ジャック・アトラスはどこか猫のようなところがある。
身内──とりわけ孤児院の頃から知ってる幼馴染みたちなど──に対しては、ワガママとも言える要求を訴えることもあれば、時に冗談を言ってみせ、拗ねたり得意げになったりと忙しい男なのだが、これまた輪の中に第三者が混じった途端、妙に静かになるところがあった。
人見知りや警戒心とはまた違う。どこか値踏みをしているような、邪な考えなどを相手が持ってないかと、品定めをするような目を向けている。
そうして、往々にしてジャックのそういった鑑識眼は的を射ていた。
おまけに、見切りをつけるのも早い。何度か指摘をしたところで改善が見られないようであれば、ああ、コイツは駄目だなと、すぐにその場を去る。
一方で昔からよくつるんでいた遊星は対人関係を築く上で、一度懐に入った相手に対してはトコトン甘い。ジャックもそれについては、相手も自分も身を滅ぼしかねない危うい甘さだとまで苦言を呈した。
だからこそ余計に、自分や、家族のように大切に思っている者たちに近づく者を、ジャックは簡単に信用しない。
双子やアキは、同じ赤き龍に導かれた者の運命として打ち解け合うのは早かったものの、いまも人に懐かない外猫のような目で誰かを観察する癖は治っていなかった。
そんなジャックの前に、大きな人影が見える。
遊星もよく仮眠ベッドとして扱っているソファの上で、ジャックより少し背丈のある大柄な男──ブルーノが健やかに寝ていた。
「……こやつ……」
少し肌寒い日の夕方。遊星もクロウも出かけている中、いつもより機嫌の悪そうなジャックは、ぐうぐうとガレージで眠っている同居人(仮)に対して苛立つ猫のように毛を逆立てていた。
メンズサロンのモニターと、ネットに上げる記事のモデルをしてほしいと人のツテで不定期の仕事を引き受けたとこまではよかった。
とは言え、メンズサロンと聞いてもピンとこなかったジャックは、髪を触られる程度だろうと二つ返事で了承したものの──
(まさか脱毛されるとは思うまい……)
サロンはサロンでも、脱毛サロンとは聞いていなかったのである。
それなりに纏まった金額は得たものの、生贄として脇の毛を墓地に送る羽目になったジャックは肉体労働後のように疲れ果てていた。
最先端技術による脱毛は、従来のように何度も来院されなくてもすぐにキレイになるんですよ〜と言われながら得体の知れないレーザーを脇に当てられている最中、ジャックはずっと虚無を見ていた。
下の毛か脇の毛のどちらかを手放す選択が迫られるイベントが、人生に発生するなど誰か予想できるだろう。
相手が女性スタッフであったため、ほとんど無抵抗にならざるをえなかったジャックが、やはりコツコツ働くことが大事なのやもしれんと真っ当な反省をしていたところに、これだ。グースカ寝ているブルーノである。
そしてそれは俗に八つ当たりとも呼んだ。
「ええい腹立たしい……デカいことを自覚せんかこいつは」
同じく大柄な自分のことは棚に上げて悪態をつき、受け取った金銭の七割ほどを共通金庫に入れながら、その日に入れた金額をノートに書き込む。なお、この仕組みを義務付けたのはクロウであるため、サボると後でうるさいことを知っているジャックはきちんと言われたことを守っていた。
ふと、自分の記入欄の上に遊星とも、クロウとも違う筆跡があることに気づく。
そこに書かれていた名前は、ブルーノのものであった。
入金額は、他の三人と似たようなものである。それでもブルーノがここにいる限り、こうして義務を果たしていることをジャックは知らなかった。
否、知ろうともしていなかったのである。
突然転がり込んできたかと思えば、中でも一番お人好しな遊星の懐に上手く入り込み、長年連れ添ってきたジャックやクロウが入る隙すらも与えぬほどトントン拍子で親しくなったかと思いきや、その優秀さで遊星の信頼まであっという間に勝ち取ってしまった男。
ジャックはすぐに人を信用しない。
思いのほかお人好しで、どこか甘い遊星に近づく者であればなおさら。
ジャックはもう、自分のせいでと言いながら己を責め続ける仲間を見るのは二度と御免であった。だから、代わりに自分が疑う。気も許さず、なにかあったらすぐに周囲を守れるように。
しかし、ずっとそれでいいのかと、思うこともある。
ブルーノの名前を指でなぞると、その字はくぼんでいて、それが自分と同じように強い筆圧で書かれていたことが分かった。
