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「先日はどうもありがとう。だが、ユーリ・ローウェルなんて生徒、うちにいないと言われたぞ。なぜ嘘をついた」
太陽の光を集めたような眩いブロンドを揺らした青年──フレン・シーフォがどこか不機嫌そうに、先日ぶりの男に告げると男は困ったように笑った。
忠告だけにとどまるつもりだったのに、目の前でアレを喰ったのはさすがに拙かったと言える。
しかし、あの時のフレンときたら、名前を言うまで腕を離してくれる様子でもなく、咄嗟に〝ローウェル〟の方が口を衝いて出てしまったわけだが、どうやらそれが己の胡散臭さに拍車をかけてしまったらしい。
こちらを睨むフレンの目には、疑念と僅かな畏怖の色が浮かんでいる。
己は、彼を襲う怪奇現象そのものを、読んで字の如く喰った男なのだ。
そりゃア、怖いだろう。けれど尻込みもせず、名前すらも突き止める執念深さも、恐ろしいだろうに礼を言いに来る生真面目さも、相変わらずでもある。
彼は何度死んでも、彼であった。
さて、どうはぐらかそうかと考え、〝ユーリ・ローウェル〟はハーフアップの髪を風に遊ばせながら一度目を瞑る。
「んじゃ改めて。オレはユーリ・オルトレインだ。民俗学を専攻してる」
とりあえずは、自己紹介でもしておくことにした。
「それは学生課でもう調べた。シュヴァーン教授の弟だそうだな」
「オレはオルトレイン家の養子ってだけ。ローウェルは旧姓で、人に名乗るときは今もそっちが出ちまうんだ。だからごまかした訳じゃあないぜ」
フレンの顔つきが一瞬、強張る。
当然、養子だどうこうは、人によってはセンシティブな話題となるからだろう。
言いたくないことを言わせてしまった、とでも言いたげな顔つきに相変わらず優しい男だと懐かしくなるが、実のところ、ユーリはそこまで繊細な心は持ち合わせてはいない。
ただ一つ言えるのは、あの〝おっさん〟の弟として扱われることが不服であることくらいである。
「ま、好きなように呼んでくれて構わないが。……で、なんだ。口説きにでも来たのかよ」
「馬鹿を言うな」
ユーリは笑った。それは、懐かしいやりとりだった。
本当は彼がなにを聞きたいかなど、知っている。
──なにも、知らなくていいと言うのに。
再び記憶ごと喰えば、彼はまたなにもかも忘れてくれるんじゃあないかと、そんなことを考えた。
目の前のフレンに目を向ければ、昨日の今日だと言うのにまた良からぬものの影がちらついており、あの東館のトイレにはなるべく近づけさせない方がいいだろう──あそこには、多いから──と飽きもせず考える。
彼を巣食おうとする怪異とのイタチごっこを、かれこれ生まれ変わってから今まで、ずっと繰り返していた。
意味など、ない。
あれは本人が背負った業なのだと何度言われも、それでも手を伸ばすことを諦めきれなかった。
人々の英雄として消化された男を、今度こそただの人として逝かせてやりたいと思うことのなにが悪いのか。
名の残ることのなかった救世主は、やがてただの人となった男は、そして自ら人ではなくなっていく男は、何百回目かの自問自答を繰り返す。
「……君は、あの化物のことについて何か知ってるのか?」
見慣れたはずの青い瞳が懐かしい。
喰う者と憑かれる者は互いに呼応する。
この世界とやらが生まれた時から元来、そういうものだ。
そうなるようにできている。
そして、似たものを背負う。
「化物じゃあない」
ユーリは謳うように口を開いた。
それは、化物でも、怪異でも、幽霊でもない。
見えないだけで当たり前のようにそこにいて、無機物から有機物、森羅万象のその全てに息づき、そして我々を見ている根源とも言える存在であった。
「……精霊だよ」
ユーリの灰色にも薄紫にも見える、複雑な瞳の虹彩が一瞬だけ、赤色に光ったように見えた。
昼間の空に浮かぶ白い月だけが、まるで値踏みでもするように二人の青年を見下ろしている。
