lost man

 開会式を終え、順調に勝ち進んでいく中、同室となっている三和と櫂は自分たちが泊まっている部屋へと向かっていた。
 いつになく静かな親友に、後輩たちと一緒になってはしゃぎすぎたか──などと、やや反省の色を浮かべて三和は櫂の機嫌をうかがう。
「あー……なんか、昨日でっけぇ大浴場見っけたんだけどさ。櫂はどうす──」
「俺は部屋のシャワーで済ませる」
「……ですよねー」
 一文一句、全てが予想通りの回答であったために三和は思わず苦笑いをこぼしながら、辿り着いたドアの前でカードキーをかざし、逃げるように一足早く客室へ入る。
 そこに広がるのは高層階のシティビュー。高校生が泊まるにしては、どう考えても不相応な部屋のランクであった。
「やっぱ野郎二人でこの部屋っつーのも虚しいな……」
 三和がわざとらしく溜め息をつくも、櫂はそれに対して反応を一つ返すこともなく、早々に荷物を置いて腕時計を外す。
 いつもであれば「なら廊下で寝ろ」程度の冗談の一つは返してくれるというのに、どう見ても普段の櫂とは様子が違う。
 それは少し、再会を果たしたばかりの一年生の頃を彷彿とさせた。
 だが、ここで余計なことを言って櫂の機嫌を損ねてしまうのも本意ではない。こういうときは、変に刺激をせずに放っておいてやるのが櫂の為になるということを、三和は一番分かっている。
「一年がさー、また七階のファイトルーム行きたいって言ってたから、晩飯まで連れて行って来るわ」
「そうか」
「あーそれと。夕飯、五階のレストランでバイキングみてーだから。昨日みたいに食いっぱぐれんなよ」
「ああ」
 三和が動きやすいジャージに着替える一方で、櫂はブレザーも脱がずに湯を沸かしてコンプリメンタリーのインスタントコーヒーを淹れていた。
 櫂が時折見せる本来のマイペースさに少し安心するも、それでも未だ上の空な声色に夕飯前に再度メッセージを入れてやるべきだと三和は考える。
 そうこうしていると部屋のドアをノックする音が聞こえ、続いて後輩たちが三和を急かす声が聞こえた。
「じゃ、行ってくるわ。なんかあったら連絡してくれ」
 それだけを言い残して、三和はドアの向こうで「おせーよ」とはしゃぐ後輩たちに「はいはい」と言いながら静かにドアを閉じる。
 櫂はその背を見送ることなく、淹れたばかりのコーヒーを飲みながら夕焼けと夜が溶け合う色を、部屋の大きな窓から眺めていた。
 少し空気が湿っぽく、初夏が今か今かと足踏みをしている、少し近い空。
 ——五年前。櫂がヴァンガードと出会ったのは、ちょうど、こんな移ろいゆく季節の中であった。
 あれから、思えば遠くに来たような、ただ同じ場所をグルグルと回っているような。妙な焦燥感に駆り立てられながら、櫂はその場に辛うじて立っているに過ぎない現状に虚しささえ感じる。
 初戦敗退も覚悟していた。
 だが思いのほか——否、思った以上に順調に勝ち進んでいるというのに。それは紛れもなく、櫂の知らぬところで励んでいたであろう他の部員たちの努力の結果であることに違いない。
 もっと、喜んでやるべきなのだろう。だが、櫂は部の勝利をどこまでも他人事のようにしか考えられなかった。
 達成感、喜び、仲間との絆。
 どれも薄い膜に覆われ、くすんで見えた。その膜を自ら破ろうともせず、足下に転がっているのを無表情で見下ろす自分は薄情だといわれるのだろう。
 安城とのファイトから、ヴァンガードへの熱意を多少は取り戻したはずなのに。
 まだ何かを忘れているような、そんな気がして仕方がなかった。
 少しずつ夜に染まる空が、己を駆り立てる焦燥感を慰めてくれている気がする。櫂はまだ飲みきっていないコーヒーの入ったカップをテーブルに置き、電気を消すと糸が切れたようにベッドへ倒れ込む。
 首元を締め付けるネクタイを緩め、シャツのボタンをいくつか開けると長い睫毛を伏せた。
 呼吸がしづらい。
 なにかを忘れている違和感が、喉の奥でつっかえている。そんな苦しさがずっと続いていた。
 櫂は気怠げにスラックスのポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと、三和へ電話をかける。
 二回のコール。すると、三和が開口一番に「どうした?」と電話に出る。
「飯のことなんだが。やっぱ俺は適当に済ませるから、悪いが一年だけ連れて行ってやってくれるか。いや、大丈夫だ。すこし、眠くて。……悪いな、お前にばかり。ああ、じゃあな」
 やり取りを終え、スマートフォンを握ったままの手がバタリと派手にベッドに下ろされる。
 櫂は背を丸め、目を閉じた。
 スラックスの裾から見える、白い足首は死体のように冷たげな色をしている。
「……気持ち悪……」
 抜け殻のように横たわりながら、櫂は何かに呼ばれるように意識を手放す。
 その呼び声は、優しい声のような気がした。

 ◇

「——なぁ、これってさぁ」
「なあに? 櫂くん」
 雨上がりの公園に、少年の影が二つある。
 あずまやの中で雨宿りをしている際も、二人は飽きもせずにずっとヴァンガードの話をしていた。
 櫂くんと呼ばれた活発そうな少年が、なにか質問を投げかけるたびに、一方の白い髪の少年が一つ一つ丁寧に答えていく。
 自分よりずっと小柄で幼いその人を——伊吹を、櫂は不思議と兄のように慕っていたことを鮮明に覚えていた。
 当時の伊吹は櫂にとっての目標であり、まさしく先導者と言うに相応しい人物であった。
 普段はナヨナヨと、常に櫂の後ろか三和の後ろに隠れるような気弱な少年であるにもかかわらず、ヴァンガードファイトをしている時だけは、たとえ相手が大人であってもユニットを率いて華々しい勝利を収めるような人だった。
 夜明けのように優しく笑う、伊吹の横顔を見つめながら、先ほどまでの言い知れぬ焦燥感も忘れて、櫂は懐かしい、柔らかな安心感に身を任せる。
 心地よい、明晰夢。
