足腰立たなくしてやる

 アイチはベッドの上で櫂と膝を突き合わせ、目を合わすことも出来ずに俯いていた。胸に何かが詰まってしまったように、言葉が出ない。
 しかし対する櫂はあぐらをかいたまま、気怠げに自身の膝に頬杖をついて、何も言わなくなったアイチのつむじをジッと見つめている。
 右巻きなんだな、と丸い頭を眺めてぼんやり考えていた。互いの意識の温度差は相変わらず激しい。
 この二人、どこまで行ってもちぐはぐでありながら、最終的になぜか足並みが揃うという妙なバランスの上で成り立っている。
 恋人とは言い切れないが、友人と言うにも違和感のある関係。
 告白らしい告白も、互いにし損なったまま。なにかの拍子に「好きだ」と好意を伝えた記憶はあるが、それがいつのことだったのかはあやふやで、改めて言うのも今更なような気がして結局そのままである。
 だが、櫂もアイチも二人そろって言葉に重きを置く性格でもなく、強いて言うなら恋人なんじゃあないか、と言ったいい加減な関係が今日までずっと続いてきた。
 アイチは櫂がどんな形であれ、自分に触れて笑いかけてくれるなら、他はどうでも良いと考えている。愛だの恋だの、そう言った複雑な感情を理解するにはアイチはまだ幼すぎて、分かっているのは自分が櫂のことが大好きだということだけ。櫂がその気持ちに応えてくれて、更には「オレも」と言ってくれることが泣きそうなほど幸せだった。
 アイチはそれさえあれば、他はなにもいらない。いらない、はずであった。
 近頃、櫂に習った大人のキス──いわゆるただのディープキスなのだが、アイチの中ではそういう認識なのである──を経て身体に触れ合い、そして先日、何を隠そうこの二人は目出度くセックスをした。
 否、訂正しよう。しようと、した、が正しい。
 つまり未遂である。
 原因は色々あるのだが、アイチが前戯の途中に「恥ずかしくて死にそう」と歯医者のごとく右手を挙げて申告した為に中断されたのが主な理由である。
 さすがの櫂もアイチに羞恥で死なれたら困る、と言うよりは、やはりコイツにはまだ早いのかも知れないと思い直した結果、身体を起こしてあっさりとアイチにパンツを履かせるに至った。
 あのまま強引に事を進めてもアイチは受け入れたであろうが、年上の自分がアイチの言葉に耳を貸さないのは一人の男として情けないと考え、あくまでも理性的に振る舞ったのである。
 だからと言って身体の熱が引く訳でもなく、アイチをベッドに残して「トイレに行ってくるから」と櫂が告げたのは言うまでもなく、そしてアイチはそんな櫂を見て、決して無知な訳ではない少年は多くを察して「もしや自分はとんでもなく身勝手なことをしてしまったのでは」と深い自己嫌悪に陥った。
 それが、数日前のこと。
 そして今日。アイチは意を決して、櫂に「このあと家に行っても良いですか」と訊ねた。
 あまりそう言うことを言ってこないこの少年が、何を考えているかなど櫂はアイチの顔を見るや否やすぐに察して「構わないが」と、他には何も言わずに許諾。あまりに無茶なことをしようとしたときだけ止めてやろう、と考えていた。
 櫂は、アイチの意志を出来る限り受け入れてやりたいと、いつだってそう考えている。ヴァンガードが関わると何より厳しい男であったが、人間関係を築く上では否定から入ることは殆どない。
 それが彼なりの愛情表現に他ならず、アイチを可愛がっている証拠だった。
 そういった前置きがあり、今、ここで二人はベッドの上で改まって向かい合っている。
 しかし、アイチはここからどうしたらいいのか、正直分からなかった。はしたないと思われるのも怖いが、せっかく覚悟が出来たのに、また櫂を振り回すのはもっと怖い。櫂はいつ助け船を出してやろうかと呑気に考え、それでもアイチがなにか行動をとるのを待ってやっている。それまでは、アイチの右巻きのつむじを眺めることにした。
「か、櫂くん」
 思ったより早かった。今にも裏返りそうな声でアイチに呼ばれ、櫂は「ん」と普段のように短く返事をする。
「なんだ」
「あ、あの、あのですね」
 恐る恐る、という風に顔を上げて、泣きそうな目で櫂を見る。まるで自分がそうさせたような気持ちになり、櫂は居心地の悪さに顔をしかめた。
 この男、アイチに泣かれると存外弱いのである。