◇
殺気を、感じた。
次の瞬間、尋常ではない脚力で背中を蹴飛ばされ、フレンは夜の土手を転がる。だが、己を蹴飛ばした足は、殺気を感じた方向から飛んできたわけではない。
泥にまみれながらなんとか顔を上げると、己を蹴飛ばしたと思しきユーリが、バール──物分かりの悪い精霊をぶん殴るときのための彼の武器である──を握りしめたまま、誰かと相対しているのが微かに見えた。
今日は深夜の十二時に必ず鳴ると言う、人通りの少ないトンネル前に設置された電話ボックスに居座る怪異──精霊に悪性があるか否かを見に行った、その帰りであった。
噂の通りそこには小精霊と呼ばれる、名前もついていない者たちが群れをなしてはいたものの、ユーリが危険性はないと判断したため特になにもせずにこうして大学の近くまで戻り、いつものように川沿いを歩いていたところ、今に至る。
月光の下で──何者かの、白い髪が揺れていたのが辛うじて見えた。伸びた背筋はどこか高貴であり、非現実的な神々しさを放っている。
過去に、怪奇現象を引き起こす精霊を暴く〝産み〟と呼ばれるエステリーゼの力を通して、実体化した精霊を見たことがあったものの、アレはそれに近いように思えた。
この距離からでもわかる威圧感に、呼吸が詰まる。
ゾッとするほど美しく、奇怪で、そして何より恐ろしい〝なに〟か。
ユーリが只の人にバールを向けるわけがない。精霊なのか、己と同じく憑かれる者なのか、はたまたユーリと同じ喰う者なのか。
観測者でしかない産む者である可能性は低いだろう、フレンが戸惑っているとユーリが怒鳴った。
「逃げろ」
脳が──その、ユーリの声の意味を理解するよりも早く、それは速かったのである。
瞬きを一度。そして、次の瞬間にはすでに目の前にいたのは、白い長髪を揺らす、赤い瞳の〝なにか〟だった。
フレンは理解する。
ユーリの言葉の意味も、蹴り飛ばされた意味も。
なぜ、これほどまでに恐ろしく感じるのかを。
女性と見紛うほどの、人形のように美しい美貌は表情を変えもせず、フレンに淡々と剣先を向けた。
「フレン・シーフォだな」
現実から切り離されたとしか言いようのない、精巧な技術で施された装飾と月光を吸う、目の前にある鉄の塊。それは玩具でも、おおよそナマクラでもない。
紛れもない、斬るための、剣だ。
それを確信できたのは、偏に見栄えが良かったからではなかった。フレンは知っていたのだ。このように、武器を持つ者たちがいることを。
──ジュディスは、なぜ精霊殺しなんてしているんだ?
走馬灯のように蘇る記憶。
彼女と出会ったのは、数ヶ月前のことだ。
発端は大きな精霊事件で、その現場に居合わせた者こそが、彼女、ジュディスである。
己の背丈を優に超える長槍を振り回し、憑かれる者のように彼らに語りかけることもなく、または喰らう者のように愛すでもなく、ジュディスは目の前の精霊を、その槍で呆気なく〝殺した〟。
例外を除いて精霊は人には祓えないと聞いていたフレンにとって、その光景はショッキングなものであり、たとえそれが悪性のある精霊だとしても、フレンの胸に悲しみらしきものが湧き上がったのは、己が人の中でも最も精霊に近いとされる精霊憑きだからだろうか。
以降、紆余曲折あって情報共有をするほどには打ち解けたジュディスとユーリたちであったが、それでもフレンは完全に納得をしているわけではなかった。
そのようなフレンの純粋な問いに、対するジュディスは気分を害することもなく、他者が己の行いに疑問を抱くことが当然であるかのように、花のように柔らかく微笑んでみせた。
「父との約束だから」
彼女と父の間に、どんな約束があれば精霊を殺して回るようになるというのか。
だが、その約束に至るまでの経緯に踏み込めるほど、フレンは無神経にもなれなかった。
「精霊を殺して回ることがか?」
良くないとわかっていても、どうしても、言葉が刺々しくなってしまう。
「ええ」
