと笑って、娼館へと消えた頼れる用心棒の背を見送る。
 この街は、馬鹿も詐欺師も悪人も善人も子供も平等だった。
 唯一支配する側に立てるのは、友人だろうと育て親だろうと、他人を平気で踏み台にできることが条件で、サテライトとは聖人から一番遠ざかったやつが幸せになれる場所だった。
 口で話すのも憚られるような仕事で飯を食い、必然的にサテライトに流れ着いた雇い主にとっては、ジャックの真っ直ぐな若さと愚かさは眩しくもあり、どんなに窮屈でも高潔であろうとする姿は目に滲みるほどであった。
 雇い主の知り合いには、妊婦の妻を守るために腎臓を売り、近頃サテライトで流通しているゴーストガンを買った男がいた。けれど術後の予後が悪く、家族を置いて男は合併症で死に、残された妻は夫の後を追って形見の銃で、子と自ら命を絶ってしまった。
 そんなどうしようもない悲劇がどこにでも転がる街で、ジャックが諦めたような表情を浮かべたまま、今日を足掻いているのは喜劇に他ない。
 いい加減、悲劇ばかりでは退屈していた頃だったのだ。
 雇い主からして見ればジャックが本当にいつかこの街を出て行くような、そんな予感すらしており、彼を眺めるのは退屈しのぎにはちょうどよかった。
 一体、ジャック・アトラスという貪欲なガキが、何を捨ててここを出て行くのかが、楽しみで仕方がなかったのである。
「た、すけ……」
 足元の客が咳き込んで、惨めったらしく鳴く。
 雇い主は、顔色一つ変えないままサプレッサーが取り付けられたゴーストガンを胸元から出すと、〝元〟客を一瞥もすることなく、脚にしがみついてくる腕だけを器用に撃ち抜いた。
 自らブレンドしたシャグを詰めた手巻きタバコを一本咥え、痛みに怯え悲鳴を上げているそれの利用価値を、雇い主は気まぐれにもう一度発砲してから考えた。

「ディオン、立派になったねぇ」
 ベッドで体を起こした状態の老婆が孫の名前を呼び、シワだらけの手で修理工の手を有り難そうに握る。
 修理工の青年は老婆の孫ではなかったが、特に訂正することなく、小さな声の一つ一つに頷くと曲がった背中をさすって話を聞いた。
「じゃあ、仕事に行ってくるね、ばあちゃん」
 あくまでも、ディオンを演じる。
 老婆は嬉しそうに応え、修理工を抱きしめると「気をつけて行くんだよ」と見送り、青年は老婆を寝かしつけた。
「……ごめんね、母さんのボケが最近酷くって」
 玄関先で修理料金を支払いながら、老婆の娘にあたる依頼主の女性が申し訳なさそうに溜息をつく。
「大丈夫ですよ」
「遊星くんが優しい子で助かるわ」
 実際、遊星と呼ばれた修理工も迷惑とは思っていなかった。何もかも忘れた方が楽だろうと思えるような苦痛を、遊星は味わったことがある。だから、老婆の前では茶番にも付き合えた。
「……本当のバカ孫は一昨年にドラッグのやりすぎで死んだってのにね」
 それでも、あくまで気休めに過ぎない。
 息子を亡くした彼女もまた、同年代の遊星を見るたびにどうしても息子の姿を重ねてしまう。
 遊星は受け取った料金を数え終え、少しばかり多いことに気がついて返そうとするも、女性は首を横に振った。
「母さんの相手してくれたお礼。それで友達となんか食って来な」
「でも」
「ガキンチョが遠慮なんかするもんじゃないよ」
 頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。
 遊星が乱れた髪のまま顔を上げると、依頼主の女性は少し泣きそうな顔をしていた。
 こう言うとき、なにを言うべきなのかが分からない。
 口を開いて、すぐにまた閉じた。「ありがとう」とだけ言って受け取ると、女性が「よし」と涙声で言う。
 ──ジャックなら、なんと言っただろう。
 こういうとき、言葉が迷子になったとき、そんなことをいつも考える。
 もっと言葉と仲が良ければ、良かったのにと。
「最近また若い子の間で変なドラッグ流行ってるらしいから。あんたはすんじゃないよ、絶対に」
「うん」
「今日はありがとうね」
 こちらに手を振る依頼主が家の中に入るまで、遊星はぼんやりと立ち尽くしていた。
 チーム・サティスファクションの解体と、鬼柳の逮捕から数ヶ月。
 仲間を見捨ててしまったという罪悪感で塞ぎ込み、食事すら拒んでいた遊星も少しずつ外に出ることができるようになり、徐々に社会復帰を始めていた。
 手先の器用さと知識を活かした修理工と言う職も板につき始め、今ではそこそこに忙しい日々を送っている。