 そう——これは夢だ。
 櫂は夢の中で、いまはもう聞く事はないかも知れない伊吹の穏やかな声を、静かに聞いていた。
 どうして、こんな夢を見ているのだろう。
「櫂くんは、やっぱり飲み込みが早いね」
 伊吹は白い睫毛を伏せて目を細める。
 彼は、こうやってよく櫂を褒めてくれた。
 櫂の疑問や意見に対して、一度も否定の言葉を使わなかった。
 それもいいね。でも、こうするともっと強くなるよと、いつもすぐ近くまで寄り添ってくれる人だった。
 櫂も、そんな伊吹の人柄に懐いていたように思う。
 しかしクラスメイトの一部は、伊吹を受け入れなかった。櫂と伊吹の仲が親密になればなるほど、櫂が周囲の誘いを断るようになることに不満を覚え、伊吹のことを「地味で暗くてつまらない奴だ」と、あんな奴と仲良くするなと櫂に訴えてくることも少なくはなかった。
 だが、櫂にとっては印象だけで決めつけ、憶測だけで人格を否定する短絡的な思考の方がよっぽど〝つまらない奴〟だったのだ。
 子供とは思っている以上に複雑で、櫂が「伊吹のことをそんな風に言うな」と怒りを露わにしては、伊吹に対する視線が水面下でいっそう冷たいものになっていく。
 クラスの人気者を独り占めした。
 その嫉妬は、簡単に残酷さを帯びる。
 櫂が転校してからは上の空になることが増えた三和が自然と伊吹の元を離れ、クラスメイトからの妬みは悪意に形を変えて伊吹を襲った。
 そのことを、櫂は知らない。
 櫂が転校し、小学校を卒業するまでの数ヶ月間の日々を。
 伊吹が徐々に登校をしなくなった時のことも。
 小学校の卒業式を保健室でおこなったことも。
 誰もかも、覚えてすらいなかった。
 夢の中の伊吹は、そんな事実を知らない櫂の記憶の中にある通り、控えめで優しい、大人びた少年のまま。
 櫂の言葉の一つ一つに微笑むその顔に、傷なんてどこにもない。
「……伊吹が色々教えてくれたおかげだな」
 この頃はただ、純粋にヴァンガードが楽しかった日々を送っていた。
 櫂の感謝の言葉を聞き、幼い伊吹はキョトンとした後、少し照れてはにかむ。
「……もう、ボクがいなくても大丈夫だよね」
「……え?」
「櫂くんに教えること、なくなっちゃった」
 やりきったような顔をして、後ろに手を組むと厚い雲を真っ赤な瞳で見上げている。
 当時の自分であれば、免許皆伝だとはしゃいでいたのかも知れない。しかし、ここにいるのは当時の己ではないのである。櫂は急に心細くなり、言葉に詰まって伊吹の小さな鼻の先を見つめることで精一杯だった。
 こんな子供にさえ、縋りたくなっている自分が情けなくも思う。
 今の伊吹なら、知ったことかと呆れるのかも知れない。
 櫂が一人でここまでやってきた道のりを、先導者である彼はどう評価するのだろう。
 今の伊吹には尋ねることも億劫で、幼く優しい、自分の夢の中にいる記憶の中の先導者に肯定して欲しかったのだ。
 大丈夫、と。
 そう、言ってくれるだけでよかった。
「——伊吹」
「なあに? 櫂くん」
 変声期を迎えたばかりの柔らかな声で櫂が語りかけると、少女のような声をした伊吹が返事をする。
 聞き慣れた、伊吹の返事に石のように固められた仮面が剥がれていく。
 櫂トシキとは、いつも誰かの憧れだった。
 常に、なにかの一番だった。
 頼れるクラスの人気者が、ただ一人、初めて追いかけた背中は猫背気味で、クラスでも目立たない小さな存在だった。
 剥がれた仮面の下で、櫂は迷子になった子供のような表情を浮かべる。
「……俺さ、これで……いいのかな」
 小さくなった自分の手を一瞥して、目を瞑る。
 夢の中でなければ、きっとこんな風に話すことはできなかっただろう。いつになく弱気な櫂を前にして、伊吹は不思議そうに何度か瞬きをした。
 それでも茶化すことはせず、黙って項垂れた櫂の言葉を待つ。
 実の両親に捨てられたあの日から、泣きもせずにひたすら機械的に振る舞う様子を、当時は気味の悪い子供だと周囲の大人たちから毛嫌いされてきた。
 可愛げがない、口を揃えて皆そう言う。
 いつだって機嫌をとって、顔色を伺って、媚びへつらってさえいれば、もっと周囲からの扱いも変わっていたのかも知れないと、櫂も当時から分かっていた。
 けれどそんなことをするくらいなら、舌を噛み切って死んだほうがマシだとすら思っていた。
 周囲の目と、家の名前のため。
 大人たちは本来なら目もしたくないはずの、人の形をした負の遺産を押し付けあうばかりで、決して少年を施設などに入れることはしない。
 そんな醜い事情など微塵も知らないよそ者に、「大変だったでしょう、でも周りの人が親切でよかった。君は恵まれている」と言われては、偽善という張りぼての向こうで櫂は薄ら笑いを浮かべて「はい。皆さんのお陰です」と答えるのが義務だった。
 飼い殺され、無力な自分のなんと惨めなことか。
 恩を着せられては「ありがとうございます」と言わされ、「早く追い出せばいいのに」という毒を喉の奥で腐らせ続ける日々を繰り返す。
 それでも、腐敗した自尊心から悪臭がしようと、土をかけることだけはしなかった。
 どれだけ朽ちようと、櫂が折れることはなかった。どうやら思ったよりも自分は図太く、頑強であるらしい——櫂はこのとき、そんな己の逞しさを初めて知ったのである。
 今を駆け抜けることも精一杯で、未来のことなんて考えられなかった。
 それでも今に見てろと思いながら、名前も顔もうろ覚えな、暖かな親族一行からの陰湿な当てこすりの応酬に対し、「皆さんの陰で逞しい男に育ちました」と中学校の卒業文集に書き殴る程度には強かだった。
 けれど〝そう〟あれたのは、紛れもなくヴァンガードという繋がりと、心の拠り所があったからこそだと、櫂は思っている。
 失くすことに慣れ、何も持っていなかった。
 だが、いつ手放してもおかしくない喜びや悔しさ、怒りと後悔だけは不思議と失くさずに済んだ。
