色彩

 くぐもった矯正混じりの声はほぼ言葉など紡いではおらず、幼子のように何度も「やだ」を繰り返すだけとなっていた。
 グズグズと鼻をすすりながら、アイチは普段の利発そうな目をとろけさせている。まるで幼児退行でもしたかのような恋人のありさまに目を細め、意地の悪そうな顔をした櫂が耳元でなにが嫌なのかと問えば、気持ちよすぎてダメだと無自覚に腰を揺らして訴えてくる様子が、らしくなく婀娜っぽい。
 気持ちがいいならいいじゃないか。
 アイチの汗ばんだ肌に噛みつき、舌で撫でると鎖骨辺りにキスマークを残していく。
 唇で柔肌をなぞれば、甘い匂いがした。
 目で、舌で、指先で。その甘さと柔らかさを堪能し、一方では恋人の一際弱いところばかりをいじめるように腰を動かし続けていると、とうとうアイチは泣き出してしまう。
 甘えたような泣き顔に、興奮からゾクゾクと背に何かが這った。
 頭を撫でて名前を呼べば、組み敷かれた恋人は「みないで」と舌足らずに顔を背けて頬を濡らす。照れからか身をよじって嫌がるそぶりをするが、本当に嫌な訳がないことを本人よりも櫂が理解していた。
 そんな、ほんの一欠片残った理性をグチャグチャにしてやりたくなる。
 それからはベッドが軋む音、濡れた粘膜が絡み合う音、互いの吐息しか聞こえなくなり、性行というには生温い、遊牝(つるび)というに相応しい戯れが続いた。
 夢中でむさぼっている最中。組み敷いた小さな身体が何度か痙攣し、助けを求めるかのようにしがみついてきたことで、アイチがまたもや熱を吐き出さずして達してしまったことを察する。そして櫂もまた、薄い膜の中に何度目かの子種を吐き出した。
 ぐ、ぐ、と達した後も腰を押しつけながら、疲労感でくったりとしたアイチと唇を重ね、されるがままとなった舌を絡め取り歯茎をなぞって限りなく互いの肉体の境界線をなくす。
 そしてトロリと唾液を注げば、それさえもアイチは健気に受け入れて「もっと」とせがむ様に櫂の舌に吸い付いて見せた。
 力の入らないであろう腕で、必死に抱きついてくる。言葉、態度、瞳から好きだと必死に伝えようとする恋人が愛おしくて、それに応えるように櫂もアイチを抱きしめた。
 小さな、細い身体。それは、なにも持たない男の数少ない居場所の一つだった。
「風呂、どうする?」
 鼻の頭同士をくっつけて、汗を含んで額に張り付いた前髪の束をのけてやり、妖精のような睫毛に縁取られた目を覗き込む。既に眠たげで、今にも溶けそうな青い瞳。
「……はいり、ま……ぅ……」
 そう言いながら、吸い込まれるようにアイチは目蓋を閉じてしまった。
「寝んのかよ」
「んん……おきる……」
 幸せに形があるならば、きっとアイチとよく似ているのだろうと櫂は思う。
 頭を撫で、起きると言い張るアイチにふと朝食のリクエストを伺うと「たまごの……たまごが……白い……パンの……」という不可解なヒントを言い残し、結局そのまま先に眠りにつかれてしまった。
 残された櫂は挿入したままの萎えた自身を気怠げに抜き、散々使ったゴムの処理やゴミを捨てながら、《タマゴの白いパン》の存在に首をかしげた。
 そんな不気味なもの、過去に作っただろうか。
 あれのことか、いや、これのことかと考えつつ、かけてあったガウンを羽織る。片手間に翌朝目覚めたアイチの不快感が少ないようにと、体液などで汚れた身体を最低限清め、風邪をひかないように肩まで布団をかけてやるといった一連の動作は非常に手慣れていた。
 櫂は、こうして人知れずアイチの世話を焼くのが嫌いではない。思えば、初めて身体を重ねた頃から続いている習慣のようなものだった。
 最後に自分の入浴の準備をしながら、未だ答えの出ない《タマゴの白いパン》に眉間を寄せていると、もしかして、もしかしなくてもエッグベネディクトのことなのではないかと思いつく。
