ナイショの話

 季節柄、まだ少し冷たく感じるシャワーの水温に速水は目を細める。
 誰もいないシャワールームの隅の個室で、彼は自分の足先だけを見つめて頭から水をかぶっていた。
 
 連日の突風でプレハブ小屋内の教室には砂埃が舞っていた。壬生屋が大掃除を提案し、中には今はそんな状況ではないと渋る声もあったが椅子も机も砂まみれなのには間違いなく、居心地のいいものではない。結果、皆がその提案を承諾し、手際良く掃除を始めたところまでは良かったのだが。
 大掃除ということで教室内の掃除を大方終えると、この際だから整備テントの中も掃除しようという話になった。不要になった部品を集めて再利用出来るかを検討し、隅にたまった埃を片付ける。こうして日常的に使っている教室や、人型戦車の眠るテントなどを片付けるというのは実に有意義な時間のように感じた。渋っていた者たちも訓練などでは流さない、また別の意味でのいい汗を流してテキパキと掃除をこなす。中でも家事が得意とされる速水や、日常的に掃除や洗濯などを請け負っている石津の二人は「この汚れはどうやって落とせばいいか」という相談に乗り、その度的確な指示を出して大掃除の指揮を取っていた。
「速水くん、ちょっとお願い」
「はーい」
 掃除や洗濯が嫌いではない、取り分け、皆のイメージでは“掃除洗濯が得意”という印象を抱かれている速水は、周りのイメージに沿うようにしてそれなりに張り切りながら役に立とうとしていた。
 なにより、こうして走り回っている姿を芝村も見ていることだろう。速水にとってはそれこそが重要なポイントであった。少しでも、彼女に良い風に見られたい。
 なので、ほんの一ヶ月弱の間、培ってきた“皆の中の速水厚志らしさ”を此処ぞとばかりに披露する。

 しかし、事件は起きる。

 森が廃棄オイルの入ったタンクを運んでいる途中であった。数キロにもなるタンクを、大介が代わりに運ぼうかとぶっきらぼうに声をかけていたが、森は大丈夫だと答えた。見るからに危なっかしく、大介は付かず離れずの距離で見守っていたのだが——立て掛けていた掃除用具が、不運にも彼女を目掛け落ちてきた。念のためであるが、不運代表の田辺は教室の方にいたので彼女が原因というわけではない。
 それをかわそうとした森は思わず仰向けに転びそうになり、大介は目の色を変えて姉の身を守ろうと飛び出す。しかし、その上を蓋の空いたタンクが中身をぶちまけながら落ちてこようとしていた。
 一瞬の間。飛び散るような液体の音。ガラン、という中の量が減ったタンクが地面に叩きつけられる音も続いた。
 恐る恐る、姉弟の二人が目を開ける。
 しかしそこにはオイルで汚れたお互いではなく、偶然近くにいた速水が驚くべき俊敏さで二人をを庇い、廃棄オイルを全身に浴びていた姿があった。
「……大丈夫?」ぽややんとした笑顔である。気の抜ける周囲の者。
「だ、だ、だ、大丈夫じゃない! ああ、こら! 目を開けようとするな!」珍しく顔面蒼白にして慌てた様子の大介が、ショートパンツのポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出して速水の顔に伝うオイルを拭った。
「ご、ご、ご、ごめんなさい!」
 この姉弟は微妙に似ている時がある。森も慌てて速水のそばに駆け寄って、こちらはハンドタオルで髪を拭う。
「ごめんね、洗って返すよ」
「ああ〜もうっ! このぽややんめ、そんなことは気にしないでいい! とりあえずシャワーを浴びてこい! 着替えは後で持っていく。僕のジャージでもサイズは大丈夫だろ」
「え、ええと」
