遥か彼方の僕たちへ

 同じ夢を何度も見るのだ。
 優しく愛しい、苦しさの中にも確かにあった暖かな風景。
 とある剣士たちの、遠く儚い夢を。
 掠れて読めなくなった古書のように実に曖昧で、起きたら忘れてしまうほどのそれが夢と呼べるのかすらも、最初は疑わしいほどだった。
 けれど、これだけは本当だと思える温もりがあったのである。
 寝たきりとなってしまった冷たい手を、ずっと握り続け、頭を撫でてくれる優しい手が。
 名前を呼びたいのに渇いた舌が喉に張り付いて、上手く声すら出せないことが煩わしかった。
「……義勇、義勇。なにより綺麗だ、ずっと想っている」
 綺麗とは程遠い、食事も摂れず枯れ枝のように骨が浮くほど痩せてしまった左手を握って、そんな寝ぼけたことばかりを言う誰か。
 けれども彼はきっと、己がどう醜くなろうとも、同じ言葉を何度だって掛けてくれるのだろう。
 義勇と呼ばれた剣士は、そう思うのである。
 嗚呼、ちがう。
 あれは、手を握られていたのは俺なのか。
 これは、夢ではなく記憶だ。
 気付いたところで義勇が目を覚ますと、悲しくもないのにいつも涙が止まらなかった。

 会いたい。名前も顔も、分からない誰かに。
 そうしたら、きっとまた何度だって恋をする。

 幼い頃から、ずっと。
 義勇はその夢ごと、会ったこともない彼のことを心の底から、愛していたのだと思う。

 ◇

 卒業式の後。
 クラスメイトとの集まりを途中で抜けた錆兎が足早に向かうのは、父と二人で暮らす自宅ではなく、とあるマンションの一室。
 ドアを開けて出迎えてくれたその人は、家主でもあり卒業式にも来てくれた歳上の恋人であった。
 卒業式で着ていたセットアップから一転、ゆったりとしたルームウェアを身に纏った彼からは仄かに清潔感のある香りがして、風呂から出た直後であるのが窺える。
 二人して普段通りを装い、集まりは楽しかったかと白々しく聞いてくる恋人に生返事をしてから、錆兎は腕を引いて抱き寄せた。
 少し先走り過ぎたかと思ったが、もう、我慢の限界であったのだ。
 無言が続き、手を繋ぎながら寝室に向かう間も二人は静かなまま。
「──義勇、いいか?」
 もう着るのは今日が最後となるであろう、高校の制服を纏った錆兎がネクタイを緩めながら、ベッドに組み敷いた恋人を見下ろす。
 こうなることは、分かっていた。
 だからこそ、錆兎が同級生たちに呼ばれている間、義勇は自分なりに準備もしていた。
 長年、ずっと待ち望んでいたことでもあったのに。
 義勇はやっと触れられる、触れてもらえるという期待と喜び、そして〝あの頃〟にはなかった年の差を前に、錆兎が己に欲情してくれるかどうかという不安によって、視線を忙しなく泳がせ続けている。
 錆兎が十八歳なのに対して、義勇は二月で二十六歳となったばかりであった。
 出会った頃に至っては、錆兎はまだ小学校を卒業したばかりで、義勇は大学生。それが何だかんだと今日まで関係が続いているのだから、二人の関係が如何に深いものであるのかが分かる。
 これ程まで大きな歳の差がありながら、二人が結ばれたのは不思議な縁によるもの、としか言いようがない。
 端的に言うと、二人は前世で結ばれていた。
 まるで陳腐なロマンス小説のあらすじのようで、今でも改めて言葉にするのは小っ恥ずかしいまであるのだが、事実なのだからどうしようもない。
 互いに鬼狩りであった頃の自分や、思い合っていた誰かのことを古くから夢として見ることがあり、それが記憶であることを理解したのは、奇跡的に二人が現代で再会してからである。
 再会して、歪でありながらも、なんとなく恋人のような関係を続けて来られていたわけなのだが。
 最初は良かった。会えて嬉しいという喜びで、他の感覚が麻痺していた。
 だが近頃の義勇と言えば、ずっと悩んでばかりである。
 元よりボディメイキングの類には一切の興味もなく、食べることにもさほど関心がなかった義勇は食事もおざなりで、姉夫婦と暮らしていた頃には保たれていた一日三食という食事量も、一人暮らしを始めてからは何かに夢中になると一切食べずに集中してしまうという悪癖から、食生活は乱れに乱れきっていた。
 そして錆兎と再会したことをきっかけに、ぼんやりと前世の自分をより明確に思い出したは良いが、ふと鏡を見るとそこには貧弱で薄っぺらい、風が吹いたら飛ばされそうな情けない男がいたのだ。
 体重計すら家にはなく、姉夫婦の家で計らせて貰った体重は、おおよそ鬼殺隊で現役だった当時に比べて一〇キロ以上も痩せていた。
 これは、良くない。
 あんたちゃんと食べてるの、と周りがしつこく聞いてくる理由を、義勇はいまさら理解したのだ。
 こんなにも情けない身体で、錆兎の隣にいたくはなかった。
 隊士の頃のように鍛え上げられた無駄のない筋肉を今からつけるのは難しいだろうが、それでも時間の合間を縫ってパーソナルジムへ通い、義勇は健気にも出来る範囲で身体を作るなどの努力を始めた。
 己が前世でも筋肉が付きづらい体質であったことを思い出しながら、それでも錆兎にみっともないところを見せたくない一心で、食生活を見直して体重を増やし、現世においてもうっすらではあるが腹筋を蘇らせることに成功したのである。
 錆兎が綺麗だと、しつこいくらいに言ってくれていたあの頃になるべく近づけるために。
 けれど、そのような努力をしようと、錆兎との間には縮まらない八歳の差があるのだ。
 自分が小学校二年生くらいの頃に錆兎が産まれたのかと思うと、ふと遠い目になるようになったのはいつからか。
 再会した頃は義勇もまだ大学生であり、錆兎が年齢の割にしっかりしていたこともあって、そこまで大きな差とは思わなかった。芸能人などでも十歳差で結ばれた夫婦も珍しくはなく、その手の熱愛報道をたまたま目にしたところで特になんとも思わなかったからだ。
 けれど当事者になり、月日が経って錆兎が高校生、義勇が社会人になってからは徐々にその差が如何に大きいのかを意識するようになった。
 お互い、成人してから再会すれば──また違ったのかも知れないが。
 錆兎のことは、大好きだ。これ以上にないほど、今も変わらず愛してもいる。
 痣の影響で早逝し、彼を残して逝ってしまったことをずっと悔やんでもいた。
 己が亡くなった後は隊士時代の仲間たちも遊びにも来てくれていたと話し、身寄りのない子供を引き取って育て、近隣の者たちとも親交があったことから義勇が心配するような孤独な日々を過ごしていたわけではないとも、錆兎から聞いてはいる。
 だが同時に、錆兎は義勇がいなくて寂しかったとも。
 孤独ではなかったけれどふとした時に、義勇がいたらなんと言っていただろうと考えない日はなかったとも言ってくれた。
 自分を安心させるような言葉を選びつつも、会えて嬉しい、一番に会いたかったと抱き締めてくれた錆兎は当時はまだ中学一年生で、小さくはあったが変わらない温もりの前に、義勇は涙が止まらなかった。
 そんな錆兎の言葉を疑うわけではない。
 錆兎が、義勇に嘘をついたことは今まで一度もなかった。
 しかし己の存在が、その大事な錆兎を縛っているのではないかと考えてしまうのだ。
 同級生の、もっと若い子達と一緒になった方がいいのではないかと──いつしか錆兎を想うあまりに考えてしまうようになった。
 せめて自信をつけてみようと努力しても、義勇の悩みが尽きることはない。
「……錆兎、あの」
「ん?」
 義勇が呼ぶと、錆兎は身体を屈めて精悍な顔をグッと近づけてくれる。たったこれだけのことで、今でもときめいてしまってどうしようもなかった。
 自分に覆い被さる錆兎は、高校生になった頃には義勇の背を抜いていた。ずっと剣道をしていたと言う彼の身体付きは相変わらず逞しく、前世に比べて随分と痩せてしまった自分とは大違いである。
 義勇はいつも、気が付くとあの頃の自分と比べてしまうのだった。
 柱として、剣士として戦い、名前も知らぬ誰かの明日のため、鬼と戦った勇ましき日の頃を。
 それが、今はどうだ。
 何不自由のない恵まれた幼少期を送り、高校、大学では留学なども経て、卒業した後は両親が残した遺産だの土地などを管理しつつ、事業を手がける義兄を手伝い、出版翻訳家として細々と仕事を貰っている今。
 一見すると悠々自適にも思えるが、もはや義勇には自分の職業が一体なんなのかよく分からない。とりあえず聞かれたらフリーランスを名乗る、貯金額だけは凄まじい謎の収入源を持つ男と成り果てていた。
 趣味は散歩と本屋巡り。贅沢は苦手で、質素なくらいが好きであった。
 最近では寛三郎と名付けたベタを飼い始め、苔玉まで育てているというなんとも独居老人のような生活に満足はしているが、柱として前線に立っていた頃の己に勝る要素が、どこにあるのだろうと考えてしまう。