 いや、白いところなど。ほぼマフィンの部分だけではないか。
 しかし、アイチのことである。アレは目の付け所がよく分からない。過去にムニエルの名前が思い出せずに《ぺとっとした蒸し魚》と呼んだような感性の持ち主だった。
 真相(仮)にたどり着き、サーモンがないので生ハムで作るかと朝の献立を頭の中で組み立てながら、櫂は髪を掻き上げて湯気が漂うバスルームへと足を踏み入れた。

 バルコニーに面したカーテンが開かれた部屋には、朝日の温もりが立ちこめていた。キッチンに立つ櫂が手際良く調理器具を洗う音だけが、静かな部屋の空気を震わせている。
 食洗機の中へ几帳面に洗ったものを並べ、電源を入れると乾燥コースを選択。食事の際に使用した皿などはともかく、調理時に使ったものは手で洗う、と櫂は自分の中で決めている。
 節くれ立った、白く長い指でベルギーリネンの黒いサロンエプロンを紐解き、櫂は朝食の準備を終えた。
 起こさないようにベッドの中に置いてきた恋人は、恐らくまだ夢の中。
 テーブルの上には既に、出来立ての朝食が並べられている。
 恐らくのご所望であるアボカドと生ハムを使ったエッグベネディクト、サラダに至っては同じくアボカドを使用し、こちらは冷蔵庫にあったカニカマ、豆腐と和えて簡単ながらも食が進むものを用意した。
 こういったサラダにはやはりワサビマヨネーズなどが合うが、アイチはワサビなどの刺激物を少し苦手とするため、マヨネーズとレモンを使ったマイルドな風味のドレッシングを添える。
 ドレッシング一つにも、妥協を許さない男であった。
 アイチ用のホットミルクに蜂蜜を入れ、自分用の珈琲を淹れればあとはアイチを起こしに行くだけ、なのだが。
 朝食が冷める前にアイチを起こす、これが一番の難所である。
 もはや起きなければ抱き上げて連れて行くだけなのだが、今朝のアイチは服も着ずに寝落ちてしまったために、まずパンツを履かせる必要があった。
 さすがに裸で食事は如何なものかと思う。
 根は良いところの家で生まれ育った長男らしい良識を持ち合わせる櫂にとって、自分はともかく、そういう粗暴なことはアイチにさせたくはない。
 しかし、寝ぼけたアイチ相手に何度か服を着せたことはあるが、あれは中々骨が折れる。
 寝ぼけているアイチは首のすわらない赤子同然で、いくら小柄であろうと全体重をかけられると軽々に、とはいけまい。
 今日もそのコースか、と呆れつつも、どこか楽しそうに見えるのは気のせいであった。
 きっと。
 エプロンを畳み、アイチの着替えを小脇に抱えて少し冷たい空気が漂う廊下に出る。
 今日は特に出掛ける予定も立ててはいないが、夕食の買い出しはせねばならないなと、特にメインとなりそうな食材もなかった冷蔵庫の中を思い出した。
 アイチは、夕食はなにが食べたいと言うだろうか。
 自分が作ったものをニコニコと幸せそうに頬張る、あの愛らしい顔が見れるのならば、櫂はなんでも作れる気がした。
 アイチは小食故に量こそは少なくなるが、作り甲斐は大いにある。自分のためだけに食事を作っていた頃は、作り甲斐なんて気にしてこなかった。
 料理は趣味でもあった為、当時からそれなりに手の込んだものを作ったりしていたが、探求心と達成感を得る為のものでしかない。
 慣れない環境で肩身の狭い思いをしながら、一人で食事をとっていた子供の頃に感じていた色のない感情も、今となっては二人分に増えた食器の数だけ報われるような気がした。
 思えば家事を一通り身につけたのも、一人でも生きていけると周囲に示す証左であった。
 誰にも干渉されないように、誰にも同情されないように、誰にも施しを受けたりなどしないように。全ては自分を守るためのもの。失うものは最小限でいいと、小さな“箱”となった両親との思い出を抱え、本気でそう思って生きてきた。