ジュディスは反論もせずに静かに頷くだけ。
「精霊……怪異殺しにも色々いるんだよ」
そして、それまで黙って見守っていたユーリが、やれやれと二人の間に入った。
「ジュディみたいに悪性の強い人工精霊だけを狩る者、精霊なら見境なく狩る者。喰う者や憑き者が大体信条だのが似たり寄ったりなのとは違って、殺す者はそれぞれ主義主張が異なる。だから殺す者同士でも仲悪かったりするのが一般的だ。基本は群れない」
「私みたいに〝産み〟と行動を共にする人も多いけれどね」
フレンはジュディスが仕事の時に行動を共にしている、無口で大人しそうな少年のことを思い出し、目を丸くして「まさかバウルのことか?」と問うと彼女はまるで恋人の話をするように嬉しげに頷いた。
「あら、言ってなかったかしら。バウルは私の大事な相棒なの。それとも、真面目なあなたには、私は子供に殺しの手伝いをさせる悪いお姉さんに見えるのかしら」
「い、いや。そこまで言ってない……!」
「ふふ。冗談よ、可愛い人」
ユーリは年下に相変わらず遊ばれているフレンに少し笑って「どこの世界でも人の思想なんかそれぞれだろ」と、フレンが抱く違和感にも理解を示しつつ、そしてジュディスの生き方も肯定するように静かに説いた。
精霊と呼ばれる世界のシステムを循環させる者、修復する者、故障部分を見つける者、そして中には──システムそのものを変えようとする者がいても、なにもおかしくはないだろう。
フレンがそれ以上はなにも言えなくなると、ジュディスが形の良い唇を開いた。
「怪異喰いは肉体を、怪異憑きは精神を。それぞれ生まれた時に捧げて、世界のシステムを見張る宿命を背負ってるの」
言葉に顔を上げるとジュディスがこちらを真っ直ぐに見つめていたため、フレンは少し顔を赤くさせて視線を彷徨わせながら言葉に応える。
「……君たちは?」
「そう生きるって、後から決めた人たち。いいえ、もうその瞬間から人じゃないのかもしれない。死も、その先の地獄も恐れない狂人ばかりだから、きっと怪異殺しはみんな仲が悪いのよ。寂しいわね」
などと言う彼女だが、その様子はちっとも寂しそうではない。
強い意志、その全てを覚悟をしている瞳の色だ。
「体でも精神でもない。強いて言うなら──運命を捧げてる、なんてね」
──ジュディスの父、ヘルメス博士と呼ばれた偉大な男が人工精霊の開発、そして一つの街を丸ごと飲み込み、多くの犠牲者を出した──精霊世界との接続実験に携わっていたことを、後にフレンは知る。
その際、フレンの脳裏に彼女のこの言葉が重くのしかかることとなるのは、まだ先の話だ。
運命を捧げたとは言い得て妙であるが、その生き様は囚われているとも言えた。
人と精霊、その両者が互いに消費し合いながらバランスを保つ世界。
けれど多くの人々は精霊の存在を知覚できない。〝彼ら〟が怪奇現象を起こすか、人々に危害を加えるかでもしなければ──。
時に妖怪、怪物、化物、幽霊、宇宙人などと好き放題呼ばれるが、その事象を引き起こす大半は精霊だと相場が決まっている。
それらをどうにかするため、暗躍するのが彼らのような者であった。
「フレン。ついでだから忠告をしておくわ」
共存を目指す者、排除を目指す者。
精霊による怪奇事件が増加している昨今では、その溝も以前に比べて深まりつつある。
「忠告?」
「あなたたちのような精霊……怪異憑きは簡単には死なないようにできてる。けれど、唯一弱点があるの」
嗚呼──あのとき、彼女の忠告が現実味を帯びていなかったのは。
己がまさか、死ぬかもしれないと言う状況に立たされることなど、一ミリも考えていなかったからだ。
「……怪異殺しには気をつけて。彼らは──私たちは、唯一怪異憑きを殺せる」
忠告をしつつも己を過剰に怖がらせないようにしてくれているのか、淡々とした口調の中にも優しさを感じる。
「怪異殺しは狩るために武器を手にするわ。それは傘かもしれないし、カッターかもしれないし、もしくは銃かもしれない」
