經る

 フランスから帰国したばかりである櫂は、荷物の手配などを済ませると一服することもなく、とある場所へと向かった。
 都内にそびえる一棟の高層ビル。ヴァンガード普及協会──通称FIVAと呼ばれる組織の本拠地は、現代におけるヴァンガードの中核とも言える施設である。
 最後に帰国した際には建設直後であったビルにも今では多くの関係者が出入りし、なにやら催しを行っているのか、賑やかな人だかりまで見える盛況ぶりに櫂は目を細めた。
 パリでの生活にも慣れ、不自由を感じることも少なくなりつつある。それでも帰国するたびに、やはりどことなく落ち着いている自分がいた。
 櫂は来週、二十歳になる。
 苦労の耐えない人生だったからか、妙に達観している青年も残り僅かとなった最後の十代に、メディアにも友人にも伝えることなく、まるで近くのスーパーに寄り道するかのような足取りで帰国していた。
 ただ、ヨーロッパにいた際にサポートをし続けてくれていた普及協会本部にだけは挨拶に伺う旨を伝えると、冬にも関係者が参加する大規模な祝賀会を控えているが、せっかくだからユーロリーグでの活躍を祝して小規模な慰労会をさせてほしいと申し出があり、櫂はそれを快諾した。
 学生の頃にはどこかに置いてきた社交性も、近頃は少しずつ思い出しつつある。大人になった、とも言えた。
 念の為、なるべく目立たないように帽子と眼鏡を装着し、裏手の関係者入り口まで向かう。プラチナに輝くファイカをかざすと開かれる、重々しい扉。そこから先は受付を済ませ、案内されたオフィスフロアへと向かった。

「ああ、櫂トシキさん。この度は遠路はるばるお越しいただきありがとう御座います。わたくし、ファイターズマネジメント部門の本部長を務めております──」
 上品そうな初老の男性が丁寧に名乗り、握手を求められた櫂はその手を握ると「お時間をいただきありがとう御座います」と頭を下げ、続いて挨拶の言葉をかわした。
「夏休みシーズンですし、この時期は空港も混んでいたでしょう」
「ええ。ですが、パリ支部で世話になっている職員の方が席を取ってくれたので。とても助かりました」
 こちらへどうぞ、と慰労会の会場となる会議室へと向かいながら行われる、何気ない世間話を滞りなくこなしつつ、目的の部屋の前にたどり着くと本部長はドアを開け、櫂を招き入れた。
 そして櫂が足を踏み入れる、その瞬間。
 パンッと小気味良い小さな破裂音と、少しの火薬の匂い。
 ふと目を向けると、本部の職員らしき者たち──過去に顔を合わせたこともある職員もいた──がこぞって、クラッカーを鳴らしたのと同時に、声を合わせた。
「櫂トシキさん、お誕生日おめでとうございます!」
 プレミアリーグ一位通過おめでとう御座います、おかえりなさい、お待ちしておりました──そんな声が飛び交う中、櫂は珍しく目を丸くしてその場で棒立ちとなる。
 少し驚いた様子の櫂の隣に本部長が並び、「ビックリしたでしょう?」とイタズラっぽく笑った。
「私の直属の部下がね、櫂さんが帰国するって知って、その日はアナタの誕生日前だって言うから。少し早いですが、私たち普及協会からのささやかなお祝いということで」
「部下?」
 櫂の公式プロフィールは確かに公開情報ではあるが、大勢いるプロファイターの中でも若手と言える櫂の誕生日を把握している者など、本拠地であるヨーロッパならともかく日本にいることに首を傾げる。
「ええ、とっても優秀な子で。私の後はここを任せたいくらい」
 本当の我が子の自慢話をするような本部長の口振りからして、その部下を相当目にかけていることが櫂にも理解できた。
「……でも、来週にはユナイテッドサンクチュアリ支部に移っちゃうんですよ。今は引き継ぎをしているので、残念ながらこの場にはいませんが」
「……あの、それって……」
 本部長が寂しそうな表情を浮かべたのも束の間。櫂が何かを言い終える前に、すぐに優しそうな笑みを浮かべて中へ案内すると、紙コップを櫂にやや強引に握らせた。
「さ、話はあとあと。今日は櫂さんが主役なんですから。どれがお好みです?」
 茶目っ気たっぷりによく冷えたジュースを櫂に選ばせると、本部長は自らそれを並々注いだ。
 ようやく訪れた乾杯の前。櫂は「少しいいですか」と周囲を見渡す。
「……皆さん、日ごろからひとかたならぬお力添えをいただき、誠にありがとう御座います」
 紙コップの中で揺れるオレンジジュースの水面を浮かべ、櫂は長いまつげを伏せた。
 そして一度目を瞑ったあと、いつも離れた土地から自分を影から支えてくれる、協会職員たちの方へ真っ直ぐ目を向ける。
「今後とも日本のヴァンガードファイター、並びにファンの方のご期待に添えるよう一層励んでまいりますので、どうぞご支援のほどよろしくお願いします」