 まだまだ若い錆兎には未来があるのに、今の自分のような中途半端な大人がそれを台無しにして良いのかとすら。
 しまいには、義勇が好きだ好きだとしつこいから、優しい錆兎を付き合わせてしまっているのではないだろうかと、加齢と共に思考はどんどん拗れていく。
 中々思いを言い出せず、言葉に詰まった義勇の名前を不思議そうに錆兎が呼んだ。
 意を決して、言葉にする。
「……やっぱり、その……俺が初めての相手というのは……やめておいた方が、良いんじゃないか。あの……もっと歳の近い、子と……」
 本当は嫌だ。錆兎が、自分ではない知らない誰かを抱くなんてことは。
 けれど時間が経って、再会したという新鮮さが失われた頃に錆兎の目が覚めてしまい、彼の優しさの上で八歳も歳上の男に惰性で付き合わせてしまうなんてことの方が、義勇からすればよっぽど恐ろしかった。
 錆兎は義勇の存在が負担になったとしても、それでも何も言わずに側にいてくれるだろうことが、手に取るように分かるからである。
 せめて記憶に残りやすい初めてくらいは、気の合う同年代の子と。
 そうすれば、いずれ歳を重ねた錆兎が後悔することもないかも知れない──などと、義勇は考えただけで少し泣きそうになってしまい、未熟者と自分を罵った。
 ──その一方で、義勇の複雑な葛藤など知らず、抱く直前になって拒まれてしまった錆兎はその場で固まっていた。
 幼い頃から、錆兎にはぼんやりと好きな人がいた。
 それが具体的にどんな人なのかは思い出せないが、頻繁にその人を看取った日のことを夢に見る。
 亡くなる直前はひどく痩せて、食べ物をふやかしてほぐしてやっても中々喉を通らない様子であり、吸飲みから水を飲むのもやっと。
 外へ出るのはおろか、支えがないと身体を起こせない日も増えていく。
 それでも、自分が側にいると嬉しそうに笑ってくれる、儚くて美しい、仕草や表情が愛らしい人であった。
 錆兎は目が覚めるととてつもなく悲しい気持ちになって、名前も知らない、顔も霧がかかったようにハッキリと思い出せない想い人に会いたくて仕方がなかった。
 実在するのかも分からないその人に、会って、もう一度好きだと、この世で一番愛していると言いたかったのだ。
 そして小学校を卒業し、中学生となる直前の春休み。
 義勇に出会った。
 師範の都合で、たまたま道場が暫く休みになった日であった。風が強く、せっかく咲いた桜が散っていくのを惜しみながら、退屈しのぎに少し遠くまで散歩に出掛けた日のこと。
 川沿いの桜並木の中。時計を気にしつつ、慌ただしく駅の方まで走って行く青年とすれ違った。
 黒い癖っ毛に、目を引くほどやたらと整った容姿が一瞬、ほんの一瞬視界に入って、錆兎はその一瞬で彼こそが己が夢の中で愛してやまなかったあの人だと確信すると同時に、断片的にだが前世の記憶を思い出すに至った。
 ──義勇。懐かしい、愛した人の名前を呼ぶことも出来ずに、錆兎は呆然とその場から走り去って行く背中を見つめて立ち尽くしたのだ。
 それから春休みの間、自転車を漕いで彼が向かった駅の近くで探したりもした。
 出会ったあの時、義勇が徒歩であったことからこの近辺に住んでいるか、もしくは周辺施設に通っているかのどちらかだろうと推測したのである。
 そしてその推理はどうやら合っていたようであり、二度目の再会は思いのほか早かった。
 数日後、駅から出て来た背中を見つけて、錆兎は満を持して「義勇」と声を掛けたのだ。
 人違いですよと首を傾げられたら、その時はその時だろうと覚悟をしながら。
 呼びかけられ、ゆっくりとこちらを向いたのはやはり義勇そのもので、健康そうな肌艶と瞳、なにより晩年は寝たきりになっていた彼が自分で立って歩いているということにすら、錆兎は感動してしまう。
 おそらく大学生くらいであろう義勇との歳の差など、錆兎はこの時、一ミリも頭になかったのだ。
 買い物帰りであった義勇は、なんだか聞き馴染みのある懐かしい声色に呼び止められて足を止める。
 振り返った視線の先にいたのは、淡い宍色の髪をした、なんとも可愛らしい少年であった。
 姉の子で、当時は産まれたばかりであった双子の姪っ子たち以外に子供の知り合いなどいないのに、どうしてか少年を知っている。
 その、初めて見る彼の顔つきや瞳の色を、義勇はずっと昔から恋い焦がれていた気がするのだ。
 ──幼い頃から夢に出て来た優しい人。
 最期まで手を握ってくれて、必ず見つけて会いに行くから、先に行って待っててくれと誓ってくれた人。
「……錆兎?」
 目を見開いた義勇に名前を呼ばれ、錆兎が嬉しくなって駆け寄ろうとするよりも早く。
 こちらに向かって走って来た義勇に、押し倒される勢いで抱き着かれ、中学生になるかどうかの幼い錆兎は一度よろめいたが、立派な成人男性をなんとか踏ん張って抱き止めた。
 熱烈な歓迎に錆兎は少したじたじとなったが、義勇が耳元で「さびと、さびと」と呼びながら泣きじゃくっているものだから。
 錆兎は何も言えなくなり、人通りの多い駅前でジロジロと道行く人々に見られながらも、義勇が泣き止むまで錆兎は柔らかい癖っ毛を撫でていた。
 そして互いが思い出せた範囲の昔話を共有し、再会した後もゆっくりと距離を縮める日々。
 だが、魅力的な好青年となった義勇には、もしかしたら既に女性の恋人がいるかも知れないと錆兎は考え、変わらず義勇に抱いている恋心を中々打ち解けられずにいた。
 幼さに甘んじて、大人の義勇を困らせることも、迷惑を掛けることもしたくない。ましてや義勇の口から他に愛している人がいると伝えられることが、錆兎には耐えられなかった。
 そんな不安を抱えたままのある日のこと。切なげな顔をした義勇に、昔と同じ気持ちにならなくて良いから、恋仲でなくてもいいから、これからもたまに会い、こうして話をして欲しいと──小さな声で言われた瞬間。
 慌てて、オレはずっと義勇だけが好きだと、錆兎は口走ってしまったのである。
 もっと、ちゃんと改めて、せめてもう少し背が伸びて男らしくなってから告白するつもりであったのに。
 だが、そんな見栄よりも義勇の苦しげな顔を見たくない一心で、自分でも思いもよらぬ言葉が飛び出したことに中学生であった錆兎は耳まで顔を赤くさせたが、視線は真っ直ぐと義勇に向けられていた。
 告白を受けた義勇はキョトンとして、何かを言うでもなく錆兎と見つめ合う。
 返事を待つ、緊張の瞬間。
 しかし、義勇は──錆兎から、顔を逸らすように俯かせた。
 その仕草から、見事に振られたのだろうと理解し、錆兎は肩を落とす。
 仕方が、ない。義勇から見れば、どれだけ頑張って大人振ろうとしても、今の己はやはり子供なのだ。背の高い義勇のことを見上げることしか出来ず、この前一緒に行った水族館でも、自分だけが子供料金なのが気に食わなかった。オマケに財布を出すことを一切許してくれない義勇が錆兎の入館料まで代わりに支払った時には、顔には出さずとも一週間は落ち込んだ程である。
 錆兎からすると、その日はデートのつもりであったのだ。
 隊士であった頃は一緒に出掛けると言っても、緊急の伝令に備えて東京から出ることは殆どなかった。だから、当時にはなかった施設や、少し離れたところを義勇と一緒に行くのが夢であったのだ。
 その第一歩として、水族館に行こうと、勇気を出して誘った結果が上記の通りであったので、どうして自分だけこんなに生まれるのが遅れたのかと悔しくてしょうがなかった。
 だから、こんなにも小さな子供の自分が、義勇に振られるのも分かる。
 けれど、だからと言って納得しているわけではない。
 いっそ開き直った錆兎が顔を上げ、大きな声で「オレは諦めないから」とハッキリ宣言する。一日でも早く大人になって、義勇と対等になり、そしてまた何度でも思いを伝えるのだと覚悟を決めながら。
 すると、錆兎の手になにかが触れた。
 視線を送ると、決戦の時に失い、だが今はしっかりと動く義勇の右手が、錆兎の手を握っていたのだ。
「……俺も錆兎だけが好きだ」
 義勇は俯き、顔を上げなかった。けれど声が震えており、彼がどんな顔をしているのかが、錆兎には分かる。
 手を握り返すと、再会した日のように義勇を抱き締めて、大人の彼の頭を撫でた。
 泣いて欲しくなかった。義勇の笑顔が見たくて、こうして錆兎はまた義勇に会いに来たのだから。
 そうしてめでたく現世でも相思相愛であることが発覚し、あの水族館に出掛けた日のことも、義勇も錆兎と同じく、ちゃんとデートとして認識してくれていたことが後に分かったのである。
 義勇曰く、家庭教師のバイトもこなして収入もある大学生の自分が、中学生に小遣いから出させるのは良心が許さなかったとのことで、別に子供だからと思って出させなかったわけじゃないとアレやコレやと説明を受けたりもした。
 義勇の考えは、ごもっともだ。逆に義勇の方が幼く、自分が大人の立場であれば当然ながら幼い義勇に小遣いから出させるのは避けていたであろう。
