​二度寝日和

 肌を撫でる空気が少しだけ冷たくなり始めた、そんな日の朝。
 けたたましい目覚しがなったわけでもなく、世話焼きな妹が起こしに来たわけでもない。アイチは自然と朝に呼ばれ、目を覚ました。
 見上げるのは知らないような、知っているような天井である。また覚醒しきっていない頭でぼんやり見上げていると、自分以外の寝息が聞こえることに気づき、ふと隣に目を向けた。
 無防備な状態だと言うのに何故か隙を感じさせない、端正で、どこか非現実的な寝顔があった。アイチは、“それ”を初めて見る。思い返すと、自分が彼より早くに目を覚ますことが今までなかったのだ。
 色素が薄く、嘘みたいに長い睫毛が呼吸とともに揺れている。カーテンの隙間から漏れる朝日が照らす白い頰からは、血の気が感じ取れなかった。
 まるで人形か、あえて言うなら植物のようにも見える。
 あまり、人の容姿に対して関心を抱いたことがないアイチでも、彼は群を抜いて整った部類に入る存在なのだと云うことを改めて理解し、そして呆気にとられた。どうしてそんな人が隣に寝ているのだったか、急に現実が疑わしくなって数秒。
──ああ、えっと。昨日は泊まらせてもらったのだっけ。
 ようやく、頭が働き始める。同時に昨晩の記憶を辿ると気恥ずかしくなってきて、アイチは隣で寝ていた――櫂から身を捩り、少し離れた。布団の下で、膝が触れていたのだった。
 しばらく顔を伏せて櫂の単調な寝息に耳をすましていたアイチであったが、暫くしてベッドに寄り添うサイドテーブルへと静かに手を伸ばし、自分のスマートフォンを手に取る。時刻は七時を表示していた。
 塾に通い始めた頃に母が持たせてくれた携帯電話。今まで友達らしい友達もいなかったアイチにとっては無用の長物に等しい存在だったが、最近は家族以外とも連絡することが増え、ここに来て初めて役に立ち始めている。
 そしてなにより、この精密機器が本領を発揮するのは通信機としてだけではない。
 デスクトップからカメラのアイコンを探し出し、アイチは息を潜めてタップした。音も立てずにアプリケーションが起動すると、液晶に櫂の寝顔が映る。
 罪悪感と緊張感。バレたら怒られそうだと分かっていながら、櫂のことになると妙にアグレシッブになるアイチは「儘よ」と呼吸を止めて撮影のボタンを押す。
 カシャ。
 静かな部屋に響く、無機質な電子音。自動保存された櫂の寝顔に、布団から飛び出して小躍りしたくなる気持ちを抑えた。アイチは櫂の写真というものを、持っていなかったのである。何せ、彼が快く被写体になってくれるとも思えない。
 えへへ、と目を細めて写真を見返して、やり終えたような気持ちになるとスマートフォンを胸に抱いた。
 滅多に見れないような写真が撮れてしまった。早起きは三文の徳、いいや、それ以上だと浮かれた気分に酔う。
 花が舞っているような笑顔のまま、寝相を装って櫂に引っ付き、彼の胸に顔を押しつけた。
 優しい鼓動を子守歌にして二度寝を始める前にもう一度、櫂の顔を見ておこうと視線を上げる。
 吸い込まれそうな、緑の双眼と目が遭った。
──目が、遭った?
 固まって、目が遭ったということは、何を意味するのかということをアイチが理解して飛び上がるより早く“起きていた”櫂は身を乗り出す。
 この男、撮られる前からシレッと起きていたが、小動物の観察が面白かったため、お約束通り狸寝入りをしていたのである。
 浮かれた顔から一転、可哀想なほどに挙動不審になり、身振り手振りで何か誤魔化そうとしているアイチの慌てっぷりなど気にも留めず、そのまま小さな体を腕の中へしまい込んでしまうと、自分と同じシャンプーの香りがする丸い頭の上に顎を乗せた。
 互いに服を着ている状態でも、素肌が触れる部分が熱い。アイチが真っ赤で燃えそうな顔を震わせながら「あああああの、あの、ごごごごごめんなさ」と謝罪の言葉を口にしているが、それら全てを聞き流し、櫂は返事さえしなかった。
 けれど、見えないところで存外楽しそうな顔を――否、周囲からすると普段と変わりないのだが――している様子を見ると、怒っているわけではないようである。
 こんな時ばかりは、出会った頃の無邪気だった少年時代へと帰るのであった。一人で忙しく、慌てふためいているアイチが面白い。
 次は何やら言い訳じみたことを長々と口にしているアイチであるが、櫂がそれに耳を傾けることはなく、「朝から元気だな」と思うだけである。
 そうして満足した頃に茹で上がった頰を撫で、顔を向き合わせると涙目で溶けそうな、大きな青い目が櫂を見上げた。
 途端に、先ほどまで矢継ぎ早に何かを話していたアイチの小さな口は固く閉じられ、何も話さなくなる。
 まるで子犬か何かをいぢめている気分になった。
 なお、櫂にはそんなつもりは毛頭ない。
 写真の一枚や二枚、アイチに撮られたところで騒ぐことはないというのに、この幼い恋人は些か気にしすぎているところがあった。
 写真を撮られること自体は、確かにあまり好きではない。
 アイチ以外の第三者の場合、状況によればカメラを向けられただけで嫌悪感さえ抱くこともあるが、それらとアイチは櫂の中で全く別モノなのである。
 しかしながら、人の寝顔をデータとして、アイチが残そうとした心理を櫂は理解していなかった。
 年若いにも関わらず、どこか昭和の男じみた彼には乙女心というものがイマイチ分からない。
 櫂からすれば、特にアイチなどは写真といった媒体で見るより、多少喧しいが表情をコロコロと変えている現物の方が面白いと思う(だからと言って、自分がアイチを楽しませているかどうかは定かではないが)。
 けれど、それはそれとして。アイチが自分の一瞬を記録し、嬉しそうに笑っていたのは悪い気はしない。
 すっかり黙りこくってしまった恋人の、少し寝癖のついた藍色の髪を撫で、自ら白い指に絡ませると櫂の口元は控えめな笑みで崩れた。
 アイチは、その些細な表情の変化に見惚れる。
 綺麗だったのだ。
 また頰が赤くなって、俯いた。
「イメージだけで良いのか? アイチ」
 アイチは、何も応えなかった。
 少しの間のあと、問いに対して言葉を返すのではなく、少年は遠慮がちに年上の彼へと抱きつく。
 アイチの腕の長さでは、櫂の成熟した体の厚みに対して腕が背に回りきらない。その代わり、ギュッとシャツを掴んで離さなかった。
 感情が突き動かすままの行動とは、時に言葉よりも雄弁である。
 優しい朝だった。シーツの中で、二人は体温を混ぜ合わせるように足を絡ませる。
 櫂も、しがみつくような小さな背に腕を回して、祈りを捧げるかのように髪にキスをした。 
 朝はホットサンドでも焼いてやろうかと思っていたが、このままもう一度寝直すのも悪くないと、腕の中にアイチを閉じこめたまま目を閉じる。
 いつかコイツの、すっかり見慣れた寝顔も撮ってみるか、などとらしくもないことを考えながら。