一緒にいたい

 ダボダボの学ランの袖からほんの僅かに見える指先で床に落ちたままのズボンを拾い上げるアイチを、ベッドに腰掛けて眺めている櫂はスウェットパンツのみを纏い、上にはなにも羽織っていない。
 することを一通りし終わったあと、櫂と同じ香りをさせたアイチの髪は、まだ湿っていた。
「ちゃんと乾かせよ」
 ぴょこんと跳ねている濡れた長い襟足が、淡いグレーの襟を湿らせ、そこだけ色を濃くさせている。
 櫂は呆れながら手を伸ばすと、モゾモゾと鈍臭そうに、床に座ってズボンを履いている芋虫のようなアイチの髪に触れた。
 この生き物に相変わらず色気などない。
「ど、ドライヤー苦手で……」
「子供か」
 子供である。
 櫂は自分で言っておきながら、それを相手に腰を振る自分を思い出してなんだか遠い目になってしまう。
 一方、アイチは「髪の量が多いから乾きにくくて」などと一生懸命に言い訳を続けており、櫂の失言に気づく気配もない。
 勝手に自爆しておきながら急に静かになってしまった櫂の方を、怒っているのだろうかと不安げに窺いつつ、アイチは大きなズボンの裾を三重ほどに折る。
 その手際は非常に慣れてはいたが、折り目の幅はバラバラであり、雑そのもの。
 いかにも繊細そうに見えるこの少年には、案外こういう一面がある。
 しばらく異次元に意識を飛ばしていた櫂は、いや、でも実際は一歳しか変わらないのだから、と頻繁に忘れかける事実を思い出しながら自我を保っていた。
 たとえ、アイチが未だに服の裾さえ満足に折れなくても、一歳しか変わらな──いや、それにしても裾がグチャグチャすぎやしないか。
「……よし!」
 どの辺を見て「よし」なのか。
 アイチの感性は謎である。なにも良くないだろう。
 たまにカードキャピタルで見かけたとき、ズボンの裾がみっともないことになっている理由はこれかと、また一つアイチの真実を知ってしまう。
 安全ピンか何かで留めてやった方がいいのだろうか。
 しかし、そんなグチャグチャの裾を見て呆れはしながらも、アイチのそういう豪快なところを、櫂は結構気に入ってたりするのであった。
 途方に暮れる時もあるが。
 たとえ裾上げをしてもシルエットがおかしいであろう、明らかにオーバーサイズの制服を見るに、この豪快さは母親譲りなのかと推測する。
「……はあ、こっち来い」
 手招きされたアイチは首を傾げながら櫂の傍に近づくと、ベッドへ腰掛けるように指示されるがまま、大人しく言う通りにする。
 まるで子犬だ。
 隣に座ったアイチの、細くて軽い脚を持ち上げ、櫂はそれを自分の脚に乗せると「わわ」と慌てたような声が聞こえた。
 手の掛かる恋人の汚い折り目のついたズボンの裾を手で伸ばしたあと、均等な幅で折り直してやる。
「反対側」
 ぶっきらぼうに告げると、おずおずとアイチはもう片方の脚を櫂に差し出した。これでアイチの両足の自由は櫂に奪われたことになる。
 しかしアイチは、呑気に櫂の器用さに感心するばかり。
 そんな隙だらけのアイチに対し、視界の端で気まずそうに動く、まんまるとした小さな足の指を櫂はおもむろに摘まんでみせた。
「おわぁっ!?」
 素っ頓狂な声を出して驚くアイチに、大げさな、と思いながらも摘まむ指は離れない。
 くくく、と喉の奥で笑いながら次いでアイチの足裏をくすぐった。
「ずるい!」
「ずるくない」
 情けない声を出して歯を見せながら笑うアイチに釣られそうになりつつ、足の裏をくすぐるのを止めない櫂の表情には幼少期の面影が浮かぶ。
 ベッドの上で二人して転がりながらじゃれあって、やっと櫂の手から逃れた頃にはアイチはハアハアと肩で息をしていた。
