暮らしの中で

 朝からかれこれ二時間以上、部下からかかってきた電話に対応しているフレンの大きな背中を、ユーリはベッドの上で脱力した様子で眺める。
 せっかくの休みでも、仕事のできるフレンはいつもこうだった。
 物心がついた頃からの幼馴染であり、そして今日に至るまでの共有してきた時間は膨大で、今さらフレンの言動にユーリが機嫌を損ねることも少なかったものの、今日ばかりは壁掛時計を一瞥して少しのため息。
(一緒にモーニング食いに行こうつったのに)
 短針は既に十時過ぎを指しており、約束していたカフェのモーニングが終わる頃であった。
 気だるげにユーリが起き上がり、音も立てずに寝室を出る。
 フレンはそのことに、気づくこともなかった。

「……すまない……」
 己が電話対応してい間にすっかり朝食を作り終えていたユーリに、フレンはキッチンで深々と頭を下げた。
「休みの日まで大変だな」
 嫌味の一つでも言ってやりたいのが本音だが、朝から揉め事を起こすと面倒であることをユーリは知っている。
 近ごろは如何に面倒な衝突を避けるかに重点を置きすぎて、言いたいことの半分も言えていないような気がしていたが、それすらも仕方がないと無理やり自分自身を納得させていた。
 いわゆる大企業でエリートサラリーマンをやっているフレンと、個人経営の小さなレストランで料理人をしている自分。
 いま、この広々とした部屋に住めているのもフレンのお陰である部分が大半を占めており、昨今はこうした余計なことばかり考えるようになってしまっていた。
 そもそも、私生活も一緒にいすぎると些細な摩擦が起きやすいことを予見していたユーリは同棲などするつもりはなかったのだ。
 高校時代から通っていたバイト先でそのまま卒業と共に料理人として雇われ、あくせく働きながら近くのアパートを借りていた。
 その間、フレンは大学近くのマンションを借りており、互いに生活リズムがすれ違う中で会える日も限られていたが、いま思えばあの頃が一番楽だったような気もする。
 大学が忙しく、バイトなどできないフレンを、よく勤め先に招いて腹いっぱい食べさせていたっけ──そんな数年前のことを思い出しては、漏れそうなため息を抑えるのだ。
 一緒に住もうと言われ、断り続けた数年間。最終的に折れて、納得して、この部屋に移り住んだというのに。
 ユーリが出来たばかりの朝食をテーブルに並べようとすると、フレンが慌てて手伝いに来る。
「いいって。座ってろよ」
 やってしまった。
 ユーリは思わず言動に刺々しさが出てしまったことに反省しながら、一度息を大きく吸い込んだ。
「前にエステルに貰ったパン、冷凍しといてよかったな。トースターで焼いたらちゃんとフワフワになってさ」
 あくまでも怒ってないことをアピールするように話題を振るも、席につきもせず立ったままのフレンは捨てられた犬のような顔をしている。
 あれはとんでもなく自己嫌悪に陥っているときの表情だなと淡々と分析しながら、ユーリは「冷めるから食おうぜ」とフレンに声をかけた。
 忙しいことは、いいことだ。
 自分を優先して仕事をおざなりにするフレンは見たくはなかったし、たかが恋人とのモーニング程度の話である。
 そんなもの、いつだって行けるのだから。
 重荷にもなりたくなければ、一緒に過ごす時間が多いことによる弊害を、フレンに気づいてほしくはなかった。
 ユーリはもう、怒ってもいない。
 ただ、機嫌を取られることも面倒ですらあった。
「ユーリ、その……」
「もういいって」
 嫌な言い方をしてしまう。
 せっかく貰い物の良いパンなのに。いい具合に焼けたソーセージと目玉焼きがあって、ひと手間加えたインスタントのスープ付きだというのに。
「飯なんかいつでも行けるしさ」
 朝から出かけるのは久しぶりで、最近はユーリの勤め先であるレストランが繁忙期であったこともあり、フレンが度重なる出張などで帰ってこれない時期でもあった。
 だから、昨日の夜から──否。誘われた日から、楽しみにはしていた。
 一人でカフェのモーニングをつつくのは少し恥ずかしくて、それを話すと一緒に行こうと言ってくれたのが嬉しくもあった。
 だからこそ、もういいのだった。
 それ見たことか、期待するなって言ったのにと、ひねくれて拗ねた自分が囁いてくるのが苦しかった。
「また今度行けばいいだろ?」
 ふざけんなバーカアーホと、昔みたいに一言言えたらいいのに。
 けれど仕事に疲れて、ヘトヘトになって、たまの休日でも仕事に追われるフレンを前に、バカなどとは到底言えなかった。
 大人になると窮屈だ。
 ユーリは思う。
「……今度って?」
「お前の仕事が落ち着いたあたり?」
 一生無理そうだな、などと心の中で皮肉を言いながらフレンを置いて先に席につき、風味のいいパンを口にした。今度、どこの店で買ったのかエステルに教えてもらおう。
「オレ、明日も休みもらってるからさ。飯いらなくなったら早めに連絡してくれ」
 繁忙期が明け、オーナーであるナイレンから連休を与えられていた。