今日は、少し肌寒い日である。
ジャックはノートを閉じ、金庫に鍵をかけた。
ふと振り返れば龍可が置いていったと思しき可愛らしいフリースのひざ掛けが目に入り、それを手にとってガレージの作業場に向かう。
そして、今もなお寝続けるブルーノを仁王立ちで見下ろした。
サテライトでは、簡単に人を信じてはいけない。
あそこには子供を利用する大人が、大勢いた。たとえ子供でなくなっても、甘い顔をして誰かを踏み台にする輩はゴマンといて、その中で誰を信じるか、なにを守るか、どれを許すかを決めるのは全て自分であった。
どれだけシティに染まろうと、根を張る地とはサテライトの痩けた土で、いまも心の中ではいつも誰かを疑って生きている。
ジャックは手元のひざ掛けを広げると、ブルーノにそれをかけた。如何せん、図体がデカイ。ほとんど覆えていないが、それ以上世話をする気はなかった。
その場をあとにしようと踵を返す。なにも言わなければ、勝手に遊星か双子あたりが掛けてくれたのだろうと解釈するだろう──と、ジャックが自室に戻ろうとした時である。
「……ふ、ふふ……」
不快な笑い声がした。
またもや毛を逆立てた猫のように、ジャックが俊敏に背後を向くとブルーノが顔を手で覆って笑っている。
「……貴様、狸寝入りとは度胸があるようだな」
「ち、ちが……! 違うんだよ、ジャックが部屋に戻ったあとに起きようと思って、あの、まさかこんなことしてくれるなんて思わなかったから!」
ズンズンと大きな歩幅で近づいてくるジャックに、ブルーノは慌ててかけてもらったひざ掛けを手繰り寄せてソファの上で縮こまる。
「う、嬉しいなぁって思ったら、我慢できなくて笑っ……!」
弁解も虚しく、こちらに手を挙げるジャック。かれこれ今までも何度か無意識のうちにジャックの地雷を踏んできたブルーノは、その度に鉄拳を喰らってきた。
目を瞑って衝撃に備えつつ、しかし小突かれることは予測しているのでやや頭を差し出した形で構える──が。
いつものタイミングになっても、鉄拳は飛んでこない。
ブルーノが恐る恐ると言った様子で顔を上げると、その瞬間にジャック渾身のデコピンが額へ飛んだ。
「いたい!!」
「痛くしたのだから当然だ」
フフン、と得意げになるジャックを前に、ブルーノは額を抑えながら再びソファに倒れ込む。
「寝床は与えただろう。遊星の真似事のようなことはするな、冷えた日は体を壊す。まったく、メカニックなやつらはどいつもこいつも……」
少し低い声でそれだけを言い残し、ジャックは改めてブルーノに背を向けると自室へ繋がる階段を登っていった。
その足取りはどこまでも真っ直ぐで、伸びた背筋は美しい。──そんな彼が、かつてデュエルキングであったことをブルーノに教えてくれたのは、他でもない龍亞だった。
たしかに抜けてるところもあるが、デュエルをしているときは確かに今もキングなのだと。
本人には言えないけど、という照れた様子とその熱弁を前に、あのときのブルーノはキョトンとするばかりであったが、少し、ほんの少しだけ距離が縮まった瞬間、ブルーノには龍亞の言っていたことがわかったような気がしたのだ。
「あ……っありがとう!」
ハッとして、まだ礼を言っていなかったことを思い出し、ブルーノはジャックの背中に声をかける。
階段を登る途中、その言葉を聞いてブルーノを見下ろしたジャックは相変わらず表情の読めない人形のような顔をしている。
けれどそれも一瞬で、ブルーノの目には少しだけジャックが笑ったように見えた。
「風邪を引かれたら迷惑なだけだ。自惚れるなバカ者」
◇
「……なぁ遊星」
「ん? どうした?」
その日の晩、仕事から戻ってきたかと思えば早速作業場に座り込んだ遊星の背後で、同じくその手伝いをしながらキーボードをカタカタと叩くブルーノが口を開いた。
「ジャックって優しいんだね」
オイルまみれになるのも厭わず、黒ずんだグローブでエンジン部分を弄っていた遊星の手が止まる。
ジャックがブルーノに気を許すには、まだ少し時間がかかるだろうなあと遊星は見積っていた。けれど、それは自分が思っていたより、ずっと早くに解決したらしい。
遊星は目を細め、ブルーノの方を見た。
「すこし手荒だし分かりづらいけどな。優しいやつなんだ」
キーボードを叩く手を止め、遊星と目を合わせたブルーノも静かに笑う。
「うん。……そうだね」
まだ額の方は少し痛いような気もしたけれど、それも、いまは気にはならなかった。