ココアを一つ

 電気ケトルのスイッチを押す。
 しかし、それがうんともすんとも言わない。
 ココアの粒子を蓄えたマグカップは「まだ?」と待ち惚けたように、手の中でこちらの様子を伺っていた。ロマニ・アーキマンは申し訳無さそうに、優しい手つきでマグカップをテーブルに乗せる。そして、大きな溜め息をつくと、ヨロヨロした足取りで傍にあった椅子へと力尽きた様子で腰掛けた。
 思えば最近はまともに寝ていない。
 普段の勤務に加えて論文に学会発表、詰め込まれ過ぎたスケジュールがそろそろ精神さえも追い込んでこようとしている。
 顔を手で覆い、「あー」とか「うー」などと呻いてズルズルと椅子から滑り落ちていく。電気ケトルからお湯が出ていれば、我に返らずに済んだというのに。いつも通りお湯が出ていれば、今頃淹れたてのココアを啜りつつ無機質なロボットのようにペンを走らせることが出来たはずなのに。
 そもそも、朝に中の水を入れ替えた筈であった。自分でやったのだから覚えている。どうしてなくなっているかなど、原因はあの“居候”にしかない。ロマニ・アーキマン、以下ロマンが一際大きな「あー」を吐き出すと玄関の扉が開く音がした。
 鍵を閉め、聞き慣れた歩幅が廊下を歩く足音。そしてロマンが借りているマンションのリビングへと当事者が入ってくる。
 光にあたると色を変える、白髪とも言い難い複雑な髪色をした軽薄そうな男が今にも溶けそうなロマンを見下ろしていた。
「おもしろい格好をしているね」
 顔は笑っているが、面白いなど微塵も思っていなさそうに男は言う。
「お前のせいだ」
「私? なにかしたかな」
 心当たりしかないくせに、真剣に考えようともしていない。それはロマンが呆れて「もういい」を言うのを待っている顔であると、それだけは分かった。ロマンが眉を顰め、「もういい」を言おうとした口を閉じる。
 直後、ズルンと滑って椅子から崩れ落ち、仰向けに倒れた。
 派手に頭を床にぶつける。痛い。
「おやおや。大丈夫かな?」
「心配してないだろ」
「うん」
 テメェ。
 ロマンは大の字になったまま、傍に屈んでのぞき込んでくる男——マーリンを睨んだ。
 マーリンは、ロマンが二人で住もうと誘った覚えもないのに、何故か当たり前かのようにこの家に住み着いている居候である。最初は邪魔しに来る程度だったのが頻度が増え、いつの間にか寝起きもここでするようになっていた。ロマンがそれに気づいたのは最近のこと。
 女の家を転々としていたが、最近になって追い出されたとは聞いていた。けれど“次”がなぜこの家なのか、ロマンは今も分からない。
 経緯がどうあれ一緒に住んではいるが、二人の関係性は健全なものではなかった。大学教員と花屋の店員、建て前は友人、実際は他人以上セフレ未満。
 特別この男と体の相性が良いわけでもなく、お互い女が好きで、男に興奮することもない。だのに二人でいるとそういう雰囲気になってしまって、つい、うっかり。ロマンは勢いでマーリンを抱いた。ロマンの言い分としては、マーリンが拒まなかったから。
 そしてその時から、惰性でいまの関係が続いている。
 マーリンも特別気持ちよさそうに抱かれているわけでもない。ロマンもふと我に返っては、虚しさに途方に暮れる。しかしそんな感情に己の睾丸は気にも止めず、腰を振って馬鹿みたいに薄いゴムの中に射精するのであった。
 なにが楽しくてこんなことをお互い続けているのか、ロマンはそんな矛盾を抱えつつも先日、この男に部屋の合い鍵を握らせた。
 そして、その結果がこの電気ケトルだ。
 あの合い鍵を渡してしまったことをロマンは日常的に後悔している。
 埃が泳ぐ床の上でロマンは人形めいた顔を黙って見つめ(睨み)続けていると、マーリンは目を細めて再び笑う。顔だけは相変わらず怖いくらいに綺麗だった。
「どこに行ってたんだ」
「買い物に行ってくるよ、と言ったのに聞いてなかったのはロマンくんだろう」
「聞こえないように言うのが悪い」
「大きな声で言えば煩いって怒るのに?」
 難儀だねぇ、なんて言いながら買い物袋をガサガサ漁る。床の上で大の字になっているロマンの腹の上にインスタントのスープ、唐揚げ弁当、サンドイッチの順に乗せて「お昼にしよう」と言った。マーリンも、ロマンと同じくほぼ生活力が無いに等しい。自炊をしようと思えば出来るけれど、手際が良い訳でもない。そんな彼が買ってくる食事とはいつもコンビニ製であった。
 だが、論文を前に食事を面倒くさがって菓子ばかりを摘まみ、まともな食事をとっていなかったロマンにとってはささやかなご馳走にも見える。
 ぐぅ、と腹の虫が鳴いた。マーリンは腹に乗せたものをテーブルの上に移すと、ロマンの腕を引っ張り上げて立ち上がらせる。猫背のロマンを見てマーリンは今度こそ本当に楽しそうに笑っていた。いや、呆れていたのか。
「ほら、座って。お弁当あっためて来るから。ああ、そうだインスタントスープにお湯を入れないと」
「それ! ケトルの中がなくなったら水入れろ!」
 文句を言いつつもマーリンに言われるがまま、ちゃんと椅子に座り直したロマンがテーブルを叩いた。やっと言いたかったことを言えた気がする。それでもマーリンは反省の色を浮かべることはなく、それどころかロマンの小言を聞き流し、インスタントスープのラベルを剥がし終えると空の電気ケトルを持ち上げてキッチンまで軽やかな足取りで歩いていった。
「おい、無視か」
「無視というか。思い通りに行き過ぎというか」
「はあ?」
「未来予知ってやつだね、うん」
 意味の分からないことを言いながら、ウンウンとマーリンは頷いて電気ケトルの中に水を入れた。
 ロマンはこれまた不機嫌そうにボサボサの髪を掻き上げ、キッチンに立つマーリンに何か言おうとする。口を開いたとき、マーリンが言葉で遮った。
「お湯、入ってたらロマンくんはまた引きこもっちゃうじゃないか。あ、用意できるまで先にサンドイッチを食べててくれて構わないから。お腹すいてるだろ」
 マーリンは中が満たされた電気ケトルをテーブルの真ん中に置いて、スイッチを押した。加熱中の赤いランプが点る。

 まさか、こいつ。わざと抜いて行ったのか。
 
 二人分のコンビニ弁当を抱えて、電子レンジの元へと行くマーリンの背中をロマンは呆然と見つめた。
 そして、やはり自分はコイツが嫌いだと、そう思う。
 などと思いつつもマーリンが来るまで、ロマンはサンドイッチに手を着けなかった。待ってると思われると気に喰わないので、徐にテレビをつける。
 興味もないワイドショーを眺めながら、彼がグラスを食器棚から取り出す音を黙って聞いていた。

 忘れ去られたココアの粒子を抱えたままのマグカップは、電気ケトルと無言で顔を合わせたままでいる。