団長さまと

 調査兵団15代団長、アルミン・アルレルトは一見すると実直で、真面目で、なおかつ温厚な男である。
 変人揃いと言われた歴代団長の中でも群を抜いて親しみやすい人柄でありながら、彼が率いる現在の調査兵団の隊長クラスの者はこぞって、過去の死戦を乗り越えてきた精鋭揃いであり、彼は人柄だけでなくそれらの優れた人材を束ねる統率力も兼ね揃えていた。
 一方、昨今の調査兵団が行う任務とは、これまでのような壁外調査や巨人討伐を中心に行う組織ではなくなりつつあった。
 それは壁の外、そのさらなる奥に存在していた海の向こう側になにがあるかを我々人類──否。
 エルディア人が知った時から、変わったのだ。
 今や他国との交渉に奮闘しているこの外交機関は、調査兵団とは名ばかりの組織になりつつあった。

 ◇

「アルミン団長、失礼します」
 長い艶やかな黒髪を一つに束ねる長身の女性が、団長の執務室の前で声をかけるが応答がない。少し困ったような、心配したような表情を浮かべ──以前に比べると大分表情が分かりやすくなってきた──仕方がないと諦め、返事のない重い扉を開く。
 そうして目の前に飛び込んできた光景とは、おおよそ予想の範疇であった。
 十分なスペースがあるはずの立派なエグゼクティブデスクの上に散乱する数え切れないほどの資料の山。中にはいくつか崩れてしまったものもあり、床の上にまで豪快に散らばっている。
 そのほかにも片付けられていない大量の学術書は山となり、様々な地図と何らかの設計図まで。
 インクをつけたままのペンは今し方椅子の上で死んだように寝ているアルミンに握られ、その近くには中身を撒き散らしながら転がっている哀れなインクポットが見えた。
 それらはもはや惨状とも言える。
 有事の際には調査兵団内の複数ある小隊の統括・指揮を任されながら、外交官としては大使という一面を持つアルミンの護衛部隊隊長を務めるミカサ・アッカーマンは頭を抱えて小さくため息をついた。
 昨日の夜、様子を見に来た時と同じ服装であるアルミンを見るに、彼はまたもやベッドで眠ることなく朝を迎えたことになる。
「アルミン、起きて。せめて寝るならベッドで寝ないと」
 ドアの方にまで飛んできてしまっている書類を拾いながら我らが団長に近づくと、フゴフゴと寝息なのかイビキなのかよく分からない音を洩らしてアルミンは眠りこけている。
 まったくどうして、あのアルミンまで〝彼〟のように私の言うことを聞かなくなってしまったのか──ミカサは首元の赤いマフラーを握りしめ、アルミンのいくらか痩せた肩を揺らす。
「アルミン、だめ。こんなところで寝たら体によくない」
 現状、調査兵団を筆頭に行われている和平交渉は、実のところあまり順調とは言えなかった。
 和平の鍵とされるのは女王であるヒストリアを含むエルディア人全ての信頼性の証明、遠い昔の侵略行為に対する謝罪や補償の提供、それに伴うパラディ島に眠る資源の分配や利益の配分、地ならしと呼ばれる抑止力を使用しないという公約──他にも数えきれないほどの問題を抱えており、現在の膠着状態がいつ、どのタイミングで形が変わるのかすらも分からない状況であった。
 おまけにエルディア国内の不満も高まっている。
 こんな状況下で、アルミンがこうも身を粉にして働く理由もミカサには痛いほど分かっていた。
 だとしても──
「──アルミン!」
 ミカサが声を張り上げると、再びデスクの上の書類がバサバサと雪崩落ちる音がした。
 飛び起きた様子のアルミンが目を点にして、ゆっくりミカサの方に視線を向ける。こちらを見たアルミンの顎には、細くて柔らかそうな、頭髪と同じ色のあまり目立たない顎髭がまばらに生えているのが見え、彼が背負う重責と言い知れぬ疲労感が伺えた。
「……あ……えと、ミカサ……おはよう……?」
「もう昼前。次の会議は夕方からに変更になったのを伝えに来たの。ジャンが迎えに行くと」
「あ、ああ。わかったよ。ありがとう」
 如何に追い詰められようと、アルミンがミカサや周囲に八つ当たりをすることは一度もなかった。
 アルミンを気遣う周囲よりも他人に配慮し、今のようにに大丈夫だとアルミンは柔らかく微笑んで見せる。
 そんな自慢の幼馴染みこそ、人々の上に立つべき人間だと、ミカサは信じていた。
 彼の血の吐くような努力と決断が、多くの仲間を窮地から幾度となく救ってきた。それは数えるのが面倒なほどであり、間近で見てきたミカサからすればアルミンは正しく評価され、やがてこの国をあるべき方向に導ける力を持っていると確信すらあった。
 しかしアルミンには、救いたいものがあまりにも多すぎる。
 でもそれが、アルミンがボロボロになることを正当化する理由になるとは、ミカサには到底思えなかった。
「会議までまだ時間がある。……ので、アルミンはシャワーを浴びて、身なりを整えて少し休憩をした方がいい……と、私は進言する」
「ええと……でも会議に使う参考資料もまだまとめきれてないし」
「私とジャンがしておく。どれ?」
「いや、あの」
「どれ?」
 なぜミカサは怒っているのだろう──アルミンは疲労もあってかそれ以上は何も言えず、会議に使う予定であった資料を山の中から掘り出し、ミカサに一通り指示をすると肯いた彼女につまみ出すようにして執務室から追い出されてしまった。
 強引だが、これもミカサなりの気遣いなのだ。
 自身の自己管理が杜撰なせいで彼女に余計な心配をかけてしまったことに反省しつつ、「さっさと行きなさい」と言いたげな眼光を向けるミカサに対して「ありがとう」とアルミンが再び言うと、彼女がようやく笑った気がした。
「シャワーの後は中庭で散歩するといい、かもしれない」
 そう、言い残して。

