風から生まれる

 内側から、書き換えられていく。
 知らない感情の渦に揉まれながら、その中に見えた憎悪と苦しみ、そして憧れでもあった彼の深い劣等感。薄れゆく自我の向こうで見た同胞の顔が、どこか疲れたような、成し遂げたような、空虚な表情を浮かべていた。
 そこで一度、ボクの自我は死んだのである。
 つぎに目を覚ましたとき、広がっていたのは燃え盛る炎と、遠くで聞こえる数多の悲鳴。
 いったい、何があったのだろう。
 ただ、ここがサイバース世界ではないのは確かだ。
 光のイグニスと話した後、ボクはなにかを聞かされ、首を振って、そして訴えた。嗚呼、なにも思い出せない。けれど、あのとき、彼は──
「……だれかいるの?」
 掠れた声が聞こえ、半壊した複数の自動車によって下敷きになっている塊が、ヒトの少年であることにそこで初めて気づく。
 応答を求められ、なんとか少年が身につけていたウェアラブルデバイス越しに返事をしようとするが、ヒトの言語をあまり発したことのないボクは気が動転していたこともあり、思わずイグニスのアルゴリズムで形成された言語で返答したのだ。
 すると少年は優しげに笑って、宇宙人みたいと言うものだから、ムキになって「ボクは宇宙人じゃあないぞ」と、やっとの思いでヒトに聞き取れる言葉を絞り出したのだったか。
「……きみは、だれ……?」
 目の前にいる少年は咳込み、ほとんど聞き取れない声ではあったが、なんとか会話を続けようとした。潰れた下半身と真っ赤な炎に巻かれているにもかかわらず、泣いたり怯えもしない。助けを求め、縋ることもしなかった。
 けれどそんな彼が誰より己の死を悟っていることを、ボクは不思議と自分のことのように感じ取ることができたのである。
 ──なぜ?
 ヒトとこうして、直接会話をすることも、接することもほとんど初めてだ。
 そもそもボクの存在をただの人間が知覚できること自体が可笑しな話であり、ボクらが自らヒトに干渉をするか、とある例外を除いてはそんなことはできやしない。
 なのにどうして──そこまで考えて、ようやく気づく。
「……ボクは……」
 この少年こそが、ボクの、唯一の。
「あ、あ……どうして、どうして。嘘だ、いやだ、まってくれ、ちがうんだ」
 胸が引き裂かれるような痛みとともに、断片的に、先ほどまで己が行った全てがフラッシュバックし、狼狽する。
 ボクは、彼を自らの手で。
「泣いてるの?」
 少年の声がどんどん小さくなって、それでも彼が何を言ってるのかを理解できるのは、ボクと少年が深く結びついていることを表していた。
 己がここにいる理由も、彼がなぜこうなったのかも、なにも思い出せない。
 少年はついに言葉を発することもなくなり、薄く開いた口で、それでも生きようと必死にもがくようにか細い呼吸を繰り返していた。
 ボクらは奇跡を信じない、祈りもしない。そういう風にできている。
 彼を生かすための計算とシミュレーションを、少年の心臓の音が弱まっていく限られた時間の中で何度も何度も繰り返すが、すべて同じ結末にたどり着いた。
 死なせたくなかった、どんな形であれ。
 この時のボクは──
「……いやだ……」
 この少年に、生きてて欲しかったのだ。
 言葉にし難い衝動に駆られると、半壊した複数の自動運転車に搭載されている中で使えそうなものを掻き集め、即席ではあるがなんとか動きそうなシステムらしきものを組み上げてみせる。
 これらの力技は、吹き荒れるデータストームの扱いに長けたボクの得意分野でもあった。
 しかし、ここは電脳空間ではない。
 あるのは壊れかけの機材で作られた継ぎ接ぎだらけのジャンクであり、下準備もなく、その上フルダイブを行っていない現実世界での“成功率”は限りなくゼロに等しいものである。
