ホワイトデー。それはアイチが生まれてこの方、今まで一度も意識したことのないイベントであった。
それどころか対となるバレンタインデーさえ、アイチの中では妹と母親からお菓子が貰える日という認識でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。ところが、今年は違う。なにが違うのかと言えば、そのバレンタインデーから違っていたのだ。
日ごろの感謝という建て前で、バレンタインデーにチョコレートを渡して“しまった”。
アイチはそもそもチョコレートを渡すことに乗り気ではなく、ミサキや三和の後押し──いささか二人が楽しんでいるように見えたのは気のせいだろうか──に根負けして、なぜか張り切っている妹にまで引きずられながら作ったに過ぎない。
乗り気でなかった理由については、チョコレートを贈ることが不本意であった訳ではなく、自分のような者が“彼”に渡してもいいのだろうか、といった自嘲混じりの遠慮が多くを占めていた。
渡したところで受け取って貰えるかどうかさえ、分からない。望みは薄いともいえた。相手が相手である。顔を見て拒まれたら、アイチはそれこそ立ち直れないと思った。三日三晩、いや半年、下手すれば年単位で落ち込む自信さえある。くよくよするのが何よりも得意な、後ろ向き全力疾走少年であった。
そんなアイチに対して、後押しをした一人である三和は「大丈夫だって」と何の根拠もなく励まし、「もしも断られたら話つけてやるから」と妙に穏やかでないミサキにフォローされながら当日が来てしまい──アイチは人生で初の、手作りのチョコレートを櫂に渡した。
アイチが人に手作りのなにかを渡すというのは遡ること幼稚園児時代、母に似顔絵を渡した時以来であり、そして親族以外にプレゼントを渡すのは紛れもなく人生初となる。
味は問題ないはずであった。
最初こそ妹の指導のもと、少し凝ったものを作らされそうになったが、ことごとく材料をゴミに変えてしまったために店頭で並べられている板チョコを溶かして固めただけのレシピに強制変更。これで味に問題があるとすれば一種の錬金術に値すると、アイチが顔を青くしながら行った味見に問題はなかった。
なので、プレゼントとしての最低ラインはクリアしている。
不器用なりにラッピングも頑張った、衛生面も問題ない、『いつもありがとうございます』と“他意などありません”と主張しすぎて一周回って怪しいメッセージカードも同封されたバレンタインチョコレートを、アイチは2月14日に恐る恐る櫂に差し出したのであった。
結果は、言うまでもない。
ホワイトデーである今日、アイチがどこか上の空である様子の通りである。
まさか受け取って貰えるなど。それだけで幸せだったアイチとしてはお返しなど思っても見なかったが、櫂に先日、ホワイトデーの日は空けておくように言われてしまったのだから、期待するなと言う方が難しい。
絶賛春休み中のアイチは珍しく妹に起こされる前に起きてきては朝からソワソワし、結局言われた時間よりも早く、待ち合わせ場所の公園に着いてしまって今に至る。
春休みに櫂に会える。長期休暇中もカードキャピタルに行けば会えることもあるが、それとこれとは別である。二人きりで一緒に過ごせるのだ──えへへと笑いがこぼれてしまうのが抑えきれずに、アイチは弾む気持ちで櫂を待った。
先日まで刺さるような冷たさだった風も、少し丸みを帯び始めた。雨の日が続いたあとの、澄み渡るような青空の下。行儀よくベンチに腰掛けているアイチの元に向かう人影はロング丈のテーラードジャケットを纏い、裾を風に泳がせながら目を細めた。
自分を待つ、ちょこんとしたシルエットが可愛らしかったのだ。
「アイチ」
一言、名前を呼ぶとまん丸の頬を赤くさせて、同じくまん丸の目をこちらに向けてくる。青空よりも深く、海よりも優しい青色の瞳を輝かせてアイチは誇張なしに、世界で一番幸せそうに笑った。