 小さな体の——とはいっても速水とそこまで変わらないが——どこにそんな力があるのか、大介は相変わらずな様子の速水を引っ張り上げて立たせる。姉を一人で庇いきれなかった情けなさ、その尻を拭ったのがこのぽややんな友人。呆れるやら申し訳ないやらで思わず乱暴な口ぶりになりつつも、顔はやけに深刻そうであった。速水は大介にとって、数少ない友人の一人であったからである。
 騒ぎを聞きつけてやってきた善行に大介は手短に事情を話し、とりあえずは速水の目などに入っていないかを、この場合は女子校の方に常勤している保険医に見てもらおうと考えていた。
 そして慎重に慎重を重ねて、しつこく大介が「本当に大丈夫なんだな」と半ば脅すような口の利き方をするのを速水が宥めながら診てもらい、幸い、オイルは口や目などには入っていないと言われ、その後はとにかく早く洗い流した方がいいとシャワールームへ強引に押し込まれて今に至る。
 森は大層申し訳なさそうに何度も謝ってきたが、速水が微笑みを浮かべて「君に怪我がないならそれでいいよ」と言うと、それきり顔を赤らめ何も言えなくなってしまった。突然大人しくなった森を心配して気にかければ、彼女は首を千切れんばかりに横に振って「助けてくれたお礼はいつかさせて欲しい」と小さな声で言う。
 キョトンとして「そんなのいいのに」とはにかむ速水の背を、芝村が面白くなさげな顔をして見ていたのを彼は知らない。手には、慌てて出したものの、差し出せずただ握りしめられていたハンカチがあった。
 森に怪我がなくてよかった。
 速水としても、それは本音である。
 あそこで庇わなければ、数キロはあったタンクで森も大介も怪我をしていた可能性があったし、それこそ目などにオイル入っていたかも知れない。
 自分の身体と服が汚れるだけで済んで良かった――速水はシャワーの水に打たれながら微笑んでいた。誰かを救えたことに。良いことをしたという意識は不思議となかった。自然と、仲間が危ないと思うと体が動いていた。満足感よりも安心感。速水の心には、確かに正義が芽生えていた。
 その芽に水をやるようにもう一度頭から水をかぶる。
 大掃除で汗もかいていたため、染み込んでいくように心地よかった。
「……ここを利用するのは初めてだな」
 自分以外に誰もいないシャワールームで速水の声が反響する。訓練後などここで汗を流す者は多かったが、速水はいつもそれを控えていた。
 理由は単純である。身体を見られるのが嫌だった。
 それらは別に、思春期特有の羞恥心などではなく、“どうしても見られたくない理由があった”から。
 せっかく良い気分であったのに、速水は嫌でも目につく姿見でその“理由”を再確認するように、自分の身体を一瞥して、ため息をつく。
  日に焼けたことのない肌は、透けるように白かった。全体的に少年の体つきにしては異様に丸みを帯びており、臀部や腰の肉付きも細身ながらに良い。細い首はいまだに喉仏も見られず、脇の毛はおろか、下の毛さえも生え揃ってはいなかった。
  そして何より、彼を悩ましたのが胸である。
  それは女性らしい体つきを見ればなんらおかしくはないものではあったが、速水を少年としてカテゴライズするのであれば異常、異質とも言える程度の脂肪がついていた。
 これでも少しは小さくなった気もする。
 速水は視線を下に向け、それなりに膨らみを帯びた自身の柔らかな乳房を撫でた。しかし、すぐにそうでも無いなと項垂れた。
 
 普段は重ね着をして目立たないようにしているし、体操服などの薄着に着替える時には新市街で購入した、スポーツ用の胸部サポーターを着けていた。
 突然の揺れも少なくはない人型戦車に乗り込むパイロットの役割を担っているということで、身体の何処かにサポーターを巻いて補強すると言うことに関しては誰も何も疑問を抱かなかったし、速水はそれも知った上で悟られないように振る舞った。