ユーリは──否。精霊と向き合うものが皆、口癖のように同じことを口にする。
精霊は理不尽の権化だ、と。
そんなこと知らない、聞いていない、身に覚えはない、そんなものは全て、精霊には通用しない。
けれどそれは──精霊と深く関わる己たちも、きっと同じなのだ。
理不尽な世界で、出鱈目な世界で、身を削って生きるものたちに都合よく常識が通じるなど夢物語だ。
「怪異憑きを殺すためだけに、運命を捧げた怪異殺しもいることを、どうか忘れないで」
フレンはまさに、いま、その理不尽に刃を向けられていた。
確認しなくても、わかる。
赤い目をしたその男は──間違いなく、怪異殺しであり、フレンにとっては死そのものであった。
口の中が乾く。瞬きをすること、呼吸によって膨らむ肺や己の内側で聞こえる鼓動までもが、その全てが億劫で、一瞬が永遠に感じる。
──だが、その静寂が破られたのは思いの外早かった。
人々が寝静まり、星々のざわめきと、精霊の笑い声がよく聞こえる、こんな騒がしい夜には腹を空かせた獣が目を覚ます。
それは精霊を愛す者。身を捧げ、精霊の全てを愛す捕食者の総称。
怪異喰いは──夜が深ければ深いほど、己の身に取り込んだ愛すべき者たちが力を注ぐ。怪異憑きのように任意に精霊を使役することはできない。けれど怪異喰いには、精霊が自ら手を貸すのだった。
「よお、手癖が悪いなデューク。人の男に手を出すなよ」
降ってきた声が鼓膜を震わせたのと、デュークと呼ばれた男の足元に〝影〟が現れたのは同時だった。
男が瞬時に身を翻し、その場から退いた直後。フレンを守る障壁のように、人の手を象った無数の影が地面から伸びる。一目見てそれがユーリの力だと悟ったフレンは胸を撫で下ろし、そして、ドッと吹き出る大量の汗。
怪異喰いに手を貸す精霊は、人によって違う。ユーリに手を貸すのは闇を司るものたちであり、それ故に影を操ることをユーリは得意とした。
光ならば太陽などの元で、闇は夜が深ければ深いほど──他に炎、水、風、地──それぞれそれにふさわしい場であるればあるほど、限定的とは言えど怪異喰いは強大な力を発揮させるのが特徴である。
中にはその全ての精霊に愛され、全ての力を引き出す精霊タラシと呼ばれる者もいるそうだが、それこそ精霊に最も近いとされる精霊憑きよりも精霊の領域に足を踏み入れているのではないかとフレンは思う。
「……ユーリ、私の話も聞かず、まだこのように無駄なことを続けているのか」
絹のような美しい髪を揺らし、握っていた剣を帯刀してから男──デュークは、フレンの背後から現れたユーリに呆れたような、憐むような目を向けた。
名を呼び合う、ということは知り合いなのだろう。そして口ぶりからして、不仲というわけでもなさそうである。
「フレン、大丈夫か」
ユーリが貸してくれた手を取り、なんとか立ち上がると膝がわずかに笑っていた。
ほんの一瞬、死を認識しただけでこの様だ。フレンは深く呼吸をして、ユーリに「すまない」と口にした。
「……体が動かなかった」
「仕方ねぇよ。あいつを真っ当に相手にできる奴なんか、マジの化物だけだ」
怪奇現象の一言で片付けられる多くの事象をこと細やかに分析、理解し、その全てを有耶無耶にしないユーリが口にした〝化物〟はなにより生々しく、フレンの恐怖をより煽った。
それだけあの美しい見目をした、人形のような男がどうしようもなく手のつけられない存在であることをハッキリと理解する。
人間の形をしているだけの、別の生き物。
そんな、気がした。
今までもおぞましい精霊の姿を見てきたというのに、その恐怖の記憶が霞むほどには、〝彼〟が怖くて仕方がない。
「……彼は……怪異殺しか?」
「……いや。ちっとばかしちがう」
ユーリはバールを握り直して、少し焦りを帯びた顔で不適に笑う。
「──同族殺しだ」
その言葉の意味を──フレンはまだ、この時、理解できなかった。
精霊は、精霊が息づくこの世界は、なによりも理不尽だ。