 とは言え、だ。それではいつまで経っても、夢にまで見る対等な関係にはなれない。
 錆兎は熱弁した。あれは名目上は小遣いとなっているが、実際は休日に道場の清掃をしたり備品の片付けをして師範から貰っているものなのだから、れっきとした収入なのだと。己が子供なのは認めるが、頼むから出来るだけ一人の男として見て欲しいとも。
 自分も、それに見合う立派な伴侶となってみせるから──等々、もはや恋人の段階をすっ飛ばし、婚姻関係も視野に入れた錆兎の熱い思いを受け、勢いに圧倒されてしまった義勇は静かに頷くしかなかった。
 それからは、一緒に過ごす時間も以前より増えた。交際費もなるべく互いの財布から出し合うことになったが、昼食代などはやはり義勇が錆兎の見ていない隙に決済していることも多く、だが子供扱いを受けているのではないと分かった今は自分が稼げるようになったら、その分義勇に良い思い出を贈るのだと思うことで、変に落ち込むこともなくなった。
 そして本来は甘えたで弟気質な義勇が、それとなく錆兎の前ではお兄さん振ろうとしているのだろうなと感じる瞬間が、所々で垣間見えたのだ。
 義勇は錆兎を子供扱いしたいのではなく、義勇本人がそういう振る舞いをしたがっているのではないかと、そこで理解した。
 甘えていいぞ、だの。勉強を教えてやろうか、だの。して欲しいことはないか、困ってないか、何でもしてやるぞ、だの。顔を覗き込んで聞いてくる義勇の目は、錆兎に頼られたいという期待でキラキラすらしていた。
 そしてそれが不服で面倒かと言えば、案外そうでもない。
 控えめな彼が不器用なりに尽くそうとしてくれているのは迷惑ではなく、義勇の小さな気遣いですら可愛いとも。
 相思相愛だと分かった以上、そう思えるくらいには、錆兎にも余裕が生まれたのだ。
 錆兎は変わらず、天然でどこか抜けている義勇が愛しくてたまらなかった。手探りでありつつも、順調に恋人らしい日常を取り戻し、平和に過ごしていた。
 ただ、義勇が錆兎に、ある日恥じらいながら言ったのである。
 ──触れるだけで良いから、キスがしたい──と。
 錆兎は悩んだ。本音はそんなもの、キスがしたくて当たり前である。義勇の小さくて柔らかな唇や、薄くて熱い舌を吸った時の反応も、そのどれもが心の底から恋しかった。
 だが錆兎は散々唸った後、ハッキリと今は駄目だと言い放ったのだ。
 自分たちに古い縁があるとは言っても、他人から見れば中学生と大学生でしかなく、一般常識に照らし合わせると頭を抱える事案であるだろうし、たとえ同意の上であろうと何かあった時に周囲から責められるのは確実に義勇の方であると錆兎は理解していた。
 それにキスを許してしまった時点で、義勇を相手に錆兎はそこで踏みとどまれる自信がない。
 絶対に、なし崩しで手を出してしまう。そして義勇も、自分が相手なら間違いなくそれ以上を許してくれるだろう。
 だから、錆兎は自分で自分の責任を取れるまで、義勇がどれだけ錆兎を恋しがろうと、せめて己が高校を卒業するくらいまでは恋人らしい触れ合いはしないと宣言したのだ。
 義勇はこの宣言に対し、錆兎が自分とのことを真剣に考えてくれているからこその発言であると正しく理解して、存外素直に従った。その後は手探りで「これくらいなら引っ付いて良いか?」と錆兎にどうしても引っ付きたがる様子は、正直なところとてつもなく男心を擽るものであったが。
 錆兎とて、辛抱たまらなかったのだ。
 当然ながら近くにいれば肌を重ねたいとも思うし、触れて、キスをして、義勇の敏感な場所を余すことなく可愛がってやりたかった。
 透き通る水のように美しいのに、どこか隙のある義勇に妙な色気を感じて悶々としそうになる度に錆兎は自分の顔を叩き、己を律するため、走り込みや腹筋、腕立て伏せから素振りをすることで内側で湧き立つ煩悩を強引に打ち消していく。
 全ては、愛する義勇との未来を守るため。
 恋人がどれだけ美しかろうと、良い匂いがしようと。薄着で無自覚に迫って来ようと、可愛かろうと魅力があろうと、色ボケなど言語道断。
 学生の本文とは勉学に励むことであり、若くして基本中の基本を忘れて歳上の恋人に現を抜かして性欲に脳みそが支配されているようでは、男として未熟である。
 否、そんなものは、男ではない。
 生まれ変わろうと、相変わらず変な拘りと妙に頑固なところを持ち合わせる錆兎であったが、そんな変わらぬ恋人を前に義勇と言えば呆れるどころか惚れ惚れとして──錆兎はやっぱり世界で一番かっこいいな、と無邪気に笑って見せた。
 その可憐な笑顔にすら思春期真っ只中の繊細な心はグラグラし、その日も錆兎は無我夢中で腕立て伏せだの走り込みだのを行うに至ったのたが。
 しかし、義勇の言う〝かっこいい〟にいつまでも安心してはいられない。
 相思相愛でも歳下としての焦りは、当然残ったままだ。
 義勇はあの頃と変わらず、容姿端麗であった。それは待ち合わせ場所に座っているだけで、周囲の女性たちが一度は振り返るほどに。
 時には実際に声を掛けられ、芸能プロダクションを名乗る者には引き止められ、断れずに貰って帰って来た名刺だの連絡先だのを捨てている義勇を眺める錆兎は、自分が呑気に制服を着ている間にも、第三者が彼を横から攫ってしまうのではないかなど、そんな不安が尽きない日はなかった。
 常識人ぶってないで早く手を出した方がいいのでは、義勇も良いと言っているのだし、誰にも言わなかったらバレないだろうと囁く邪な考えに何度も揺らぎはしたものの、錆兎は義勇を守るためにも多くの苦悩と誘惑を乗り越え、高校の卒業式を迎える今日まで。
 二人は清く正しい、プラトニックな関係を築いてきたのである。
 錆兎は、卒業したら、卒業したらと歯を食いしばって己を鼓舞した。
 泊まりに来た錆兎と同じベッドで寝たがる義勇を拒めず、変わらない寝相の悪さから抱き枕よろしく抱き着かれ、悪気なく朝まで足を絡めて密着された際には錆兎はかつての全集中の呼吸・常中を再び会得する勢いで深呼吸を繰り返して耐えてきた。
 それなのに。
 念願叶って、という日に義勇から「初めては違う人と」などと言われた時の錆兎の衝撃は、心中察するに余りある。
「……なんでそんなことを言う」
 愛する人の言葉に、至ってシンプルな問いしか出来ず、錆兎の動揺が窺えた。
 確かに、ここ暫くは義勇の様子がおかしかったのだ。
 一緒にいたそうなのに我慢しようとしたり、出掛けようと言っても浮かない顔をしたり、錆兎が好きだと伝えると妙に泣きそうな顔をしたりと。
 その度にどうかしたのかと聞くが、決まって義勇は首を横に振る。
 受験を前に、一年近く連絡が取れない日々も続いた。
 けれど義勇は試験などに関しては以前から協力的で、勉強を教えてくれることすらあり、そもそもそのようなことで機嫌を損ねる幼稚な男でないのも錆兎は知っている。
 だからこそ、分からなかった。
 もしやこのタイミングで振られるのだろうかだの、心配していた通りに自分が学生生活を送っている間、どこの馬の骨か分からない奴に心変わりしたのだろうかだの、一瞬にして良くない想像が頭を駆け巡る。
 思ったよりも低い声で理由を聞いてくる錆兎に、義勇は少し緊張しながらやはり目を逸らした。
「……う、上手く言えなくて……その、今の俺とお前はやっぱり歳が離れているし、いまさら、なんだが」
「百も承知だ。たとえ八歳離れていようと十歳離れていようと、二十離れていようと五十でも六十でも、相手が義勇ならオレには全て些細でどうでもいいことだ」
「六十は流石に……」
 畳み掛けるような勢いで話す錆兎に安堵すれば良いのか、その自信も若さが生む勘違いだと冷静に判断すれば良いのか、義勇は徐々に分からなくなる。
 錆兎が自分を思ってくれていることは分かりきっているのに、それを疑う余地など、どこにもないのに。
 結局、義勇が不安で仕方がないのは、前世の自分と今の自分を比べられることにあった。
 大きくなるにつれて視野も広くなり、もっと多くの人と出会うことになるであろう錆兎に、ガッカリされることが怖かったのである。
 ついには黙り込んでしまった義勇に、錆兎は背中の汗が止まらない。
 後悔などという情けない言葉が、この世で一番嫌いだった。だけれども、やはり中学生の時にでも手を出しておくべきだったやも知れんと、錆兎はそんなことまで考えてしまう。
 今、自分たちが生きている世界は、あの夜に呑まれた閉鎖的な戦場ではない。
 実際、錆兎と再会する数日前まで留学していたという多言語話者の義勇は、今や日本すら飛び出してどこにでも行ける、誰よりも自由な人だった。
 そんな義勇がいつまでも自分だけを想ってくれるなど、どうして思っていたのだろう。
 前世の自分たちは、綺麗に噛み合った歯車のようだった。鬼に家族を殺され天涯孤独、同じ年で同門の仲──と、共通点も多かった。