 それが今、初めて愛おしいと思えた誰かを喜ばせる手段の一つとなっているのだから、人とは変わるものなのだと櫂は感慨深く思う。
 ——否、変わったのではない。
 “戻った”のだ。
 櫂は、自分の手で取り戻した。
 ただ、ただそれだけのことであった。
 廊下にある小窓から青空が見える。両親を攫っていった、忌々しくさえ感じていたあの青も今は好ましく思えた。
 なんてことのない、よくある朝の空だった。
 寝室の前にたどり着き、音をなるべく立てずにドアを開ける。
 案の定、アイチはまだ寝ているらしい。ベッドの真ん中で丸まっている布団の塊を見つけ、それを遠くから暫く眺めたあと、ゆっくりと近づく。
 着替えをサイドテーブルに置き、ベッドに膝をついて乗り上げると、櫂の重みを受けてスプリングがギシッと鈍く鳴いた。
 青い髪が、潜り込んだままの布団の隙間からはみ出ている。宝物でも掘り出すかのような優しい手つきで布団を捲れば、寝息が聞こえた。長い睫毛を伏せて、くぅくぅと眠るアイチを見つける。
「アイチ」
 小さな鼻をつつき、柔らかな頬を指で揉んだ。
 日光と櫂の声に反応したそれはもぞもぞと芋虫のように蠢き、布団から頭だけ出して、櫂の声が聞こえた方向を確認。少しして、寝ぼけ眼でも目の前の櫂の姿が確認出来たらしい。あぐらを掻いた櫂に這い寄ると、そのまま脚に抱きついてくる。
 櫂くんだ、と寝ぼけながらも嬉しそうに微笑む様子は、まさに花のような愛らしさであった。
 そんな朝から甘えん坊な恋人に「飯、冷めるぞ」とだけ告げると、櫂の膝の上で二度寝を始めようとしていたアイチは顔を上げる。
 冬眠中の腹ペコ小動物は「飯」の一言にスイッチが入ったようであった。
 さすがは、成長期。実際成長している様子は乏しいが。アイチが聞いたら拗ねて泣きそうなことを櫂は考えた。
「……ごはん」
「腹減ってるだろ。昨日あんだけ動いたら」
「ぼ、ぼくより櫂くんの方が動い……」
 自爆。起床早々顔を真っ赤にして、アイチは櫂の堅い太股に顔をグリグリと押しつけて「あうあー」と謎の奇声を上げた。
 くく、と櫂が喉の奥で笑う。
 それでもまだ覚醒しきっていない、布団に住まうカタツムリのようなアイチに対して続けざまに下着を差し出せば、ハッとしたあとに受け取り、恥ずかしそうにゴソゴソと布団の中で履く。自分が真っ裸であることを、今思い出したらしい。
「風呂は飯食ったあとにしろ」
「はい……ぼく……またそのまま寝ちゃって、ごめんなさい……」
「シーツの替えはある。別にお前が気にすることじゃない」
 口調こそ素っ気なく聞こえるが、櫂の言葉の意図を理解出来ているアイチは暖かい気持ちになる。
 アイチにとって櫂とは、ずっと大好きで、とても大切な人だった。 
 堅い膝を枕にし、下から彼の顔を見上げる。
 無機物を連想させるような冷たさと、美しいという言葉さえ霞みそうな端麗さがそこにあった。まだ寝ぼけたままの、ぼんやりとした頭でもドキドキ出来るくらい、二つとない整った顔つきである。
 こんな人が恋人だというのに、今の自分と来たら。
 髪はボサボサ、服さえ着てない己と、朝から爪先までカンペキな櫂を見比べると遠い目になる。
 このままではいつ呆れられるか——アイチは己の生活態度を見直おさねばならまいと、睡魔と戦いながら決意する。なお、この決意は通算百回ほどは越えているものであった。
 無論、櫂はその程度で易々と手離す訳がなく、今だってこの状況を楽しんでいるということをアイチは知らない。自己肯定感がもとより希薄なアイチは、何かにつけて余計な心配をする悪癖があった。
 そもそも、アイチが真面目な気質の割に私生活に置いてはズボラな所があるなど、櫂には疾うにバレているので手遅れなのだが。
 一方。じ、っと顔を見てくる目下のアイチは今も眠そうで、このままじゃれあっていてはいつ二度寝されるか分からない、と櫂は冷めそうな朝食の心配をしていた。