理不尽で、冷酷で、身勝手で、そして──残酷なのである。
「案ずるな。今日はお前たちを試しに来ただけだ」
「試すだァ? ンな物騒なモン引っ提げて、試すもクソもねぇだろうが」
ユーリの言葉の節々に怒りの色が見られた。
いつ何時も冷静なように見えるものの、身内に危険が及ぶと一変、存外この男は怒りと不快感を露わにする。
するとデュークは己の言葉を証明するように、まるで手品でも見せるように帯刀していた剣をその場からフッと、蝋燭の火のように消し去った。
人知を超えた現象を前に、いままで精霊だの怪奇現象だのに慣れつつあった流石のフレンからも、思わず「え」という間抜けな驚嘆の声が漏れる。
「月の眼が出たそうだ。現地の怪異憑きがどうにかしたと聞いている。奇跡的に犠牲者は出なかったが、運が悪ければ数十人が喰われていてもおかしくはない」
「……嫌な冗談だ」
「冗談であればよかったがな」
会話の内容のほとんどは理解できない。
しかし、月という単語が聞こえたフレンは〝よくないこと〟が起きていることだけはわかる。
さほど力をも持たない精霊が引き起こす怪奇現象は条件が揃えば誰にでも現れ、そして無差別かつ、対象も数名であり実害もほとんどない。
被害内容も主に耳鳴りや心霊写真と呼ばれるものから、中には人形の髪を伸ばしたり、位置を動かしたりと怪談でよく耳にするものまで。
しかし、力を持てば持つほど──悪性が強まれば強まるほど。
精霊は、選り好みをする。
当然規模も大きくなり、中でも月、夢、獣などの冠称名がつくモノは総じて悪質で、狡猾で厄介であったのだ。
「精霊同士は呼応する。強い精霊は、惹かれ合う。さすれば近いうちに大規模な精霊案件が出るだろう。ユーリ、お前の判断力は悪くなかった。しかし、彼を死なせたくないのであれば、しっかり教育することだ」
本当に、フレンとユーリを試しに来ただけであるらしい。
それだけを伝えると、用事は済んだとでも言いたげにデュークは他になにも言わず二人に背を向ける。
「お、おい。もう行くのかよ」
「私は明日も仕事だ。お前たちの学校なのだろう、子供は早く帰れ」
あんたが引き止めたんだろーがッ、とユーリは吠えたものの、轟々と風が吹いたかと思えば、そこにはもう誰もいなくなっており、フレンはまた懲りもせず「え」と間抜けな声を上げた。
デュークが現れてから、時間にして一時間も経っていない。
そこに残っていたのは、静かな夜と、二人の背中だけであった。
疲れた様子のフレンとユーリは自然と目と目が合う。二人とも、顔色はさほどよくなかった。
「……仕事って、なにをしてるんだ。マジシャンとか?」
「……いや、ケーサツだよ。階級は……なんだっけな、忘れたけど」
「う、うそだ……! あんな堂々と銃刀法違反した警察がいるわけないだろ!」
「マジなんだって」
ユーリはバールを握っていない方の手で頭をガシガシと掻くと、疲れきったように夜空を見上げた。
そこに浮かぶのは、物言わぬ丸い月。
物持ちになると不便だという忠告を無視したのは己だ。そして、放っておけばいいと言う言葉を無視したのも。
ここまで全て、己が選んできた道であった。
後悔は、ない。
ただ、今度こそ、この手で彼を英雄という呪縛から解放すると決めた。
デュークの言ったことが本当であれば、少し厄介である。
これから先、なにを優先して、なにを切り捨てて生きるのかの覚悟を──しっかりと決めるべきときが、再びやって来たのかもしれない。
「ユーリ」
心が重くなるのを感じる中、不意にフレンに呼ばれ、ユーリは視線を向ける。
そこには闇夜の中でも瞬く青い瞳が浮かんでおり、その青は──どんな星よりも眩しく、そして美しかった。
眩さに、目を細めてしまうほどには。
「助けてくれてありがとうな」
フレンが微笑んで、ユーリは頷くと「どういたしまして」と静かに応えた。
この世界の夜は、長い。
──けれど、ユーリには陰ることのない太陽が、確かにあるのだった。