天色のパイロット

 その日、カプワ・ノールの船着場はいつになく人波に溢れていた。中でも特に、トリム港を本拠地とする《幸福の市場》の本部へと向かおうとする商人の姿が一層多いように見受けられる。
 かの執政官が作り上げた、気候を操る忌々しい魔導器がなくなってからは快晴が続いていたノール港であったが、空を見上げれば雲行きがどこか怪しい。
——嵐が来るのね
 ジュディスは繊細な触手が読み取る僅かな空気の流れを察して今にも落ちてきそうな厚い雲を見上げる。
 トルビキア大陸の方から僅かな雷鳴が聞こえた。ノール港からも見えるトリム港は他の熱帯多雨林地帯とは違い、山を隔てているため滅多に雨は降らない筈だが今となっては濃い霧に包まれ霞んで見える。
 今日はザーフィアスで受けていた依頼をこなし、本日料理当番となっているパティからの頼みで魚介類などの食材の買出しついでにノール港へと寄ったところであった。他の仲間たちは皆、今頃ハルルの宿で休んでいるだろう。
 自分も急がねば雨に濡れてしまうと、買い込んだものを詰めた麻袋を背負い平原へ出る道を歩く。
 船着場にできた人集りは、今も不安そうな声と苛立ちの混じる声で騒めいていた。ここに放っておけない病である“彼ら”がいればどうなっていたのかしら——ジュディスは船が出るか否かのアナウンスを待つ人々を背に、ふとそんなことを考える。
 彼女は冷たい人間というわけではない。助けて欲しいと自分に伸ばされた手であれば握るであろうし、それを見捨てるような非常さは決して持ち合わせてはいない。どちらかといえば人情深い方なのは確かではあるが、それでも他人に態々焼く御節介までは持ち合わせてはいなかった。それよりも宿で自分の帰りを待っているであろう仲間たちに対して早く帰らなければならないという気持ちの方が強い。
「お待たせいたしました」
 拡声器の役割を果たす魔導器越しに、女性の声が聞こえる。
 喧騒は一層大きくなった。
「ただいまトルビキア大陸行き、カプワ・トリム港着の便とデズエール大陸行き、ザトラク半島ノードポリカ港着の便は低気圧の影響と雷雨のため大幅な遅れが出ております。低気圧接近による強風、高波が予想されることから未だ出航再開の目処は立っておらず、大変ご迷惑をおかけいたしますが——」
 欠航のアナウンスであった。
 どよめく人々の声の中には、アナウンスを読み上げる女性への暴言染みた声も混じり、ジュディスは歩みを次第に止め再び空を見上げる。
 何も、この嵐はあの女性が呼んだわけではないというのに。
 自身がクリティア族だからだろうか、バウルという空を泳ぐ友人がいるからかは分からなかったが、苛立ちを隠せない人々に共感することが一切出来ず、ジュディスは額に最初の雨粒を受け止めながらゆっくりと息を吐いた。
 それでも、彼らにも勿論焦る理由はあるのだろう。今日までに納品を済まさねばならなかった商品や、あまり日が保たない食材などがあったのかも知れない。それも飽くまでも推測に過ぎないのだが。
 地上の人々は常に滞ることなく、忙しく働き動いている。自分の故郷やミョルゾでは見られなかった光景だ。それ故に心の余裕を失い、感情を剥き出しにしてしまうことがあるというのは、どれも彼女が地に降りてから学んだこと。
 だがジュディスは、そんなどうしようもない人間臭さを嫌うわけでもなく、また嫌悪を抱くこともなかった。冷たく、理不尽で生々しい世界の裏には、合理的で何処までも実直な一面が存在するのも偽りではないからだ。
 再び空が遠くで光った。振り向けば、重そうな荷物を背負った商人の他に、雷鳴に怯えて泣く我が子をあやす母親らしき姿もあった。雨脚は何かを急かすように次第に強くなっていく。素肌に纏っただけの雨具が水を弾く音が力強くなると同時に、ジュディスは取り出したバウルの角を握りしめた。

 いま、ここにハルルで自分の帰りを待っている彼らがいたなら?