感情表現の一つでさえ一生懸命で、小さな口から紡がれる言葉よりも雄弁なアイチの表情、瞳、指の動きの全てが愛しかった。
「櫂くん!」
「走らんでいい」
居ても立ってもいられない、という風に駆け寄ってくるアイチに櫂は呆れながらも優しげに笑う。どちらにしろ櫂もベンチに座ると言うのに、アイチは櫂を見かけるとどうしてもジッと出来ないらしい。
すぐ傍まで近づいて、櫂を見上げながら「きょう暖かいね」と鼻の頭を赤くして挨拶の代わりに言った。
櫂は一度間を置いてから「そうだな」と頷き、アイチが先ほどまで座っていたベンチの方に向かう。その背中を、ヒョコヒョコとアイチがついて行く光景は、普段通りの見慣れた二人だった。
二人して並んでベンチに腰掛けたとき、いつもは手荷物を持つことなどほとんどなく、持つとしてもデッキと財布くらいしかない櫂にしては珍しく紙袋を抱えていることにアイチは目聡く気が付いたが、思わず視線をそらして知らない振りをする。
がめついと思われるのは恥ずかしい。
視界の端でそんなアイチを盗み見ながら、櫂は何かちょっかいでも出そうかと考え、やめた。
こんな時くらい、アイチで遊ぶのはやめておこう。
櫂はやたらとソワソワしている小動物に、なにも言わずに紙袋を差し出した。
差し出された紙袋と、櫂の顔をアイチは交互に見る。爛々と光る目がどこから見ても嬉しそうで、小さな手をソッと差し出し、櫂から紙袋を受け取った。
「あ……ありがとう……!」
柔らかなパステルカラーに、ワンポイントのロゴと店名が書かれている紙袋は最近できた洋菓子店のもので、若い女性を中心に美味しいと話題となり、メディアでも大変評判になっている有名店であった。が、そんなことに疎いアイチはもちろん知る由もない。
そしてそこが、ホワイトデー間近には恋人のために店に訪れた若い男性客で溢れ返り、櫂が柄にもなく人混みに揉まれてきたことなどもつゆ知らず。
櫂も手作りを考えなかったわけではないが、アイチが気負わずに済むだろうと今年は無難に店頭のものを選んだのである。
ハッピーホワイトデーと英語で綴られたタグを眺めて、あのとき勇気を出してよかったとアイチは紙袋を控えめに抱きしめた。
「えへへ……大事にするね」
「いや、食えよ」
そうでした、とアイチは頭を掻きながら「少しだけ中みてもいい?」と訪ね、櫂が頷くと慎重に貼り合わされたテープを貼がして中を覗く。
そこには紙袋と同じ色合いの、可愛らしい箱が一つ。中にはどうやら、マカロンが入っているらしい。まるで宝石でも掘り出したかのように、感嘆を漏らすアイチを見て櫂は選んだものがハズレではなかったようで安堵した。
櫂も無難にクッキーやマシュマロの方が好きだろうかと、少し、ほんの少し悩んだのである。
けれどアイチは、それがどんなものであれ、櫂に貰ったものが“一番欲しかったもの”になるように出来ていることを、櫂はまだ知らない。
「……あれ?」
ふと、可愛らしいパッケージと紙袋の隙間に、なにかが挟まっていることにアイチは気づく。
思わず紙袋の中に手を差し入れて取り出してみると、それはやや年季の入った、いかにも過去に使用された形跡のある手のひらサイズの平らな缶の入れ物であった。
アイチはしばらくそれをあらゆる角度から眺めたあと、櫂の方を見る。
「大したもんじゃねぇけどな」
開けてみろ、と言う櫂の言葉に従って、アイチは小さな手で蓋を持ち上げる。
少し錆付き、赤色の塗装もところどころ剥げた小さな缶。
まるで幼い子供が宝物を入れるような、そんなチープさと独特の神秘的な雰囲気を持ち合わせている。
アイチの力でも、軽々と開いたそれ。
中には、大小それぞれのダイスがいくつか入っていた。
キョトンとするアイチ。
缶と同じようにそれは赤く、年季が入り、少し曇ってしまっているクリア素材のもの。
