絶対世界征服宣言

 目立つことは嫌い。
 声が大きな人も苦手。派手な格好もしたくない。
 そんな少年が望むことはただ一つ、なるべく目立たず、誰からも敵対されず、穏やかで平凡な日々を送りたいというものだった。
 先月、六年生となってからというもの、少年はクラスメイトの誰とも、ロクな会話をいまだ交わしていない。
 昔から声が小さく、思ったままの言葉がうまく出てこないということを自覚しているため、ただ相手に聞き返されるだけで無性に責められているような気持ちになり、つい黙り込んでしまう悪癖——少なくとも本人は、悪癖だと思っている——があるゆえだった。
 そんな少年が選んだ選択肢は、なるべく人と話さないと言う実なシンプルなものだ。
 話さなければ誰にも聞き返されることもない。会話後の脳内反省会も開かずに済む。
 地味で目立たない、誰にとっても無害な存在でありたかった。
 今まで生きてきて、唯一つけられたことのあるあだ名はモヤシ。髪が白く、チビでくねくねしているもやしっ子が由来。
 両親の仕事の都合で転校しがちなこともあり、友達らしい友達もできたことがないため、その悪意しか感じられないモヤシというあだ名も実のところ影でしか呼ばれたことがないのだが。
 そういえば、まだこの学校ではモヤシと呼ばれたことがない。
「みんな、織田信長って聞いたことあるだろ?」
「知ってるー!」
「ホトトギス殺しちゃうおじさんでしょ?」
「あはは、まあ諸説あるんだけどね。よく知ってるな」
 賑やかな社会科の授業中。
 担任教師が黒板に有名な武将のイラストをマグネットで貼って行くのを、退屈そうに眺めるのは赤い瞳である。
 ヴァンガードのテキストとイラストならすぐに覚えられるのに——今にもあくびが出そうな空間で、伊吹コウジ少年はノートの端に視線を移すと、コリコリと鉛筆を走らせ《ロイヤルパラディン》のユニットである、《ういんがる》を落書きしながら早く学校が終わらないだろうかと、そればかりを考えていた。
 先日発売された新しいブースターパックに、あの伝説のカード《ブラスター・ブレード》が限定枚数で収録されたと言うのに、自分も含めて周囲では「出た」という報告すら聞かない。
 やはり運がないんだよなぁ、今日は出るかなぁ、早くショップに行きたいなぁと見事に教師の言葉は右から左である。
 だが、たとえ伊吹が落書きしてようと、明後日の方を見ていようと、クラスでも地味で目立たない少年の動向を気にするものは誰もいなかった。
「そんな誰もが知ってる織田信長は、実は尾張国の小さな大名の子だったんだ。でも、着実に力をつけていった織田信長は、長篠の戦いで甲斐国の武田氏を鉄砲を使い、やぶったとされている」
 教師が熱心にチョークを走らせて何かを板書している間も、伊吹は真面目にノートをとる振りをしながら、次に《ふろうがる》を描き始め、尻尾にリボンはあっただろうか、などと描いたり消したりを繰り返している。
 空想の世界に浸りながら透明人間のようになることを望む伊吹は、この頃トレーディングカードゲームであるヴァンガードに没頭していた。
 誰かに傷つけられることも、誰かを傷つけることもない。惑星クレイにいる間だけは、まるで別人のように振る舞える。
 友人がいなくても、カードショップの大会にさえ赴けば気軽に誰とでも遊べるのが良かった。
 伊吹にとって、ヴァンガードで重要なのは勝敗ではない。知らない人とでも繋がることのできる、一種の絆のようなものだった。
「さて。小さな大名の子であった織田信長も、こうして全国統一を目指すまでになった。では、こんな生き牛の目をくじるような戦国時代の世の中を、みんなならどうやって生きるかな」
 そういって、教室を見渡す教師の視線に気づき、伊吹は慌てて指名されないようにといっそう身を縮こませる。
 戦国時代に生まれて来たところで、今と何ら変わらない。
 後ろの方で、いつでも逃げられるようにしておくくらいが関の山だ。
  手汗でノートの紙が湿気る中、ふと教師の視線がこちらに注がれていることに気づき、伊吹は動悸が速まると喉が詰まりそうになる。
 どうか、どうか当てられませんように——。
