敬愛と夜に

 慕っていた兄貴分であり友でもある男がセキュリティに連行され、あたかも己の責任だと言わんばかりに塞ぎ込んでいた虚な目の遊星の口から「消えたい」と聞いたあの日、なぜ普段のように引っ叩きもせず、「前を見ろ」とも怒鳴りもせず無言で抱きしめてしまったのか、ジャックは数年たった今も分からないでいた。
 その言葉を聞いたときに抱いた感情は、怒りだ。
 心身ともに参っていた相手に向ける感情ではないのは分かってはいるが、それでも胸中に渦巻く激情は怒りに等しく、何かを言おうとした唇が震えたことも覚えている。
 それなのにジャックはなにも言わず、屍体のように動きもせず、風呂にもしばらく入れていない浮浪者のような有様の当時おおよそ十四か十五になるかどうかの頃の見すぼらしい少年を抱きしめた。
 腕の中の痩せた体が存外暖かく、ああ良かった、死んでいないのかと可笑しな安堵を抱きながら、あとで無理やり洗ってやろうなどと飼い犬に対するような気持ちで、呻くように泣くばかりで何も言わなくなった遊星と薄暗い当時の寝床で迎えた朝は静かだったのである。
 そして、その日からだ。
 その日から、ジャックがサテライトを出るまで、あれから何度かセックスの真似事をするようになった。
 触り合い程度のことなら幼少期にもした覚えがある。けれどもそれは娯楽の少ない環境下で、退屈しのぎに手っ取り早く満たされる方法が自慰くらいだった、というだけのこと。
 女を知れば当然その機会も減り、お互いあの頃は特になにも考えていなかったのである。
 ただ、心が疲れてしまった遊星が働けるようになるまで、当然のように二人分の日銭を稼ぐために朝から晩まで家を空け、時に派手な痣を作って帰ってくる──当時は主に娼館の用心棒だの、賭けデュエルなどをしていた──ジャックを目の当たりにし、気にするなと言ったところで責任感の強い遊星にとっては深い罪悪感のようなものが拭えなかったのだろう。
 働こうにも急に涙が出て来ることもあれば、以前のように集中力が続かず疲れやすくなり、修理の仕事やジャンク弄りも当時の遊星にはほとんど出来なかった。
 やがて口数も減り、表情も強張ったまま人形のようになってしまった遊星は、ジャックの寝床に潜り込んで、そして言ったのである。
 オレを使って欲しい、と。
 なんのことか、最初は分からなかった。
 否。
 寝床に入ってきた相手が口にするその言葉がどう意味を持つのかを分からないほど無知ではなかったが、分からないふりをしたのである。
 とぼけて、やがて遊星が「やっぱりなんでもない」と言うことを、そしていつも通りの、平穏で代わり映えのない明日が来ることを、ジャックは期待していた。
 互いの性器を触っていたのも数年前の話だ。遊星もジャックにもそれぞれ既に女性経験が有り、あの戯れはただの退屈しのぎで、好奇心で、それ以上でもそれ以下でもないと納得していたはずである。
 そうでないと、いけない気がしていた。
 己を見下ろす遊星に「なんのことだ」と言うと、月も翳ってよく見えない視界の中で遊星が少し悲しげに笑ったような、そんな気がして呼吸を一瞬忘れる。
「……これでも、上手いとよく褒められたんだ」
 掠れた声が聞こえて、そして遊星がジャックの下衣におずおずと手をかけた。
 人とは、なぜいつも自分の都合のいいように考えてしまうのだろう。
 遊星が初めて女を抱いた時のことも、ジャックは知っている。後腐れのない、そういうことに慣れた気立てが良い女を紹介したのは、紛れもないジャックであったからだ。
 いつまでも垢抜けない様子の遊星に女を覚えれば何か変わるだろうと思ったのが発端で、本人は頑なに「そんなのいい」と言っていたものの、行為を終えて帰ってきてから「どうだった」と聞けば恥ずかしげもなく「気持ちよかった」とぬかしたので、あの頃のジャックと言えば大笑いをしながら遊星の痩せた背中を叩いた。
 その日の夜に飲んだ酒は添加物の味が酷く、おまけにヌルいフルーツビールで、不味い不味いと言いながら二人で飲み干したときのことまで、ジャックは覚えている。
 けれど、それからのことは知らない。
 何も、知らなかった。
 知ろうともしなかった。
 ただ、不快ではあった。
 これは子供の駄々っ子と変わらない。己が女を抱くことも遊星が女を知ることも構わないのに、ジャックは遊星が知らないの同性を相手にしたことを知ると腸が煮えくり返るような思いであったのは確かで。
 騙されたのか、それが同意だったのか、遊星が自ら誘ったのか、なにもかも分からないまま。
 相手が何も言わないことを了承と捉えた遊星が黙々と事を運ぶ中、ジャックは徐に上体を起こし、幼なじみの思いのほか幼い顔を上げさせる。
 そんなことはしなくていい、遅いからもう寝ろと、それさえ言えればまた変わらない明日が来る。
 そこまで分かっているのに、言葉が勝手に口を衝いて出た。
「一方的なのは趣味じゃない。ちゃんと使ってやるからこっちに来い」
 告げられたジャックの言葉に遊星は今さら少し困ったような顔をして、それがまたジャックの癪に障り、八つ当たりで酷いことを言いかけるのを唇に噛み付くことで誤魔化した。
 それはなにも知らなかった子供の頃に行ったようなものではなく、粘膜で快楽を得られることを知っている者同士の戯れであり、寝る前に吸った粗悪なヤニの苦味が少しだけ甘くなったのをぼんやりと覚えていた。