 しかし、櫂はまだちょっかいをだし足りない様子で、アイチの上に覆い被さると湿った前髪を指に絡ませ、覗いた丸い額にキスをした。
 アイチは大きな猫目を一度パチクリと瞬きさせると、顔を赤らめて櫂を見つめる。
 つい先ほどまで身体を重ねていたとは思えない、初々しい反応は見てて飽きない。
 櫂は、アイチのこういう表情や反応を見る度に、帰したくないなあとぼんやり思ってしまうのだった。
 櫂が素直にそれを告げれば、アイチが喜ぶのは分かっているし、そのまま泊まっていくであろうことも想像に容易い。
 でも、それはしない。
 アイチには、待ってる家族がいるのだから。
 アイチの夕飯を、あの穏和そうな母親が既に用意しているかも知れない。
 それを思うと、家族を持たない青年はいっそう帰してやらねばと思うのだった。
 または、年上の責務として。
「袖も折ってやるから、たったと帰る用意しろ」
「か、櫂くんが遊び始めたのに……」
「一番笑ってたのお前だろ」
 二人して寝そべり、指先しか見えていない長い袖をズボンの裾と同様に丁寧に折ってやりながら、櫂の手の動きを目で追うアイチを盗み見て分かりづらく微笑む。
「靴下とかも忘れんなよ」
 隠れていた小さな両手が顔を出し、櫂は一足先にアイチを残してベッドから降りると、シャツの袖に腕を通した。
「……櫂くん」
「あ?」
 名残惜しそうに、ベッドの上で今もちょこんと座ったままのアイチの目は、口よりも雄弁であった。
 帰りたくない、と言いたげな。
「……泊まりはまた今度な」
 櫂の言葉にしょんぼり、と文字通り眉を八の字にさせ、唇を尖らせるアイチはまさしく子供のそれである。
 動かないアイチの代わりに、少年の白い靴下を拾い上げ、再びベッドに戻ると放り出されたままの足に履かせてやる。
 先ほどまで散々くすぐられたというのに、アイチは櫂に対して警戒心など見せなかった。
「送ってやるから」
 両足に履かされた靴下を退屈そうに見つめ、櫂の言葉にコクンと頷く。
 この少年を、不器用な櫂なりに大切にしているつもりであった。
 その場の気分で適当な付き合いをして、分別がつかないアイチを振り回し、何事も疎かにしたくはない。
 櫂はアイチに対し、自分だけを見るのではなく、アイチの世界そのものを大切にして欲しいと心から思っている。
「良い子だ」
 まだ納得はしていない様子だが、それでも櫂の言うことを聞いて寂しそうに帰る準備を始めたアイチの頭を撫でてやった。
 先ほどまで湿っていた青髪はすっかり乾いており、風邪を引かせてなければいいが、と考えながら自宅の鍵をスウェットパンツのポケットにしまう。
「アイチ」
「……はあい?」
「土曜、午前の授業終わったらオレん家泊まるからって、ちゃんと親に言っとけよ」
 そう言うと、アイチの顔は面白いくらいに見る見るうちに明るくなっていく。
 とんでもなく単純である。
 だが、そこがたまらなく可愛かった。
「今日が、水曜日だから……えっと、あと2日寝たらいいんだね……!」
 指折り数えるアイチに遠足前の小学生かとツッコミを入れそうになるが、まぁ、いいかと好きにさせてやる。
 この関係に色気や駆け引きなんてものはない。
 つくづくそう思うが、櫂の心が満たされるのは事実であった。
「ほら、行くぞ」
「あ、ま、待って!」
 一足先に玄関に向かって行った櫂の後ろを通学鞄を抱えて慌ただしくついて行くアイチは「今日のお母さんのご飯なにかなあ」と言い、ヨタヨタと靴を履くのであった。
 それを見守る櫂の瞳は、何より穏やかである。