  けれど風呂場ではそれが出来ない。つまり、全て見られるという事になる。
 胸を隠している状態での着替えでさえ、過去に滝川から「細い」と指摘を受けた。一瞬勘付かれたかと冷や汗をかいたが、女性経験もない初な友人の目には速水の身体はただの華奢として映ったようである。
 けれど、この胸まで見られたら流石に鈍い友人にも“おかしい”と思われるだろう。
 速水に、それは耐えれなかった。
 もしも、この身体を見られたことがきっかけで経歴などを調べられたりでもしたら。薄い膜で覆っただけの偽りの身分なんてものは、すぐに剥がされるだろう。仲間が自分を見る目が好奇や不快に変わることを想像するだけで喉の奥が焼き切れそうになった。
 戦績も結果を出している現在、利用価値があると判断されすぐに始末はされなくとも、ただで済むとは思ってはいなかった。

 ただでは済まないような事をしたのだから。
 
 濡れてセットの崩れた髪は速水の額に張り付いている。
 髪を下ろしていると、余計に幼くなり、女のように見えた。
 隙間なく縁取られた、長い睫毛に血色の良い桃色の唇。大きな目に水色の瞳。小さな口、形のいい鼻。吹き出物の一つも見当たらない薄い肌は、ほんのりと赤かった。
 これらはあの忌々しい、ラボでの人体実験の成果と言えるのだろうか。
 二次性徴前に女性ホルモンを投与し続けられた身体の有様は酷いものだった。
 一応、男性器もあれば精巣――バイオテクノロジーの発達した、この世界において不要ではあるが――も備わってはいる。しかし、皮を被った男性器は情けないほどにこぢんまりとしていて、触ったところで特に反応も示さない。
 ラボで暴行を受けているとき、勃起もしないそれをまるで大きなクリトリスだと下品に笑われたが、そうかも知れないと少年はぼんやりと思った。
 射精もしない、触られてむず痒い感覚はあるが次に疼くのは、散々広げられてもはや性器となった後孔だった。
 惨めで汚くて淫猥な自分の身体が大嫌いで、これを仲間や友人に見られるくらいなら、少し汗臭いのを我慢して自宅の風呂で済ます方を速水は選んだ。
 すると芝村の顔が一瞬浮かぶ。
 速水は少し、泣きそうな顔になった。彼女にだけには、絶対に見られたくはない。知られたくも、ない。
 思い切り顔に水をかけ、備え付けられた洗剤で髪や身体に付着した油分を落とし、泡を流してシャワーを止める。
 ラボを抜け出したばかりの頃よりかは、これでも大分マシになったのだ。
 もう少し時間が経てば、きっと背も伸びて、筋肉もつきやすくなるに違いない。
 それまでは、この無様な身体を誰にも見られなければいいのだと速水は自分の全てを否定して、誤魔化すことばかりを考える。
 顔を出し始めた正義の芽を腐らせようとする影はいつも自分のすぐ隣にあった。
 否、影は自分自身なのかもしれない。
 先ほどの感謝の言葉をこぼす森の顔と、自分のことのように心配する大介の顔を思い出して、速水は少し口を開いて酸素を取り込む。大丈夫、そう言い聞かせるように細い腕に爪を立てて、次に息を吐いた。

 次の瞬間には、いつもの速水厚志となっていた。

 早く体を拭いて着替え、顔を出さねば。
 誰かが心配して入ってきて、それこそ裸のまま鉢合わせたりでもしたら大変なことになる。
 髪のセットをどうしようかとも考えながら、在学中にこのシャワールームで人目も気にせずに汗を流すことは果たして出来るのだろうかと、一瞬でも想像して少し可笑しくて笑った。
 戦争中だというのにそんな素朴で中身のない夢を抱く事が可笑しかった。
