01/手を繋ぐ

 小雨が降る中。
 義勇が傘を畳んで買い出しから帰って来ると、玄関には乾ききっていない濡れた足跡。その先には雨粒を乗せた、見慣れた革の長靴が揃えて置かれていた。
 それは錆兎が任務に向かう際にはいつも履いている靴であり、鬼殺隊の縫製係を担う隠たちが錆兎のために作ったものである。
 ──錆兎が、帰って来ている。
 普段は中々動くことのない義勇の表情筋が緩み、ぱあっと雰囲気が一瞬にして柔らかくなった。
 早ければ今日くらいには帰って来ると、確かに先日の便りにあった。しかし仕事柄、予定通りにならないことも多く、義勇としても二日三日は遅れるだろうと見積もっていたのだが。
 長期任務明けで長めの休暇をもらっていた義勇は錆兎がいない間も二人が暮らす屋敷でのんびりと一人慎ましく過ごしていたものの、やはり休暇中くらいは錆兎と一緒に過ごしたい。
 義勇は食材が詰まった風呂敷を台所へ置いて、錆兎がいるであろう居間の方へと向かう。いつもなら、玄関を開けた時点で「おかえり」と錆兎の声が聞こえるのだが、珍しく聞こえてこない。荷解きでもしているのだろうと、特に深く考えもせずに義勇が襖を開けた。
 おかえり、錆兎──と言おうとして「おかえ」まで言った義勇の言葉が詰まる。
 視線の先。
 そこには居間の中心で隊服から着替えた直後であろう、着流し姿の錆兎が座布団を枕にして、力尽きたように横たわっていたからだ。
 今回は調査任務で戦闘はなかったとは聞いていたが、調査任務とは存外疲れるものであることを義勇は身をもって知っている。
 調べ物や聞き込みでの情報収集であちらこちらを駆け回り、時には近場に宿もない辺鄙な場所で野宿をすることもあれば、張り込みなどでろくに寝られない日もあったりする。討伐任務は該当の鬼の頸を斬れば直帰の場合が多いが、調査任務では報告書を纏め、今後の方針を立てたものも提出するまでが仕事であり、何かとすることが多い。もちろん、調査中に鬼との遭遇があれば討伐も行う。
 階級が上がると自然と調査任務も増えるので、その苦労が如何程のものかを義勇は痛いほど知っていた。
 恐らく、流石の錆兎も疲れ果てたのであろう。体力には自信がある隊士と言えど、家に帰って来れば誰でもこうなる。
 義勇はそっと足音も立てずに気配を消して横たわった錆兎の大きな背中に忍び寄るも、やはり顔が見たくなり、四つん這いになってゆっくりと正面に回る。
 腕を組んだまま緩やかに上下する身体と、伏せられた頭髪と同じ色の長い睫毛。彫の深い精悍な顔は久しぶりに見ても見惚れるほど整っていて、義勇は厚めの唇が少しだけ開いているのを眺め、目を細めた。
 錆兎が無事に帰って来てくれた。その事実は、義勇にとって何より嬉しい報せである。行儀良く正座をしながらしばらく眺めていると、すう、すう、と迫力のある見た目に反していささか控えめな寝息を錆兎が立てていることに気が付き、義勇の脳裏にはペタンと身体を伏せて眠る野うさぎが浮かんだ。
 錆兎が組んでいる腕からは、ちょこっと指先が見えている。寝かせてあげたい、起こしてはいけないと思いながらも、その指先をきゅっと握り、労るように柔らかな宍色の髪を撫でた。
 軽食に、焼きおにぎりでも作ってやろう。
 この疲労感から見るに、ゆっくりと食事も摂れていないはずである。
 愛する人の寝息と、小雨が降る音だけが聞こえてくる静かな午後。
 錆兎の好きな熱い茶を淹れて、軽食を作って、前に漬けておいた漬物も添えよう。雨に濡れて帰って来ただろうから、食べ終わったら風呂に入れるように準備もしてやりたいと、義勇が髪を撫でるのをやめ、握っていた錆兎の指から名残惜しそうに手を離そうとした──その時である。
