とおくの

 約数百年前に起きた「地鳴らし」と呼ばれる厄災は世界の有り様を変えた。
 熱によって極地の氷は溶け、海面は徐々に上昇。大陸の大部分が水没したことによって生じた気候変動や生態系の変化に対応すべく、やがて人類は宇宙を目指すこととなる。
 それから時は流れ、人々が地球を離れ宇宙に点在するコロニーで暮らすようになって百年の時が過ぎた頃。
 宇宙治安維持局の管轄下である第四コロニー『ヨツンヘイム』にて主に生命起源研究に取り組む少年、アルミンはとある調査用ドローンの解体を任されていた。
 このドローンが行った調査内容は母星である地球にて、ユグドラシルと命名された、未だ朽ちることなく地球に根を張り続ける大樹の成分調査である。
 アルミンは見落とされた付着物などがないかを慎重に確認しつつ役目を終えたドローンの解体を行う中で、ユグドラシルの根本を調査したと思しき箇所から有機生物の乾燥した胚のようなものを発見した。
 震える手で、小さな胚をなんとか取り出す。
 なぜこんな重要なものが見落とされてしまったのかという困惑と、〝これ〟は自分を待っていたのではないかという興奮から心臓が何度も何度もアルミンを殴りつけるのが聞こえた。
 乾燥してしまった胚は細胞内の細胞膜が収縮し、細胞の構造が崩れて死滅しているものだが、ここは小さいながらも優秀な科学者として未来を期待された少年個人に与えられた立派なラボである。アルミンは生体修復を行うナノマシンを起動させると、調合した培養液に浸した胚をマシンに設置する。暫くしてから修復を開始する赤いランプが点滅するのを確認して、その後は力が抜けたように床に座り込んだ。
 急いで上層部に連絡をせねばならない。分かってはいる。これを報告すれば、きっと昇格も間違いない。もっと大きな研究に携わらせてもらえるだろう。
 アルミンは理性と衝動の狭間で頭を抱え、それでも胚が日々、少しずつ生命を吹き返していくのをただ眺め続けることしかできなかった。
 大罪だということも理解し、己がどれだけ愚かであるかも、こうしている間にも人類が地球に帰ることが遠のいて行くのだろうと悲観しながらも上層部に胚の存在を報告することはなかった。
 見えないなにかに突き動かされるように、たった一人で成長を見守ることを決めた。
 胚の形態や発生段階から、植物などではなく何かしらの動物であることは早くに分かったものの、外部に設置する体外子宮機に移してからはそれは徐々に人の胎児のような形態を取るようになり、脅威的な速さで成長を遂げるとおおよそ二十週間足らずで人間の男児として生まれることとなった。
 腕の中にいるのは、元気な産声を上げる、ただの小さな赤ん坊だった。
 いつか見たパニック映画のようなモンスターのようになったらどうしようと考えたこともあったが、見た目も、その後の精密検査の結果も殆ど人間の赤子と変わらない。
 恐れがない、と言えば嘘だ。
 だが赤子を抱いた瞬間、暖かくて、柔らかくて、アルミンは大袈裟なくらい涙が止まらなかった。
 生まれた子の名を、エレンとした。
 由来も理由もない、ただのエレン。
 不思議とそうしたいという衝動だけがあった。
 自分が恐れ多くもかつて実在した英雄の名を与えられたからか、名に意味をもたせることをアルミンは無意識に嫌っていたのかもしれない。
 将来的に必要であればエレンを養子として引き取ることを決め、彼の身分を孤児として偽り、僅か十二歳でアルミンはエレンの父親代わりとなった。
 胎児の頃と同じく、またたく間に大きくなるエレンはやはり普通の子供と違って異常なほど成長速度が早いように思えたが、アルミンはエレンの体を刻んだり、解剖したりはせず、父として、または友として二人で静かに生きることを選んだ。