 遠い目をしながらかけてあったタオルに手を伸ばして身体の水分を拭き取り、個室を出る。すぐそこに大介が持ってきてくれたらしい着替えのジャージが置いてあった。友人の温もりが、自分の恐れを慰めてくれているような気分になる。
 嬉しくて嬉しくて、速水の顔がほころんだ。
 みんなの手伝いの続きをしよう。その後は訓練して、芝村と仕事をして。
 あの場には芝村もいた。心配してくれるかな、褒めてくれるだろうか。悲しいのは、「めー」である。楽しいことを考えようと速水は微笑んだ。
 なによりパンツまで汚れていなかったのは幸いだったと先に下着へと手を伸ばした、そのとき。
 人の気配。速水は手を引いた。
「速水、大丈夫か? オイルぶっかかったって聞いたけど」
 この声は。
 速水は理解するよりも早く、踵を返して瞬時に音も立てずに元いた個室へと戻っていた。
「まだ身体洗ってんのか?」
 シャワールームに踏み入る音。速水は何となく息を殺してしまう。
 声の主は瀬戸口隆之。
 彼とは以前に取引をした仲であり、いま、こうして弱みを知られると面倒で厄介な人物であった。
 あの一件以来、妙に瀬戸口が速水に対して積極的に関わろうとしてくるのも、速水としては何を考えているのかが分からず気味が悪かったが、きっとそうして自分の腹を探っているのだろうと考えていた。
 まさか、自分が彼に勘違いとは言え、惚れられているとも知らずに。
 瀬戸口はやたら速水に抱きついてきては、ボディーラインを撫で上げて胸や髪を触る。それも芝村や人前でも構わずに。まるで愛撫のような触り方に何度肘鉄を喰らわせたことか。
 女好きと名高い彼はもしかしたら速水の身体のことに気付いているのかも知れないという心配もあった。それに彼には何らかの組織がバックについていると伺えるし、自分の正体が万が一バレてしまえばどうなるかと、再び思考が暗い方に行きそうになって気が遠くなる。俺の平穏のためあの時やはり殺しておいたほうが楽だったかもしれないと、速水は目にかかる長い前髪を鬱陶しげに後ろへ流したが、ののみの顔は浮かんで罪悪感で眉間に皺を寄せる。
 彼も仲間だ。
 速水は自分の名を呼ぶ瀬戸口の声に応えた。
「ごめんね、もうちょっとで出るから」いつもの速水厚志であった。
「なんだ、そこにいたのか。返事しないもんだから、オイルが変なとこにでも入って倒れてんのかなって焦っただろ」
 実際に安堵の声を漏らした瀬戸口。なぜ焦る必要がある。俺が死んでいたほうがお前にとっては都合が良いんじゃないのか? 速水はつくづく理解不能な瀬戸口の言動に首を傾げるばかりである。
「僕は大丈夫だからさ、ちょっと出て行ってくれないかな。着替えたいんだけど」
 気配からして瀬戸口のみだろうと察し、言葉の節々にも少し地が出た。
 このままだといつまでも着替えれない。個室の壁に凭れて姿見をあまり見ないように努めた。
「着替えたら? 男同士だろ」ごもっともだ。
 しかしそれの出来ない速水は顔を顰めた。
「そうだけど」思わず子供っぽい声が出る。
「そういや速水って、ここのシャワールーム使うの初めてなんじゃないか?」
「うん、そうだね」
「銭湯とか嫌いなタイプか」
 銭湯など行ったことがない速水に、それが苦手な人がいるということもよく分からなかった。そしてこの問いに頷いたところで、瀬戸口の前で着替えたくない理由にはならない。言葉のやり取りが長引くのが面倒で、速水は口を開く。視界の端に自分の身体が映った。
「僕の身体、変なんだ。だから見られたくなくてさ」
 シャワールームは、一瞬静かになる。
 瀬戸口からのレスポンスに三秒ほど間が空いた。
「……変?」
 言葉に纏わりついている訝しげな雰囲気に言葉選びをしくじったかと速水は遅れて気づく。もっと、なにか速水厚志らしい答えの方がよかった。例えば、なんだろう。