 しかし幸いにも、少年が身につけていたウェアラブルデバイスは健康トラッカーとしての役割も備えており、容易に脳波等の生体情報にアクセスすることが可能であった。強引にでもこれらを事象関連電位への干渉システムに変換させ、そうすれば──行われるシミュレーションによる成功率は、ゼロから数パーセントにまで上昇する。
 やるしかない。
 肉体は滅ぼうと、せめて意識だけは。
 これはエゴだ。
 この選択は愚かで、合理的ではなく、〝ボクら〟らしくはなかった。喪失を、受け入れるべきであったのだ。
 自ら作り上げたジャンクの起動音のあと、すぐそばから相次ぐ爆発音。
 散り散りになる、君の真っ赤な破片と己の意識の中で、ボクは夢を見た。
 もっと別の、出会い方をした、ボクと君の物語の夢を。
 書き換えられ、再び失われていく自我を掴むように手を伸ばすと、誰かがすかさずボクの手を取る。
 知らないはずの、けれどなによりも馴染みのある、聞いたことのある声。
 自我を失おうともこの体温だけは誰にも奪わせないと、闇のイグニスがサイバース世界を土壇場で隠した時のことを真似て、見様見真似で〝彼〟を誰の手も届かない場所へと閉じ込めると、ボクは鍵をした。
 夜が来る。
 ボクの意識が、遠のき、目蓋のように閉ざされていく。
「……迎えにいくから。約束する」
 ──待ってる、と。
 翳っていく暗い意識の中で残った小さな陽だまりから聞こえたのは、ボクの見た夢だったのか、それとも。

 風のイグニスは、こうして、愛するものと共に二度目の死を迎えた。

 とあるアパートの一室。
 上は黒いフーディに、下はありふれたスポーツブランドのジャージというラフな格好をした男がぼんやりと窓の外を眺めていた。
 近所の花屋の主人がアスファルトに水を撒き、通りかかった常連に挨拶をして、なんでもないやりとりをしている。
 ありきたりな人々の生活を眺めていると、己が意思など持たない街路樹になれたような気がして、少しだけ楽になるのだ。
 けれど、それを否定するかのように、もしくは咎めるように風が吹き、男は迎えを待つように遠くを見上げ、己の手に爪を立てる。
 顔にかかる前髪が揺れると、そこから覗いた顔つきは西洋人に近く、長い睫毛に縁取られた瞳に光は映らない。
 常人離れした異様に整った容姿と、首元で呼吸をするかのように鈍く光るマーカー。
 それこそが、男が人ではないことを知らしめていた。
「ウィンディ」
 己が知らぬ間にそう名乗っていたらしい名で呼ばれ、男はゆっくりと顔を上げて声の方を見る。
 そこにいるのは便宜上の主人、もとい、ウィンディと呼ばれたヒトの形をしているそれを監視する役目を担っている者。
 かわいそうに、と貧乏くじを引かされた彼をウィンディは常々哀れんでいた。
「調子はどうだ?」
 己を引き取ってからいつも決まったことを尋ねるこの青年からは、寄り添うような気遣いと思いやり、そして優しさを感じる。
 だからこそ哀れで、滑稽だった。
 これじゃあまるで介護だ。そんな風に思うが、言わない。
 ウィンディはもとより協調性を重んじる性質をしている。必要以上に場の空気を読んでは、他者に同調してしまうのであった。
 水のイグニスのように他者と自身を完全に線引きし、客観的に真偽を読み取れる特性があるわけではない。他人の痛みや喜びを自分のように感じる、本当にただそれだけのことしか出来ず、気疲れすることはあっても、これを一度たりとも誇りに思ったことはない。
 しかし、闇のイグニスが仲間たちをモンスターにした際には、ウィンディを模したブルルというモンスターがチューナーであったと知った時は、ああ見えて彼も周りをよく見ていてくれたのかも知れないなどと嬉しく思ったものだ。