 その言葉とともに、小さな会議室では暖かな拍手の音が響いた。
 それぞれが持ち寄った菓子類や惣菜などを紙皿に取り分け、このあとケーキがありますからねという言葉に櫂は目を細めながら礼を告げて、少し離れたところでチョコレート菓子を摘んでいた本部長の方に声をかける。
「どうされました?」
「すみません、あの……さっき話題にあがった部下の方にお礼を言いたくて。お名前を頂戴しても?」
 本部長はキョトンとして、そんなことにまで気を使ってくれるのかとでも言いたげな、感動したような眼差しを櫂に向ける。
 櫂としても、普段はそこまで積極的にファンサービスをする方ではないため、なにやら良いように解釈されていることに多少の罪悪感を抱いた。
 ただ、少しばかり気になるのである。
 そして、大抵そう言った櫂の勘は当たるのであった。
「あの子も今はちょうど休憩中かな。呼んだんだけど、あまりこういう集まりは苦手みたいで」
 そう言いながら、ファイカを起動させるととあるデジタル名刺を櫂に見せた。
「君より一つ年下だけど、あの子は早生まれだから君と同級生かもしれないね」
 ヴァンガード普及協会ファイターズマネジメント事業部本部プロジェクトマネジメント事業部ディレクター云々などと早口言葉かのようにやたらと目が滑りそうな肩書きたちのすぐ下にある、見知った名前を目にした櫂は「やっぱり」と安堵したような表情を浮かべた。
 そして、その名前であってほしいと、心のどこかで望んでいた自分にも気づく。
「伊吹コウジくん。良い子なんだよ、とても」
 きっと君のファンだから、なんて言葉に櫂は苦笑いを溢して、どこに行けば会えそうか、などと本部長から巧みに聞き出すのであった。

 ネクタイが風で揺れる。
 今は本部の職員ということもあってスーツの着用が義務付けられていたが、支部長補佐となることで来週からはオフィスカジュアルでの出社を許されるようになった。
 だが、オフィスカジュアルと言いつつも自分の中で服装のローテーションを組む予定のため、今のスーツ出社とさほど変わりないのだが。
 歳の割にどこかくたびれた様子の伊吹は、スーツをクリーニングに出すの忘れそうだな、などと缶コーヒーを片手に遠くの東京スカイツリーを眺めるばかり。
 カフェなども立ち並び、一般客も多く訪れる屋外テラスにて。自販機で購入する無糖コーヒーを啜るのが、伊吹の日課であった。
 しかし、今日は少し違う。
 この広い施設の中で、今ごろ彼が訪れているのかと思うと妙にくすぐったい。
 会いに行けば、と誰かの声がしたが、伊吹はため息をついて再びコーヒーを流し込む。
 ──行ったところで、なんだというのか。
 言いたいことも、聞きたいこともたくさんあったが、それを実行するには伊吹は年を取りすぎた。
 世間的に見れば当然、まだまだ若造でしかないであろうが、それでも無邪気に振る舞えるような歳でもないのを伊吹は理解している。
 櫂に抱く感情がよく分からない。けれど、櫂が自分と同じ感情でないことも、よく分かる。
 だから、己が辛いことも分かっている。
 今年の年末年始に三和に呼ばれ、その際に帰国していた櫂とせっかく電話番号を交換したというのに、伊吹からは一度も連絡をしなかった。
 ただ、一度だけ。
 誰から聞いたのか、櫂から一月の三十一日に「誕生日おめでとう」とメッセージが来て、職場からニヤけるのを我慢しながら「ありがとう」と一言返しただけのやり取りを交した。
 あれから何ヶ月経っているというのか。
 発展もなければ衰退もない。だからと言って、櫂とこうなりたいという具体的な感情も、また、ない。
 けれど顔を見れば嬉しくて、たまらなくなることは明らかだった。
 もはや、元気に生きてさえくれていたらそれでいい、という悟りの境地にまで達している。
 伊吹は最後の一口を飲んだ。
 そろそろ、職場に戻らなければならない。
「伊吹」
 今でも、幻聴が聞こえる。
 幼い頃の活発そうな明るい声ではなく、落ち着く低さとなった穏やかな櫂の声に名前を呼ばれる幻聴であった。
「おい、伊吹……」
 これから第一の目的であった、あの神崎に近づけるのだ。こんなことに現を抜かしていいはずがない。
 ユナサン支部で、ディペンドカードの情報を少しでも掴んで、そして──
「伊吹!」
 肩を掴まれ、強い力で引き寄せられる。思わずバランスを崩した伊吹は足元がもつれ、すぐ隣にいた誰かに凭れる形でぶつかった。
「あ、すみませ──」
「何回も呼んでんのに、無視するなよ」
 顔を上げると、眩しい翡翠と目が合う。
 あまりの驚きで声も出ない伊吹はとんでもない速さで、凭れていた櫂から一メートルほど距離を取った。
「な、なんでここに……」
「白々しいこと言うな。お前なんだろ? あのサプライズ用意してくれたの」