 互いに恋心を認識するようになったのも殆ど同時期で、全てのタイミングが上手い具合に重なり合っていた。
 それを一般的に運命だのなんだのと、言うのかも知れないが。
 しかし、今は何もかもが違う。
 あるのは、過去に愛し合っていたという、なんとも曖昧な繋がりのみ。
 それでも、錆兎は義勇を手放したくなかった。
 義勇を亡くしてから過ごした年数の方が多くなっても、心配した周囲から見合いの話を持ちかけられても、どんな女性に思いを告げられようと。
 食事も摂れなくなり、そろそろとなった義勇が、良い人がいたらどうか一緒になって欲しい、家庭を築いて、父親になって欲しい、お前はきっと良い父になるからと自分を思って言ってくれた言葉に錆兎は最期まで頷けなかった。
 老いてもなお、義勇のことだけを一途に愛していたからだ。
 周りに誰がいたとしても、寂しさはなくとも、義勇がいなくなった後の喪失感は、義勇でないと埋められなかった。
 当時の日本は目まぐるしく忙しなかったが、そんな日々でも一緒に過ごして、共に歳を重ねたかったと心から思っていた。
 錆兎は言うことも決まっていないのに、何かを伝えねばと慌てて口を開こうとする。
 だがそれよりも早く、義勇の口の方が先に開いた。
「……今の俺は、未熟者だ。歳も、錆兎が二十歳になる頃には三十前だし……若くて未来のある錆兎に、ふさわしくない……から……」
 なぜか、泣きそうになりながら発せられた一言。
 もっと、他に好きな人が出来ただの、やはり恋人として見られないだの、重たい胸の内を聞かされるとばかりに身構えていた錆兎は、聞き間違えかとも思い、「え?」と聞き返す。
「俺は、もう……刀も振れないし……昔のようにも戦えない……ちょっと走っても息切れする軟弱者で……」
 けれど、義勇のトンチンカンな独白は止まらない。
 再会して五年、六年は経とうとしているのに、もしや本気で今頃、年齢差の話をしているのかとも思ったが、どうやらそれも違うらしい。
 錆兎は義勇が言っていることを脳内で整理してはみるものの、それでなぜ己が拒絶されるに至ったのかが、いまいち理解が出来なかった。
 そもそも、相応しい、相応しくないという義勇が設けた基準から、よく分からない。どの物差しで、何を測っているのかが見えて来ないのだ。
「……あの、ちょっと待ってくれ。すまん、言いたいことが見えてこない。あのな、戦えないって、そりゃあそうだろ? 今もバリバリ現役だったら怖いだろ。というか鬼もいないのにお前は一体何と戦うつもりでいるんだ」
「錆兎は昔と同じくムキムキなのに」
「いやこれは……その」
 お前に欲情する度に誘惑に打ち勝つため、走り込みや過酷なトレーニングをひたすら繰り返していたらこうなったとは流石に格好が付かず、錆兎は口籠る。
 義勇も分からなかった。この感情を何から言えば一体、伝わるのかと。
 そうしてやはり辿り着くのは、錆兎が真に愛したであろう、あの頃の自分にはもうなれないという、ただその一点だった。
 今を生きる自分は、同じ容姿と微かな記憶を持つだけの、なんでもない、ただの人だったから。
 錆兎と共にいる時間が増え、彼があの頃から何も変わらないままの、正義感の強い、真面目で硬派な、優しく勇敢な錆兎のままであるのが愛しいと同時に、何もかもが変わってしまった気がする自分は相応しくないのではないかと、そう思うことが増えたことが発端だった。
 今から武術でも習ってみるか、なんて過去の自分に縋って馬鹿げたことを考える滑稽さ。ジムに通ってやっと平均的な体重に近づき、それでもまだ薄さの目立つ身体でなにを学ぶというのか。
 もっと出会うのが早ければ、同じ歳だったら、もっと、そうしたら。錆兎の隣にいても、恥じない自分でいれたのかも知れないなどと思ってしまう。
 刀を持たなくてもいい平和な今を、どう胸を張って生きればいいのかが、義勇には分からない。かつての自分や、錆兎が、あの頃の仲間たちが血を流し、命を落とし、死に物狂いで勝ち取った素晴らしく平和な今に見合う生き方が出来ていないような気がして、苦しかった。
「……今の俺なんか、ただのなんでもない、使命も覚悟も背負っていない、魚の餌やりと散歩が趣味の一般人だ……」
 情けなくて、たまらない。
 ぐす、と鼻を啜る義勇の言葉聞いた錆兎は、目が点となる。
「……それがいいんだろ」
「……は?」
「お前が使命も覚悟も背負っていない、魚の餌やりと散歩が趣味の一般人だったらなって、あの頃のオレはずっと、ずっと思ってた」
 錆兎は──争いなど本来誰よりも好まないであろう、穏やかで美しいこの人が戦場などとは程遠い、優しい世界で平凡に暮らしていてくれたらと。
 義勇の鬼狩りとしての決意を知った上でもなお、何度思ったことだろう。
 決戦を終えた後、痣が出たことを錆兎に言い出せず、暫く隠していた義勇に聞かされたあの夜から、ずっと別れを覚悟していた。
 いつその日が来ても良いように、錆兎は義勇を色んな場所に連れて行って、鬼のいない夜道を刀も持たずに二人で散歩したりもした。
 思い残すことなど一つもないように、毎日のように想いを伝えて。
 それでもやっぱり、義勇を亡くすということは、想像を絶する喪失感に見舞われた。
 ただ平凡な日常を生きてくれたら、それで良かったと錆兎は何度も思った。
 次、もしも義勇が生まれ変わるなら。
 彼が好きな読書と、将棋を目一杯嗜んで欲しかった。すれ違った当時の旧制高校生がドイツ語を交えた若者言葉を話しているのを見かけ、ああいう他国の言語を自分も学んでみたかったと何となく言った義勇の些細な夢が、全部叶えばいいと思った。
 ただの、なんでもない日常に平凡な義勇がいる、その夢を何度も見た。
「……而立を迎える前に、綺麗なまま死ぬ義勇なんか二度と見たくない。歳の差が気になるんなら、爺さんになるまでずっと一緒にいたらいい。二人して白髪まみれのしわくちゃの爺さんになったら、八歳差なんかあってないようなもんだろう。若さなんか、一瞬で終わるんだ。歳を喰った後の方が、人生ってのは嫌ってほど長いのに」
 義勇は何も知らない。
 錆兎がどんな思いで、義勇のいない人生を歩んだのかも。
 この、なんでもない平凡な義勇に会えたことが、どんなに嬉しいのかも。
「いやだ、義勇。どんな形でもいい、オレと一緒になってくれ。自分は相応しくないだとか、別の誰かのところに行けなんて、頼むからお前がオレにそんなことを言わないでくれ」
 初めて女子に告白をされた時も。どんな子が好みかと、道場の先輩に聞かれた時も。もしかして好きな子いるんだろと、茶化された時も。ごめん、付き合ってる人がいるからと、しっかり言葉にして告白を断るようになり、噂になった高校生の時も。
 錆兎は、今の義勇しか見ていなかった。
 過去ではない。
 今、目の前で、目を細めて柔らかく笑う義勇に恋をしていたから。
 英語の基本的な文法ですら四苦八苦する錆兎に、分かりやすく教え、いつまでも勉強に付き合ってくれる姿も。高校生の頃から留学などを経験し、今も国内外問わず一人旅行にふらっと出掛けて土産を渡してくる自由さを。同じ顔をした双子の姪っ子に、どっちと結婚するのかと問い詰められて困っているところも。その幼い姪っ子たちを喜ばせるためだけに、早起きも寒いのも苦手な彼が、人気のスイーツ店に真冬の早朝から男一人で並ぶ愛情深さも。仕事で疲れているだろうに、毎週金曜日の夜には欠かさず連絡をしてくれるところも。その一言目が、勉強中じゃなかったか、迷惑じゃなかったかとこちらを気遣ってばかりなところも。待ち合わせ場所で自分を見つけると、嬉しそうな笑みを浮かべて小走りで駆け寄って来るところも。俺はお兄さんだから、と言ってなにかと世話をして来ようとするのに、結局上手く出来なくてむくれるところも。街中で見かける動物全てを寛三郎に似ていると言い出すところも、几帳面なように見えて思ったよりもいい加減なところも、寝相が悪く、しょっちゅうベッドから転がり落ちているところも。
 可愛いところも、繊細なところも、綺麗なところも、駄目なところも、その全てをひっくるめて、言葉にしても足りないほどに惚れていたのだ。
 他の誰でもない、今の義勇だけが欲しいと──痛いほどに錆兎に抱き締められながら改めて告白をされた義勇は、初めて聞く錆兎の思いを前に驚きや申し訳なさから、すっかり滲んでいた涙も渇いていた。
 離してくれそうにない、錆兎の大きく育った背中に腕を回して、宥めるようにその背を撫でる。
「……ごめん」
 まさか錆兎が、こんなに若い内からそんな老後のことまで視野に入れて自分と向き合ってくれていたとは。
 義勇は断片的な前世の記憶があるとは言っても、所詮は二十代半ばという若さで息を引き取ったということもあり、錆兎はおろか、自分が年寄りになった時のことなど一ミリも考えていなかった。