 寝ぼけた恋人の姿はいつまでも見ていられるが、それではいけないと心を鬼にする。仰向けのアイチの両脇に手を差し込み、そのままズルズルと布団から引っ張り出して自分の前に座らせた。
 ぬいぐるみかのようにされるがままのアイチ。
 既にボタンを全て開けておいたシャツに腕を通させて、着替えを手伝う。今日はまだ少し目を覚ましている状態で良かったが、それでもグラグラと重心が危うい。
「寝ぼけてないでいい加減起きろ」
「うう……」
「服もちゃんと着ろ」
 決意した数分後には、もう櫂に世話を焼かれているのだからどうしようもない。アイチの前に手を回してシャツのボタンを代わりに留めてやりながら、櫂自身も結局甘やかしてしまう自分に溜め息をついた。
 こういうのを、どっちもどっちと言う。
 アイチの妹であるエミから散々聞いてはいた為、覚悟はしていたがアイチの朝の弱さは予想以上であった。呼びかければ目は覚ますものの、覚醒までの時間が長く、二度寝までのスパンが秒という難易度である。
 櫂がやっとの思いで上着を着せ終えたところで、アイチの白いうなじが目に入った。
 燕の背のように小さく丸みを帯びた細いうなじは眩しく、それでいて美味しそうに映る。
 少しの好奇心。これくらい許されるだろうと、櫂は何の前振りもなく悪戯心でうなじに甘噛みをする。突然の仕打ちに、アイチは「ひょあ?!」と色気のない間抜けな声を上げるも、噛みついている側は素知らぬ顔で背後から抱きしめてきて、逃がしてはくれない。
 そのまま肌に吸い付つき、ちゅ、ちゅ、と聞こえる愛撫の音にアイチは首まで赤くして、小動物のように身体を震わせた。
 そうこうしている内に櫂の手がとうとうアイチの胸元辺りをゴソゴソし始めた辺りで、腕の中から「ごめんなさい~」と情けない声が上がったため、仕方なく手を引っ込めてやる。
「世話賃」
「お、起きます……はい……起きます……」
 やっと目が覚めたらしいアイチに、「じゃあこれは自分で履け」とズボンを手渡して一足先にベッドから降りた。
 まだ熱い気がするうなじをさすり、アイチは眉をハの字にさせて櫂を見上げる。その視線に対し、櫂は目を細めて分かりづらく微笑むことで応えた。
 その笑みはアイチにしか分からないような、淡い笑みである。
 顔つきの精悍さから“優しそうな”とは形容しがたいものであるが、その瞳の奥に確かな慈愛に近いものを感じ取り、それが全て自分に注がれていることをアイチは悟ると呼吸を止めた。
 櫂が青髪に指を通せば、柔らかく指からすり抜けていく。髪が落ちていくのと同時に屈んで、唇に触れるだけのキスをした。
 ポカンとしたままのアイチを残し、その場を後にする。廊下へ続く部屋のドアを開けるとさっさと一人だけリビングへと向かってしまった。
 アイチは慌ててズボンを履き終えてベッドから降り、転びそうになりながらも櫂の背中を追うため、名前を呼んでドアを開ける。
 しかし、部屋から出たすぐ傍で。
 櫂は腕を組み、アイチをちゃんと待っていた。
「おはよう」
 当たり前の、よくある、平凡で、なんの変哲もない朝の挨拶。
 それがどうして、こんな魔法の言葉のように自分の胸に響くのか。
 こんなに人を好きになっていいのか、不安になることもある。手放したくないと、心から願った。
 アイチは寝癖のついた髪を手櫛で恥ずかしげに誤魔化してから、櫂と目を合わせる。
「……おはよう、櫂くん」
 人々の心を溶かすような春の日差しの如き笑顔を浮かべて、挨拶を交わした。アイチから櫂へ、ぎゅ、と一度抱きついてから二人で並んで今日の予定を話し合い、朝食の待つ部屋へ歩き始める。
 これが、二人の日常の始まりであった。
 ドアが閉じられたリビングにて。
 テーブルの上のエッグベネディクトを見つけたらしいアイチの、「エッグベネ……ベ……タマゴの白いパンだ!」と、喜ぶ無邪気な声が聞こえる。