 一人欠けてみんな忙しいだろうから、僕のことは放っておいて瀬戸口くんみんなのお手伝いしてあげてよ。とか、そういう感じの方がよかっただろうか。
 目を瞑る、これで自分の体は見えない。
「そう」
 前言撤回や誤魔化すのは不自然だと判断した。
「事故とか病気?」
 あ、いいなあと速水は瀬戸口の問いにヒントを得る。これから身体のことに勘付かれそうになった時、そう答えようかと思った。
 速水はまた吐く嘘の数を増やす。
 昔、アイロンの手伝いをしていた時に火傷しちゃって。すこし恥ずかしいんだよね。速水厚志らしい回答だった。
 「そんな感じかな。たぶん、僕の気持ち悪い身体を見たら、きっと瀬戸口くんも抱き着いたりしなくなると思うよ」
 自暴自棄ではない。一度は地を見られている相手なのだ、これくらいの方が逆に自然だろう。
 具体的に聞かれる前に、大袈裟に、ぎりぎり想像ができる大まかな情報を与えて聞きづらい雰囲気を作る。戦時中というご時世のこともあって、安っぽいなげやりな嘘も妙な信憑性を纏った。
 この異常な胸も、伸びない背も、筋肉のつかない身体も全て病気なのだ。そう思うと速水は少し楽になれた。
 どうしようもならない時、芝村にもそう説明すれば優しい彼女なら同情してくれるかも知れない。僕を疑わない彼女なら、俺の嘘もそうして受け止めてくれる気がした。
 辛かっただろうと、言ってくれるかも知れない。
 速水に真実を語るという選択肢はなかった。
 今更、あの子に語れる真実なんて何処にもない。
 仲間であるために嘘をつかねばならないのなら、嘘を突き通そうと考えている。嘘も貫けば、また一つの真実になるだろうと都合よく解釈して、痛む胸には気づかないふりをする。
 静まり返ったシャワールームで、速水は瀬戸口が出て行くのを待った。
「速水」
「なに?」
 シャワールームの個室はカーテンで区切られているだけで、鍵などはかかっていなかった。
 だから空けようと思えば誰でも開けれる状態でいたのに、速水は彼への受け答えに意識を持って行かれてそのことを忘れていた。
 足元ばかりを見ていた速水が、光が漏れるのを察知してハッと顔を上げる。
 個室のカーテンを開けた瀬戸口が自分を見下ろしながら立っていた。

 対する瀬戸口の目の前には、少年ではなく少女が佇んでいた。
 
――この少女は速水なのか。確か、この子は男であったはずだ
 一瞬はそう思えど、特段、瀬戸口は目の前の子供に驚くことはなかった。速水厚志を一人の少年と認識しながらも、かつて愛したシオネ・アラダの転生体だと信じきっている鬼に、その身体は異質でも異常でもなんでもなかったのだ。
 “彼女”がいる。瀬戸口はそう思うと、涙さえあふれそうな勢いだった。
 どうして、と問うこともせず、ただ、顔を真っ青にして口を震わせる速水を見つめる。速水は視線に焼かれそうになりながらも少しずつ後ずさりをし、瀬戸口の記憶が一瞬飛ぶ程度に殴るにはどれくらいの力加減が必要だろうかと物騒な計算を一秒足らずでし終え、それを今まさに実行しようと拳を構えたとき。
 速水は、気づけば抱きしめられていた。
 突き上げられた拳は虚空を切ることもなく、不発に終わる。
「姫さま」
 瀬戸口の声がした。けれど、それが「姫さま」と言ったことは速水の耳では聞き取れなかった。
 速水の体を服の上から抱きしめていた時も常々思っていたが、やはりこの未成熟な身体は少しの骨っぽさは残れど、柔らかくて抱き心地が良い。瀬戸口はこのまま一つになりたいとさえ思うほどに、抱き慣れた見知った身体のような気がした。
  そして裸のまま呆然とする速水は何が起きているのかが脳で処理しきれない。普通、この身体を見れば何かもっと別の反応を取るだろう。好奇な目を向けて、指をさして、驚くだとか。なにかもっと他にあるはずだった。速水はこの汚い体を見て、こんな反応を示す人間を初めて見た。