 けれど錆兎の口から、「爺さんになるまでずっと一緒にいたらいい」と言われ、それはある種、未来を約束されてしまったようなものではないかと。
 あれだけ歳の差がどうだの、俺は錆兎に相応しくないだのと喚いて錆兎にこんなことまで言わせておきながら、虫の良い話だとは思うのだが。
 少し、否。かなり嬉しく思ってしまうのも、事実である。
「……義勇はどうしたら安心する? やはり先に籍だけでも入れた方が」
「も、もういい。そこまでのことを別に望んでは……」
「望んでくれないのか。なぜだ、そんなに今のオレには甲斐性がないか?」
「の、の、望んではいる。甲斐性もある。いや、そうではなくて、こう言うことはちゃんと段取りが……お義父さんにも挨拶を……」
 錆兎らしくないと思えるほど急な提案に戸惑いつつ、義勇はしどろもどろになる。
 前世はともかく、今世において思いをひたすらぶつけていたのは、どちらかと言えば義勇の方だ。錆兎はそんな義勇のストッパーのような役目を担っており、その子供とは思えない相変わらずの包容力と落ち着いた雰囲気に、義勇は甘えてすらいた。
 好きだと何度も言う義勇に、分かったからと前世では中々見たことのなかった少し照れたような表情をする幼い錆兎が、新鮮で可愛かった。
 キスなどの触れ合いが禁じられていたので、せめて好意くらいは最大限に伝えておきたかったのも事実だが、小さくて可愛い錆兎を構い倒したかった気持ちも大きかったのだ。
 だが、あんなに小さかった錆兎も、気付けば立派な青年である。隣にずっといたこともあり、日々の変化には中々気づけないでいたが。
 高校生になった頃には、あっという間に抜かされていた背丈。手も大きく骨ばって、筋っぽかった少年らしい軽やかさのある身体も、重みのある筋肉質なものとなっていた。
 義勇が好きだと言うと、照れよりも嬉しさを滲ませるようになり、目を細めて柔らかくはにかむ、あの見慣れた大好きな笑顔で「オレも好きだ」と言ってくれるようにもなった。
 義勇は錆兎の背を撫でながら、しみじみと口を開く。
「……錆兎も大人になっていたのに、俺が気付いていなかったんだな」
 ぬいぐるみのように膝に座らせると、ムッと拗ねていた中学生の頃の錆兎。
 すぐに降りれば良いのに、義勇が機嫌良く錆兎に後ろから引っ付いていると、少しの間だけ唇を尖らせつつ我慢してくれていた。
 子供扱いをするな、オレは義勇の恋人なんだぞ、籍だって入れるんだ分かっているのか、とご立腹な錆兎はそれはもう愛らしくてたまらなかったわけだが。
 あれから六年。これほどまで身体が大きくなったとは言え、高校を卒業したばかりという肩書きは義勇から見ればまだまだ若く、子供と言っても差し支えない。
 それでも錆兎の恵まれた体躯や変化を前にすると、感慨深くもなる。
「……ああ、そうだ」
 錆兎は義勇の言葉に顔を上げた。
 密着した状態で、錆兎の凛々しい顔がすぐそこにある。
「早くそうなって、義勇に触れたかった」
 そう、低くも柔らかな声で告げ、錆兎は義勇の頬を撫でると同時に唇を重ねた。
 前触れもなく突然初めてのキスをされた義勇が目を白黒させている間にも、角度を変えて再び啄むような口付けが繰り返されており、息の仕方ですら思い出せなくなってしまう。
 そうこうしていると唇に錆兎の舌が這って、口を開けろと言われているのを義勇は察した。躊躇をしたがそれも一瞬のことで、すぐに言われるがまま恐る恐る薄く口を開き、口腔を犯されることを自ら許してしまう。
 小さな口は錆兎の厚い舌で満たされ、舌を吸われ、上顎を擽られると義勇の目が溶けていった。
 静かなマンションの寝室で、二人の鼻息と唾液が絡まる音がする。
 最初こそされるがままであった義勇も、自ら舌を差し出して、錆兎の背しがみつく手にも力が篭もった。
「……義勇」
 肩を上下させながら酸素を取り込み、唇が離れても顔を蕩けさせたままの義勇を、錆兎が愛おしそうに見下ろして、名前を呼んだ。
「オレはお前の老いですら愛しいよ」
 濡れた口元を指で拭われ、ただそれだけのことでもピクッと義勇の身体は反応する。
「義勇を抱きたい」
 いいか、とも聞かれなかった。
 ただ、そう告げられるのみ。
 きっと最初から、選択肢などなかったのかも知れないと義勇は悟った。
 自分は身体も心も、この若い雄のものになることを本能で望んでいる。
 今度は、義勇の方から手を伸ばして錆兎にキスをした。意外な行動に錆兎は何度か瞬きをしたが、義勇なりの答えの出し方に目を細めて、再び舌を絡ませながら二度と離さないとでも言う風に、愛しい人の身体を更に強く抱き締めた。

 ◇

 錆兎がいつの間にか脱ぎ捨てた制服のブレザーがベッドから落ちる音がして、ふと義勇は我に返る。
 前が開いたワイシャツとスラックスのみとなった錆兎に対し、義勇はいつの間にか殆ど何も身につけていない状態となっていた。
 間接照明だけが灯った寝室。
 義勇の意思とは関係なく後孔がキュッと窄まり、その度に咥え込んでいる錆兎の指の形を認識しては顔が熱くなる。指を動かされるたびに中に注がれたローションが下品な音を立てて、恥じらいから腕で顔を覆った。
「痛くないか?」
 嫌になるほど丁寧な愛撫をする錆兎を安心させてやりたいのに、義勇は口呼吸を繰り返して快楽を逃がそうとするのに必死で頷くことしか出来ない。
 手前の方の、性器の裏側にあたる箇所を指の腹で揉み込むように刺激されると勝手に声が出て、錆兎の指を「もっと」とねだるように締め付けてしまうのがやめられなかった。
 もう、錆兎の太い指を三本は呑み込んでいる。すると中で指が広げられ、蕩けた中の粘膜を凝視されているのが分かった。
 発情しきったそこを、錆兎が頃合いかどうかを窺っている視線。
 早く欲しいと言いたくて、けれどはしたないと思われるのも嫌で、義勇は口を閉ざす。この身体で錆兎を受け入れるのは初めてなのに、ペニスを挿れられた時の圧迫感も知らない筈なのに、義勇の後孔はそれを待ち望んでいた。
 自分がひどく淫らで浅ましく、汚い生き物のように感じる。
 今だって、刺激もされていないのに。
 ただ、錆兎の視線が注がれているだけなのに。
「あ、いく、ぃ、くッ……っん、う、ぁ」
 己のことを軽蔑すらしながら、勝手に腰を仰け反らせて達してしまう。
 まだ前戯の段階だったが、義勇は何度も気をやってしまっていた。最初の方に申し訳程度に触れられた義勇のペニスも、後孔を慣らし始めてからは一度も触れられていなかったが、今も押し出されたようにカウパーと精液が混ざったような薄い体液を情けなく垂れ流し続けている状態。
 甘イきを繰り返す義勇の広げられた後孔が、ひく、ひく、と欲しがるように動く光景を前に、錆兎は生唾を飲む。
 僅かに腰が揺れているのも、達する時に足先が丸められるのも。今やその全てが扇情的である。
 錆兎としては今にも義勇を貪りたいほど興奮していたのだが、けれども今世においては初めてである彼に無理をさせたくない一心で、なんとか自分の欲望を後回しにし、頑ななそこを慣らそうと努めていた。
 指を抜くと中の異物感がなくなった後孔は物足りないのか、それとも達した余韻なのか僅かに閉じきっていない。準備が整っているとでも言いたげに、中の媚肉が動き、濁ったローションがその隙間からゆっくり垂れてくるのを前にして、錆兎は鼻から深く息を吐いてから漸く自分のベルトに手を掛ける。
 金具の音が聞こえた義勇は腕を少し退かせると、錆兎がスラックスの前を開いている途中であった。タイトなボクサーパンツ越しの大きな膨らみが見え、義勇は目が離せない。
「……なぁ、義勇」
 義勇の開いた足の間で中途半端にスラックスを下ろすや否や、下着に指を引っ掛けたままの錆兎が甘えるように恋人を呼ぶ。
 その間に下着が下ろされ、若さゆえに臍につくほど勃起したペニスが露わとなり、義勇は下腹部が熱くなるのを感じた。
「中、挿れさせて」
 恵まれた体格相応のそれは朧気な記憶にあった通り、相変わらずの大きさで目を見張る。
 くっきりと太い裏筋が浮き立つ幹の部分には血管が走り、鰓張りの大きな赤みの強い亀頭部分は先走りで濡れ、まるで獲物を前に待てをさせられている獣の唾液を彷彿とさせた。
 その猛々しい見た目はいっそ暴力的で、義勇は顔を引き攣らせてしまう。
 しかしその不安に反して指で可愛がられ続けた後孔は期待すらしており、唇から漏れる吐息は熱くて仕方がない。
 自身の指でも届く手前の前立腺ではなく、雄に犯されないと得られない深い快楽が奥の方にあるのを、錆兎に愛された義勇の記憶は知っている。
 あんなのを挿れられたら腹が壊れるんじゃあないのかと思いつつも、義勇は力の入らない腕でなんとか身体を起こし、膝立ちの錆兎と向き合った。
「……ゴムはこれか?」