「──アルミン、これはなんだ?」
 すっかり話せるようになったエレンは、まだ生まれて二年ほどだというのに既に五歳ほどの体格と知能があった。
 近ごろのエレンはアルミンの本を好きに持ち出しては様々な質問を繰り返すようになり、それはアルミンにとっても楽しみである。
「ん? どれかな?」
 エレンが指さしたそれ。そこにはかつての地球の姿があり、小さな指が示す先には海があった。
「それは海だね」
「うみ?」
「前に地球の話を少ししたと思うけど、その地球を覆ってる塩水のことさ」
「塩なのか?」
「そう」
 なぜ懐かしい気持ちになるのだろう。
 エレンに海の話をするのは、初めてのことなのに。
 アルミンは相変わらず大きすぎてブカブカの白衣の袖を捲るとエレンを抱き上げて膝に座らせ、持って来た本を一頁ずつ捲りながら、絵本を読み聞かせるように自分たちの母星の話を始めた。
 氷の大地、炎の水、砂の雪原。かつてはあった母星の姿。
 けれど今の自分たちが暮らすコロニーの壁面や上空を覆うのは広大な〝ホログラム〟。
 そこに映し出される人工的な青空と夜空、太陽や月明かり。時には風を吹かし、雨すらも降らせた。
 街に生い茂る木々や草花、羽ばたく鳥も全ては実際に生きていたがアルミンには偽りの空と同じくハリボテのように映り、それはここに住まう人類すらも同じで、アルミンにとっては全てが空虚でしかない。
 しかし、それを人に話せば異端だと虐げられることを今より幼い頃に学び、口を噤むようになった。
 悪魔に汚された地球を浄化すること。
 いわゆるテラフォーミングのプロセスを地球に対して行い、再び人類が住まう星に作り変えること。
 それこそが、アルミンを含む科学者たちに課せられた使命である。
 けれど所詮それらは便宜上の大義でしかない。
 この壁の内側の人類は、プログラムされ災害など起こり得ないデタラメな自然と、AIで構成される宇宙治安維持局の元で管理された完璧で退屈な平和の恩恵を受けている。
 人々はもはや大半が地球に帰りたいなどと真剣には思っていないだろう。
 だがそんな人々をアルミンは咎める気も起きなかった。なぜならきっと、それが〝普通〟だからだ。
 人々が人類であるために、たとえ宇宙植民地で暮らすようになろうとも母星を忘れぬようにと、創り出された紛い物にすぎない空の下で普通ではないアルミンはいつも孤独と息苦しさを抱えていた。
 この息苦しさから逃げるように、たとえ一人でも地球に帰りたいと強く願った。
 生まれも育ちも、このコロニーだと言うのに。
 この壁の外を知らないのに。
 狂おしいほど地球に焦がれる病的な執着心は、一体己のどこから来ているのかがアルミンには分からなかった。
 けれどこの狭苦しい世界でエレンに出会えた。
 アルミンが知らない外の世界で生まれた存在。ちっぽけな世界で血の通う、唯一無二の美しくて愛しい宝物。
 なぜだか分からないが、自分が迎えに来ることをエレンが待っていてくれたかのように感じたのだ。
 この子供の存在は地球浄化の鍵となるのは明らかであったが、数年経った今も手放すことができずにいる。
 なにより、アルミンはもう二度とエレンと離れたくないと思ったのだ。
 ──二度と?
「……僕たち人類はきっとこんなコロニーに居続けるべきじゃない。地球か、それ以外か。自分たちが選択できることがきっと本当の自由だ。その自由を得るために僕みたいな学者はもっと頑張るべきなんだけど」
 気候の安定化、生態系の回復、汚染物質の除去、インフラの再建。そしてなにより氷河や極地の氷を再生させ、上昇した海面に沈んだ大地を回復させること。
 地球で暮らすにはこれらの課題が山積みであったが、アルミンは諦めきれなかった。
 エレンは肩越しにアルミンの顔をジッと見つめ、腕を伸ばすと小さな手で慰めるように頬を撫でる。
「ありがとう、慰めてくれるの?」
 エレンは優しい子だった。
 周りと馴染めない危うさはあったが、それは幼い頃のアルミンも同じであったので友達を無理に作らせようとは考えなかった。
 子供たちが集まるような遊戯施設に連れて行ったことも何度かあるが、エレンがアルミンの傍を離れることはなく、その際には分離不安障も一瞬疑ったもののアルミンが少し離れたとてエレンが大声で泣き叫んだり落ち着きがなくなると言ったものはない。