 何度か声をかけるが瀬戸口に反応はない。時間をかけて焦燥感が薄れていく。大きな身体にこうして抱擁されるのは心を落ち着かせる。動揺が少しずつ収まるのが理解できた。
 自身のまだ少し濡れた身体が瀬戸口の制服を濡らしてしまうなどと呑気なことを考え、彼の身体を押しのけようと試みたが一層強く抱きしめなおされて速水はついでに冷静さも取り戻す。
 速水の膨らんだ胸が瀬戸口の身体で潰れた。
 なんだか変な気分になりそうで、身じろごうとするがそれも許されない。
 抵抗しようと何度か押しのけていたが、手からは次第に力が抜けていく。瀬戸口の首元から香る仄かなコロンの匂いに眉を寄せ、汚い体を抱きしめてくれる体温に、嗤ったり暴力を振るったりもしない男に、速水はだんだんとされるがままになっていた。
 瀬戸口はきっと何も知らないし、察してもいないだろうけれど「汚くないよ」と言われているような。
 そんな気持ちにさせる安心感が、悔しいけれど、この男にはあったのだ。
 瀬戸口は速水のそんな葛藤も知らず。自分の中で美化されきった、あの人との記憶を辿っていた。
 抱き潰してしまいそうな細い肩、香り、色の白さ。彼の中で最も美しく、誰にも汚されることのない至高の存在。そんな彼女――彼に、醜いところなどある訳がない。瀬戸口の持論である。
 例えあったとしても、瀬戸口にとってはそれさえ愛せると思えた。
 僕の体は変だと告げる速水の言葉に、過去の自分が重なった。
 醜い鬼の姿を、盲目の瞳に映して「あなたは綺麗よ」と言ってくれるシオネに、瀬戸口――デクは見ないでくれと何度涙を流したことか。
 だからこそ、瀬戸口はシオネを。速水を、彼を。
 彼が醜いと思う部分を、美しいと言わなければ。愛さなければと、言葉より先に体が動いていた。
 結果、突然の抱擁となってしまった訳であるが。
 いつもならこの時点で、こめかみを殴られているはずだった。しかしその様子がない。瀬戸口は思わず涙を流しながら全裸の彼を抱きしめてしまったことに今更気づき、変な汗をかき始めていたが、普段よりも随分大人しく抱きしめられている速水になんだか期待してしまう。
「……あの、ぼく」
 ようやく速水は声を振り絞れた。声は戸惑っている。身体を見られたショックの直後、訳も分からないまま抱きしめられたのだ。それに、なぜか自分の心は安心してしまっている。瀬戸口なんかは泣いているのか鼻をすすっているらしかった。
 全く意味がわからない。
 女の裸体を見て感涙しているのか? 速水は赤面しながら混乱し、けれど殴って退かせる気にはなれず、ただ固まって瀬戸口を呼ぶ。
「速水」しばらくの間、ようやく瀬戸口は口を開いた。すこしそれっぽいムードが生まれつつある個室。照れ臭さから声も掠れる。
「……なに」
「綺麗だ」
「……なに言ってるの。僕の身体、見ただろ。普通じゃないんだよ」
「見たよ、綺麗だった」
 抱き締められたまま、キャッチボールにならない会話に速水の頭の上には疑問符ばかりが浮かぶ。
 もしかしたら、自分が変だと思っていた己の身体は、割とそこらにいるものなのか? と世間知らずな速水はあらぬ疑いまで世間に抱いた。
「綺麗だよ」
 瀬戸口はもう一度言い、キスをしたくてたまらない気持ちを抑えつける。焦るな、焦るなと鼻を啜りながら、目に焼き付いて離れない速水の裸体を思い出して心の底から感じた感想をひたすら述べていた。
 何度目かの「綺麗だ」のあと、すっかり黙りこくった速水の顔が見たくなり一瞬体の距離を離す。このまま逃げられるだろうという気持ちも勿論あった。少なくとも今までの経験上ならそうだった。