 ちゃんと買って来た、と話していた錆兎がサイドテーブルに置いたと思しき箱を手に取ると、ラベルにはデカデカと【ポリウレタン製・極薄素肌感】と表記されており、見た目はどれだけ大きくなろうと錆兎からどうしても滲み出る不意の若さがたまらず、義勇はその場で悶絶しそうになる。
 昔もこう言った避妊具自体はあったが、品質は当然良くもなく、着けてすることの方が稀だった。
 今でこそ、男性同士で避妊は必要がなくとも衛生面などを考慮してコンドームを着けた方がいいという意識が根付いているが、あの頃はそう言った認識は希薄で、錆兎と義勇ですら深く考えたこともなかったのだ。
 だが、真面目な錆兎が現代における一般常識を持ち合わせた上で、自らコンドームを吟味し、様々な種類がある中からなるべく素肌に近く、体温も伝わりやすい薄めのものが良いと選んで買って来たのかと思うと、どうしようもなく可愛い。
 学生の財布では都度買うのは厳しい値段であることを察して、今度からは自分が同じものを買って来てやろうと思いながら、義勇は箱を開けた。
 説明書の紙を捨て、中から個包装されたゴムが連なって出てくると、その内の一つを切り取って丁寧に封を開ける。
 錆兎は義勇の手元をジッと見ながら、良い子に座って待っていた。
「錆兎は自分で着けたことあるか?」
「……今日のために一人で練習した。から、自分でも出来る」
「……そうか、えらいな」
 可愛さにニヤニヤしてしまうと錆兎の機嫌を損ねそうであったので、義勇は黙々と精液溜りを摘んで裏表を確認し、コンドームを錆兎の亀頭に引っ掛けると、空気を抜きながらくるくると指で下ろして両手で着けてやった。
 義勇も、錆兎が着け方が分からないと言った時のためにスムーズに着けるコツを予習していたのだが、どうやら不要であったらしい。
 しかし、こうして世話を焼けることも中々ないので、今回のお節介は得をしたと思っておくことにする。
「義勇は、あるのか」
 要領が良いあまり、慣れたようにも見えた義勇の手元を気にして、錆兎がやや硬い口調で問う。
「あるわけないだろう、この歳で童貞だぞ。お前のために色々頭に入れただけだ」
 義勇があっけらかんと言うと、錆兎はなんとも言えない顔をした。
 その表情は安心したような、嬉しいような申し訳なさそうなもので、いっそ素直である。
 性行為どころか、お陰で交際経験すら乏しい。
 他の誰かとの話は錆兎も聞きたくないだろうと、今まで一度もそういう話はしたことはないのだが。
「……錆兎が全部、俺の初めてだ」
 義勇は言って、錆兎にキスをすると太く逞しい首に腕を回す。
 そのままゆっくり後ろに体重を掛けると察した錆兎が義勇の後頭部に手を添えて押し倒し、義勇は足を絡ませると続きを促した。
「おいで、錆兎」
 抱き寄せた錆兎の耳元で婀娜っぽく囁いて、わざと煽るように耳の縁にキスをする。
 最後までちゃんと受け入れることが出来るかどうかの不安もあるが、それよりも愛しい錆兎の手で隅々まで可愛がられたかった。
 今の自分を愛していると言ってくれた目の前の錆兎に、与えられるものは全て捧げたいと義勇は思う。
 一方で、義勇の誘いに錆兎は落ち着けと自分自身に言い聞かせつつ、どうにか己の茹った思考を冷静にするために歯を食いしばっていた。
 上体を起こすと、どこか苛立ったようにも見える表情で義勇を見下ろし、やや乱雑に身に纏っていたワイシャツを脱ぎ捨てる。
 抑えの効かないらしい雄の顔を前に、義勇は顔を目を細めた。
 髪を一度掻き上げた後、無言のまま手を伸ばした錆兎によって、白い肌の中心で淡くくすんだ後孔が再び左右に広げられる。
 前戯の途中に何度も注がれたローションは未だ渇いておらず、指の先を挿入しても粘膜が引き攣ることなく、女性器のように縁すら濡らしていた。
 それらを確認した錆兎は薄い膜を纏ったペニスの先を、義勇に押し当て、鼻から大きく息を吐く。
「……挿れるぞ」
 低い、声だった。
 義勇は耳まで顔を赤くさせ、小さな声で「はやく」と呟くと、幅の広いカリの部分がローションの滑りを借りて肉輪をえぐりながら、ぐぽっと音を立てて一気に挿入って来る。
 義勇の足の先が、ピンと張った。
 その後もゆっくりと腰が押し進められるが、錆兎の性器はカリだけでなく竿まで膨らみがあり、全体的に妙に太い。
 前立腺を押し上げられ、腸壁を余すことなくズリズリと擦られながら快楽や圧迫感を覚えはしたものの、不思議と痛みはなかった。
 それは錆兎が、本来ならば思い切り腰を振りたいだろうところを我慢をして、義勇の反応を見ながら徐々に大きさに慣らしながら挿れてくれているからだと察し、義勇は愛する人の気遣いを前に思わず中を締めてしまう。
「っあ……」
 きゅ、と不意に締め付けられたことにより、錆兎の掠れた声が漏れた。
 刺激に対して錆兎の腰の動きが止まったのを前に、彼が自分の中で感じているのだと改めて実感した義勇は、たまらない気持ちになってしまう。
 可愛いくて、優しい。そして誰よりもかっこいい恋人を、甘やかしたくてしょうがないとも。
 我慢出来ず、熱い吐息と共に義勇は錆兎の名前を呼んだ。
「……おく、奥に、挿れて。好きにしてくれて、大丈夫だから、さびと……たのむ」
 若い雄に媚を売るように、ねだるように。義勇の熟れた中が自ら、きゅうきゅうと断続的に締まる。
「腹が、熱いんだ」
 挿れられただけで軽く達してしまっていることも、錆兎にはバレないでいて欲しかった。
 こんな淫らな自分を、知られたくない。
 綺麗だと言ってくれる愛する人の前で、貪るように身体を使ってもらえることばかり考えてしまう、恥ずかしい自分を晒したくはないのに、自制の思考すらどんどん溶けていく。
 ずっと、こうされたかったのだ。カマトトぶろうと、なにも知らない風を装っても。
 身体を抑えつけられて、錆兎に中をグチャグチャにされながら、奥の気持ちいい所をいじめられて、大好きな彼の声で好きだと言われたかった。
「……錆兎の形にして」
 そうして義勇が言い終わるかどうかのところで、腰が思い切り打ち付けられる。
 突然、後孔から脳天まで一気に串刺しにされたかのような衝撃が走って、ふーふー、と錆兎の荒い鼻息だけが聞こえた。
 目の前がチカチカして、義勇の僅かながらに頭を擡げているペニスからは無色透明の体液が漏れた。義勇は自分が潮を吹いてしまったことにも気付いておらず、それでも身体はちゃんと快楽だけはしっかりと拾い上げている。
 細く薄い腰をゴツゴツとした大きな手で掴まれ、何も言わない錆兎がズルズルと長大なペニスを引き抜き、再び奥に叩きつけた。その律動を暫く繰り返していると、義勇の飛びかかった意識が徐々に戻っていく。
 獣の交尾のようだった。目の焦点があやふやになった義勇の口から「あ、ぅ」と甘ったるい嬌声が上がり始め、錆兎は渇いた唇を舐める。
「……可愛い、義勇……」
 恍惚とした錆兎の顔が近づき、どちらからともなく舌を絡めてキスをしながら、奥の、ちょうどペニスの先がぶつかる部分をトントンと突く。
 最初こそ違和感があったのか、義勇も自ら煽っておきながら顔を僅かに顰めていたものの、それもすぐに面輪が穏やかに溶けていった。
 同時に義勇の狭い媚肉がペニスを揉むように締まったのを感じて、ここが良いのだろうと錆兎は理解する。
 どうすればいいのかを、錆兎は本能で感じ取っていた。
 すると先程のように激しく突くのではなく、腰を出来る限り密着させて、ぐ、ぐ、とこじ開けるように短い間隔で刺激を与えてやると、錆兎の舌を夢中で吸っている義勇が自らも腰を振り始めた。
 体格に恵まれた錆兎が覆い被さると、義勇の身体はすっぽりとその下に隠れてしまう。それは、昔からそうだった。
 だが今は抑え込むと、義勇は身動きすら取れない。押し返す力もなくしがみつき、人形のようにされるがままになっているのが、哀れで可愛いと感じた。
 上からやや体重を掛けて、義勇を腕の中に完全に閉じ込め、腰すら逃さない。
 愛する人を、誰よりも綺麗な彼を、ずっと恋い焦がれた義勇を好き勝手に犯しているような錯覚。そんな背徳感が、若い錆兎の性欲をより掻き立てた。
 気を抜くと、すぐにでも射精しそうになるのを堪える。今はまだ、初めての義勇を、待ち侘びたこの初々しい胎内を味わっていたい。
「あっぁ、さびと、好き、すき……ぁ……ッ……あ……ッ、っ」
 殆ど真上から貫かれながら何度も何度も甘い中イきを繰り返し、その度に失禁でもしているかのように少量の潮が、義勇の尿道からチョロチョロと漏れる。
 嗚呼、良かったと、錆兎は思った。
 こんないかがわしい身体を、こんな脳が焼ききれそうな快楽を、こんな魔性を中学生かそれくらいの時に知ってしまっていたら、きっと頭がそればかりになっていたに違いない。
 勉強も稽古も手につかず、自慰に耽って、義勇の身体ばかりを求めていただろう。