「じゃあ、櫂ならどうする?」
「あ? 俺?」
 後ろから、眠たそうでありながらも良く通る声が返事をした。
 櫂トシキ。出席番号順で、伊吹の次に当たる男子生徒である。
 ちらりと肩越しに背後を盗み見ると、同じ小学生だというのに中学生のお兄さんのような、歳の割に発育のいい、大人びた美少年が面倒くさそうに席を立って顔を顰めていた。
 伊吹は妙に顔を赤らめて、櫂と目が合う前に前を向く。決して恥ずかしいわけではない。普段は足元ばかりを見て、自ら人に視線を送ることがあまりないために緊張したのであった。
 櫂とは接点どころか話したことすらないというのに、学校を出て真っ直ぐ進んだところの交差点を過ぎたところにある〝公民館のような大きな家に住んでいる子〟ということだけは知っていた。
 いわゆる、良い家の子とも言う。
 人との交流を避ける伊吹の耳にも入るということは、それだけ櫂は同級生の中では有名人なのであった。
 そしてこれまで学校をいくつか、渡り歩いて来た伊吹だから知っている。
 同級生の中に必ず一人はいるような、その子と仲が良いというだけでステータスになるような存在。
 それが、櫂トシキだった。
 いわゆる派手でやんちゃな子たちが集まるグループの中心にいて、いつだって櫂の周囲は人で溢れている、というのが伊吹の知り得る櫂の情報。
 きっと、彼とは一生話すこともないだろう。伊吹にとって、生きる世界そのものが違う人物であった。
 それ以上は特に後ろの様子を気にするでもない伊吹は、自分が指名されなくて良かったと安堵し、再び落書きを再開する。
 土曜日のショップ大会はどのクランで出よう。また、あみだくじを作って決めるしかない。
 ヴァンガードのこういった話ができる友達が欲しいと思わないわけでないが、きっとそんなのは夢のまた夢だった。今だってわざわざ同じ学校の生徒と鉢合わせないように、少し遠いカードショップに行くような引っ込み思案が、共通の趣味を持つ友達なんて作れるわけがない。
 ——櫂くんなら。
 きっと、クラスの人気者である彼がヴァンガードを始めたら、自分とは違って多くの人と交流を持てるのだろう。
 伊吹は卑屈でもなんでもなく、素直にそう思った。
 櫂はそもそも、嫉妬やそういうものを向けれるような対象ではないのだ。見えてる景色が全く違うような彼と自分を比べることが、どれだけ愚かで無意味なのかを伊吹は理解している。
 櫂とは、おおよそ生きている世界が違うのだから。
 自分の頭の上を飛び交う、櫂に注がれるクラスメイトの視線が、伊吹にはむしろ灯りにたかる蛾のようにも見える。
「ああ、なんでもいいぞ。想像力を膨らませてみて」
「戦国時代ねぇ……そうだな」
 今も、櫂が当てられただけで教室中の楽しげな視線が自分の背後に集まっている。その中で唯一、伊吹だけが下を向いていた。
 話したことのないクラスメイト。
 きっとこの先も、言葉を交わすどころか名前さえ呼んでもらえることのない遠い世界の人。
 空想ごっこではなく、本当に物語の主人公になりそうな人。
 ——なんて答えるのだろう。
 伊吹はらしくもなく、すこしだけ背後の声に耳を傾けた。
 妬みも、憧れも、羨望とも、また少し違う。
 空想ごっこが好きな少年は、きっと生まれてくる世界を間違えたのであろう、現実に生きるデタラメな彼の物語を読んで見たかった。
 彼の目から見た、空の色を知りたかったのだ。

「世界統一とか」

 まるで地球に狙いを定めた魔王のような言葉に、先ほどまで楽しげだったはずの教室が静まりかえる。
 伊吹も思わず、落書きをしていた手を止めた。
 この人、なに言ってんだろ——と言うような表情を浮かべて。
「……えーと。全国ではなくてか?」
 ぶっ飛んだ教え子の回答に戸惑う教師の声。
「うん、世界統一。世界のついでに日本統一しとく」
 そんな、スーパーへ行くついでにコンビニに寄るような気軽さで。あと、それは統一というよりもはや征服である。
 誰もが櫂の思考回路についていけずにポカーンとする中、ただ一人、その言葉に肩を震わせていた。
 ぶは、と吹き出したような声が聞こえる。