 ◇

 シャワーを浴び、産毛のような髭を剃って、アルミンは久しぶりに外の空気を吸った。
 外とは言えど、今やアルミンが護衛なしでの外出が許可されているのは在外公館の敷地内のみなのだが。
 このご時世である。慎重に慎重を重ねることは悪いことではないだろうとアルミンも納得しており、ましてや護衛と言えどついてくるのはサシャやコニー、他に旧知の中である調査兵団の仲間たちがほとんどであったため、息苦しさはなかった。
(でも、海に行きたいなぁ。仕事とは関係なく)
 そんなワガママを言えば、きっとまた周囲を困らせてしまうのだろう。
 籠もりっきりで仕事に励む姿から出不精であると勘違いされがちだが、アルミンはやはり外の世界が好きだ。
 中でも、やはり海がいっとう好きである。
 仕事で船に乗ることは増えたものの、あんな味気のないもので満足できるほどアルミンの探究心は単純なものではない。
 争いはなるべく避けたい、誰の血も流したくない、それらはアルミンの夢物語でしかなかったが、それでもいつか、いつか。
 いつか平和になったら、次は海の向こうでなく──つぎは海の底へ、潜ってみたかった。
 人影のない静かな中庭に足を踏み入れるとどこからともなく風が吹く。
 少し伸びた髪を耳にかけ、前を向くとアルミンは足を止めた。
「……あ」
 手入れされた美しい庭に響くのは鳥のさえずりと風の音。その中心にある大きな木の下に、見知った姿があった。
 伸びた髪をラフに纏め、トレーニングを終えた後なのか体のシルエットがよく分かるストレッチ素材の黒のインナーと、固定ベルトが外されたパンツ姿で眠っている〝彼〟。
 アルミンは自然と口角が上がり、弾き出されたように駆け寄った。
 驚いた鳥が飛び立って行くのも気に留めず、真っ直ぐ彼の元に。
「エレン」
 思わずその名を呼ぶと、人影はまるでアルミンが来ることを予知していたように、木漏れ日の下で笑顔と共に目を覚ます。
 運動不足の日々が続き、今やもう立体起動装置で飛び回っていた頃のような体力はアルミンにはなく、これだけのことで息が上がるのを感じた。
 もとより筋肉がつきづらい体質で、トレーニングを怠ればすぐにこうなることなど分かっていたはずなのに。キース教官に見られたらなんと言われるか、そんなことが一瞬頭を過ぎってアルミンは可笑しかった。
「なんだ、アルミン。思ったより元気そうだな」
 明日から再び体づくりをしようと決心しながらも、エレンに息を乱していることがバレるのが嫌で、アルミンは唾を飲んで大きく息を吐いてから、何食わぬ顔でエレンの隣に座る。 
「僕は元気だけど?」
「仕事でフラフラだって周りが言ってんぞ」
「近頃たまたま立て込んでただけ。問題ないよ」
「どうだか」
 軽口を交わして目を合わすと、二人は同時に笑った。
「遠征お疲れ様。ハンジさんたちの言うことはちゃんと聞いてた?」
「うるせーな、ミカサとおんなじこと言うなよ」
「みんな君が大事なんだよ。それにしても、帰って来るのは来週じゃなかったっけ」
「ちょっと早まって今朝着いた。お前んとこ行こうとしたんだが声かけても返事なかったし、寝てんだろうなと思って」
 エレンにまで気を使わせてしまったかとアルミンは頬を掻く。もちろん、エレンの呼びかけがあったことなど記憶にはなく、彼の予想通り椅子の上で大口を開けて寝ていたのだが。