 助けを求められたわけでもない。ここには、あの《輪》も無い。助け合う義理もない、けれど。少しずつ雨の匂いが濃くなった。そして、ジュディスはバウルに呼びかけると同時に踵を返したのだった。
 船着場に設置された雨除けの簡易式テントの下で、海船ギルドの船長や航海士、乗組員といったクルー達が頭を下げながら最寄りの宿などの案内を行っている。諦めてハルルまで戻ろうかデイドン砦付近まで行こうかと話し合う人も見られる傍で、やり場のない怒りをクルーにぶつける声は絶えない。男の怒鳴り声と相俟って、大きな雷がトルビキアの方へ落ち、その場にいる子供達は皆耳を塞いでしゃがみ込んでは泣いている。
「申し訳ありません、ですが船を出すのは危険な状態で……」
「ならどうしろってんだ、雨曝しになって朝まで待てってか? 雨が止む保証もないだろうが。なんなら金払えよ、詫びる態度がなってねぇんだ。それくらいしてくんねえとなァ」
「そ、そんな……」
 謝り続ける一人の男性乗組員の男に、憤慨した様子でとうとう傭兵ギルドの一員らしき大男が掴みかかった。
 船が出ないことで憤慨しているわけではない、ただ詫びと称して金を巻き上げようとしているのは一目瞭然であった。首をも締めるような勢いで、そのまま乗組員の体を片手で持ち上げる。
 あまりにもこじつけが過ぎる、このままでは更なる暴力沙汰に発展してもおかしくないと周りが止めようとした時。
 乗組員の胸ぐらを掴んだ手をほっそりとした白い腕が制止した。
「……なんだ?」
 思わず骨に響くような力に傭兵ギルドの男は白い腕の先を見た。そこにいたのは、目を細めて微笑むクリティア族の美女が一人。
 しかし可憐な顔に釣り合わない握力に、鈍い痛みさえ覚える。
 いつからいたのか、誰も気づかなかった。突如現れたジュディスにその場はシンと静まる。
「嬢ちゃん、なんの真似だ? それとも、雨が止むまでその体で俺を楽しませてくれるってかい?」
 彼女の瑞々しく婀娜っぽい肢体へ、舐める様な視線がジットリと這わされた。
 クリティア族には美人が多いとは聞くが、彼女はその中でも特に上玉と言っても過言ではない。深い朝空のような髪色と、背で揺れる海の様な鮮やかな触手が雨に濡れていて、より一層欲情を掻き立てられる。
「ふふ……そうね」
 小首を傾げて浮かべられた妖艶な表情に、男は思わず喉を鳴らした。乗組員を掴んだ手を離すとジュディスの方へ向き合う。
 と、その一瞬。
 ジュディスは目にも留まらぬ足捌きでその大男の腹を、表情も変えず膝で蹴り上げた。
 ぐふ、と呻き声のような声が聞こえ——少しばかり大男が宙に浮かぶと、そのまま地面に崩れ落ちるように倒れる。
 直後、男の部下なのか「兄貴!」と呼びながら若い傭兵たちが集まり、ジュディスが一歩踏み出すと彼らは怯えた様子で道をあけた。だがジュディスは彼らには一切目も向けず、解放されて咳き込んでいる乗組員の男性だけに手を差し出すと「怪我はないかしら」と優しげな声をかける。
「は、はい。すみません、有難うございます……!」
「そう、無事ならいいの。気にしないで」
 目を細める彼女に見惚れた乗組員は喉をさすりながらも顔を赤らめていたが、ジュディスは「さて」と一言呟くと簡易テントの下で固まっている者たちの方へ視線を送った。
 大男をたった一発の蹴りで黙らせた謎の女性からの視線に、皆が体を強張らせる。
「トリム港へ行きたい人はどれくらいいるのかしら」
 しかし投げかけられた質問は、とても単純なものだった。皆、顔を見合わせつつ、おずおずと手を挙げる。その数は全体の七割と言ったところだろうか。ジュディスは「手を挙げてない人達はデズエールでいいのね?」と続けて問うと、手をあげていない三割の人々はコクリと頷いた。
「今はトリム港へ行くのは危険だわ、街も封鎖されてる可能性だってあるし、宿も取れないかもしれない。でもこの雲の流れからして、ダングレストの方なら影響も少ないかも知れないわね。あそこなら宿もたくさんあるでしょう? 人命が関わることだから慎重に行きたいの。だからダングレストへだったら送ってあげる。ノードポリカは問題ないわ、到着は今からなら夕方頃になるかもしれないけれど」
 思ってもみない彼女の言葉に、誰しもがキョトンとした。
 水しぶきが防波堤をも越えようとしている、この悪天候の中。自分たちを、どう送って行こうと言うのだろうか。突然の彼女からの申し出に、次第に人々は首を傾げ始める。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それはありがたいんだが、どうやって海を渡るつもりだ?」
「そ……そうよ。こんな天気なのよ、空でも飛ばなきゃ無理よ」
 再び騒めき始めた人々だったが、それは何か——空から呼びかけるような声で、再び静かになった。