 櫂にとってヴァンガードとは、肉の塊になりかけていた己を人間たらしめる唯一の祈りの形だったのだ。
 それは今も変わってなどいない。
 しかし、今の自分は——もう、親族に何かを言われることもなく、枷など繋がっていないというのに。
 なんでも出来るはずだった。
 それなのに。
「……流されて、ここまで来て……そこに自分の意思とか、ちゃんとあんのかなって」
 もう、あの頃の幼き自分ではない。
 なのに、成し遂げたいことなど、なにもなかったのである。
 今だって、そうだ。最終的に納得したとはいえ、強引にカードファイト部に入部させられ、ヴァンガード甲子園に出ると張り切る他の部員たちに連れ添う形でここまで来ただけだ。
 周囲が目標を掲げ、信念を形にしたようなファイトを繰り広げる中、惰性で勝つような己の現状が情けなかった。
 なんのために戦っているのだろう。一度、ヴァンガードとの絆が断ち切られ修復した今も、その疑問は執拗に付き纏ってくる。
 まるで、己を責め立てるかのように。
「……いいんだよ」
 伊吹は、静かに櫂の言葉を肯定する。
 伊吹の方を見ると、白い髪が風に揺られて、雨の雫とともに光って見えた。
「流されるのも、大事なことだよ櫂くん。それとも櫂くんは、すべての物事に理由が必要だと思う? 君は、そんなに理屈っぽい人に見えないけれど」
 記憶の中にある伊吹よりも、その少年は幾分か饒舌である。
 櫂が少し目を丸くすると、可笑しそうに伊吹は口元を手で覆ってクスクスと笑ってみせる、目の前の彼は誰なのだろう。
 けれど、この懐かしい優しさは、紛れもなく伊吹のものだ。
 夢の中なのに、雨上がりの濡れた土の香りがどこからともなくする。この感覚を、櫂がどこかで経験したことがあった。
 確か、サイクオリアで見た景色とよく似て——
「……櫂くん、君はいま、不安なんだね」
「……不安?」
「いつだって明確な目的があったのに、乗り越えたいなにかを目指してきたのに。それが見当たらなくて。どうして戦うんだろう、どうしてここにいるんだろう……って。自分が自分でなくなるようで不安なんだ」
 伊吹は全てを見通すように、演技じみたように言葉を口にする。
 櫂がそんな伊吹の立ち居振る舞いに見入っていると、白すぎる伊吹の手が櫂の手をとった。すると、まるで魔法が解けてしまったかのように、伊吹の手がひどく小さく見え——否。
 櫂の手が、見慣れた十七歳の大きさになっていたのであった。
 その場には青年と、少年が佇んでいる。
「……櫂くん、イメージしよう」
 その言葉を皮切りに二人の間から風が吹くと、空を覆う厚い雲が割れる。徐々に蒼穹が顔を覗かせ、周囲の水たまりが宝石のようにキラキラと光っていた。
 非現実的な光景に櫂が呆気にとられていると、伊吹の瞳が不思議な光彩を滲ませる。
 その色を、櫂は知っていた。
 異星と現世を繋ぐ色。
 何かを言おうとするが、伊吹は櫂の翡翠の目をすかさず捉える。
 突如、頭を裂かれ、何者かが中を掻き回すような違和感が走った。
 それに続いて溢れてくるのは、今となっては忘れかけていたヴァンガードと出会ったばかりの頃の思い出の数々である。
 子供の笑い声と、あの頃の友人の姿が鮮明に、目の前に浮かび上がり、自分の心音がやけに大きく聞こえる。
 ドクンドクンと規則的に脈打つそれは、記憶を無遠慮に掘り出される違和感に反してどこまでも穏やかであった。
「ヴァンガードって、楽しいものなんだ」
 その心音が、伊吹の声となって櫂に語りかける。
 手を握ってくる、その体温がやけに生々しく、指紋の皺までなぞれるほど妙な現実味を帯びている。
 思い返せば、自分の存在価値と向き合う日々だった。
 それは決して誰かに認められたい、という他人任せのものではなく、己が己を試しているような——常に、いまの自分にどれだけの価値があるかを値踏みをしているような、自ら追い立てるような忙しい感情である。
 それがいささか異常だという自覚はあったが、苦だと思ったことは、今まで一度もない。
 いつ失うかもわからない他人に自分の存在価値を委ねるよりも、櫂にとっては自分にとって価値のある、理想の自分を追いかけ続ける方がずっと有意義だった。
 そう、櫂はヴァンガードを通じて、それを追い求めて来たのだ。
 いまの櫂にとってヴァンガードとは、絆であると同時に、純粋に楽しい存在である。
 けれど、本当にそれだけになってしまったら——自分を肯定する手段を失くしてしまうことに、気づいてしまった。
 見えていたものが、突如曇って、不明瞭になるような感覚。
 流されるままに、惰性でファイトをするたびに、自分が霞んでいくような。
 それが怖くて、苦しくて、仕方がなかった。
 それでも、恐れる自分に気づいていながら、見ないようにしていたのだ。
 けれどデリートされ、何も持たない自分自身と初めて向き合った時——見ないようにしていた弱さを改めて目視することとなり、ヴァンガードへの熱意を取り戻しても、それがずっと不安で、胸に根を張って離れなかった。
 ヴァンガードを、純粋に楽しむこと。
 その当然のことが、苦しい。
 これが自分の望んだはずの世界だ。何者にも縛られない、自由な日々。それなのに——ただの日常を、平穏を、甘んじて受け入れることの恐怖と罪悪感はなんなのだろう。
 明日に控えたアイチとのファイトも、先導者なんて肩書きも今となっては、彼に教えてやれることなど何も残ってなどいなかった。
 それを喜ばしく、誇らしく思うはずなのに。ただ一人のファイターとして向き合えばいいだけなのに。
 ヴァンガードを純粋に楽しむだけの己など、無価値のようで。
「……楽しくていいんだ。それだけで、いいんだ」
 櫂の手を握る小さな手に、ギュッと痛いほどの力が込められた。
「納得できない、って顔してるね?」
「……だって……そんなの。いないのと、変わらないだろ。許してもらえない」
 ——なにに?