 プルプルと震えながら、ヒーヒーと笑ってるのはクラスのムードメーカーである三和タイシであった。櫂とは低学年の頃から仲のいい、まさに親友というに相応しい櫂の友人。
「櫂、お前、確かに織田信長は魔王だけどさ。そりゃマジモンの魔王じゃねーか!」
「はあ? 島国統一できたら別の大陸も欲しくなるだろーが」
「邪悪か!?」
 三和の無邪気な笑い声につられ、徐々に教室に笑いが湧く。
 ただ、伊吹だけは机に突っ伏して、背後の櫂の言葉に小さく「はうあー」と感嘆の鳴き声を漏らしながら、顔が真っ赤になっていった。その度胸が、溢れ出る自信が、聞いているこちらが恥ずかしい。
 本当に変な人なんだなあと、もはや感動すらしている。
 こんな、クラス中の人に見られながら世界征服を宣言できる小学生なんていない。
 それに、櫂ならできてしまいそうな、妙な現実味のせいで最初は誰も笑えなかったほどだ。
「まあ、櫂ならできそうだな」
 教師までもがそう言って、困ったように笑っている。
 伊吹はドキドキした。櫂は今、この教室の光景をどのように見ているのだろう。
 櫂と同じ空を見上げても、同じ色になんて見えないに違いない。
 クラス中の注目を浴びながら堂々と自分の言葉で、何かをためらうことなく思ったことを口にできるその勇ましさは、伊吹にはないものだった。
 それも、周囲を笑かせるためではない。そこには一切の媚もなく、本当に、思ったままの言葉を声に乗せているのだ。
 ありのままの言葉を、人柄を、周囲に受け入れられ、好まれていることがいかに凄いことなのか、それを櫂は知ることもないのだろう。
 櫂は、本当に物語の主人公のようだった。
 彼がクラスの人気者である理由がまた少し分かった気がして、伊吹は俯かせていた真っ赤な顔に小さく笑みを浮かべる。
 そんな賑やかな一幕を終え、櫂はなにごともなく再び席に着いた。
 ——変な人だ。
 仲良くなれるはずもない、出席番号4番の彼を想いながら、来月にやってくる席替えまでの間は空想ごっこのネタに事欠かないなと、伊吹はチャイムが鳴ると同時に落書き帳と化したノートを満足げに閉じた。

 先月、引越しの際に買い換えたばかりのダイニングテーブルには書類の山が築かれている。
 今年でアラサーとなった男、伊吹コウジはタブレットパソコンに接続したキーボードを、どこか虚ろな目で忙しく叩いていた。
 世の中はペーパーレス化を推進しているというのに、どうしてあのクライアント先の年寄りどもは、毎度資料を紙で寄越してくるのだろう、これだから平成生まれは、などと片付けがさほど得意ではない——ので、ものを増やさないように努めている——伊吹は舌打ちをし、案の定書類を周囲にばら撒きながら自宅での仕事に勤しんでいる。
 学生時代よりもずっと伸びた白い髪は一つにまとめられ、近頃は忙しさにかまけてロクなトレーニングも出来ずに筋肉が落ちた体のシルエットは、本来の線の細さがヤケに際立っていた。
 健康面ではいたって普通。むしろ諸事情により以前に比べてずっと健康なのだが、すっかり薄くなった伊吹を見た知人たちにこぞって「痩せた?」などと心配されることも増え始めた。
 体の完成度がピークだった高校生時代に比べ、筋肉分の重みが減れば薄くなったと言われても仕方がない。
 ——これではまたモヤシになってしまう。
 伊吹は少し笑った。
 モヤシ呼ばわりは困ると、そろそろ筋トレでも再開しようかと思った頃、持ち帰った仕事はようやくひと段落終え、椅子の上で胡座をかいたまま大きく伸びをした。
 バサバサと、また何枚かの資料が床に落ちる音がする。
 本部長となってからはもはや会員費を払っているだけのジムに、最後顔を出したのはいつだっただろう。
 仕事漬けの日々を思い返した伊吹はやや遠い目になり、ふと天気予報を確認したついでにつけたままだったテレビに意識を向ける。
 そこには、クイズ番組で女性タレントが珍回答を繰り広げ、スタジオに笑い声が溢れている光景が映し出されていた。
 どうやら出題されたのは織田信長にまつわる、歴史問題であったらしい。
 伊吹は特に興味もないはずのクイズ番組を眺め、織田信長と聞いて懐かしい光景を思い出すと愛しげに目を細めた。