 元はジャンクだったものを自ら修理して動くようにしたスクーターに跨がり、エンジンをかけ、今日の仕事を終えて帰路についた。
 鬼柳はもういない。
 情熱をかけられるものも。
 デュエルディスクよりも、工具箱を抱えることの方が最近は増えた。
 なにもない、平凡で優しい日常を惰性で生きている。
 漠然と消えたいと思うことも減り、理由もなく涙が出ることもなくなったが、今もふとした時に思い出しては歩けなくなる。
 もっと鬼柳と話していれば、言葉が出ていればと、そんな意味のないことを考え続けてしまうのだった。
 あの一件以来、遊星は数年ぶりに再びジャックと暮らしていた。
 おそらく鬼柳の逮捕直後の危うい遊星を見かねて、見張るためというのが理由の大半を占めていたのだろうが、放心状態だった遊星のそばに気がつけば当たり前かのようにジャックがいた。
 いつまでもウジウジするな、ちゃんとしろと活を入れられるのかと思っていたものの、遊星が家から出られなくなった時もジャックは何も言わずに遊星と生活を共にして、強引に食事を与えて風呂にも入れてくれた。
 昔の幼き頃のようには戻れなかったが、それでもジャックがいたからこそ、遊星はこうして立ち直れたのだと思う。
 今では思考も晴れ始め、久しぶりに、デュエルがしたかった。少し前まではそんなことを考える余裕もなかったことを思うと、本当に緩やかではあるが心の欠けた部分が塞がり始めているのを実感する。
 今夜、誘ったらジャックは一戦付き合ってくれるだろうか。
「……あ」
 そんなことをぼんやり考え、スクーターを走らせてしばらく。仮住まいとしているメトロ跡にそろそろ着くかと言う頃、前方を歩く長身の人影に思わず声が出た。
「ジャック」
 減速して見つけた背中に近づき、名前を呼ぶとジャックが振り向いた。
「珍しいな、この時間に上がりなんて」
「問題が起きてな。お前も帰りか」
 少し疲れた顔をしているジャックにどうしたのだろうと思いつつも、遊星は律儀にスクーターから降りて当然のようにジャックの隣に並ぶ。
 その幼い仕草に、ジャックは少し呆れたような顔をして一度立ち止まった。同じく、遊星も足を止める。
「わざわざ並ばんで良い。疲れているだろう、先に帰らんか」
「ジャックも疲れてそうだ。一緒に帰ろう」
「子供か」
「普段は俺に子供だのなんだの言うのはジャックだ」
 ああ言えばこう言う──ジャックは溜息をつく一方で、言い返すようになってきた遊星に安堵もする。
 その後は諦めたジャックが遊星に「好きにしろ」とだけ言って、長い足でズンズンと一足先を歩き始めた。
 経年劣化によって舗装が剥がれた、足場の悪い小石だらけの道。
 スクーターに取り付けたリアボックスの中にある工具箱が、遊星が歩くたびにガタガタと音を立てる。
「今日は依頼人からチップをもらったから、荷物を置いたら夕飯を買いに行こう」
「ほう。いいな」
 普段は期限切れ間近の安価なインスタント食品を掻き込むことが多い。二人して育ち盛りということもあり、質よりも量だった。
 とは言え、たまには贅沢も良いだろう。
 遊星が働きに出られるようになってからの生活費は折半であった。
 これまでは仕事がなかなか続かなかったジャックが、今や安全とは言えない場所で体を張ってそれなりに稼いで来てくれるので、遊星の稼ぎと合わせると一時期に比べるて十分余裕はあったが、贅沢ができるほどではない。
 だから、たまの良い食事は二人の楽しみであった。
 ジャックの嬉しそうな横顔を盗み見て、遊星も少しだけ、本当に少しだけ笑えたような、そんな気がした。
「ジャック」
「なんだ」
 前みたいに、また笑えるようになるのだろうか。
 遊星は早く〝前みたい〟に戻りたかった。
 戻らなくて良いと、今を生きろとジャックは言ってくれたが、得体の知れない焦燥感がいつもすぐそばにいる。
「今日の夜、しないか?」
 焦燥感があるのは、頭の中に空白があるからだ。
 実際、仕事をしているときは考えずに済む。
 それを埋めるためにもデュエルは最適解だろうと遊星は考えてジャックに提案したのだが、如何せん、やや言葉が足りなかった。
「……急だな」
 訝しげにジャックが言う。
「最近していなかったから」
「あんなもの、ただの戯れだろう」
「……あんなもの? ジャックはそんな気持ちで俺としていたのか?」
 少なくとも、遊星にとってジャックは目標でもあり好敵手である。
