よんで。

 さほど広くはないシングルベッドの上で、櫂と伊吹は肩を寄せ合いながら他愛もない話をしていた。
 先ほどまで獣のように求め合っていたとは思えない、冗談まじりの話し声。周囲から実年齢よりも上に見られがちな二人は、こんなときだけは年相応に見えるのであった。
「──それでレンが」
 雀ヶ森、と呼んでいた伊吹の口から、レンという名前を聞くようになったのはいつからだったか。
 聞き始めの頃こそ、テツのレン呼びがウツってしまっただけで、さほど深い意味はないのだろうと思っていたものの、いつしか伊吹の口から「レン」と聞くことが増え、それが定着していたことに気づく。
 いい傾向だと、櫂は思う。
 一見、相性もあまりよくなさそうな伊吹とレンではあったが、聞く限りだと思いのほか二人は福原の主力コンビとして仲良くしている様子であった。
 伊吹はその優秀さと、たまに見せるほっとけなさから年上などから可愛がられるのは得意だが、あまりに超人すぎるがゆえに同級生からは距離を取られやすい傾向にある。
 だが、同じく超人の──伊吹よりもトンデモなところがある──レン相手には、そんなものは一ミリも通用しない。
 レンから言わせてみれば超人の伊吹ですらも福原の愉快な仲間たちの一人に他ならず、イブッキーはたまに抜けてますよねぇ、もしかして天然なんですか、などと早くも伊吹の本性に気が付きつつある。
 このように個性の塊が服を着て歩いているようなレンに、最初こそ伊吹も「アイツは意味がわからない」と嘆いていたのも過去の話で、今やすっかり数少ない友達の一人としてレンをカウントしているようであった。
「……なにニヤニヤしてんだよ。ねみーの?」
 どうやら、笑うべき部分でないところで思わずニヤけてしまっていたらしい。
 伊吹の成長が嬉しいあまりに、表情のコントロールが上手くいかないときが櫂にはあった。
「いや、伊吹がレンたちと仲良くて嬉しいなって思ってたら、つい」
 櫂がそこまで言うと、伊吹はキョトンとして、少しずつぎこちなさそうに視線を逸していく。
「べつに仲良くねぇし」
 子供か。櫂は思いながらもツッコまなかった。
 例えばレンから「別にボクたち仲良くないですよ」なんて言われたらしっかり傷つくくせに、相変わらず距離のとり方が稚拙というか、なんと言えばいいのか。
「でも放課後に飯食いに行ったんだろ」
「それはテツが無理やり……」
 ──テツ。
 櫂は笑顔のまま固まる。
 テツね、テツ。まぁ、一緒にいたら、呼んでしまうよな、と強引に自分を納得させようとして、口の端が痙攣した。
 なぜ、レンは微笑ましくてテツや──伊吹がよく話題に出す、大学生の安城マモルなどは妙に引っかかるのだろう。
 などと言いつつ、実際はそんなこと、考えなくとも分かっていた。
 世話焼きで、余裕があって、多少のワガママや伊吹の皮肉にも動じず、なんやかんやと言いながら伊吹を認めてくれる──年上の男たちだからである。
 世話を焼くのも好きで、それなりに精神的余裕もあると自負しており、伊吹のワガママも皮肉も慣れきっている櫂が唯一、持っていないもの。
 それは年上の男という属性であった。
 厳密に言えば伊吹は早生まれであり、年齢的には櫂は伊吹よりも年上であったのだが今はそういう理屈の話ではない。
 なにも年上でなくとも、櫂は伊吹にとんでもなく、これほどまでか、というくらいには好かれている自覚がある。伊吹本人の口から実際思いの丈を聞けたことは数少ないが、本人が隠しているつもりでも態度があからさまなので流石の櫂でも自覚するほどには好かれているのが実情だ。
 しかし──伊吹は年上の男に弱い。
 先述したような男相手だと、すぐに懐く。
 そして無自覚にほっとけない一面を曝け出して、世話をされるのがうまかった。
 それは微笑ましい光景で、相手も伊吹を可愛い後輩くらいにしか思っておらず、下心など一ミリたりとも抱かないだろう。抱かせてたまるかというのが本音であったが。
 万が一抱いていたとしたら、それはそれで、あくまでも冷静に櫂は相手と話し合う必要があると思っている。
 そもそも、櫂と付き合うまでは女性経験もあった伊吹が、己以外の男にフラフラとついていく想像など、たとえイメージであっても櫂はしたくなかった。
 伊吹にとっての男は、自分だけであってほしいと思ってしまう。
 ただ、伊吹は年上が好きだ。これは確かである。思い返せば、付き合ったことのある女性ですらも年上であったと聞いていた。