 自問自答を繰り返す。
 両親に置いていかれた少年は、周囲の厄介者だった。
 そして、自分が置かれた立場を十分に理解できるほどに利口だった少年は、誰にも認めてもらえなくても、誰にも理解されなくても、仕方がないと思える諦めの良さがあった。
 ただ、己を誇れる自分でありたかった。
 そのために矜持を守り、己をヴァンガードを通じて認めてきた。
 だが——腑抜けた今の自分を、果たして誇れるだろうか。
 自分自身が、そんなことを許しやしないのだ。
 ヴァンガードを純粋に楽しもうとする自分と、それだけではダメだと焦燥感を駆り立てる自分。
 昔のようになんて、今更戻れやしない。
 俺には、これしかないのに。
「——なら、ボクが許すよ」
 伊吹は無い胸を張って、櫂のことを見た。
 思いもよらない申し出に、深刻な様子で顔を顰めていた櫂はポカンと口を開く。
「……は?」
 櫂の戸惑いに、伊吹は——もはや伊吹の顔をした誰かは「不満?」などと、なんでも無いようにそう言い切ってみせた。
 暴君だ、暴君がいる。
 伊吹と同じ声で、伊吹と同じ顔。
 同じ安心感と、懐かしさ。けれど、櫂の知っている彼とは違う。
「……お前は誰だ?」
 櫂の知っている伊吹は、穏やかで、オドオドしていて——自分の意見なんて上手く言えない控えめな少年だったはずだ。
 訝しげな櫂の表情を見やると、伊吹の形をしたソレの目はいっそう赤く光る。
 赤すぎて、黒く見えるほどに。
 握られた手が、熱い。
「ボクは君の先導者だよ。今も、昔も」
 謎かけのような答えは、至極シンプルなものだった。
 伊吹、と呼べば答えるのに、自らを「伊吹コウジ」と名乗ることはしないいつかの櫂の先導者が目の前にいる。
「……思い出して。ボクが君に教えたヴァンガードは……ボクが君に思い出させてもらったヴァンガードは、楽しいものだったはずだよ」
 戸惑いながらも、その言葉を驚くほどに己の心が受け入れているのが、櫂には分かる。
「櫂くん、君はここにいていいんだ。ただの、楽しいヴァンガードでいいんだよ」
 この自己肯定の手段を——ヴァンガード与えてくれた、教えてくれた自分の先導者が、櫂の存在と、弱さと強さと、在り方全てを肯定し、穏やかに笑う横顔が眩しくて、櫂の不安定な足場を必死に固めようとしているのを感じた。
「なにかを償うように自ら苦しもうとしたり、つらい道を歩もうとするのは、悲しいよ」
 確かに、櫂が知っている伊吹じゃない。
 けれど、この目の前の少年から発せられる言葉の数々は暖かく、切り捨てることが出来ないでいる。
 なぜなら、その言葉は櫂だけではなく、少年が——伊吹が、自分にも言い聞かせているように見えたから。
「——……なんてね。君から一度でもヴァンガードを取り上げようとしたボクが言うのも、笑止千万な話だけど」
 自嘲気味にそう言って、小さなため息をこぼした。
 そこに後悔の色は見えない。納得はしつつも、どこか諦めに近いような曖昧な色だった。
「鏡みたい。ヴァンガードさえなければ楽になれると信じたボクと、ヴァンガードに存在価値を重ねて自分の首を絞めてる櫂くん」
 どっちも不幸だね。
 伊吹は櫂に凭れると、羽を休める小鳥のように小さな体を預けた。
「ボクのことは憎んでも、軽蔑してもいいよ」
「……そんなこと」
 櫂が「できない」と、言葉を続けようとしたが、伊吹は首を横に振るばかりで握っていた櫂の手を離し、櫂の方も見ずに告げる。
「いいや。君にはその権利がある」
 そこまで言い切るのに。どうして白い睫毛を伏せ、そんな声で言うのだろう。
 夢の中に現れたのは、櫂の記憶から抽出された偶像のはずだった。
 けれど憂いを帯びた表情はあまりに生々しく、櫂の心をかき乱す。
 これは——過去の、記憶の中の伊吹ではない。
「ただ、これだけは知っておいて」
 内緒話をするように、声をひそめた少年は櫂の背中を押す。
 一歩、前に出た櫂を見上げて、照れ臭そうにした。
「君のことだけは、あれで大きなボクも大切にしていたんだ。……ずーっとね」
 瞳の奥の赤色は相変わらず悲しげで、櫂はいくつかの言葉をかけようとするのに、どれも声に乗せるには重すぎる言葉だった。
 思わず踵を返そうとして、踏みとどまる。
 歩み出さねばと、今なら思えるのだった。
「……伊吹」
「……なあに? 櫂くん」
 沈まぬように。
 不要なものを取り払って、本当に言いたかった気持ちだけを櫂が丁寧に言の葉で出来た船に浮かべ、肩越しに少年を見た。
「ありがとう」
 思いもよらなかった言葉だったらしい。子供の、丸い目がいっそう丸くなって櫂を見ているのが可笑しくて、櫂も少し笑うとその場を後にした。
 青年の背が、水たまりに反射した光の滴に溶けて、消えていく。
 残された少年は、愛しげに見送って、目を閉じた。
「——……ボク、ちゃんとお返し出来てたかな?」
 調和と再生を司る、その人は答えない。
 だが、確かな温もりが、伊吹の丸い頭を褒めるように撫でた。
 足元の水たまりに少年の背後で優しく微笑む、美しい女性の姿がかすかに映る。
 その人はただただ、我が子をあやす母親のように白い頭を撫でていた。
 サイクオリアが発現する際に現れる独特の虹彩色を滲ませた赤い瞳が少しだけ涙で滲むと、頭を撫でていたその手が、今度は少年の小さな手を大切そうに握る。
 この姿でもないと、笑いかけることもできない自分を、どうか許してほしい。

 雨上がりの空の下で、白く、長い髪が揺れていた。

 ◇

 櫂が目を覚ますと部屋の中は暗く、隅々まで夜に染め上げられていた。寝ぼけた頭で時間を確認すると、どうやら一時間ほど寝てしまっていたらしい。
 体を起こし、寝癖で乱れた前髪をかき上げて窓から一望できる夜景を見下ろす。
 懐かしい夢を、見ていた気がする。詳細を思い出そうにも、頭が重くて上手くいかない。
 だが、気持ちは晴れやかであった。
 眠る前の、あの妙な違和感が今は綺麗に払拭されている。
 優しい夢をだった、そんな気がした。
 見たところ、三和もまだ帰ってきていないらしい。櫂は夕食でも買いに行くかと頭を掻く。
 ネクタイすら締められていない胸元は普段に増してボタンが開いたままとなっており、白い肌が露出しているが思考がぼんやりしたままの櫂が気にとめる事はなかった。
 ちょうど夕食の時間なのか、廊下で他校の生徒とすらすれ違う事もなく、やけに静かである。他校の生徒に声をかけられても対応に手間取るだけなので、好都合ではあるのだが。
 そんな時だった。
 エレベーターホールで、白い髪を一つに束ねたジャージ姿の伊吹を見かけたのは。
 足音でこちらに気づいたらしい伊吹は、きょとんとした表情で櫂の方を見ると「……櫂」と名前を呟く。
 伊吹とは、カードキャピタルでデリートされて以来の再会——と、そこまで記憶を辿ってから一瞬、頭が締め付けられるような痛みが走る。
 まるで、何者かが「違う」と強く否定しているような。
 痛みに顔をしかめ、伊吹の方をもう一度見た。