 今朝の電話の様子からして、おおよそ明日もフレンの帰りは遅くなるだろうと見越し、もし家で夕食をとらないのであればレイヴンでも誘って飲みにでも行こうと考える。
 なにを考えていたのか、黙ったままだったフレンがようやく席につき、いただきますと両手を合わせてパンをちぎって食べたのを見届けて、ユーリは「美味いだろ」と笑った。
「おいしい」
「今度パン屋巡りとかしてぇな。エステルあたり誘ったら来るかな」
 なんでもない雑談のつもりでユーリが言うと、フレンの手が止まる。
「……どうした?」
 ちぎったパンを口に運ぼうとしていた手をおろし、俯いて固まるフレン。
 なにか変なものでも入っていただろうかと──あるいはフレンが苦手な魚類など──心配になり顔を覗き込むと、フレンは目を潤ませながら勢い良くユーリの方を見た。
「……ユーリ」
「ど、どうした」
 子供のようなあどけなさと、どこか圧倒されそうな気迫にユーリはたじろぐ。
 そして、フレンはパンを皿に置くと、ユーリの手を強く握った。
「……捨てないでくれ……!」
 力がこもるフレンの手。
 その懇願に対して呆然とするユーリ。
 捨てるとは──ユーリが、フレンのことを、ということだろうか。
 やや混乱している脳で、どうにかフレンの言葉を噛み砕いた。
「……えーと、急にどうした」
「僕……っその、最近ユーリに……罵られてなくて……」
「罵られてぇの……?」
「そうじゃなくて!」
 フレンにそういう趣味があったのかと一瞬疑うも、即刻否定され少し安堵する。
「昔はこういうことがあったら、ふざけんなバカとか、二度とツラ見せんじゃねぇハゲとか、出来ねぇ約束する奴はハリガネムシ以下だとか言ってきたのに……っ」
「誰がそんなひどい暴言を……」
「一字一句、ぜんぶ今まで君に言われたことのある言葉だよ!」
 怒りに身を任せて吐いた言葉など記憶にないユーリは首を傾げ、数回の瞬き。
 フレンは少し大きな声を出して疲れたのか、ユーリの手を握っていない方の手でパンを掴むとちぎりもせずにかじり、冷えた焙じ茶を飲んで一息をついた。
 少しの間。
「……ごめん、本当に。信じてもらえないかもしれないけど、僕も楽しみだったんだ。醜い言い訳をするつもりもないし、全面的に僕が悪いから許してくれとも言わない」
 再び両手で手を握られる。
「他に女作って遊んでんならともかく、仕事なんだからしかたねーだろって」
「だとしてもだ」
 いつもの軽口でいなそうとするが、今日のフレンはそうはいかないらしい。
 ユーリは一度、今日は我慢し続けていたため息をようやくつくと「それで?」と続きを促す。
「……最近のユーリはずっと我慢してるから……いつか、見限られるんじゃないかって……ぼくは……」
 たどたどしく言葉を紡ぎ、フレンは自分で言っておきながら徐々に威勢を失っていった。
 フレンにはバレないように繕っていたはずが、なにもかも見透かされていたらしい。
 さすがだな、と感心すらする。
 ユーリは握られた手を見下ろし、ゆっくりと重い口を開く。
「本音は、ふざけんなって思ってたよ、今朝も」
 子供に言い聞かせるような口調で話し始めると同時に、フレンは叱られた犬のようにゆっくりと視線をユーリに向ける。
「でもな、言ってたらキリがねーの。それで朝から喧嘩してさ、今日せっかくお前もずっと家にいんのに、夜までギスギスしたくねぇの」
「……うん」
「仕事、頑張っててスゲーなって思ってるし応援してる。これも本音。だから見限りもしないし、別れたいなって思ってもない」
 ユーリにとって、もはやフレンは自分の一部のようにも感じていた。
 それを切り離すときが来るのなら、それはきっとフレンの方から別れを告げられたときだろうと、真剣に思っている。
 ユーリは自身の本心を隠すような言動で、まさかフレンがこうも思い詰めていたことなど気づきもしなかった。
 捨てないでくれ、と言われたのは初めてだなと呑気に考え、少し可笑しくて思わず笑ってしまう。
 フレンは、ずるい。
 ユーリを怒らせるのも、拗ねらせるのも、笑わせるのも一瞬だった。
 空いた手でフレンのクセ毛を撫でる。
「ま、ここまで言ってもお前は納得しないだろうからな。今日の晩飯、どっか連れてってくれよ。それでいーや」
 顔を近づけ、情けない目尻にキスをするとくすぐったそうなフレンが何度も頷くのを見て、こいつはオレのことが好きなんだなぁ、などと思っては満たされる自分の単純さが情けなくもある。
 ただユーリも、やはりフレンが好きで、フレンではないと駄目だと感じるのだった。
 我慢のし過ぎは、良くないかもしれない。もっとバカだのアホだの言って発散しあうほうが、お互いの為になるかもしれないなどと思いもしなかったが。
「……パンの食べ歩きも、僕がユーリと行きたい……」
「はいはい、わかったわかった……」
 冷めるから飯を食わせろと言いながらも、フレンの高めの体温は相変わらず、ユーリにとって心地のいいものである。
 そしてその後、フレンが急遽、明日の有給をもぎとってくることなどユーリは知りもしないのだった。