風っぴき注意報

 自宅マンションから徒歩五分ほどのところにある小さな病院。
 リハビリステーションが併設されていることもあり待合室には高齢者が多く、ペチャクチャと話す声があちらこちらから聞こえた。
 その中でも唯一病人らしく、虚な目をしてマスクの下で鼻を啜る男が一人。
「草薙さーん、お待たせしました」
「ふぁい……」
 日常のありとあらゆるもののデジタル化が著しいデンシティでは珍しく、無機質な呼び出し音ではなく受付の女性に名前を呼ばれ、草薙は小さく咳き込んでから席を立った。
「炎症を止めるお薬は寝る前に飲んでくださいね」 
「はい……」
「お会計が一千六百円です」
「電子で……」
 会計を終えて「お大事に」と声をかけられながら病院を出ると、すっかり冷え込んだ空気が肌を撫で、思わず背中を丸めて目を瞑る。
 職場であるキッチンカーと自宅を往復する日々。
 長い夏が終わり、やや肌寒くなっても薄手の半袖で過ごしていた。ちゃんと衣替えをしようかと考えた矢先、不意に暑くなったり涼しくなったりの繰り返しが続き、少し横着をして上に羽織るものを一枚出しておけばいいだろうと油断した結果が、これだ。。
 喉の違和感、倦怠感。頭が重くなるような鼻水と、重い咳。オマケに発熱。
 念のためとインフルエンザなどの検査も受けたが、陰性であったのがせめてもの救いだろう。
 ただ風邪ですねえ、と診断されたのがつい先ほど。
(遊作にウツしてなきゃいいが……)
 違和感を感じ、すぐに店も休むことを遊作には連絡した。
 いくら接客や調理も慣れているとはいえ、まだ未成年の遊作ひとりに──アイがいるとしても、だ──店を任せるのはあまりに無責任だと判断し、素直に店自体を休むことを選んだ。
 電話越しの草薙の声があまりに酷かったからか、店を休む旨の話に相槌を打ちつつも「本当に大丈夫なのか」と、遊作は最終的に三度ほど草薙に確認をした。声色こそ普段通り淡々としているのだが、ああ見えて遊作は優しい少年である。
 真剣に心配してくれているのだろうと思うと、情けないやら申し訳ないやらで居た堪れず、やや早口で「寝たら治るから」と笑ってごまかしたのだが。
 早く治さねば。そうは思うが、先ほど病院で検温した際、起きた時に測ったものと比べて熱が上がっていたことは事実だ。
 いまも現在進行形で熱が上がっていることを感じ、たった数分の帰り道ですら息苦しい。
 そんな状態で、グラグラと揺れる視界をなんとか抑えながら自宅マンション前に着いた頃には、草薙の視界は真っ白だった。ベッドに顔から倒れ込んだところまでは、なんとか覚えている。
 もらった薬を飲まないと──と、薬の入ったビニール袋に手を伸ばし、草薙はそのまま完全に意識を手放した。

 ◇

 いい、匂いがする。
 鍋のような、ダシの匂いだ。
「おわああ……どーしよ、溶き卵のはずが固まっちゃった……」
「箸で潰せば問題ない」
『遊作殿は意外と大胆だな』
『男らしいのよ、うちの子』
「黙れ」
 ベッドで突っ伏して意識を手放した自分以外、いないはずのマンションの一室。どこか楽しげな若い声が聞こえ、重い頭を上げる。
 いつの間にか大量の汗をかいたのか、乱れた前髪が顔中に張り付いていた。体も汗ばんでおり、寒さで悪寒を感じていたのが嘘のように暑かった。
 一体、なにが──と体をゆっくりと起こそうとしたところで、見慣れない衣類を身に纏っていることに気づく。
 ぬいぐるみのような、ふわふわとした柔らかい生地。
 こんな服持っていたっけ──首を傾げながら、ふと壁際に置かれた姿見が視界に入った。
 そこには、犬を模したファンシーキャラクターものの着ぐるみパジャマを身に纏う、汗だくの、目がうつろな成人男性がベッドに佇んでいた。
 高熱を出した日の悪夢に違いないと思ったが、どうやら現実らしい。
 現状を整理するためベッドから降りることを試みるが、床に足を下ろすとパジャマの丈が合わなかったのか、足首が裾から思い切り出ていた。
「……あの〜皆さん?」
 事情を知っているであろう、いまもキッチンで賑やかにやっている男子高校生二名、イグニス二体に声をかけると、四人が一斉にこちらを向いた。
「起きました? お邪魔してます、いま雑炊作ってるんで。ポカリも買ってるから飲んでください」
『おっす〜もうちょっとで出来るから寝てて大丈夫だぜ』
『うむ、寝ていた方が良い。出来たら起こそう』
 呑気に雑炊を作ってくれている尊と、普段通りの挨拶をしてくるアイと不霊夢。
 善意一〇〇パーセントの笑みに草薙は「あ、どうも……」とそれ以上はなにも言えず、代わりに遊作の方へと無言で視線を送った。
 そこでスッと、遊作がキーケースから見せたもののは、この部屋のスペアキーである。
「……緊急時、だからな」
 一言、それだけ。
 そう言えば、何かあった時のためにと、相方である遊作にこの部屋のスペアキーを渡していたことをすっかり忘れていた。今までスペアキーが使われるような緊急時など、なかったからである。
 風邪とは言えウツったらどうするのだとか、自分とていい年した大人なのだから高校生が心配するなだとか、言いたいことは山ほどあった。
 しかし、こんな時でも心配して来てくれる誰かがいるのかと思うと、嬉しくはある。
 折れた草薙が困ったような、嬉しそうな顔で「ありがとう」と言うと、遊作が分かりづらく目を細めた。
「……で、この着ぐるみパジャマ何?」
『オレが選んだ! いいっしょ、それ! 耳と尻尾もついてんの』
「あんたが腹を出して寝ないように買って来た」
「着る毛布とかじゃないんだ……」
 着ぐるみパジャマの下を覗けば、病院に行く際に着ていた服も着用したままであり、この妙な暑苦しさも合点がいく。
「あ、いっぱい汗かいた方がいいって不霊夢が言うので、着てた服の上にそのまま着せました」
 男子高校生の看病はいささか力技が過ぎるらしい。
『草薙殿、様になっているぞ』
「ありがとね……」
 その後は準備が出来たら起こすからと寝室まで再び押し戻され、着心地があまりよろしくない二枚重ねのパジャマのままベッドに横になる。
 風邪が治るのも、きっとすぐだろう。
 二人のヒーローが、相棒達と駆けつけて来たのだから。
 この冬は、このふざけたパジャマで乗り切るのも悪くないと、草薙は漂う卵雑炊の優しい香りと、不思議と耳に心地よい、声を抑えた四人の話し声を子守唄に目を瞑って、少し笑った。