「ええ。だから、飛ぶのよ」
  
 どこまでも響くような高らかな声と共に海上に舞い降りた巨体は、厚い雲よりも遥か上空にいて影しか見えない。しかし、その巨体に吊し上げられた古びた大船は波飛沫を立てて港のそばに泊まった。
 大量の波飛沫によって全身がびしょ濡れになった人々は口をあんぐりと開けて、ただただ立ち尽くしている。
「雲の上なら、雨も雷も嵐も怖くないわ」
 ジュディスがそう言うと、先ほどまで困り果てていた人々の響めきが、感謝の歓声へと変わった。

「そんなことがあったんですか」
 ジュディスが人々を送り届け、ハルルへと戻ってきた頃にはもう夜になっていた。帰りの遅いジュディスを心配していた一行が出迎えた彼女は頭の天辺から足先までびしょ濡れであり、今までの経緯と事情を説明して今に至る。
 風呂で温まり、宿で借りたルームウェアに着替えたジュディスは水分を含んだ長い髪をエステルに拭いて貰いながら、珍しく少し疲労した様子で頷く。
「ジュディスちゃんやっさし〜い! どうしよう、俺様のライバル増えちゃったかも? 俺様だったらそんな、困ってるところに突如空へと誘ってくれる優しき美女なんて現れたら天女か何かかと勘違いしちゃうわ〜」
「おっさんって本当馬鹿っぽい。アンタが仮にノールにいたら何も考えずにそいつら見捨てて帰ってきたんでしょうね」
「ちょ、そういうリタっちはどうなのよ!」
 相変わらずのリタとレイヴンのやり取りをカロルが仲裁し、その光景に呆れたような笑みを浮かべたユーリがジュディスに「お疲れさん」と告げる。
「いまパティが、ジュディの為にって鍋作ってくれてるみたいだし。それ食ったらゆっくり休んでくれ」
「有難う。心配かけちゃったみたいね」
「ま、オレはジュディの事は信じてるしな。ああ見えてリタが一番心配そうにソワソワしてたんだぜ? 取り繕ってるけど」
「ふふ」
 少し前までの私だったら、あんな風に彼らを助けたかしら。ジュディスは、少し考え、暖かな仲間の声に包まれながら小さな声で呟いた。

「私も、あなた達に染まってきてるのね」

 その後、ジュディスは美しき天色のパイロットとして一躍港では有名となったが、彼女は知る由もなかった。