 ジャックの方が腕があるとは言えど、彼も多少は己と同じ気持ちを抱いていると思っていただけに、軽はずみな発言に遊星の顔つきも強張った。
 そんな幼なじみの真剣そうな声色と眼差しに、ジャックはらしくもなく目を丸くして、視線を少し泳がせてから慎重に言葉を選ぶことにする。
 妙なことになっていると、ジャックは焦っていた。
「……言葉がよくなかった」
 そしてなぜかいつもより早口で、素直であった。
「ジャックは、俺と同じ気持ちだと思っていたから」
「……そうか」
「違うのか?」
「いや……」
 遊星とジャックは、あくまでも幼なじみであった。
 幼なじみという関係を保ちつつ、好奇心や傷の舐め合いからそういうことをしたこともまた事実であり、近頃も遊星が不安定な時には慰めとも言える行為に及んだ。
 とは言えお互い女を抱いたことがあり、ジャックに至っては遊星と再び生活を共にするまでは毎日違う女の家を転々としていた過去もある。
 それは遊星も知っていた。けれど今まで特別咎められたこともなく、今も束縛し合うような関係でもない。
 そうなる予定も、なかった。
 ──はずである。
 ジャックはこれらのことを一瞬にして整理し、悩んだ。
 少しでも答えを間違えると、手を出すだけ出して責任を取らない、不誠実な男そのものになってしまう。
 否、すでにそうなのかも知れないが。
 遊星のような淡泊とも言える男が互いの関係を真剣に考えているとはジャックも思っておらず、言葉に詰まる。
 しかし、それも言い訳にしか過ぎないだろう。
 ジャックは一度大きく息を吸うと、遊星の目を真っ直ぐに見つめた。
「──今はまだ、言えない。だが、やるべきことを終えたら、そのときは……」
 そうなっても良いと、どこかで思っている己がいる。
 ジャックが全てを言い終わる前に、不思議そうな顔をした遊星が首を傾げて、遮った。
「……なんの話をしている?」
「……呆れた奴だ。これからの話だろう」
「俺は……デュエルに誘っただけなんだが、言い方がよくなかったか?」
 見つめ合う二人の青年、数秒の沈黙。
「……主語をつけろバカタレ」
 なんとか言えたジャックの一言は、怒りに震えているように聞こえた。
 遊星はキョトンとして「なんで怒っているんだ」と問う。
「まどろっこしい言い方をするな。デュエルの相手なんぞ改めて言わんでもしてやる」
 誤魔化すようにジャックが少し早足になり、遊星が首を傾げたまま慌てて追いかける。
 遊星の言葉が一言二言、足りないのは今に始まった事ではない。それでもジャックは付き合いが長いこともあって、いつもおおよその意味を察してくれた。
 クロウには遊星翻訳機などと言われても笑っていたのに、なぜ今になって怒るのかと肩を竦める。
 己の言葉とジャックの言葉を振り返って、何がいけなかったのかと無表情の裏側で必死に考える遊星は、一つの答えにたどり着いた。
「……あ」
「なんだ」
「セックスの話だと思ったのか」
 確かに、「しよう」だけではそう思われてもおかしくはないが、二人にとってはセックスよりもデュエルの方が当たり前の存在であったため、分かってくれるだろうと甘えてしまった。
 だが、このような勘違いをさせるならこれからはちゃんと言わねばなどと律儀に反省し、生真面目な遊星は淡々とジャックに対して謝罪をする。
 天然なのか羞恥心がないのか、はたまたどちらもなのかと遠い目をするジャック。
「お前のそう言うところは今に始まったことじゃあない」
「俺はセックスも別にしていいと思ってる」
「やかましい」
 遊星の顔を覆うことなど容易なジャックの手で頬を挟まれ、半ば強制的に口を塞がれた遊星だったが、目の前にあるジャックの大きな拳にいくつかの傷があることに気づき、思わずその手に触れた。
「……誰かを殴ったのか?」
 この気性の荒いジャックが、誰かを殴り飛ばすことはさして珍しくはない。けれど、この皮膚の剥がれ方は、何度も硬いところに拳を打ち付けた時のものだった。
 ただの喧嘩で負ったものでも、ジャックほどの体格と腕力があれば大抵は一発お見舞いすれば勝負はつく。
 それが、こんなに拳を痛めるほど殴っていると言うことは、なんらかの強い怒りや衝動があったのだろう。
 仕事で問題があったと話していた。
 疲れた様子のジャックと、拳の傷とで、合点がいく。
「……お前は知らなくていいことだ」
 ジャックは罰が悪そうに、遊星から手を離した。
 いつも、そうなのだ。
 こうしてジャックは遊星を大切にしてはいるが、内側には入れてくれない。