 そんなことは知らないアイチは櫂の表情になにを勘違いしたのか、待たせすぎて怒らせてしまったと解釈し、眉を可哀想なほど八の字に寄せると「えっとね」を何度も繰り返して、顔を上げたり下げたりと忙しない。
 ぼくはなんてダメな男なんだ、と何度目かの懺悔をしながら手汗で濡れた手をズボンで拭き、そのまま小さな拳を握りしめる。アイチは一度呼吸を止めて、深く吐き出し、覚悟を決めて櫂の目を見た。
 大好きな翡翠の瞳。恋い焦がれた優しい色。
 そして出た言葉は、あまりにも、あんまりであった。
「え……………………えっちをしませんか……」
 アイチはやや前のめりで、思ったよりもハッキリとした口調で、そう告げた。
 これがバラエティー番組の収録で、櫂がコメディアンであれば間違いなく派手にずっこけていたであろう。
 紡がれた言葉は思った以上に単刀直入であり、先ほどまでの恥じらいはどうしたんだとツッコみたいことは山ほどあったが、これもまたアイチらしいと言えばアイチらしい。なんだか笑うのも可哀想で、櫂はポーカーフェイスに努めようと一度咳払いをしてごまかした。
「恥ずかしいんじゃないのか」
「は……恥ずかしいです」
「またパンツ脱ぐんだぞ」
 櫂の言葉にアイチは困った顔をして「脱ぎます」と唇を尖らせながらボソボソと言った。櫂にはその言葉がアイチの本心なのか、ただ自分に合わせてきているのかが、判断できかねる。
「無理強いは趣味じゃない。あんなの、そもそも我慢してまでするようなもんじゃ」
「櫂くんは」
「あ?」
「櫂くんは恥ずかしくないの?」
 アイチに問われ、なんと答えるべきかを櫂は考える。恥ずかしいか、恥ずかしくないかで言えば別に恥ずかしくない。だが、なぜそれが恥ずかしくないのかという理由を、悩んでいるアイチにはちゃんと伝えてやるべきではないかと感じた。
 櫂は必要性を感じない対話は好まない。周囲には何も言わずに黙って行動に移し、そして片づける方が効率がいいと考える男だった。
 だが、これは“二人”のことである。個と個の話では、済ませられない。
 言葉が足りない部分は行動で補ってきたが、こればかりはそうとはいかないのである。
 まるでそれしか知らないように、全身全霊で自分を好いてくる、健気で小さな存在を不器用ながらも櫂なりに大切にしたいと思っていた。
 櫂は再び俯いてしまったアイチの、右巻きのつむじを眺めて口を開く。
 そして出た声は、思ったよりも優しいものだった。
「お前と一緒になれるなら全部小さく思えるからな」
 アイチは自分の握りしめた手を見つめたままだったが、櫂の言葉を聞いて自然と視線を上げた。
 少し濡れた、吸い込まれそうな青い瞳。櫂が何より、愛おしく感じる淡い色だった。
 目を合わせてふっと分かりづらくも微笑んでやり、大きな手でアイチの頭を撫でる。
 今日はここまでだとしても、かなり前進したように思う。焦らなくても良い。なぜなら、二人にはまだこの先も多くの時間が残されていると櫂は確信していた。
「アイチ、今日はここまでだ」
「へ、は、はい」
「ま。貸しというやつだな」
 実際はそんな風には思っていないが、アイチに気負わせないようにわざと意地悪を言って目を細める。だが、貸しという言葉にピンと来ていない小動物は首をコテンと傾げており、そんなとぼけたアイチの様子が可愛い。櫂はなんだかちょっかいをかけたくなって、手を伸ばしてアイチを抱き寄せると二人してベッドの上に倒れ込んだ。
 甘い匂いのする髪を耳にかけてやって、小さな耳に唇を寄せるとアイチが大げさに肩を跳ねさせるのが面白い。わざとリップ音を立てながら耳の縁にキスをしてやれば、腕の中で「ひょわ」と妙な鳴き声が聞こえた。
「その時がきたら足腰たたなくしてやる」
 すでに今の時点でこの調子だと言うのに、櫂の言う“その時”が来たらどうなってしまうというのか。
 擽るような低い声が脳を揺らして、アイチは櫂の一言に思春期らしい、言葉にするのも恥ずかしい妄想を張り巡らせてはなんとか頷くので精一杯だった。
 先日は、確かに恥ずかしさが勝っていたというのに。
 すこし、ほんの少しだけ。今はそんな恥ずかしさも小さく思えるほど、自分がその先を期待してしまっていることに、アイチ自身はまだ気づいていない。