普通の人ならば、恐らくそれが何なのかは分からない。けれど、新米であれどカードファイターであるアイチには見慣れたものだった。
「これって……もしかして、カウンター?」
カードゲームなどにおいて、ライフやパワー値の算出にあたり、目印やカウンターとしてダイスは重宝されることが多い。アイチもファイトの相手が使用している場面を見かけたことは多々あるが、自分が使ったことは一度もなかった。
その内買おうと思いながらも忘れてしまって、そのまま。計算に手間取る度に今度こそ買おうと思うのだが、ファイトが終わると忘れてしまうのであった。
「前に買うって言ってただろ」
「う、うん」
「オレが小学生から中学生あたりまで使ってたのが出てきたから、やる」
櫂もヴァンガードを始めた小学生のころ、パワー値の計算にはよく手間取っていた。
そんな櫂を見かねた一人の友人が、「サイコロを使うといいよ」とアドバイスをしてくれたことがきっかけで、櫂はカウンターとしてダイスを用いるようになったのである。
それからずっと中学生まで使っていたが、気が付けば計算にもすっかり慣れ、今となってはダイスを使用することもなくなり、愛用していたカウンターは棚の中にしまわれたままであった。
そんな中、アイチがパワー値の算出に手間取っている姿を見て、ふと自分が使っていたダイスの存在を思い出したのである。
長年使ってきただけあって、いかにも“お古”というような感じのものではあるが、アイチもいずれは計算に慣れ、必要としなくなるだろう。それまでの間くらいならば、使えないこともない。
櫂はいつか来る、親離れを迎える雛を想うような気持ちになって思わず感慨に耽るが、それをまた喜ばしく思うのも事実だった。
自分が、同じようにダイスを使わなくなっていったのと同じで。
「ま、あんま綺麗じゃないしな。別に捨てても」
「使う!」
櫂の言葉に食い気味で、アイチは缶の中から目を離さずに言い切った。
少しくすんだ赤いダイスは、輝いてもおらず、目の部分が欠けている面だってある。
それだというのに、アイチの瞳には生きてきた中で一番、美しい赤色として映るのだった。
二人には、四年間という絶対に埋められない時間の溝がある。
その中で櫂がどんな日々を送っていたかは、彼が今までもこれからも語ることをしないため、アイチもほとんど知らない。
けれど、その中でもずっと、櫂がヴァンガードと共に過ごしてきたということだけは、アイチが知る正真正銘の、唯一の事実である。
そしてそのことを証明するかのように使い古された幾つかのダイスは、まるで二人の空白の四年間という時を閉じこめているかのように、アイチには感じられたのであった。
「……ぜったい、絶対に、ずっとずっと大事にする!」
缶の中の一つのダイスを指で摘まんで、アイチは櫂を目を見つめて言った。
マカロンも、くすんだダイスも。こんなに嬉しい気持ちを貰っていいのだろうかと戸惑いながらも、溢れんばかりの感情を一生懸命受け止めようとする。
たったそれだけのものを、どうしてそんなに大事そうに抱えるのか。
──ずっと大事にする。
それは、あくまでもダイスに対しての言葉だった。それでも、どうしてか。なぜかくすぐったくなるような気持ちになるのが、櫂は不思議で、無意識のまま呆れたような、優しいような複雑な笑みを浮かべてアイチの頭を撫でて見せた。
「……ほんと、お前は大げさな奴だな」
いや、自分も、少し単純なのかも知れない。櫂は、思う。
たとえ、必要になくなっても。使わなくなっても。
大事にすることは、出来る。
櫂に突然頭を撫でられたことに驚きつつ、アイチは思わず大きな声を出してしまったことを思い出して照れと心地よさから無言になってしまったが、やがては櫂につられて微笑んだ。
そうして、缶を大切そうに紙袋の中にしまう。
アイチはもう一度紙袋を抱きしめてから、「ありがとう櫂くん」と。
やはり世界で一番幸せそうに、笑うのであった。