 男に限らず女の好みも年上であったことまで思い出して、伊吹にその自覚があるのか否かは定かではなかったが、端から見ている櫂がそう感じるのだから、間違いではないだろう。
 最近学校であったことを両親に聞かせるかのように話す伊吹にウンウンと頷きつつも、
「それで、櫂が前に言ってたのを、テツと──」
 という何気ない言葉に、ついに笑顔を引きつらせた。
 櫂とテツ。そのうち、安城マモルのこともマモルと呼びそうな勢いである。
 この差はなんなのか。
「……なぁ伊吹」
「ん?」
 お互い、先程までやることをやっており、もちろんシーツの中は全裸である。
 そもそもこの関係が始まったのもセックスが最初で、それから逆行するようにキスをして、手を繋いで、デートらしいことをしてきた。
 だから、やはり今こそ、その段階ではないだろうかと櫂は思う。
 これはこじつけにすぎない。
 櫂は、ヤキモチのような──否。正真正銘のヤキモチを焼いていた。
 なんで俺のことは櫂なんだよ、という小学生レベルの薄っべらい嫉妬である。
「俺のこと名前で呼ばねーの?」
 己の情けなさに思わず声が掠れた。
 唐突な櫂の問に、伊吹は何度か瞬きする。
「……名前で?」
「トシキって」
「お前も伊吹って呼んでんじゃん」
 ごもっともである。
 お互い、イブキもカイも、響きが下の名前のようであるため、なんとなく馴染んでしまっている節があった。
 櫂は腕に己の顔を埋め、また顔を上げた。
 忙しいやつだなと眺める伊吹。
「じゃあコウジって呼ぶか」
 櫂があっさりと転換すると、伊吹は眉間にシワを寄せる。
「顔に名前が合ってないって空手部で言われまくったからあんま好きじゃないんだけど」
「顔に似合わないってどういう評価だよ」
「白いから、安直にコユキとかフユトとかなら似合うって言われた」
 かつての空手部員たちの言わんとすることはなんとなく分かる。たしかに、コウジという名前は繊細な顔つきの伊吹にしてみれば少し浮きそうな響きとも言えた。
 しかし櫂にとっては、コウジという響きから伺える地に足がついた、ドッシリと構えている様子が伊吹によく似合っており、とても良い名前だと思っているのだが。
「父ちゃんとじいちゃんの名前から取ったんだろ。近頃は見かけないし、いい名前だ」
「どうだか。子供の名前を考えるのですら時間が惜しかったから適当につけたってこともあるけどな」
 仕事が多忙な両親からさほど愛情を注いでもらえなかった伊吹は、すっかりこの手の話題も斜めに構えきっている。
 だが同じく、両親に苦労をかけられてきた櫂はその姿勢を咎めることもなく、伊吹の刺々しい言葉に「そんなことねーって」と柔らかく否定するだけであった。
 無理やり親との仲を取り持ってこようとしてこない、櫂の淡白なところが、伊吹にとってはそれもまた心地が良さの一つでもある。
 伊吹は無性に甘えたくなって、隣の櫂に凭れた。
「……名前で呼んでほしい?」
 櫂の、顔にかかる前髪を指で摘む。
「ちょっとだけ。二人のときだけでもいいから」
 素直に甘えると、伊吹は櫂を一瞥して、枕に顔を押し付けて少し笑う。
 なんだよ、とその身体に覆いかぶさるように楽しげな櫂は伊吹を抱きしめた。
「……トシキ?」
 枕から少し顔を離し、チラッと背後の櫂を伺う伊吹の目は、少しの照れと、子供のような櫂に抱く愛しさが混じっている。
 櫂にとって、伊吹は恋人だ。
 先導者で、しかし友と言うには少し歪であっても、ただ、櫂は伊吹を愛していた。
 くだらないことで時に妬きもするし、名前を呼ばれるだけで、少し顔が熱くなるくらいには。
「……もっと」
「なんだよ……トシキくん?」
 もぞもぞと身じろぎ、見下ろしてくる櫂と向き合うと、伊吹は下から手を伸ばして両頬を手で包む。
 伊吹の形のいい唇がまたトシキと呼んで、櫂はたまらず、噛み付くようにキスをした。ほとんど同時に舌が絡んで、シーツの下で櫂の悪い手が伊吹の身体を撫でる。
「ん……またすんの……?」
「する」
「明日平日なんだけど?」
 などと言いながら、伊吹もスイッチが入ってしまったらしく、その長い脚を櫂に絡めて離そうとはしない。
 睫毛が触れ合いそうな距離で見つめ合って、櫂が「コウジって呼んでいい?」と問えば、伊吹はまた可笑しそうに目を細めて「好きにすれば」と頷く。
 ただ名前を呼び合うだけで、こんなに特別な気持ちになれるのは、生涯きっと伊吹だけじゃあないかと。
 満たされた櫂は浮かれた頭で考え、再びキスを交すと乱れた伊吹の髪に指を通した。