 アルミンがいない間は、ただボーッと空を眺めたり指のささくれをむしったりしている。
 無気力になる、という感じに近い。
 他の子と遊ばないの、と聞いても「うん」とだけ。
 血の繋がりはなくとも親に似るのだろうか。幼い頃の自分のように囲まれて蹴られたり殴られたりしていないだけマシかと、アルミンはそれもエレンの個性として受け入れるようにした。
「アルミンは地球に帰りたいんだろ」
 エレンの大きくて丸い目に自分が映る。サラサラの、指通りのいい髪を撫でて「いつかね」と微笑んだ。
「今の地球には永久凍土の中で眠っていた未知のウイルスやバクテリアが漂ってる。百年前の人類はそれに苦しめられて地球を脱した。政府公認の地球調査組織もあるけど、彼らが地球から帰還した時なんてまるで病原菌扱いだよ」
 その調査隊にはアルミンが所属する研究グループも技術提供を行なっており、実際にエレンがアルミンの元に来るきっかけとなったユグドラシル探査用ドローンを地球に送り込んだのも彼らだ。
 母なる海が人類に牙を向けた今の地球に降り立つと言うことは、どのような問題が起きてもおかしくはない。それこそ宇宙へ旅立つことすら未だ絶対に安全とも言えないと言うのに、命をかけて母星の調査を行う彼らに対して国民からは税金泥棒だの病原菌だのと怒号が飛び合う始末だった。
 誰も、地球への帰還を望んではいないのだと、その度に痛感する。
「……彼らは英雄なのにね」
 調査隊が乗り込む特殊な機体に描かれている、翼が重なっているシンボルはアルミンの研究所兼自宅の壁にも飾られており、海よりも深く空より鮮やかな青い瞳は腕の中の子供を撫でながら悲しげに見つめた。
 エレンもその視線をなぞり、壁に飾られたシンボルを見上げる。
 羽根があれば、少しでもこの息苦しさから逃れることができたのだろうか。けれどコロニーを出ても広がるのは海ではなく、凍てつくような真空のみだ。
「……アルミン」
「どうしたの?」
「オレさ……少しだけ思い出したよ」
 キョトンと目を見開くアルミンの膝の上でエレンは向かい合うように座り直すと、子供の細い腕をアルミンの背に回して白衣を掴むように抱きついた。
 時おり、エレンは唐突にこう言った言動を取ることがあった。
 歳不相応な、全てを見てきたような、無垢なような、達観したような、童心を震わせるような、矛盾の色だ。
「……アルミン、一緒に海を見に行くぞ」
 エレンはなにかを決断したように、一言、そう静かに呟いた。
 アルミンは生きてきてこれまで、データに記されたかつての地球を愛してきた。今や失われた存在。まるで死んだ人を想い続けるようなことだ。
 夢を語り合う仲間ができたことはなかった。
 同じ研究をするメンバーの中でも、その大半が地球探索の助力を行う目的は科学者としての好奇心と政府からの報酬だ。真剣に「地球に帰りたい」などと思っていない。
 否、むしろ、研究者だから分かるのだ。
 無理だと言うことが。
 この先、何十、何百、何千の時が過ぎれば可能かもしれなかったが、現状の結論は不可能に近かった。
 それでもアルミンは夢を見続けるのだ。いつか帰るのだと。
 そして、今、初めて出会った。共に夢を見てくれようとする存在に。
「……ありがとう、エレン」
 たとえ子供の戯言でも、アルミンの孤独を拭うには十分だった。
 小さな研究室で、世界からはみ出た彼らが残された居場所で、二人は抱き合った。

 ヴァフスルーズニルの言葉ってあるだろ?
 どっかの国の古い詩さ。コロニー育ちは学校で習うんだ。

 そう、巨人が海からやって来て……人も動物も洪水で死んじゃうってやつ。
 巨人は神様に倒されるんだけどさ、神様は殺した巨人の体でもう一度世界を作り直すんだ。
 海や山々まで作って、そして人間まで巨人から生まれるって話。

 そして先生が言うんだ。
 いつか母なる星を支配する巨人を倒して、海や山々を元通りにさせましょうって。
 まあ、政府の地球再生計画の刷り込みってやつだね。洗脳教育の一種だ。
 僕はあの話を読むとさ、なんでかな、今も泣きそうになるんだ。
 なんでだろうね。
 同じような物語をどこかで読んだ気がするんだ。
 そんな話、聞いたこともないのに。

 泣きそうになるんだ。