 しかし力強い抱擁から解放されたのにも関わらず、速水は逃げずにいた。それどころか、恥ずかしげに少し上目遣いで困ったようにハの字眉をする。
 このまま押し倒してしまったら、と考える。が、しない。瀬戸口は残った絞り粕のような理性を総動員させ、逃げない様子の速水を軽々と抱き上げた。
 突如浮いた身体に慌てるが、すこし瞳を濡らしたすみれ色の瞳ともう一度目があう。
 その瞳はやはり濡れていた。
 そんな瀬戸口に調子が狂うと同時に、何度も綺麗だと言われ、優しく壊れないように抱きしめられていた為かなんだか妙な雰囲気になってしまっており、不本意ながらも顔を赤らめる。まさにこれこそHな雰囲気であった。
 薄暗いシャワールームの切れかかった蛍光灯の下で、水滴の伝う柔らかそうな胸と、細い肩。恥じらうようにモジモジとする速水の姿が瀬戸口の目の前にある。
 そしてそれは、本当に綺麗なものとして瀬戸口の瞳に映った。
 やっぱり俺の姫さまに、醜いところなんてなかったのだと瀬戸口は濡れた瞳のまま自信たっぷりに微笑んで、目の前の身体を抱き寄せた。
「お前の身体に何があったとか、俺は聞かない。詮索もしない」
「……信用、できない」
 緊張で強張る声に、瀬戸口は優しく微笑む。
「じゃあどうしたら信じてくれる?」問うと、速水は赤い顔のまま目線をあちこちに投げた。
 眉間には相変わらずシワが寄っている。それは怒っているというより、困っていた。
 言葉に困るくらい可愛かった。
「……言ったら、死刑だ。舞に言ってみろ、命は無いと思え」
「うん、分かった」
 ここで芝村の名前を出すなよと瀬戸口はややげんなりしたが、それでも速水との秘密を作れたことに浮き足立つ。それも、恐らく自分しか知らない二人の秘密だ。
 加えて、本当に速水が信用できないと思ったのなら、今ここで殺られてもおかしくはない。
 物騒なことは言われたが、とりあえずは信じてもらったということなのだ。
 瀬戸口は幸せな気分で速水の胸に顔を埋める。そこもしっとりと柔らかく、いい匂いがした。
「んっ」
 ふと感じた微妙な感覚にビクッと速水の腰が反る。視線を下げると瀬戸口の頬に乳首が擦れているではないか。Hな雰囲気からその先に進みかけた手前で、次こそは真っ赤な顔をした姫に鬼は思い切り頭を殴られていた。
 目の前に星が舞う。
 「今ここで死にたいのか」
 グイッと顔を押しのけられ、瀬戸口は「死にたくないです」と簡潔に述べる。
 呆れたようにため息をついた速水が顔を押しのけていた手を離し、ムッとした表情を維持したまま瀬戸口を見ていた。そんな顔も可愛い。このままキスをしたら怒られるだろうな、と懲りもせず考えて瀬戸口は一つ気になる疑問を投げかける。
「一応聞いとくけど、男は男なんだよな」
 視線を落とし速水の臍の下を見ても、足を閉じていて男である証拠のものは見えない。
 それにしても、まだ下の毛も生えていないのか……と口元が緩んだ。
 不埒なことを考えているとバレたらしく、また速水に殴られる。星、再び。
「正真正銘の男だ」
「わかった」
 本当は速水に「ならば証拠を」と問い詰めたかったが、それをすると本気で命が危ういかもしれないと考え思いとどまる。
 胸があって、尻の柔らかい男。
 なんともマニアックな形で現れた自分の最愛の人に、それでも愛おしいと、瀬戸口はもう一度ここぞとばかりに速水を抱きしめた。
「おい……じゃなくて。ねえ、そろそろ着替えたいんだけど。寒いし、みんな心配してるかも」
 飽きもせず自分を抱きしめ続ける彼を速水は再度殴りはしなかった。
 速水とて、まさかこんな反応を示されるとは思っていなかった為に、どうすればいいのかと考えている途中でもあったのだ。