 キスも許さず、ここまで自制心を鋼のように鍛えてきて良かったと痛感する。
 心から惚れ込んだその人の身体は、間違いなく錆兎を駄目にした。
 腰が溶けそうなほどに気持ちが良い。ずっと、こうして挿れていたくなる。汗ばんだ義勇からは良い匂いがして、汗だの唾液だの涙だのでグチャグチャになっている顔は、それでも美しい。敏感で、僅かな動きにもよがって、声を上げて、達して、恥じらいながらも欲しがって。
 雄としての本能が、これほどまで掻き立てられる存在があるのかと考えてしまう。
「ぉ、ぐ……あっ、そこ、もっと……っすき、そこ……して……っ」
「ん……駄目だ、ここはもうちょっと慣れてから、な」
 挙げ句の果てに、奥を犯せと、義勇がねだる。
 しかしこの身体では、初めての行為なのだ。だから負担を掛けずに、ゆっくりと愛したいという冷静さも、錆兎にはあった。
 錆兎は準備でもするかのように、今後また更に奥の方を可愛がるつもりでいる結腸の手前を無意識のまま時間を掛けて開かせようと動く。
 同時に臍の下を、大きく熱い手で撫で、少し押すことで外側からも意識をさせた。これから、ここで、もっと気持ち良くなるんだぞと言い聞かせるような手つきで。
 内側からは優しく、じっくりと広げて、深く突き上げるように。
「やだ……ぁ……いやだ、おさない、で……腹、おすの、いやだ……っイ……ッ、ぅ」
 思い切り、突いてくれない。なのに、外からも内側からも、一番気持ちのいい所を甘やかすように可愛がられて、義勇は叫び出したい衝動に駆られる。
 気持ちいい、しんどい、たりない、もっと。
 義勇は押し寄せる快楽に呑まれそうになると、鼻をグスグスと啜りながら錆兎にしがみついた。
「ぃ、ぐ……っいく、いぐ……また、い、く……あ、イってる、いってるから……ッ」
 あんなに慎ましやかだった義勇の後孔は、今や錆兎の太いペニスをすっかり気に入ったかのように広がりきっている。
 もっと奥へと誘うように蠕動する腸壁が、熱い。手前の肉輪が締め付けてくるのに対して、開発されかけた奥の方は少しずつ自ら子宮口のように降りてきて、子種をねだるように亀頭に吸い付くような動きを見せていた。
 ついさっきまで、男を知らなかった身体なのに。義勇の中にある散々愛し合った記憶がそうさせているのか、元よりこの手の才能があるのかはさておき。
 ペニスを引き抜くと縋るように捲れる肉ヒダも、錆兎だけを映す瞳も、普段は優しげに笑う小さな口元から発せられる淫らな声も。
 これは全て、自分のものだと。
 錆兎は満たされるような思いで義勇の首筋に顔を寄せると、汗ばんだ皮膚を甘噛みをしてから舌を這わせて吸い付き、幾つ目かのキスマークを残す。
 前戯の際は服を着れば隠れる胸元ばかりに残していたが、それすらも我慢が出来ない。
「義勇、もう……」
 名前を呼ばれ、錆兎の腰の動きがやや速くなる。
 それが射精に向けての律動であることを察した義勇が、意図的に腹筋に力を入れて錆兎のペニスの形を全部、細かい血管の膨らみまで覚えるように、味わうように甘く締め付けた。
 熱く蕩けた肉ヒダに包み込まれ、コンドームに覆われた錆兎のペニスは裏筋が下から脈打ち、ヒクつく尿道からはダラダラとカウパー液が溢れ、元より大きな亀頭がいっそう膨らむ。
 きっと、昔はもっと、上手くやれていたのだろうと錆兎は考えた。初めて触れた義勇の身体が無自覚にも奥への刺激を求めていたように、錆兎がどう動けば良いのかをなんとなく分かっていたように。
 それらは全て記憶に植え付けられたものであることも、理解出来る。その記憶が、今の自分たちを引き合わせてくれた絆であることも。
 けれど。今、目の前の義勇は、今の自分のものであるのだと主張したかった。
 自分自身に悔しいなどと思うのは如何なものかとは思うが、錆兎はあの頃の延長線のような恋愛をしたくない。
 義勇が過去の自分と比べて、今に負い目などをこれからは一ミリも感じられないほどに。
 錆兎は、今の己が義勇に贈れるものを、全て余すことなく捧げたかったのだ。
 しがみついてくる義勇の耳元で「好きだ」と告げると、たったそれだけで何度目かの絶頂に達してしまった義勇に錆兎は覆い被さって抱き締めながら、名前を呼び、ほぼ同じくして吐精した。
 薄い隔たり越しに、熱が孕ませんばかりにドクドクと脈打って、流し込まれるのが伝わる。
 互いに抱き合いながら余韻に浸り、熱い体温と汗ばんだ素肌が張り付く心地よさを味わった。
 呼吸を整えた後、暫くして気怠げな錆兎が身体を起こし、名残惜しそうに義勇の中からペニスを抜く。
「っん、ぅ……」
 出っ張ったカリが引っかかり、深い絶頂の後で敏感になっている義勇から、小さな喘ぎ声が聞こえた。
 そんな声を聞いてしまったのもあり、一度射精したのにも関わらず錆兎のペニスはまだまだ元気な様子である。それを、寝そべったままの義勇は肩で息をしつつ、物欲しそうに見つめていた。
 喉が、渇く。
 吐き出された大量の精液を受け止めたコンドームはずっしりと重たそうで、錆兎はそれをなんでもないように口を縛りながらティッシュで包むと捨ててしまった。
 満足げにフウと息をつく錆兎。腰が重くて起き上がれない義勇は、唾を飲むとアザラシの子供のようにベッドの上をゴロゴロと転がって、錆兎に近づいた。
「……もう一回していいぞ」
 胡座をかいた錆兎の足に、義勇は頭を乗せる。
「……駄目だ、義勇の負担になる。これくらい自分で処理できる」
 申し出自体は非常に魅力的なのだが、それに甘えるのは男として……と、またもや変な意地を錆兎が張る。
 恋人の返答に拗ねたような義勇は少し頭を持ち上げて、錆兎の未だ聳り立ったペニスを見つめたあと。
 こともあろうか、そこにキスをした。
 敏感な場所に柔らかい感触が触れ、驚いた錆兎が己の股間に視線を移すと義勇の唇が離れて、次に手で何度か扱かれる。
「……俺がシて欲しいって、言ってもか」
 すっかりセックスに味を占めてしまったような顔をして、こちらを見つめる義勇にグラッと視界が揺れた。
 義勇だって、初めての行為で疲れている筈だ。
 記憶はあっても、経験はないのである。
 謂わば身体が記憶に基づいて勘違いをしてしまっているだけで、その肉体自体は今日開かれたばかりなのだから。
 実際に、指で解すのも時間がかかった。洗浄もして、少し指で慣らす程度はしたが、自分でも触るのは怖くて奥までは出来なかったと申し訳なさそうに言う義勇に、一から全て任せてくれることに感謝すらしつつも、不慣れならば最後まで出来ないかも知れないという可能性も頭に入れていた。
 それでも別に良かった。時間を掛けて、ゆっくりと義勇を可愛がるのも、いいものだと。
 それが──実際はどうだ。まさか「もっと」とねだられるとは、錆兎も思いも見なかった。
 だがここで、ならお言葉に甘えてもう一度と言うわけにもいかない。
 まるで義勇が、世の男が一度は夢見る処女の床上手という幻覚そのものであったとしても、耐えるべきだろうと己に強く言い聞かせ、正直に反応してしまっているペニスに今も手淫を行う義勇の悪戯な手首を掴む。
「疲れているだろう。お、オレはともかく、義勇は腰とか。だから、だ、駄目だ」
 それっぽい言葉を並べ、平静を装いながらも何度も噛んでしまっている錆兎に、義勇はぱちくりと瞬きをする。
 アラサーの男相手に臍に着くほど勃起して、気持ち良さそうに名前を呼びながら射精をし、それでもまだ足りないとでも言いたげな錆兎の姿を前に、義勇は悪い気はしない。
 寧ろ、嬉しさが勝る。
 この、世の女性が放っておかないであろう、逞しく精悍な、真面目で硬派で一途で優しい、そして誰よりも格好いい錆兎を独り占めし、求められているのが己なのだと思うと。
 錆兎に、全部をあげたくなる。好きなだけ、好きなように使って欲しくて。こんなことを言ったら叱られそうだと思いつつも、義勇の後孔からは残ったローションが愛液のように溢れ、糸を引いて垂れた。
 そこをそんな風に期待から義勇が濡らしているなど、錆兎は気付かない。なぜならば、目の前の義勇はいつもの控えめで、汚いことなどなにも知らなさそうな美しい笑みを浮かべていたからだ。
 気怠い身体を起こし、義勇が微笑むと相変わらず見惚れてしまう錆兎の前に座る。
 そして、錆兎の手を握って、義勇はどこか得意げに、言って見せたのだ。
「……大丈夫だ。俺は、お兄さんだから」
 むふ、と。謎の自信に満ち溢れた成人男性が、錆兎を見つめて言い放つ。
 ──セックスの前に、八歳も差があることを理由にああだこうだと泣いて、錆兎を拒んで困らせて、俺は相応しくないだの馬鹿を言っていた癖に、一体どの口が言っているのか。
 義勇は、可愛い人なのだ。
 天然で、素直で、甘えたで。
 黙っているとそれはそれは無駄のない、如何にも完全無欠そうな美形なのだが、いざ蓋を開けてみると真顔で大真面目に盛大なボケをかましている人だった。