 あの頃は、こんな未来など想像もしていなかった。
 今でも、正直どうしてこうなったのか伊吹にも分からない。
 初めて彼と話をした時、開口一番に「誰だよ」と言われたことをずっと覚えている。だからと言って、特にそれを根に持っているわけじゃあないが。
 あの時は、むしろそれが自然だった。
 今の状況の方が、おかしいのである。
 左手にはめる勇気がなく、右手の薬指にはめたシンプルなデザインの指輪に視線を移し、「つぎに渡す奴は左手につけてもらうから」と遠回しのプロポーズをされたことを思い出して、伊吹は複雑な顔をした。
 育った環境から、互いに家族という組織を神聖視していないことは知っているため、彼になにも残してやれないことを心苦しく思ったり、後ろめたさを感じたことは一度もない。
 これは男同士だから、というよりも。
 彼の相手が自分であることに対する後ろめたさである。
 ただ、付き合い始めて十年近くも経とうとしている——その間に幾度もひっついたり離れたりなどの紆余曲折あったのは言うまでもないが——今でも、この現実にあまり実感を持てないと言うか。
 彼が自分を好きだと言ってくれるのが、嘘のように感じられるのだった。
 嘘をつかれているとは思わない。愛されているのは、一応理解できるようにはなった。だが、自分よりも相応しい相手が彼にいるのではないかと思わずにはいられない。
 彼は伊吹にとって、そういう存在だったのだ。
 だからこそ釣り合おうなどと、無駄なことを思ったことはない。
 ありのままを愛してもらうことよりも、ありのままの自分を好きなどと言ってくる相手の言葉を、幸せを甘んじて受け入れることの方が難しいなど、伊吹は知らなかった。
 今のように同棲をしようと、いつか籍を入れようと、億が一、たとえ養子をとろうと。二人の関係に苦言を呈すものは誰一人いないだろう。
 決めるのは、受け入れるのは自分次第なのだ。
 こんな及び腰の自分を、彼は——急かしもせず、焦りもせず、怒りもせず、悲観的にもならずに待っている。そこに申し訳なさが微塵もないわけではない。早く腹をくくれと言う周囲の言葉ももっともだ。しかし、しかしだ。
『どう転んだって、最終的に伊吹はどうせ俺を選ぶだろ?』
 などと自信満々に言われてしまっては、申し訳なさよりも一種の腹立たしささえある。ならば気が済むまで唸ってやろうと決めてから、 気づけばこんな年月が経っていた。
 テレビから流れる織田信長の逸話をぼんやり流し見しながら、伊吹が黄昏ていると玄関のドアが開く音がする。
 仕事の帰り際に買い出しをしていた——伊吹の同棲相手であり、恋人である櫂が顔を出した。
「取材お疲れさん」
「……ただいま。ささっと飯作るから、ちょっと待っててくれるか」
 持ち帰りの仕事となると、普段なら書斎に篭りっきりの伊吹が珍しくリビングにいることを確認した櫂は顔がパッと明るくなり、目を細めて嬉しそうに笑う。
 櫂の微笑みは健康にいい。仕事漬けによる伊吹の疲れ目が徐々に回復していく。
 そんな櫂の表情に可愛い奴めと思いながら席を立ち、キッチンで手を洗っている彼のそばまで近づくと気まぐれに白い頰にキスをした。
「機嫌いいな」
 少し驚いた様子の櫂が、キョトンとこちらを見つめる。伊吹は「まあな」と言って、そのまま腰に抱きついた。
「やっと一仕事終えたんだよ」
「おお、よかったな。ワインでも開けるか?」
 仕事が煮詰まると禁酒するといった決まり事を守っている伊吹に、櫂はどの瓶を開けるかと尋ねる。なお、伊吹が禁酒してる間は、櫂もなぜか酒を飲もうとしない。お互いそこそこにアルコールが好きなだけあって、お言葉に甘えたいところなのだが。
「機嫌良いついでに言っていいか?」
 伊吹が顔を近づける。そんな甘えるような仕草をする伊吹の長い髪から、ふわりと同じシャンプーの香りがして、櫂は満足げに笑みを浮かべた。
 髪を伸ばしている割には洗髪剤の類に一切こだわりを持たない伊吹を放っておくと、薬局などに売られている安売りのリンスインシャンプーを使い始めるために、同棲を始めてからはもっぱら櫂が自宅のシャンプーやリンスを管理している。
