揺れる髪

 蝉の声もそろそろ聞こえ始める頃、伊吹は暑苦しい己の髪を手慣れた様子で一纏めにしていた。
 特に意味もなく中学生頃から伸ばし始めたこの髪も、高校生とやった今では切るのも躊躇われ伸ばしたまま。
 しかしこの季節、髪の一本一本が太く、そして毛量も多い伊吹の頭髪は熱がこもって仕方がない。
 そろそろ、美容院に行くべきか。
 ゆるく団子に結んだあと、ため息を少し。
 伊吹は──美容院が苦手である。意外でも何でもなく、まさしく見たままの、印象通り美容院が苦手であった。
 まず、背後に立たれることも髪を触られるのがそもそも得意ではない。そして特に内容のない会話を相手にさせてしまうことも、それに対してしっかりとした受け答えができないことも含め、一から十まで苦手である。
 けれど人の手を加えなければ髪も伸び続ける一方であるため、行かないという選択肢は選べない。
 自分で切れるほどの自信もなかった。
 伊吹は髪を触られても、後ろに立たれても、話し続けるのも苦ではない美容師がいたらいいのに──などと夢想して、そしてただ一人の姿を思い浮かべるのであった。
「……櫂が美容師ならな……」

「整えるくらいで良かったら切ってやろうか?」
 なんでも言ってみるものである。
 櫂に美容師の件を話してみたところ、なんでもないように櫂に問われた伊吹はキョトンとした。
「え……髪切れんの?」
「整える程度な。当然、大したこともできないから俺に切らせるより美容院行くのをオススメするが」
 夕飯の支度をしている櫂は笑いながらエビの背わたを抜く。今日の夕飯はエビグラタンだと、先ほど教えてくれた。
 学校終わりだというのにテキパキと家事をこなしていく櫂を眺めながら、コイツに出来ないことってむしろなんなのだろうとたまに途方もないことを考える。
「いいよ、整えるくらいで。切ってくれ」
 なにか手伝えることはないかと機会を伺いつつ伊吹が言うと、櫂は「じゃあ土曜くらいでいいか?」と、当たり前のように伊吹が週末もこの部屋にやってくると見越して提案した。
 少し、胸のあたりがくすぐったくなる。
「ああ、それでいい」
「熱がこもって暑いなら、梳くくらいにしよう。長さはそのままで」
「別にオレは別になんでもいーけど……」
 内側からジワジワと広がる熱さえどうにかできたらいい伊吹は、さほどこだわりはない。そんな本人よりも妙に長さに拘る櫂に首を傾げていると、伊吹の視線に気づいた櫂が口を開いた。
「伸ばしててほしいな、俺は。伊吹の髪、好きなんだ」
 これまで、好きだと言われたことは少なくはないが、容姿についてどこがどう好きであるかをじっくりと言われたことはない。
 それに、今まで意味もなく伸ばしてきた髪だ。愛着もそれなりにはあったが、櫂に好きだと言われた瞬間、それが一気に特別なものになっていく。
 伊吹は自分の髪のひと束を指に絡ませた。
 白いようで灰色っぽくも見える、なんとも言えない妙な髪色。
 確かに、ベッドの上でも櫂はやたらと髪を触ってきていたな──と思い出し、伊吹はようやく口を開いた。
「……お前が好きなら、勝手にすれば」
 櫂が、そうしたいと言うのなら。
 些細なところから、こうして櫂に染められるのが好きでもあった。
 自分の髪を眺めて視線をそらす伊吹の顔を盗み見て、白い肌と白い髪に対する、赤い頬と瞳のコントラストがやはり綺麗だと櫂は感じる。
 髪の長さはそのままで、同じく伸びっぱなしの前髪は顔が今よりよく見えるように、すこしだけ切らせてもらおう──などと企みつつ、櫂は「男前にしてやるよ」と軽口を叩くのであった。