 不思議そうに、こちらを見ていたのも一瞬。櫂と目が合うと、伊吹の方からプイと顔を逸らしてしまう。
「……なんで、ここに」
 櫂が尋ねる。
 伊吹は福原高校に在籍していながら、ヴァンガード部との関わりはないと聞いていた。
 そもそも、彼はヴァンガードを憎んでいるはずである。
 だというのに、甲子園の地で繰り広げられる伊吹のファイトを、控え室で見たときは櫂も目を見開いた。
 三和が「あれ、伊吹じゃないのか」と言ったときは言葉を疑い、そして自分の目で彼の姿を確認したときは信じられなかった。
「飯を買いに行くだけだが。文句あるのか?」
 その問いに対して無愛想に、伊吹は簡潔に答える。櫂の聞きたかったことは、そういう意味ではなかったのだが。それにしても、随分と取り付く島もない返答に、櫂は聞き返すのを諦めて困ったように笑う。
 話しかけてこないで欲しいとでも言うような、拒絶のオーラが漂っているのは明白だが、それでも櫂は気にせずに伊吹の傍まで行った。
 どうして、こうも伊吹に対しては無遠慮に振る舞えるのだろう。
 今の伊吹とは、もう昔のような関係ではないと言うのに。だが、伊吹なら許してくれるという、そんな甘えた気持ちが櫂の中に根強く残っていた。
 エレベーターを待つ伊吹の傍へ寄ると、少し伊吹の髪が濡れているのがわかる。風呂上がりらしく、清潔感のある香りが鼻腔をくすぐった。
「……なんか用?」
 赤い目を細め、こちらを睨む。
 その視線から、櫂への嫌悪は感じない。言うならば、警戒と不信感。野良猫を彷彿とさせるその目に、らしくもなく櫂は言葉に詰まる。
 彼は紛れもなく、自分をデリートした張本人であることに違いはない。それなのに恨むどころか、櫂はいまこうして、伊吹と自ら関わろうとしている自分自身の心が分からなかった。
 本来ならば、憎むべきなのかもしれない。放っておけばいいはずだ。もう、あの頃のような関係をやり直そうなど、難しいことだというのは分かっているのに。
 それなのに——幼き日の自分が「嫌だ」と子供のように駄々をこね、今の櫂の服の裾を引っ張っている。
 伊吹に意地悪をするなと、目くじらを立てて一生懸命に怒っているのだった。
 なにも、櫂は伊吹からの謝罪が欲しいわけではない。今の伊吹を恨むことも、嫌うことも、全て違う。
 それどころか、ヴァンガードをあれだけ憎んでいたはずの彼が今この場にいるということは、再びカードを手に取ったということになる。それは櫂にとって、紛れもない喜びでもあった。
 伊吹に意地悪しようとしてる訳じゃないと、なだめるようにそう言うと、ようやく幼き日の自分が口を噤んで静かになる。
 ——話が、したかったのかもしれない。
 今の伊吹を、知りたいと思った。
 再会したときから、どんな事情が伊吹にあったかは知らない。だが、自身の先導者とこうして再び並び立てることを嬉しく思う。
 甲子園の地で新たにファイターをデリートしに来た、その可能性は一瞬足りともよぎらなかった。そもそも、そんなことをしでかすならば、レンやアサカが黙っている訳がない。
 彼らが許したということは、きっと伊吹になんらかの変化があったのだろう。
 櫂は伊吹の目を見て、少し悩んでから口を開いた。
「あー……いや。俺も飯、買いに行くとこなんだ。ちょっと、寝てて」
 彼の警戒心を解こうと、妙に早口になりながら伊吹に説明する。
 伊吹からすれば、あんなことがあった後で、喧嘩腰でもなく平然と話しかけてくる自分は、奇妙に映るのかもしれない。
 櫂の言葉を聞いて、先程は目をそらしておきながら、次はジッとこちらを見る。
「……なにも聞いてこないんだな」
「え?」
「別に。というか、胸元。それ、女でも連れ込んでたのか? お盛んなこって」
 伊吹の指摘を受け、自分の胸元を見ると普段よりも派手にシャツの前が開いていた。息苦しさに堪え兼ねてシャツのボタンを開けていたことを今さら思い出し、櫂は神妙な面持ちでボタンを閉じる。
 これでは、確かに疚しいことをしていたように思われても仕方のない有様であった。
「連れ込んでない」
「どうだか」
 なぜか責められているような気持ちになって、「何もしてない」と再三、伊吹に告げた。なぜ、こんな必死になっているのか自分でもよく分からない。
 そんな櫂の強い否定の言葉を聞き、伊吹は切れ長の目を細めて意地悪く笑う。そんな表情を浮かべる伊吹は、やはり猫に似ているのだった。
 楽しんでいるような、興味すらもなさそうな。からかった割には曖昧な声色で「ふうん」とだけ言って、櫂のことなど気にせずに、一人で開いたエレベーターの中へ乗り込む。
 櫂は少しムッとして、ドアを閉じられる前にその背に続いた。
 一階のボタンを押す伊吹の背後に立つと、白いうなじがやけに眩しい。
 櫂はなんだか見てはいけないものを見ているような気持ちになって、視線を外す。思春期のような反応をしてしまった己が情けなくなって目頭を揉んだ。
 小さな箱の中に流れる気まずい空気。
 だが、伊吹は、なにも思ってないのかもしれない。自分だけが感じているこの気まずさから滲む苦みの名を櫂は知らなかった。
「随分と人気者なようだな」
 櫂がふて腐れていると、前を向いたままの伊吹に声をかけられ、ハッと顔を上げる。
 まさか話しかけてくるとは思わなかったため、櫂は驚きを隠せないまま「なにが」と聞き返すことで精一杯であった。
 うなじが、白い髪の隙間からこちらを見ている。
「開会式」
「いや……あれは周りが勝手に」
「あっそ」
 二人を運ぶ箱は、なにも言わずに下層階へ降りていく。階数を表示するランプだけが、テンポよく点滅していた。
「そりゃ、常にあんな囲まれてりゃオレのことも忘れるわけだ」
 前を向いたままの伊吹の顔は見えない。
 伊吹のことを忘れたことなど、今の今まで一度もなかった櫂にとって、その拗ねたような言葉の真意が分からなかった。
 しかし、櫂が咄嗟に否定の言葉を口にするより早く、伊吹は肩越しに櫂の目を見て笑ってみせる。
 猫のように、ではない。昔の、子供の頃によく見た、兄のような優しい目だった。
「冗談だよ」
 櫂は、今度はなにも言えなかった。
 伊吹の言葉のあと、すぐにエレベーターの扉が開かれる。伊吹は櫂を残し、箱から出て行くと足早にエントランスまで向かった。
 その凛とした佇まいの背中を、櫂は無意識のまま、伊吹の腕を掴んで引き止めていた。
 思いの外、簡単に捕まえれてしまった伊吹の身体は背後の櫂に凭れる形でバランスを崩し、抱きとめられてしまう。
 櫂は、近くで見た伊吹の生えそろった睫毛の白さに呼吸が止まった。
 元より肌の白い櫂よりも、病的なほど白い肌は先天的なものだろう。血管が透けるほど透き通った肌は人工物を彷彿とさせるのに、腕の中の体に確かな体温があるのが、なんだか艶かしかった。
 そんな伊吹が驚いた様子を見せたのは一瞬で、すぐさま櫂のことを押しのけて距離をとる。
 今度こそ怪訝そうに、少し怒りを交えて櫂を睨んだ。