 それに、詮索しないと相手は言った。
 信じるべきか否か。怪しかったが瀬戸口の目を見て、どうしてか信じてやろうと思った。
 一応瀬戸口も守るべき仲間、であるからだ。
 信じることをつい最近知った速水は少しの賭けに出てもいいかと、自分らしくない考えに行き着き、この場においては瀬戸口という人間を信じようという結論に至る。
 思ったよりも悪い奴ではないのかもしれない。ちょっと変な奴だし、胡散臭いけれど。速水は瀬戸口のことが分からなかったが、少しだけ接する態度を見直してやってもいいと思う。
 瀬戸口のこの態度が恋慕からきたものだとは、流石の速水も知ることはなく。
「このまま保健室に行かないか? お前さんに触りたい」
 余計なことを言って、結果再び殴られる瀬戸口。
 中々に痛い。
 怒る速水に従ってしぶしぶ下ろし、呆れてため息をついた“少年”の生着替えを瀬戸口は眺めた。
 パンツに足を通すと胸のサポーターがないため、速水は仕方なく素肌の上に体操着を着る。その上から大介が貸してくれたジャージを被った。自分の家の洗剤ではない香りがする。
 速水が少し笑った横顔が見えた。とろけそうになる瀬戸口。
(ブラジャーも着けないだと。いや、男なら当然だが……)
 これは何が何でも俺が速水を守らなければならないと腕を組み、真面目な顔をして瀬戸口はバカなことを考える。
 背後の男がなにか妙なことを考えている気もしたが、速水は言うだけ無駄だとズボンを履いたあと、二人で並んでシャワールームを出た。
「ねえ瀬戸口くん」
「なんだいバンビちゃん」
 瀬戸口が何を考えて自分に親切にして近づいているのかは分からなかったが、野放しにするより、そうする方が安全と考える。
 バレてしまったのなら利用するしかない。
 速水は瀬戸口の方へ向き直ると、目を細めて笑った。
 セットされていない髪は柔らかく風になびき、普段にもまして美少女という表現が似合う。
 天使と見紛うような愛らしい微笑みに、瀬戸口はくらりと倒れそうになった。
「これから僕が訓練終わった後とか、シャワー浴びたい時付き合ってよ。他に見られると厄介なんだ」
「いいけど、タダって訳にはいかないな」
 なるほど、相変わらずちゃっかりしている。けれど想定の範囲内の言葉に、速水の口角は小悪魔的に吊り上がった。
「なら、そうだね。付き合ってくれた後は僕のこと、触りたいだけ触らせてあげてもいいよ」
 女好きの彼にこんな報酬はどうかと思う。需要があるのかすら分からなかったが、瀬戸口はこの体に興味を持っていたようだし、物珍しさに触れたいのかもしれないとその程度に捉えて速水は自分の体を報酬に当てがった。
 これで乗ってこなければそれはそれでいい。交渉決裂。
 だが当の瀬戸口は目を見開き、キスをしてしまいそうな距離まで速水の顔を見ては再び抱きつき、姫からの命令に元気よく快諾したのだった。
「わかったよハニー、俺がお前さんを守ろう。その代わり子作りをさせてくれ」
「バカでしょ」
「男はみんなバカだ」
「僕は君ほど愚かじゃない」
 サポーターも着けていない速水の柔らかい胸が当たっている。この胸を揉んで、速水が悶える姿が見たかったがここで我慢できるのも瀬戸口の速水に対する愛故であった。
 この子を大切にしないと――押し返されるまで、瀬戸口は速水の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
 大介から事情を聞いて、すっ飛んで様子を見に来てよかった。
 今日はいい日だ。瀬戸口の士気がぐんぐんと上がった。
 
 なお、この光景を偶然通りかかった壬生屋に見られ、「破廉恥です」と怒鳴られながら瀬戸口のみが追い掛け回されたのは、言うまでもない。