キスの日。アイチは寝ぼけた頭で見た今朝のニュースでそれを知った。
背後でアイチの髪をとかす、過干渉気味の妹に「ちゃんと前見て食べないと、パン屑落ちちゃうでしょー!」と叱られながら見たので、それ以外の詳細や由来は知らないのだが。
そんな日の夕方、アイチはなぜか櫂と歩いていた。
時を遡ること数分前。カードキャピタルから出ようとしたとき、通り雨に見舞われたアイチは妙に気が利く三和の口車に乗せられるまま、気づけば傘を持っていた櫂に送って貰うことになっていたのである。
成り行きはどうであれ、嬉しい。中々二人でいれることなど、早々ない。
とは言え、アイチは歓喜を上回る緊張により、普段であれば「櫂くん櫂くん」と騒々しい口も今ではなにも言わなくなっていた。おまけに、一緒に帰れる口実となった通り雨も疾うに止んでしまっており、櫂は既に傘を畳んでいる始末。
(もう大丈夫だから帰っていいよ、って言うべきなのかな……)
それはあまりに、淡泊すぎやしないだろうか。ひどい奴だ、と思われるかも知れない。
けれども櫂の手を、いや足を、なにはともあれ、これ以上煩わせるのもいかがなものかとアイチは頭を抱えた。
櫂が一人暮らしをしていることをアイチが知ったのは、結構最近のことである。
そんな、暇とは言えない忙しい身である(と、アイチは勝手に推測する)彼に、自分を送らせてしまっている現状。
とてもじゃないが、耐えられない。
「あ……あの、あのね、櫂くん」
アイチが呼びかけても、櫂は前を向いて、ただただアイチの家の方向に向かっているのみである。
反応はこうだが一応人の話を聞いていることを知っているため、アイチはそのまま続けた。
言うんだ、言わないと、ちゃんと言わねば。
──ここまでで大丈夫だよ! 送ってくれてありがとう!
「……きょ……今日ね、き、キスの日なんだって……!」
脳内で用意していた台本とは一文字もかすっていない言葉が出てしまい、アイチはもう土に埋まりたいような気持ちになった。
ぼくのばっかやろー、と夕日に向かって叫ぶイメージをしながらヨロヨロと櫂について行く。
「……由来は?」
「えっ!? なに!?」
「だから、キスの日になった理由」
──あの櫂が、あの櫂が会話を続けようとしてくれている。
不憫にも、先ほどまで泣きたかったはずが、たったそれだけのことで嬉しくて今にも走り回りたい気持ちになるアイチは大忙しであった。
櫂が質問をしてくれたのである。絶対に、「ふうん」で終わると思っていた会話が、続こうとしている。
アイチはうつむきながら、緩む口元を隠して「ええとね」と言った。
だが、そこで気づく。
由来など、知らないことを。
冒頭でも述べたように、妹に世話を焼かれながら、叱られながら見ていたテレビの内容など覚えているはずなどなかった。
「ゆ、由来は……ですね」
「……」
櫂の視線。
ぼくの後頭部を見ても楽しくないよ、といっそ泣きたくなりながら「……ちょっと分からないですね……」と消え入りそうな声で呟いた。
「……そうか」
完。
再びアイチはイメージの中で夕日に向かって叫び、膝を抱えて転がった。
そうこうしている内にアイチの家の付近となり、こんな最悪なタイミングで貴重な時間を終えようとしている。
なんの成果も得られなかったどころか、櫂に変な気まで使わせてしまった。
しょんぼり、と肩を落としてトボトボと櫂について行く足取りは徐々に元気をなくす。
櫂はそんなアイチを視界の端で捉え、何かを言おうとして、やめた。とことん不器用な男なのであった。
「おい、ついたぞ」
櫂の言葉にアイチが顔を上げると、閑静な住宅街と見慣れた我が家。
「あ……う、うん!」
少し離れていた距離を小走りで詰め、家の前へと向かう。
「きょ、今日は送ってくれてありがとう! おかげで濡れずに済んだ……し……」
「……ああ」
途中で止んでいたが、とは櫂は言わなかった。
なにかもっと言うべきではないかとあたふたしているアイチをジッと見下ろしながら、一度目を瞑る。
「アイチ」
「は、は、は、はいっ!?」
櫂は身を屈め、指でアイチの顔の角度を固定させたまま軽く撫でるようにキスをした。
ぱちくり、と目を丸くさせるアイチに「キスの日なんだろ」と告げて、一歩離れるとそのまま踵を返す。
人ん家の前でなにやってんだか、と櫂は複雑そうな顔をして帰路へつこうとすると、「櫂くん!」と声がした。
振り返ると、耳元まで赤くしたアイチが道の真ん中で手を振っている。
「ま……また、あした……ね」
えへへ、と嬉しげに笑う顔が幼く、色気もなければ、ただただ無邪気である。相変わらず単純な奴だな、と思うものの、そんなところが可愛いと感じるのも事実だった。
「ああ」
櫂の背中が見えなくなるまでアイチは見送り、自分の唇に触れ、そのまま一度くるりと回る。
落ち込んでいたことなどすっかりと忘れて、今日は良い日だと玄関で妙な小躍りを披露した。
なお、翌日、親友に「手ェ出した?」と聞かれた櫂が、ジトリと無言の睨みを利かせたのは、言うまでもない。