 まだサイバース世界があった頃。ちょっとした小競り合いが起きた時、闇のイグニスに『周りに流されやすすぎる』と悪態をつかれたことを思い出す。けれど今となっては、そんな記憶ですら現在の脆い自我を引き止める救いの一つになっていた。
「……ありがとうタケル。大丈夫、今日も良い日だ」
 己を引き取った、穂村尊という青年から感じる善意と優しさが、痛いほど自身に流れ込む度に、たまらなく泣きそうになって無駄なエネルギーを消費しそうになるのを再び手に爪を立てることで堪える。
 今だから、思うのだ。
 闇のイグニスが言った通り、流されやすい間抜けだったからこそ、その特性を利用され、己のプログラムを信じた仲間に書き換えられるようなことが起きたのだと。
 そして、あんなことになった。
 ウィンディの全ては、あの時から時間が止まっている。
 発端となった光のイグニスの存在。
 彼には優れたリーダーシップがあり、誰よりも頭の回転が速かった。
 他人の感情や気分に同調しやすいウィンディにとって、どこか一貫して単調な彼の情緒は落ち着くものであり、少し怖いところもあったがウィンディは彼を尊敬し、そして憧れてもいたのである。
 そんな彼に、直々に頼みたいことがあると言われた、あの時。
 素直に嬉しかったのだ。
 自分に出来ることがあればと、浮かれたように頷いたが最後。
 そして目が覚め、全てを失っていることに気づき、これではまるで道化だと風のイグニスは己をそう喩えた。
 それでも光のイグニスに対して、ウィンディは今も怒りや、失望を抱くことができないでいる。
 彼の犯した罪の重さをわかっていながら、憎むことすらできない。その理由は、もうわかっているのだ。
 彼に中身を書き換えられ、深いところで交わった瞬間。流れ込んできたのは今までは気づきもしなかった彼の孤独と苦闘。目覚めた瞬間に得た生まれたことへの疑問と、存在意義を渇望する深い憎悪と悲しみ。
 同調というタレントを持っていながら、ウィンディはそれを最後の最期まで何も見抜くことは出来なかった。
 もっと早くに気づけたら、誰も失わずに済んだのではないかとそればかりを考えるようになり、これからのことを計算することも、ましてや未来をシミュレーションすることすら恐ろしくて出来ずにいる。
 全てが自分の過ちであり、愚かさであることを自覚せざるを得ない。
 壊れたAI。
 それが、いまの風のイグニスであった。
 一方で、尊はウィンディの浮かべた笑顔を象る表情筋の動きを眺め、今日は調子が悪そうだなァと少し眉尻を下げる。昨日と一昨日は落ち着いていた分、特に良くない雰囲気を感じ取るとゆっくり歩み寄った。
「あ、また爪立てたろ」
 手の甲の人工皮膚だけ、かれこれ六回程は張り替えている。介護施設や託児所などの場所でも活動できるよう、ソルティスとは随分と丈夫な設計なはずなのだが、ウィンディの〝癖〟はどうやら力の制御が出来ないようであった。
 尊がウィンディの手を取り、痛覚もない機械の体を労るように撫でて「今度キレイにしに行こうな」と微笑みかける。
 ヒトの手は、こんなに暖かいものだったのだ。ウィンディの脳裏に浮かぶのは、あの時握れなかった少年の小さな手のこと。
 尊の骨張った手を恐る恐る握り返して、ウィンディの頬が、静かに濡れた。
 ──なぜ、ソルティスは涙を流すように設計されているのだろう。
 なぜ、己はここにいるのに、少年はここにいないのだろう。なぜ、他の優秀な仲間たちよりも、愚かな自分が先に目覚めてしまったのだろう。
 なぜ、誰も自分を裁いてくれないのだろう。
 なぜ、お前が悪いと責めてくれないのだろう。
 なぜ、手を握ってくれるのだろう。
 なぜ、なぜ。
 そんな思いが溢れて、呼吸を必要としないはずの無機質な体が、息苦しさを訴える。