 大きな手でそのまま指を絡めとるように握られると、グッと抱き寄せられた。
 義勇がまんまと、錆兎の腕の中に収まる。抱き込まれた義勇は、突然のことに何度か瞬きをして、錆兎の方を見上げた。
「……ただいま」
 起き抜けで、まだ少し眠たげな様子の彼が掠れた声で言う。
「……おかえり。ごめん、起こしたか」
 トロンとした錆兎の目尻が、なんとも色っぽい。少し顔が熱くなるのを感じつつも、普段通りを装って自由な方の手で錆兎の頬を撫でた。心地がいいのか、もっと、と言う風に錆兎は義勇の少し低い体温の手に頬擦りをする。
「いや……義勇が買い出しから帰って来るまで、ちょっと横になろうと……そのまま寝てしまった訳だが」
 指を絡めて握ったままの手をギュッギュと揉まれ、同時に腰へと逞しい腕が添えられると、より錆兎の方へ抱き寄せられてしまう。その間も義勇は要望通りに頬を撫でてやってはいるが、如何せん近い。
 手を握られながら、錆兎の熱視線を感じる。次に足が絡まって、もはやどちらかが顔さえ寄せれば口付けが出来そうな距離だ。
 しかし錆兎は、どうも目の前の愛しい人の優しさに癒されたい気分のようである。
 起きたばかりだと言うのに義勇に優しく撫でられて、再びうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。
 このまま捕まってしまうと軽食を作ってやることはおろか、風呂の用意も出来まい。それに、眠いなら布団だってちゃんと敷いてやりたいのだ。義勇は「錆兎」と囁くように名前を呼んで、優しく言い聞かせるような口調で言う。
「焼きおにぎりを作って来てやる。それを食べたら風呂に入って、ひとまず布団で寝ろ。風邪を引くし……夕食の頃には起こしてやるから」
 義勇が言うも、錆兎は義勇の手を握りながら、なんとも眠そうな目でジッとこちらを見るばかり。無言だが、隣にいろという圧を感じる。
 本当は、こうして甘えられるのも悪くない。手を繋ぎながら、一緒に畳で寝転んで、惰眠を貪るのも好きだ。
 だがそうこういる間にも、錆兎の疲れは身体に残ってしまう。義勇は心を鬼にして「錆兎はここで寝てていいから」と言い、錆兎に握られている手を解くと眠たげな瞼に口付けを落としてから、目を細めて頭を撫でた。義勇が腕の中から抜け出すのを、引き留めることなく錆兎はボーッと眺める。
 少し着崩れた着物を正して、立ち上がった義勇が居間から出て台所へ向かおうとした。
 すると、後ろから聞こえてきたのは畳が軋む音。
 振り向けば、義勇について来たらしい錆兎がヨタヨタとこちらに寄って来ていた。
 親の後追いを始めた、幼子でもあるまい。
「さ……錆兎、お前は寝てていいんだぞ。それともなんだ、厠か?」
「いや……義勇が握り飯作るとこを見ようと思って」
「見んでいい、そんなもの」
 屋敷の、さほど長くもない廊下。錆兎は寝ぼけたような笑みを浮かべて、義勇の手を握るとご満悦の様子。
「義勇を見てるのが一番、疲れに効く」
 照れよりも呆れが上回り、義勇は「そんな訳があるか」と言いつつも離す気のないらしい錆兎と手を繋いで、渋々台所まで向かう。
 歩いて話して目が覚めて来たのか、任務中のあれそれを聞かせてくれる錆兎の一言一言に義勇は「うん、うん」と相槌を打ち、やがて自ら指を絡め、歩きながら背の高い錆兎の肩に頭を少し寄せて、義勇は廊下を歩いた。

 朝から振り続けた小雨は、まだ止まない。