 ——あ、怒ってる。
 櫂は呑気にそう思った。
「……なんなんだ」
「いや、なんか。手が出ちまって」
「はあ?」
 意味分かんねぇ、などともっともな怒りを表しながらため息をつく伊吹の仕草に、櫂は申し訳なさを感じるどころか、なんだか笑いたい気持ちになる。
 避けるような態度ばかりだった彼が、やっとこっちを見てくれた。
 そんな、子供じみた満足感だった。
「……あのさ、よかったら一緒に飯でも行かないか」
 突拍子も無い櫂の提案に、伊吹は「……なんで?」と探るような声で問う。
 嫌なら、ここで断ればいいのに。そうしないのは、遠回しにイエスということなのだろうと、櫂は自分にとって都合の良いように考える。
 櫂トシキとは、すべての物事に理由が必要だと思うような、理屈っぽい人間ではない。
「理由が必要か?」
 あまりに横暴だった。伊吹は開き直ったような櫂の態度に目を丸くして、呆れて何も言えず、わざとらしく大きなため息をついて櫂に背を向ける。
 彼が言っても聞かないような手のかかる男だということを、これでも一応、小学生時代にすでに経験済みなのであった。
 幾分か落ち着いて見える現在の様子に、忘れかけていたが。人間は、そう早く変われるものではない。これも、伊吹は実体験で痛いほど分かっている。
「……勝手にしろ」
 伊吹の了承の言葉を聞いて、櫂は子供のように笑った。
 伊吹の隣に並んで、さっそくスマートフォンのブラウザを開くと、近隣の店を検索する。
 着崩れた制服姿の自分と、ジャージ姿の伊吹が入れるような店の目星をつけながら、櫂は「奢ろうか」とおどけてみせた。
「余計なお世話だ。いいから、さっさとこの格好で入ってもいける店の一つでも探せ、バ櫂」
「分かってるって」
 そういえば、伊吹の連絡先を知らない。
 聞けば、素直に教えてくれるだろうか。二人でホテルを抜け出しながら、櫂は伊吹と歩幅を合わせて歩いた。
 少し湿った、夜の空気が肌を撫でる。
 人通りもまだ多い街中で、二人の格好は浮いていたが、櫂は気にならなかった。

  ◇

「櫂のヤローは見つかったのかよ?」
 控え室に戻ると、気が気でなさそうな森川に声をかけられ三和は無言で首を振る。
 現在行われている試合の様子から、どうやら第一試合が始まったばかりであるらしい。
 まだ少し時間があるなと三和は冷静に考えながら、携帯電話の通知欄に目を通すも、櫂からのメッセージはおろか、着信さえ入ってきていないようであった。
 走ってきたのか、少し汗ばんだ額を腕で拭い、ブレザーを脱いで再び廊下へと出る。
「まーあいつがフラフラすんのには慣れてっから。櫂は絶対に来る。だからお前たちは自分のファイトに集中しろ。部長命令だかんなー」
 三和は後輩たちの緊張や焦りをほぐすため、ヘラリと笑ってなんでもないように言った。
 実際は、近頃ずっと何かを思いつめていた様子の櫂を思うと到底呑気ではいられなかったが、後輩たちを無闇に不安にさせても仕方がないのである。
 そして三和の言葉と態度に、後輩たちも少しは安心したようで皆が顔を見合わせると「そうだな、いまは応援しよう」と気分を切り替え、ファイトに集中するように努めた。
 三和はそれを見届けると、静かに控え室のドアを閉める。
 どこへ行ったかなど、三和にもわからない。だが、これだけは言えるのだった。
 己の親友は、理由もなくいなくなったりなどしないと。
 マイペースだが、無責任とは程遠い男なのだ。
 むしろ、抱えなくてもいい責任まで抱え、助けての一言も言わずに平然と振る舞うのが、三和の知る櫂の姿だった。
 だからこそ、また——レンの時のように——三和の知らないところで、重荷を抱えて櫂が沈んでいるとしたら。
 三和はすでに、会場やホテルのスタッフには櫂のことは伝えており、あとは連絡を待つくらいしかできなかったのだが、どうしてもジッとなどしていられず、あと十分だけでもと思い当たる場所へ向かおうとする。
 おかしいと思っていたのに、なにか思いつめている様子であったのに——子供の頃のようになにもできないまま、櫂が再び目の前から消えてしまうなど、考えたくもないのであった。
 控え室までの道に迷っていることも考慮し、関係者入り口からここまでの通路をもう一周しようと三和が駆け出そうとする。
 その、瞬間だった。
「三和?」
 聞き慣れた、よく通る声。
 三和は大きく目を見開き、大げさな動作で振り返ると、飄々とした立ち姿で櫂が首を傾げて三和を見ていた。
「お……っまえ! なにしてんだよバカ!」
 安堵から、ドッと吹き出る汗。
 櫂の方まで半ば詰め寄るように近づくと、櫂は不思議そうに何度か瞬きをする。
「なにって、ホテルのラウンジでデッキを……自分のファイトまでに間に合えばいいと聞いていたが」
「一言くらい声かけれるだろ! 昨日も遅くに帰ってきたと思ったら、どこの不良だ!」
 夜中に帰ってきたときの自分を叱る母親を思い出してしまうような己の口ぶりに三和は内心、複雑な気持ちになりながら普段は見ない剣幕で親友に訴えかける。
 それは、三和が抱いていた不安の大きさがいかほどのものかを示していた。
 もう、嫌だったのだ。
 なにもできないままの子供のままでいることも、なにも言わないまま櫂が去ってしまうことも。
 あの時のことを少しだけ、三和は思い出したのだった。
 そんな気持ちを分かっているのかいないのか、櫂の頭上には疑問符がいくつか浮かんでいる。
「何度か起こしたが、起きなかったんだ。それに、書き置きして行っただろう。ベッドサイドに」
 ラウンジにいるが、自分の試合までには戻ると書いたメモを——これくらいの、と紙の大きさをジェスチャーで示す櫂に対して、今度は三和の頭上に疑問符が浮かぶ。
 三和のポカンとした表情に、櫂は少し黙って、初めて申し訳なさそうな声を出した。
「……あんなに分かりやすく置いておいたのに見てなかったのか?」
 昨夜は三和が夕食を終えた後、部屋に戻っても櫂の姿はなく、どこか外に食べにでも行っているのだろうと特に気にもせずに眠った。そして深夜、三和が寝ている頃に人の気配がして、ああ、櫂が戻ってきたのかとぼんやり思ったことだけは覚えている。
 そして今朝——起きたらいるはずの櫂がいなかった。
 荷物はそのまま。顔を洗った形跡だけがある。
 三和は近頃の櫂の様子がおかしいことを気にかけていただけあり、何かあったに違いないと——慌てふためきながら顔を洗い、髪を適当に整えて制服に着替えると慌てて部屋を出たのである。
 櫂の言うメモなど、見た覚えはなかった。
「……れ……連絡くらい」
「携帯の充電が切れてた。俺のそういう性分はお前が一番わかってると思っていた。すまない」
 ごもっともである。櫂が携帯電話をまともに携帯しない男であることは、三和が一番よくわかっていた。
 それでも、それにしてもだ。三和はやり場のない感情を抑えきれずに「だァーッ!」と奇声をあげながらワックスで固めた髪をグシャグシャと両手でかき乱すと一度うつむき、次に勢いよく顔を上げる。