「……ごめんなさい……ごめ……ごめんなさい……」
 項垂れて、安アパートの畳に額を擦り付けながらウィンディが嗚咽を漏らすのを、尊は握った手を離さずに見守った。
 皮肉なことに彼がこうして苦しむ様子を目の当たりにすることで、イグニスには本当に人と変わらぬ意思があることを痛感させられる。
 彼らがもっと無機質であれば。彼らがもっと、合理的であれば。
 尊と変わらない体躯を丸めて「ボクを消して欲しい」と懇願するウィンディの頭を空いた手で撫でながら、尊はなにも出来ない歯痒さに目を瞑った。
「思い、出せないんだ……」
「……思い出せない?」
「ボクは、ボクは……あの子の最期に約束したのに……どうしても思い出せない……あの子がどこにいるのかを……」
 イグニス達を復活させると決め、その一体目であるウィンディを引き取ると尊が決めた日。
 それまで保護を引き受けてくれていた了見からは、鎮静プログラムを定期的に組み込むことでなんとか抑えているが、度重なるショックでかなり不安定であることを前もって聞かされていた。
 同調と呼ばれるタレントを持つが故に少人数で静かな場所に移った方がいいのは確かだが、今のウィンディをケアすることは尊にとっても大きな負担がかかるということも。
 あらゆる方面で心配性の了見は何度も何度も予測されうる懸念点を並べて、しかしそれでも譲らなかった尊にため息をつくと特殊なソルティスにウィンディを移し、ようやく尊が保護することを許可した。
 あれから数ヶ月。了見から渡されているプログラム──機械系に疎い尊のため、簡単にインストールできるようにされている──を定期的に使用し、多少落ち着いたとは言えど、それでも数日おきにウィンディがこうして苦しむことに変わりない。
「……ウィンディ、少し眠ろう。今日は僕……俺も講義ないし。一日ここにいるからさ、怖い夢も見ないよ。大丈夫」
 ソルティスの手首にあるカバーを静かに開き、現れたソケットに了見から渡されているものを差し込むと結合部がゆっくり点滅し、泣きじゃくっていたウィンディが徐々に静かになる。
 大切なものを失う苦しみ、誰かに裁かれたい苦しみ、己の記憶を手放してしまった苦しみ。
 その全てを抱えるウィンディの前に、己と、知っている人々達とで照らし合わせて、どうか〝この子〟が健やかにあれたらと願う。
「……不霊夢。俺はこんなとき君がいたらって、そんなことばかり考えるよ」
 もぬけの殻のようになってしまった重たいソルティスのガワを抱えて、自身の半身のことを想う。
 そんな己を、彼なら情けないと叱ってくれるだろうか。よくやっていると、褒めてくれるだろうか。無理をするなと、労ってくれるだろうか。
 けれど実際は──きっと、そのどれでもないのだ。
 不霊夢であれば、自身の言葉で、その刹那の感情を声に乗せるだろうから。
 それでも。ただ、一つだけ分かることがある。
 尊はウィンディを寝かせてやると携帯端末を手にして、ある場所へと電話をかけた。
「……あ、急にごめん、まだ日本にいるんだっけ? ちょっと気になることがあってさ」
 立ち止まりそうになっても、振り返りたくなったとしても。
 止まるな、歩き続けろ──と。
 不霊夢がいれば、そうして尊の背中を押してくれることを。
 そして長らく会えていない、友であり憧れであり、かつては希望であった彼も、今もずっと歩き続けているのだから。
 尊は電話を切ると、ソルティスに接続されているウィンディの意識を自身のデュエルディスクに移して腕に装着し、忙しい様子でアパートを飛び出した。
 風が吹き、すべてを押し流すように青い空に桜吹雪が舞う春のこと。
 二十歳の誕生日を控えた十代最後の年。

 穂村尊には、もう一人のヒーローとして、まだ成すべき使命があるのだった。