 特に暴力やドラッグなどの、サテライトの日常であり常軌を逸した部分については、問答無用で遠ざけようとした。
 遊星はジャックに触れられた頬を撫で、目を伏せる。
「……誰かを守ったんだろ?」
 先述したように、短気で、気が強いジャックが誰かを殴り飛ばすのは、良くあることだ。
 だとしても、ジャックは決して弱者を相手にしなかった。
 いつも相手にするのは、弱者を踏み台にしようとする者ばかりなのを、遊星は実際に見てきたのだ。
 気性の荒さから勘違いをされることも多いが、ジャック・アトラスは理由もなく誰彼構わず殴りつけ、喧嘩を吹っ掛けるようなことはしない男だった。
 だが、遊星の問いに、ジャックは首を横に振る。
「守れはしなかった。ただ、怒りをぶつけただけだ。何もできなかった」
 ──証左として、アルダは顔に傷を負った。
 彼女はジャックよりも一回り以上は年上の、落ち着いた、穏やかで美しい女性だった。
 娼館の中でも年長であったためか、周囲の世話役を買って出ては、ジャックに対しても同じように親身であった。
 客がアルダのために買ってきたシティの高級菓子も自身は口をつけずにジャックや若い嬢に与え、お腹が空くでしょうと微笑み、急な雨の日には客が忘れて行ったままの傘をジャックに持たせてくれた。
 普段は眠たくなるほどおっとりとした口調なのに、濡れても構わないとジャックが言うと、そんな時ばかりは語気を強めて「だめよ」と言うのだ。
 字の読み書きができない者たちには教養を与え、ジャックが小説を好むと聞けば読み終わったお気に入りの本を貸してくれるような女性だった。
 掃溜のような世界に生きる、善き人だった。
 ジャックは学校などの機関とは縁がなかったが、きっと、先生というのは彼女のようなことを言うのだろう。
 そんな人を、守れなかったのだ。
 アルダを傷つけたのは、以前からしつこく彼女に言い寄っていた客の一人であり、挙げ句の果てには娼館の出入り禁止も言い渡されていた。
 以降はアルダに対して逆恨みをしていたらしい。受付に金を握らせて裏口から娼館へと忍び込むと、結託していた受付に客が来ると言われ待機していたアルダを襲い、顔に傷を負わせた。
 受付の言い分としては、話し合いたいと聞いていた、こんなことになるなんて、などと喚いていたが、全てを言い終わる前にジャックが思い切り顔面を殴りつけたので全貌は聞けなかった。
 いつもこの世界は理不尽で、ジャックを惨めな気持ちにさせる。
 明らかに正気でない男と二人きりになり、アルダはさぞ怖かっただろう。痛かっただろう、苦しかっただろうと、彼女が受けた苦痛を思えば思うほど、ジャックは頭が真っ白になるほどの怒りを覚えた。
 けれども彼女はジャックに「助けて」とは言わなかった。大きな声で、「逃げなさい」と怒鳴ったのだ。
 無力な子供を守ろうとする、大人の声だった。
 ジャックは自分自身も傷ついていたが、それを上回る怒りによって、傷の深さに気づけない。
 だが、そばにいる遊星だけは、ジャックの痛みに触れることができる。
 晴れ間の見えぬ雲の下。
 遊星の瞳だけが、空のように青かった。
「……俺は、俺の代わりに怒ってくれるジャックに何度も助けられた」
 なにがあったかは、聞かない。
 ジャックがいつも、遊星にそうしてくれるように。
 ただ、傷ついているのなら、寄り添いたいと思う。
「だから、何もできなかったってことは、たぶん、ないから」
 だのに、出てくるのは拙い言葉ばかりだ。
 ジャックは自身の痛みには無頓着で、寝たら忘れるなどと言っているが、いくら引きずる質ではないとは言えど辛いものは辛いはずだ。
 俯く遊星の頭に、ジャックの傷まみれの手が乗る。
 頭をぐしゃぐしゃと撫でられながら、頭を撫でられるのは今日で二度目だと思った。
 手つきも、体温も同じ。
 やるせなさと、愛しさが混じった手は、泣きたくなるほどに暖かい。
「遊星、帰るぞ」
 ジャックの言葉に、遊星は頷く。
 これは予感に過ぎなかったが、いつかジャックは、遠いところに行ってしまうと遊星は確信していた。
 恐らく、遊星を連れて行ってはくれないとも。
 その時、自分はちゃんと、追いかけられるようになっているのだろうか。
 帰ろうと、ジャックに言われなくても一人で帰れるようになっているのだろうか。
 十五歳になったばかりの遊星には、まだ未来は見えなかった。
 ガタン、と。
 リアボックスの中で、工具箱が派手に倒れた音がした。