めしあがれ

 オフシーズンということもあり、先日恋人が帰国してきたばかりの伊吹はいつもより少しだけ、どこか顔色が明るい。
 櫂が帰国でもしないと一向に減らない有給を何日か消化した後の休み明け。
 それでも頼れる伊吹本部長は、今日も今日とて普段通りスマートに仕事をこなし、相変わらず周囲からは尊敬の眼差しを向けられていた。
 先日とった休日の数日間もやはり満たされるものであり、櫂と過ごす日々が自分にとって如何に特別かを思い知る。
 今より若い頃は遠距離恋愛だからこそ上手くいっているだけじゃあないかと不安に思うこともあったが、高校生のころから交際を始め、なんやかんやと別れと復縁を繰り返しつつも十年以上も一緒にいると、自分にはやはり櫂しかいないのだと伊吹は思うようになっていた。
 今日も帰れば、櫂がいる。
 おかえりと笑って、手料理を作って待ってくれていて、そして夜には一緒に眠れる。
 休み明けだろうとなんだろうと、待っている櫂のことを思えば、伊吹はいっそうやる気が出るのだ。
 普段なら適当に済ませる昼食も、帰国している間は高校生の頃のように櫂が弁当を持たせてくれてた。栄養バランスが考えられつつも、彩りも考慮され、そして伊吹の好物が詰められた宝箱のような弁当。
 本部長室にて、珍しくきっちり昼に仕事を終わらせる伊吹は心なしか浮かれた様子で通勤鞄を開く。
 片付いた机上では、櫂が淹れてくれた小難しい名前の──何度か教えられたのにあまりよく覚えていない──紅茶が入っているタンブラーだけが、その様子を見守っていた。
 コーヒーばかりだと胃が心配だから、などと言って持たせてくれた櫂のことを思い出して、鼻歌でも歌いそうになりながら鞄の中を漁るものの、暫くして徐々に顔色が変わる。
 一度カバンを置き、床を見渡し、ジャケットのポケットにまで手を突っ込んで確かめ、そして最終的には固まった。
 ──弁当箱を、台所に忘れてきてしまった。
 伊吹は項垂れる。
 車に乗って来ているのであれば取りに帰るのも容易いが、今日は櫂の運転で送ってもらったのだ。
 仕事中も櫂の手料理が食べられると昼まで頑張ったのに、タンブラーだけを鞄に入れて弁当箱を忘れてきてしまうなど。
 伊吹は自分の他には誰もいない、だだっ広い執務室内で「あー」だの「うー」だの唸りながらデスクに突っ伏す。
 櫂の手料理を食べられないことも、確かに悲しい。
 けれど、せっかく作ってくれたものを、昼食として食べられないことが何より悲しかった。
 櫂の気持ちも、時間も、全て無駄にしてしまったような消失感。
 少しの間。スイッチが切れたように動かなくなった伊吹であったが、大きなため息のあと、顔を勢い良く上げる。
 そして先程しまったはずのタブレットを開き、再び仕事に戻るのであった。
 悲しみを仕事で紛らわせるのが、伊吹コウジの常套手段である。
 今さらコンビニだのファーストフード店などに行く気にもならない。櫂にはあとで謝罪のメッセージを入れておこうと、無心でタスクを片付けている伊吹のスマートフォンに、一通のメッセージが入る。
 社用携帯ではなく、プライベート携帯に。
 伊吹は首を傾げて手を止める。そした自身の赤い端末を確認すると、目を見開いた。