「こ……このマイペース!」
 おおよそ、櫂の行動に横から口を出したことのない三和が珍しく怒っている。
 櫂は三和がどんな気持ちでいたのかを、その一言で察して、謝るべき場面だと言うのに少し笑ってしまった。待ってくれてる人がいる。櫂が穏やかに笑うのを見た三和が「なに笑ってんだよ」と不服そうに抗議する声が聞こえた。
「心配かけたか」
「当たり前じゃい!」
「すまなかった」
「心がこもってなァい!」
 地団駄を踏む三和に「悪かったって」と告げて、この様子では後輩たちにも心配をかけてしまっただろうと察しながら、そのうち飯でも奢るかと埋め合わせを考える。マイペースでありながら、妙に律儀な男だった。
「しっかしなんで、こんなギリッギリまで……」
 三和が唇を尖らせてそう言うと、櫂は握っていたデッキケースに目を移す。
 抱えていた不安と、焦燥。それらを飲み込んだ深い翡翠の瞳は光を帯びたように輝いた。
 その輝きは豪華絢爛であり、その表情は夜明けのように穏やかで。三和は——ヴァンガードと出会ったばかりの頃の、櫂の横顔を思い出した。
 口癖が「退屈」で、遊びも勉強もスポーツもなんでも出来てしまう親友を、外に連れ出すような気持ちで伊吹と引き合わせたあの日。
 櫂はあの日から、「退屈」と言わなくなった。
 純粋になにかを楽しむ、親友の笑顔が嬉しかったのだ。三和は、それをずっと覚えていた。
 櫂はデッキケースを握ったまま、静かに口を開く。
 まるで、歌でも歌うように。
「——アイチが相手なんだ。どうしても手を抜くわけにはいかなかった」
 託された大将戦。半ば義務のようにこなすだけの甲子園でのファイトの中で、この勝負を迎える前に自分自身が、これからどうヴァンガードと向き合うべきかを再確認できてよかった。
 目の前のファイトを純粋に楽しもうとするその気持ちに、もう罪悪感はない。
「アイチに教えることが、もう何もなかったとしても。実力差がなくなっていたとしても。だからこそ、中途半端なファイトだけはしたくないんだ」
 最初の一歩は、確かに櫂がきっかけだったかもしれない。けれどアイチが、もうとっくに自分の元を巣立っているのは分かっていた。
 今のアイチには自分で見つけた居場所があり、手を伸ばしてくれる仲間たちがいる。
 喜ばしいことだった。
 ヴァンガードとは、そう言うものでなければならない。
 あれはアイチが、自分のヴァンガードを通して見つけたかけがえのないものだから。
 それでも今も変わらず櫂を慕ってくれる、その気持ちに対して櫂は誠意をもって接するべきだと思った。櫂が、己のヴァンガードを通して見つけたもの、得たもの全てをこの勝負に注ごうと決めたのである。
 教えられることは、もうない。
 だが、一人のファイターとして——先導アイチが掴んだものを、この目に焼き付けるのが使命だとすら思う。
「……勝っても負けても、後悔だけはしない。アイツにとって恥のない先導者でいたいんだ」
 それこそが、櫂の先導者としての最後の矜持だった。
「……ほんと、ヴァンガード馬鹿だな、お前」
 櫂の言葉を聞いた三和は、廊下の天井を仰ぐ。
 呆れている声に、もっともな反応だと櫂が苦笑いをこぼそうとした時、「でも」と楽しそうに弾んだ三和の声が櫂の自嘲混じりの笑みを引き止めた。
「それでこそ、櫂って感じだ」
 三和のグレーとも青とも言い難い、複雑な色の瞳が心から嬉しそうに櫂の姿を映す。
「——おかえり、櫂」
 トン、と櫂の肩に拳を押し付けて、三和が幼少期から変わらない笑顔で櫂を出迎えた。
「……迷惑をかけた」
 いつになく真面目に謝る櫂に、三和は首を横に振る。
「いーや、俺もテンパりすぎた。悪い。……でもさ、お前のこと信じてたんだぜ? 苦しくても、ヴァンガードとちゃんと向き合ってるお前のこと見てたからな。だから……これは、ま、お互い様ってやつだよ」
 三和の櫂に対する柔軟さは、優しさや寛容とも、また違った。きっと、これが信頼というのだろう。
 櫂はここで言うべきは謝罪ではなかったと、言葉を改めて、自分より少しだけ背の低い三和とまっすぐ向き合い、目を細めた。
「礼を言う」
 人は簡単には変わらない。
 三和は、つくづくそう思う。
 再会してから今日まで。周囲から変わったと言われ続ける櫂を、三和はさほど深刻視してこなかった。
 三和からしてみると、変わったと言えば王様めいた横暴な言動が減ったかなという程度で、しかしそれは変わったと言うよりも「大人になった」と言う方が適切であり、生きていればそんなこともあるよなあと妙に年寄りのような気持ちで目の前の櫂を受け入れていた。
 ——確かに、なにもかもがあの頃のままではないかもしれない。
 否。あのままでは、いられなかったのかもしれない。
 ならば、少しずつ回帰しようとしている櫂を、三和はそれこそ自分だけは変わらない形で出迎えてやろうと決めていた。
 それが、友というのだと信じている。
 そして、それはあながち間違いではなかったらしい。
 なぜなら、いま、櫂が浮かべる微笑みがひどく懐かしいものだったから。
「……へへ。いーってことよ、親友」
 背負っていた積み荷を降ろして、櫂が、帰ってきたのだ。三和は嬉しくなって、櫂の手を取って踊りたいような気持ちになった。
 ——後輩たちに強引にカードファイト部への入部を迫られ、一年生だけというのも心配だからと渋々入部を了承した三和に「櫂も誘っておいてくれよ」と言われた時はさすがに顔が強張ったことを思い出す。
 こういった集まりを櫂がもとより好まないことは大前提として、当時は伊吹と再会してからというもの、「退屈」が口癖だった頃の櫂を彷彿とさせるような無気力さが目立っていたから。
『あいつは、こういうの入らねーと思うわ』
 言葉を濁しながら、そう言うので精一杯だった。
 それでも、一年生は——とりわけ森川は——三和があてにならないことを理解すると、櫂に直談判し、無理やりカードを握らせて「俺が勝ったら入部しろ」と迫った。
 いい加減、櫂も怒りを表すのではないかと三和は気が気でない思いで森川を止めようとしたが、驚くべきことに櫂はファイトを許諾したのである。
 思えば、あのときから櫂は——無意識化の中でも、足掻こうとしていたのかもしれない。
 自らの手で、大切なものを取り戻そうとしていたのかもしれない。
 今なら、そう思える。
「さ、一年が待ってる。オレらも行こう」
 三和はなんでもない風にそう告げて、櫂の隣に並んで控え室へと戻ろうと促す。
 櫂の辿った道のりは、確かに遠回りだったかもしれない。けれど、きっと正しいものであったのだ。
 そこには不思議な確信さえあった。
 そして三和に引き連れられ、戻ってきた櫂の姿を見た一年生たちが、口々に好き勝手に物申して櫂を取り囲む。
 その表情は言葉とは裏腹に安堵が浮かんでいて、仲裁に向かおうとした三和は足を止めた。
 ——櫂、気づいているか?