 否、伊吹が問いたいのはそういう意味ではない。
 どうして、ここにいる自分の元に、櫂がやって来たのかを聞きたかった。
「い、いや。確かにそうなんだが……すまない、お前はああいうのは苦手だったか。なら余計な真似をした、謝罪しよう」
「違う、そうじゃない。勝手に変な解釈をするな」 
 頭を深々と下げようとする伊吹に近づいて、両頬を手で挟んで顔を上げさせる櫂。そんな二人を一般客が不思議そうにチラチラと見ており、櫂の背中に視線が刺さる。
「あの……謝ってほしくはないな。嬉しかった、本当に。同じファイターとなら顔を合わせる機会はあるが、職員の人と直接会話をできる機会はあまりないんだ」
 櫂の言葉を聞き、伊吹は少しずつ顔を上げた。
 その表情は、とても慰めのために言葉を選んでいるふうには見えない。
 嬉しそうで、少し困っていて、けれど瞳の奥は暖かかった。
「本部長さんに聞いて……もしかして企画してくれたの、伊吹じゃないかなって思ったら当たりだったから」
「……企画は……していない。誕生日だってことは、確かに伝えたが」
 顔を上げた伊吹の頬から、櫂の手が離れる。寂しくて、けれど頬に残った櫂の体温が熱くて、たまらない。
「……みんなが祝いたいって、そう思えるファイターなんだ、お前が。だからオレはなにもしていない」
 やっと合わせた目をすぐに逸らし、手元の空き缶を潰すと長い髪を揺らして櫂に背を向ける。
「悪い、引き継ぎの途中なんだ。ゆっくり楽しんでいってくれ」
 こんなところを同じ職場の者に見られたら、洒落にならないと伊吹は自嘲した。顔が熱くて、嬉しくて、気を抜けば笑ってしまう。
 けれど、伊吹は決めたのだ。
 使命を果たすまで──否、最期のときまで私欲よりも、成すべきことを第一に考えると。
 やっと、少しだけ目的に近づける。
 せっかく手にした機会を、気を抜いて水の泡にはしたくないのであった。
 肩越しに少し振り返ったときには、既に伊吹はいつもの“完全無欠な伊吹コウジ”に戻っており、瞳には櫂は映っておらず、別のどこかを見ていた。
「誕生日おめでとう」
 これでいい。
 伊吹は長い足で大きな一歩を踏み出して、そのまま足早に櫂を置いてテラスを後にする。
 櫂はなぜ、自分の元にわざわざ来てくれたのか。聞きたくてたまらなかったが、それを聞いたところでどうしようもなかった。
 早くオフィスフロアに通ずるエレベーターに乗り込まねばと、最終的には駆け足でエレベーターホールへたどり着く。
 そうして一度も振り向かず、上層階行きのボタンを連打して、少しの間のあと。
 到着したエレベーターに、一人で乗り込ん──だ、が。
 そう思って前を向くと、息を切らした櫂が続いて乗り込んできたため、伊吹は驚きのあまり男らしい悲鳴を上げた。
「なんでついて来る!」
「お前が逃げるからだろ!」
 物言わぬエレベーターは二人の男を取り込んで、そのままドアを閉ざす。
 伊吹はなにか言おうとして、けれどやはり口を噤んだ。櫂はそんな伊吹にどうしたものかと頭を掻いて、慰労会が行われている階のボタンをなにも言わずに押す。
「……逃げるなよ、傷つくだろ」
「……逃げてない。急ぎの仕事があった」
「そんなやつが、あんな黄昏れてコーヒー飲むかよ」
 握りしめたままの、ぺしゃんこになった缶を見下ろして、自分に似ていると伊吹は思う。せっかく取り繕ったものが、また崩れていくのを感じながら目を閉じた。
「……お前に祝ってほしいって、ワガママくらい言っても許してくれよ。誕生日なんだから」
「……そんなこと思ってないだろ」
 もっと、可愛げのあることが言えたらいいのに。もっと、もっと、こうだったらいいのに──櫂といると、そんな気持ちばかりが溢れて、どうしようもなく悲しくなるのが嫌だった。
 嫌われそうで、だから二人きりになるのは、怖い。
 発展も衰退もない、代わり映えしない関係のまま、ただ自分が櫂に焦がれていたいだけであるのに。
 櫂は背後の伊吹を一瞥する。その目には、呆れとも、困惑とも、怒りとも違う色を浮かべていた。
「俺がお前に嘘つくと思うか?」
 その色に名前はない。
 ただ、暖かくて、優しくて。小学生のころの伊吹が、一瞬で大好きになったあの色と同じだった。
 静かにエレベーターのドアが開くと、櫂は伊吹の手元にある缶を奪って、代わりにその手を取った。
「本部長さんには俺が誘っていいかって聞いてきた。そしたらもちろんだって。だから、祝ってくれよ。ケーキもあるらしいから」
 強引で、鈍いようでいて、時に誰よりも他人の心に敏感な櫂が相変わらずそこにいた。
 伊吹は手を取られたまま、大人しくエレベーターから出てくると握った手を少し強く握り返し、小さな声で「おめでとう」と言い直す。

 振り返った櫂は「ありがとう」と告げ、伊吹よりも強く、また手を握り返してみせた。