 ◇

 普及協会本部から、少し歩いた先にある駐車場。そこには見慣れた外車が停まっており、呼び出された伊吹は小走りで駆け寄る。
 フロントガラスを覗き込むと、運転席には櫂がいた。
 伊吹の到着に気づいた櫂が笑って、「乗って」とジェスチャーを送る。大人しく言われた通りに助手席へ乗り込む伊吹。
「櫂、わざわざすまない」
「いいよ。朝、忙しいもんな」
 忘れもの、届けに行くから──とメッセージが入ってすぐ、櫂からこの場所で待っているとの連絡が入った伊吹は、忘れ物が弁当箱であることを察して、慌てて執務室から出てきたのだ。
 そこでふと、弁当箱を渡すだけなら窓からでもいいのに、櫂がわざわざ自身を助手席に座らせたことについて今さらどうしてだろうと疑問を抱く伊吹。
 何を始めようというのか、不思議そうに首を傾げて櫂を見守っていると、次に後部座席から取り出した板のようなものを助手席前へと設置し始める。
 それは、簡易な車用テーブルであった。
 伊吹はついになにかを察して、隣の櫂の顔を見る。
「本革シートの上で飯食えってか!?」
「赤ん坊じゃあないんだからそんなポロポロこぼさねぇだろ」
「緊張感がすげぇんだよ!」
 青い顔をしている伊吹をよそに、櫂は淡々と忘れてきた弁当箱をテーブルの上へ乗せ、二つあるドリンクホルダーには朝に持たせたのとは別の茶を淹れたタンブラー、そしてなにか一手間加えたいと、急遽作った暖かなオニオンスープを水筒から注いで設置する。
 最後は弁当には入れる事のできない、新鮮な冷たいサラダと手作りドレッシングも添えて。
 見る見るうちに豪華なランチセットが目の前に広がり、唖然とする伊吹。
「これなら職場で食うより楽しいだろ。明日も持ってきていいか?」
「いや、おまえ、帰国中でも仕事あるだろ……」
「俺も伊吹と飯食いたいし、名案だよな」
「聞けよ」
 有無も言わせずに櫂は笑って、伊吹に「召し上がれ」と告げる。
 そしてちゃっかり自分の分も持ってきているらしく、同じくハンドルに固定するタイプの車用テーブルを設置してから、サンドイッチらしきものを取り出した。
「今日の帰りはどっか食いに行こうか。こないだ帰国したときに行けなかったイタリアンのとこ、ずっと気になってて」
 伊吹は他愛のない話をする櫂の言葉に耳を傾け、その間も目の前の美味しそうな食事をジッと見つめるだけ。
 櫂は自分用に作ってきたサンドイッチに齧り付きながら、未だ手を付けようとしない伊吹に、やり過ぎただろうかと首を傾げた。
「食欲ない?」
 問うと、伊吹は黙って首を横に振る。
「……また、見送るとき寂しくなるの嫌だなって思っただけ」
 櫂がしてくれる全てのことが嬉しくて、やっぱり好きだと何度も何度も再確認して、自分も何かをしてやりたいと思い、そして櫂が再びフランスへ戻る頃、言い表せないほどの寂しさが伊吹を襲う。
 心は、今も慣れてくれなかった。
 今はもういい大人なのだから──そう理解はしていても、好きな人と離れることは何度も繰り返されても慣れはしない。
 伊吹の普段より幼く見える横顔を見つめ、櫂は食事の手を止め、サラダのプチトマトをつまむ。
「あーん」
 そしてイタズラっぽく笑って、伊吹の唇に、赤くてみずみずしいプチトマトを押し付けた。
 伊吹は観念したように口を開き、大人しくプチトマトを口に含む。
「今回のドレッシング、ちょっと酸っぱすぎるかなって。いつもの和風のが好きか?」
 小動物のように咀嚼する伊吹を見守りながら、櫂は目を細める。
 伊吹は首を横に振り、ゆっくり嚥下すると呟いた。
「……おいしい」
 そして、ようやく箸を握って、一度は諦めかけた櫂の弁当を口にし始めた。
 伊吹が、無言で食べ進めるのを幸せそうに見つめて、櫂もサンドイッチに再び齧り付く。
「……寂しくなるからって味気ないことしてごまかすより、俺は伊吹と一緒にいる時間、一分も一秒も無駄にしたくないかな」
 暖かなオニオンスープへ手を伸ばして、伊吹は櫂の言葉に顔を上げる。
「不安になるなよ、伊吹。俺の帰る場所は、もう、お前の隣しかないんだからさ」
 そう言って、櫂は太陽のように伊吹に笑いかけた。
 絶対に帰ってくるから、そんな顔しないで──その笑顔が、瞳が、どんな言葉よりも力強く伊吹の心を支える。
 眩しくて暖かい。
 いつもはおざなりにしている食事が、櫂といるだけでこんなに深い意味を持つのだ。
 伊吹はなにも言えずに、ただ頷いた。

 自分の不注意だというのに、少しだけ、弁当を忘れてきてよかった──などと考えながら。