 三和は人知れず、満足げに笑う。
 なぜ、櫂の入部にこだわるのだと一年生に一度だけ問うたことがある。
 問いに対する答えは、ヴァンガード甲子園という目標があること、それを達成するには即戦力が必要なこと。ならば櫂は、確かに即戦力という面では適役だろう。
 全てが合理的で、納得のいくものだった。
 至極シンプルな理由に三和が納得していると、「でもよ」と続いた言葉に顔を上げる。
『それもあるけど、やっぱもったいないだろ』
 あんなに実力あんのに、という言葉を皮切りに、一年生たちは顔を見合わせて「だな」「うん」と口々に頷いた。
 もったいない。
 その発想は、自他共に認める自称ライト勢である三和には、あまり考えの及ばない思考であった。
 頑なに公式戦に出ることのない櫂を〝もったいない〟と思う人々がいる。それは櫂のファイトを間近に見て、その実力を認めたファイターとしての言葉だった。
 これは櫂が、紛れもなく自分のヴァンガードを通して見つけた、かけがえのないものなのだと三和は感じたのである。
 後江高校カードファイト部。
 そこに集まった者たちに仲間なんて高尚な言葉は不相応で、見るに耐えないちぐはぐな集まりかも知れない。
 けれど、それでいいのだ。
 繋がりを言葉に当てはめなくたって、自分たちだけが分かっていればいい。
 三和は櫂がどう思っているかは別にして、クセが強すぎるこの部が嫌いではなかった。
 そうこうしていると、後輩の扱いに慣れていない櫂が「おい三和」と呆れたように助けを求める声が聞こえ、三和は「はいはい」と笑ってようやく仲裁しに向かう。

 ここで負けたらという局面だと言うのに、これといって緊張感などない場の空気に対し、いい意味でのらしさを感じながら、めでたしめでたしってヤツだと三和は一息をついた。

 フィールドゲートに向かう道中、腕を組み、壁にもたれる姿を確認した櫂は目を丸くした。
「……伊吹」
 名前を呼ばれた男は顔を上げ、櫂の姿を確認するとスラックスのポケットに手を入れたまま櫂の元へ近づく。
「ギリギリまで顔出さなかったんだって?」
「……情報が早いな」
 バツの悪そうな顔をする櫂に微笑みを浮かべる伊吹の顔は、どこか兄のようにも見える。年齢も変わらない、むしろ生まれ年で言えば櫂の方が上回るというのに、伊吹が不意に見せる大人びた表情は昔から何も変わらなかった。
 仕方のないやつだ、と言われているように見えて櫂は少しの気恥ずかしさを感じる。
「オレが試合に出てる時に、福原の控え室までお前の所在を知らないかと訪ねて来たらしい。三和もタイミングが悪かったな」
「まあ……それについては、ちゃんと小言も言われてきた」
「どうせ、どっかでギリギリまで調整してたんだろ。人のこと、特訓だのなんだのと夜中まで付き合わせておいて。オレはそんなヴァンガード馬鹿に導いた覚えはないが?」
 肩をすくめた櫂に対する、伊吹の小言に耳が痛い。
 なにせほとんどが図星なのである。ヴァンガード馬鹿という言葉を反芻し、苦笑いをこぼして「その、すまん」と言えば「人に心配をかけるな」と言われ、自分にこんな言い方をするのは伊吹だけだろうと櫂は少しくすぐったいような気持ちになった。
「……調子は?」
 そんな呆れた様子から垣間見れる伊吹の気遣いに、なぜ妙に心が穏やかになるのかは櫂にはわからない。
「悪くない」
 陽の光が入り込むフィールドゲートから、風が吹いて、伊吹の髪を揺らした。
 反射した光で、髪がキラキラと光っている。
 優しい光を帯びた先導者を前に、櫂は目を奪われた。
 櫂の言葉に満足げに頷く伊吹に、櫂は自然と口が開く。
「……俺も、緊張してるのかもな」
 らしくないと、自覚しながらも櫂は伊吹にだけ感じたままのことを伝えると、伊吹は目を丸くした後、妙に意地悪い笑みを浮かべて櫂を見る。
「……なんだよ」
「いいや? 面白いものが見れたと思っただけだ」
 ふてくされたような櫂に対して、そう拗ねるなと喉の奥で笑った後、腕を組んだまま伊吹は櫂の翡翠の瞳を見つめた。
 その瞳は、どこまでも透き通っている。
「見せてみろ、お前のファイトを」
 目を細め、優しげに微笑んだ伊吹に櫂は既視感を覚えた。
 自分の記憶の中にある小さな破片を、何かが必死に並べて元に戻そうとしている、そんな気がする。
「……なあ、伊吹」
「ん?」
 歩みを進めてゲートをくぐる手前、櫂が足をもう一度止めて、伊吹の方を少し振り返った。
「俺ら、カードキャピタルでファイトした後も、どこかで会ったよな?」
 伊吹は目を見開き、なにかを言おうと口を開く。
 けれど、結局押し黙ってしまった伊吹の瞳は口よりも雄弁で、櫂は何かを察すると「変なこと聞いちまったな」と笑って、伊吹に背を向けて光の元へ歩き始めた。
「いってくるよ」
 その背を見つめながら、伊吹は風で揺れる髪を耳にかける。
「……半分、ね……」
 櫂にかけてもらった、たった一つの言葉を宝物のように抱え直して、伊吹は福原高校の控え室へと戻る。
 あのとき、サイクオリアを通じて見た、櫂とヴァンガードの記憶。そこには伊吹がヴァンガードを手放していた間も、櫂が広げていった人との繋がりが描かれていた。
 そこにいるのが、どうして自分だけじゃないのだろうと思わずにはいられなかったのも事実だ。
 けれど——それでも櫂が、自分のためにやって来てくれた。その事実は、たとえ彼が覚えていなくとも。伊吹にとってのなによりもの救いなのだった。

 櫂は祈るように、デッキを握る。
 目の前の、青空よりも深い青髪を揺らす一人の少年を瞳に映すと、櫂は笑みを浮かべた。
 その微笑みは夜明けのようで、それでいてどんな夜明けよりも優しい色をしている。
「——アイチ。全力でぶつかってこい」
 いま、一枚のカードが男の信念を乗せて捲られる。

 今も、これからも歩き続けようと誓う。
 己が、己であるために。
 息苦しさは、もう櫂を苦しめてはいなかった。