 アズマビト家の助力の元、国際機関や国際会議に出席し、エルディア国の立場を代表する役割を担ってくれている前団長のハンジは、エレンの身分を隠した上で、彼を遠征に連れて行くことがあった。
 最初はミカサも抗議し、エレンを連れて行くなら自分もと声を上げたがハンジが首を縦に振ることはなかった。
 この国の抑止力の鍵を握るのはどうあがいてもエレンだ。有事の際、手にかけるかもしれない国々を見て回ること。エルディアが置かれている立場を客観的に理解すること。それらは無駄ではないはずだと、ハンジはアルミンに説き、どうか彼を私に任せてくれないかと頭を下げられた。
 膠着状態の国と国が和平を結ぶためには、双方が相手国の立場や利益を尊重する姿勢を持って対話を進めることが大切である。
 けれど和平交渉は容易ではない。
 エルディアへの差別問題や偏見が深刻である以上、双方が妥協することは難しく、和平交渉が長期化することは避けられなかった。
 さらに交渉が決裂し、紛争が再燃することも当然考えられ、その場合には地ならしを行う必要性も出てくる。和平交渉は慎重に進める必要があるだろう。
 されど時間は有限であった。
 だが、それをどうにかするのがアルミンの仕事であり、腕の見せ所だろう。
 一時に比べて明るくなったエレンの顔を見れば、どれだけ苦しかろうと、どれだけ寝る時間を惜しもうと、この選択も間違えではなかった気さえする。
 目の前の幼馴染み一人を守れずに、国を守れるわけがないと、アルミンは本気でそう思っていた。
 光を灯すエレンの瞳を覗き込み、込み上げるものがある。なんだよ、とエレンが首を傾げた。
「それで、エルディアに帰って来てすぐ体動かしてたのか?」
「まあな。船の時間長かったし、体がなまっちまう」
「ああ、エレンがどんどんムキムキに」
「アルミン団長がひと回り縮んだって言われてるの知ってるか」
「うそ」
「嘘だよ。ただの俺の見立て」
「ひっどいなあ」
 次はエレンが喉の奥で笑う横顔を盗み見て、幼かった頃に帰ったような気持ちとなった。
 両親が残した、海のことが記された本。
 出会ったのは自分の話を笑わずに聞いてくれた友。
 それが空想ではなかったことが分かったあの日。
 広がる世界は想像よりも大きく、そして厳しいものだった。
 されど諦めたくはない、絶対に。
 運命に逆らい続けると、アルミンは世界に宣言したのだ。
 張り詰めていた糸がプツっと切れる。突然もたれかかってきたアルミンを横目で見て、やはりやつれているなとエレンは思った。
「……夕方くらいにジャンが迎えに来てくれるから」
「うん」
「それまで君の肩を借りてていいかな」
 ミカサが、中庭を提案してくれた意味が分かった。
 幼馴染みなのだ。なんでもお見通しなのだろう。
 誰もが、誰かのために、誰も死なせないために走り回っていた。答えなどない問答が繰り替えされる中、それでもアルミンが無理をしてでも立ち続け、前を向き続ける理由の中に自分の存在があるのかと思うと、エレンは嬉しいような、悲しいような、それでもやはり言い表せない愛しさが勝るのだった。
 鼻の奥が少し痛い。「いいぞ」と声をかけようとアルミンの方を見たが、すでに静かに寝息を立てる姿があった。
「……もう寝てんじゃねーか」
 エレンは隣のアルミンの手をとると指を絡ませ、再びやって来た小鳥がアルミンの足元で羽を休めているのを眺めては、この時間がずっと続くような、確証のない自信に溢れていた。