2019バレンタイン

 バレンタインも近い二月初旬、アイチは櫂のスマートフォンを両手で持ちながら、なにかを一生懸命操作していた。
 櫂の端末は彼が電子書籍を読むことを考慮して、大きめの液晶のものを選んだために小さなアイチの手では少し重い。
 このスマートフォンも、櫂と来ればほとんど本を読む為だけに使っているようなもので、せっかくの最新機種も宝の持ち腐れ状態である。頻繁に使われている機能は、電話とメッセージと読書のみ。故にSNSなどの類にはあまり明るくなく、何かを発信する際にはもっぱら櫂以外の第三者が代わりに操作するのが常であった。
「櫂くん、ポストどれにする?」
 ポストとはなんなのか。櫂はアイチがなにをしているのかよく分かっていない。SNSを使った、バレンタインの企画がどうとか、電話越しで三和が言っていたが櫂は具体的になにをしているのかさっぱり理解していなかった。
「なんでもいい」
「猫さんか、ウサギさんどれがいい?」
「猫でいい」
 猫は良い。
 櫂の中で、猫は好ましい生き物である。
 アイチは良い返事をして、何かを選択した後に櫂にスマートフォンを差し出した。のぞき込んだ画面の中心部で、赤い猫のようなものが『初恋を思い出せないにゃ』と言いながらクネクネしている。
 櫂は眉間に皺を寄せて「これは猫なのか」とアイチに問うた。櫂には妖怪か何かに見える。アイチは問いかけにキョトンとしたあと、少し困ったような顔をして「たぶん猫です」と自信なさげに告げた。
 アイチがそう言うなら、猫なのだろう。
 櫂は「そうか」と案外あっさり納得し、アイチの指示を待った。果たしてここから、なにをするのかが分からない。
「あ、あのね、ここの《チョコをおねだり》って言うの押したら、猫さんが櫂くんの代わりにチョコ欲しいって言ってくれるんだよ」
「そうか」
「ファンとの交流もお仕事だからね!」
 なぜお前が楽しそうなのだ。妙に張り切っているアイチの指示に従って、連携済みのSNSアカウントで発信する。すると、隣のアイチが「ああっ」と大きな声を出し、櫂の端末を取り上げた。
「ど、ど、ど、どうしよう。デフォルトのままでやっちゃった……!」
「別に構わん」
「櫂くんが『チョコちょうだいにゃ』って言ってるみたいになっちゃうよ!」
「気にしない」
そもそも、なにをしているのか分かっていない櫂である。言われたとおりにやったまでで、それを知らない誰かにどう思われようと、気にするに値しなかった。
 しかし、アイチは眉をハの字にさせて「でも、うう」と頭を抱えている。どうやら、櫂自身の意見よりも自分の中にある譲れない何かがあるようで、苦い顔をしながら、赤い猫が呑気そうにチョコレートをねだって笑っている画面と睨めっこしていた。
「もういいか」
「う、うう……! ……はい……来年はちゃんとするからね……」
「そうか」
 続々と増えるリツイート数にアイチは諦めた様子で、櫂に端末を返した。
 すると、間を置かずにメッセージが入ってくる。差出人は、このあと約束をしている三和からであった。久しぶりに集まるからと、外食をする予定で三和が櫂の家まで行くと言う話をしていたのである。
『外寒いにゃ。もうマンションの前に着いたにゃ。チョコちょうだいにゃ』
 早速、先ほどの櫂の投稿を見たであろう三和からのからかいを含めたメッセージに『凍え死ね』と無慈悲なメッセージを送信しながら、アイチに「三和が着いただと」と報せ、コートを着るように告げる。
「お前が着てきた奴だと少し寒いだろうから、オレのコート着ていけ」
「いつもの借りてもいい?」
「ご自由にどうぞ」
 アイチが櫂のコートを借りたいが為に、わざと薄手の上着を着てきていることを櫂は知らない。アイチはここのところ、ずっと借りている黒いブカブカのロングコートに袖を通してコッソリと笑った。櫂がつけている香水の香りが、仄かにするのである。
 くるくるとリビングの中心で回っているアイチを眺めながら「早く靴を履け」と呆れたように言って、櫂は今年のバレンタインはどうしようかとぼんやり考えていた。
 いつものように妥当にチョコレートケーキか、少し凝るか。後でアイチに選ばせようと、玄関でモタモタと靴を履いている本人のつむじを見下ろしながら考える。
 ファンとの交流が大切なことは分かる。しかし、それよりも知らない誰かからのチョコレートやメッセージよりも、櫂はアイチになにを食わせてやろうかと考えることの方が、毎年忙しいのであった。