 思考回路は思ったよりも極端なところがあり、たまに心配になるほど勝手に暴走して様子が可笑しいことも多々あるが、惚れてしまっている以上は、そこも愛せた。
 そこまで、義勇への理解が深い錆兎でも、流石に今回に至っては、いくらなんでも都合が良過ぎるのではないかと。
 ここまで義勇に散々振り回されてばかりの錆兎はそろそろ限界であったようで、義勇の得意げな笑みを前に「そうか」と一言。
 武道の心得など何一つない、今の義勇を組み敷くなど錆兎からすれば赤子の手をひねるも同然。
 小さな返事が聞こえた後、気が付くと体勢が変わっていたことに驚きを隠せない義勇は、いつの間にか手にしていたコンドームの封を歯で千切る錆兎をなす術無く見上げるばかりだった。
 そして含みのある笑みを浮かべて、彼が口を開く。
「じゃあ、お言葉に甘えて相手してもらうか」
 なぜか、いつもは優しい錆兎がちょっと怒っているような、そうでもないような。
「なあ、義勇」
 つう、と義勇の額から汗が垂れる。
 少し調子に乗ってしまったかも知れないと思ったが、時既に遅し。
 始まりこそ紆余曲折あったものの、スムーズに終わったかと思われた二人の初夜は、まだもう一波乱起きそうであった。

  ◇

 錆兎の大学進学を機に、一緒に住むこととなって早一ヶ月が過ぎようかという頃。
 在宅での仕事がメインの義勇は、日常的に会社で誰かと顔を合わせるということはなく、打ち合わせなどがない限りは人と話さない日の方が圧倒的に多かった。
 当時は新婚であった姉夫婦の邪魔になりたくないという本音を隠し、自立がしたいという名目で反対を押し切ってまで自ら一人暮らしを始めた高校生の頃から、家でも一人、散歩も一人、食事も一人という生活にはすっかり慣れており、誰かと暮らすのは中学生時代、または留学先でホストファミリーに世話になった時以来である。
「義勇、起きろ」
 だから、こうして誰かに起こされる経験は、義勇としては懐かしくもあった。
 同棲をするにあたって買い換えた大きめのベッドの上で、相変わらず芸術的な寝姿を披露している義勇を錆兎が肩を揺すって起こす。
 錆兎が隣で寝ている時は抱き寄せられるか、義勇が自ら密着しているかなのでここまで酷い寝相にはならないのだが。普段は控えめな分、睡眠時になるといささか解放的な気分になるらしく、義勇の寝相は壊滅的に悪かった。
「……いやだ」
 オマケに、寝汚い。
「嫌だじゃない。今日は朝からお義兄さんとミーティングなんだろ。そのあとは担当編集の方と打ち合わせ、午後からは姪っ子ちゃんたちのランドセルをお姉さんと選びに行くという予定だったはずだ」
「……はい」
 大学生となった今でも早朝からランニングだのストレッチだのと言った自主的なトレーニングを欠かさない錆兎はシャワーも浴びて汗を流し、なんなら朝食もすっかり食べ終えている。
 今も布団にくるまってモゾモゾしている義勇とは違って、身支度も全て整えられていた。
「あと、税理士さんに出す書類をポストに投函するのを忘れるなよ。お前が忘れないようにと、昨日玄関に置いていた赤いレターパックだ。ちなみに義勇は絶対に忘れるから、オレが袋に入れて玄関のドアノブに吊るしてある」
「……ありがとうございます……」
「よろしい」
 これではどちらが歳上なのか。
 一緒に暮らすようになってから、今までは辛うじて隠せていた(と、義勇は本気で思っている)うっかりな部分を全て露呈させてしまっている。
 一人暮らしが長かっただけに家事だの買い出しだのはそれなりに問題はないレベルであるが、どこか見覚えのある担当編集者の女性にも「冨岡さんは天然ドジっ子ですからねぇ」と突っつかれ続けているので、自分の気付かないところでトンチンカンなことをやらかしているのではないかと義勇は気が気でない。
 いつか愛想を尽かされるんじゃあないかと不安で、代わりにたくさん稼いで来なければなどと仕事だけなら完璧な義勇は焦っていたが、実際は錆兎も義勇の世話を自ら進んで、いっそ楽しみながらしていることを本人は知らなかった。
 全く世話の焼ける、と言っている錆兎の顔が充足感に満ち溢れていることにも。
「なぜ俺は、いつも一日に全ての予定を詰め込んでしまうのか……」
「知らん。いいからさっさと起きて顔を洗え」
 身体を起こして髪を結んで貰い、柔軟剤でフカフカのタオルを渡される。
 のそのそと寝室を出た義勇の背中を見届けて、錆兎は掛け布団などをベランダに干しにかかった。
 今日は、ずっと快晴らしい。
「帰ってから夕飯を作る。家を出る前に米だけ洗って予約セットしておいてくれ」
「分かった、ありがとう」
 食事と風呂掃除は当番制、その他は気付いた方が。とは言え、その殆どを錆兎は率先して行ってくれていた。
 マンション自体は購入していたものなので家賃はかからないとは言えど、元は義勇が気に入って住んでいる場所に居座らせて貰っているのだ。これくらいはさせて欲しいと錆兎は言い、義勇が気付く前に大半の家事を終わらせてしまっている。 
 錆兎は、当初は義勇と一緒に住むつもりは一切なかった。
 義勇の住むマンションは駅からも近く、通学も問題ないとは言え在宅勤務中心の義勇の邪魔をしたくはなかった。一度も同棲云々の話も互いにすることなく、錆兎は適当なワンルームの安アパートを借りる予定で話も進めていたのだ。
 しかし──「錆兎の食器も買ってきたぞ」とウキウキで言う義勇に、綺麗に揃った浮かれた食器セットを見せられ、錆兎は何度か瞬きをした。こっちが錆兎の、こっちが俺の、と機嫌良さげに二つの茶碗を並べているのを暫く黙って見守る。
 そして終わった頃に真顔のまま「オレらって一緒に住むのか?」と錆兎が冷静に聞くと、義勇が「え……違うのか?」と目を丸くして、ガビーンという間抜けなオノマトペが聞こえてきそうなほど衝撃を受けていた。
 テーブルに並べられた揃いの茶碗と、義勇の視線が痛い。錆兎は目頭を抑えながら数秒考え、その場で不動産屋と引越し業者に電話をして平謝りし、結果として流されるがままこの家に転がり込んでしまったのだが。
 確かに、いつまでもこんな調子の義勇を一人にさせておくことは心配なので、恐らくこれでよかったのだろう。そのうち、変な壺だのブレスレットだの買わされていたらたまったものではない。
 だが、社会人と大学生の二人暮らしは、思っていたよりもしっくり来ていた。予定にはなかったとは言え、錆兎も恋人との生活を楽しんでいる。
 前からこうして、二人でずっと何年も暮らしていたような、そんな感覚だ。
 これも二人の相性がいいのか、果たして過去の記憶によるものなのかは、定かではない。
 しかし、前者であればいいなと、義勇は思う。相性の良い二人だったからこそ、今世も巡り会えたのだと思いたかった。
 以前までは、過去の自分と今の自分を比べて、多くの葛藤を繰り返していた義勇も少し変わりつつあった。
 義勇は、過去の自分が今の自分と違って、ちゃんと朝に起きることが出来ていたとしても。それと比較して落ち込むことは、もう、ないであろうし、自分を駄目な奴だと罵ることもなかった。
 この記憶は、きっかけをくれただけに過ぎないのだと、次第にそう思えるようになっていた。
 平凡で、大層な肩書きもない、ただの冨岡義勇を望んでくれた愛する錆兎の夢が叶ったのだと思うと、義勇は今の自分ですら愛しかった。
 それに記憶がなくたって、きっと義勇は何度だって錆兎に恋をしていたのだ。
 錆兎にもたとえ記憶がなくても、絶対に自分を見つけて愛してくれただろうという確信がある。
「義勇。そろそろ家出るから、戸締りしっかりな」
 錆兎の声が聞こえ、顔を洗い終わった直後の義勇は慌てて玄関に向かう。
 来なくていいのにわざわざ見送りに来た義勇に錆兎は少し笑うと、腰を抱いてキスをした。
「行ってきます」
「……うん。いってらっしゃい」
 まだ少し濡れている頬を撫でてくれた錆兎を前に、義勇は思い切り抱き着いて「気をつけて」と呟いた。
 玄関先で彼を見送った後、義勇はウンと大きく伸びをしながら部屋を歩き、リビングに置いてある水槽の前に辿り着くと適量の餌を入れる。
 中にはハーフムーンと呼ばれる種類のベタが一匹。ふよふよと泳ぎ、青と黒のコントラストが美しい尾鰭を機嫌良く揺らして、入れられた餌を食べている。
「寛三郎、おはよう。美味しいか?」
 なんとなく飼い始めてから毎日声を掛け、水槽越しに撫でる義勇の言葉など、寛三郎には分かる訳もないのに。
 それでも、寛三郎がフリフリと尾鰭を揺らすのがまるで返事をしているようで、義勇は愛しげに水槽を撫でた。
「……はあ、しあわせだな」
 そんなことを独言て、義勇は水槽に浮かぶ泡を眺めて穏やかに目を細めたのだった。
 今日は、帰りにケーキでも買ってこようかなと、そんなことを考えながら。