 櫂としても今まで自分が使う分にはここまでこだわったことはないのだが、伊吹の髪が好きである以上、彼の毛並みの管理は徹底して行っておきたい。
 サラサラと揺れる、纏められた白とも銀とも言えない不思議な色をした髪に見惚れて、やっぱり綺麗だと櫂は恋人を愛しく思った。
「どうぞ?」
 意図せずとも優しい声が出てしまう。頑張りすぎるこの人を甘やかすことの多幸感たるや。
 伊吹は櫂の方を見つめながら、顔色を変えずに淡々と口にした。
「今日はセックスしたいから酒はいい」
「……なるほど」
 伊吹が今のプロジェクトに着手してから、一ヶ月ほど忙しい日々が続いていた。
 なるべく二人の時間を作ろうとしてくれているらしい伊吹は、同棲するまでの彼ならば支部に泊まっていたであろう場面でも、櫂が帰国している間はちゃんと家に帰って来てくれる。
 櫂としても、伊吹が疲労しているならまだしも、仕事が楽しいと話している以上は負担にも枷にもなりたくないと考えているため、仕事がしやすいように好きなようにしていいとはあらかじめ言っているが「言われなくともしている」と言われては、櫂としてもそれ以上は何も言えなくなるのだった。
 それはそれとして、忙しくなると夜の方がご無沙汰になるのは仕方のないことであり、後先考えずに毎日のように伊吹を抱いていた学生時代が少し懐かしく感じたりもする。
 大人になれば自然と落ち着くと思っていたものが、なかなかどうして元気なままであることに妙な恥じらいさえあった。
 伊吹とそうなるまでは、ずっと自分が性的な部分に対して淡白な方だと信じていたのが現在進行形で裏切られ続けている。
「じゃあ明日はゆっくりできるのか?」
「そ。それに明後日は会議があるだけだ」
「わかった、会場までは車で送る。スーツは?」
「着たくない」
「いつもお伝えしているように、スーツを着たいか着たくないかと言うお前の意思じゃなくて、俺は必要かどうか聞いてるんですけど、コウジさん? それとも当日の朝、自分で用意しますか?」
「ひつよーです」
「はい、よくできました」
 今は櫂もオフシーズンということもあり、次の大会まではヴァンガード関連雑誌の取材やサイドビジネスがメインとなっているため、伊吹が家にいると言うことなら予定も合わせやすい。
 休みということならば、とってあるワインは明日の昼からいただくのもいいな、と考えながら機嫌良さそうに今度は櫂から伊吹にキスをする。
 伊吹の薄い唇が気持ちいい。腰に手を回すと、多忙によりすっかり細さが目立つようになってしまった伊吹の抱き心地は心許ないが、こう見えても並外れた腕力が一切衰えていないことを櫂は知っているため、構わずに強く抱きしめる。
「じゃあ美味い晩飯作るな」
「期待してる」
 耳元でそう告げてから見つめあって、もう一度キスをして揃って笑いあった。
「ふ……魔王も今となっては主夫か……」
「なんの話だよ」
 なんでもないとはぐらかし、伊吹は櫂の背に手を回して居心地良さそうに目を瞑る。
 初めて見たときから、顔の端正さを除いても目立つ少年だった。
 華があり、品もあり、一見すべてが満たされていそうな少年だったが、実際はいつ見ても退屈そうで、プリントを配るために振り向けば、彼はそのたびに頬杖をついたまま廊下に面した窓の外ばかりを見ているのだ。
 その綺麗な横顔を、伊吹はよく覚えている。
 けれど、いまこうして自分を見つめ、笑みを浮かべてくれる櫂の表情は自惚れもあるにしろ、伊吹の目には満たされているように見えた。
 どうしてそんな目を自分に向けてくれるのだろう。
 あの頃の櫂の横顔を知っているからこそ、伊吹は櫂の言う「伊吹がいいんだ」の言葉を受け入れることに躊躇してしまう。
 櫂の腕の中。そんな後ろ向きのままでいると、右手の薬指で光る指輪がうらめしそうにこっちを睨んでいるように見えて、思わず苦く笑う。
 そろそろ、折れるべきなのかもしれない。
 櫂は覚えていないであろう、懐かしい過去の思い出を一緒に抱きしめながら、伊吹は自身の左手の薬指を優しく撫でた。

 今なら——櫂と同じ色の空を見上げながら、一緒に世界征服でも、なんでもできそうな気がしたのである。