ウォヌングルの月、早朝。
帝国を北の寒さから防ぐ役割を持つ、世界で最も高い山があるとされる連峰の麓。魔獣が跋扈する危険な針葉樹林帯にて、男は慣れた手つきで仕留めた鹿の血抜きを行なっていた。
喉元の太い脈を切ったあと、肉の温度を下げるためにそのまま内臓も抜き取っていく。
この周辺でとれる生き物はどれも魔獣に分類されるため、魔力を溜める袋のようなものを心臓の近くに持っており、その袋の大きさによっては肉や毛皮よりも高値で取引されていた。
男は顔色を一つ変えずに抜き出した内臓を弄って、拳ほどの上等な袋を見つけると、幾日分の食費になるなと換算する。
魔鹿は古くから、大地を司る大精霊から魔力を授かっていると語られていた。その逸話の通り、獲れる袋は大きいものの、肉の味そのものは如何せん酷い。
馬と見紛う巨体ゆえにとれる肉の量は多いが、とにかく硬く、肉としての旨味を引き出すには調理に手間がかかる。
おまけにどう猛で、人を襲うことも少なくはなかった。
この辺りで単独で魔鹿狩りを行う命知らずは、おそらくこの男くらいであろう。
取れたばかりの臓器から湯気が立ち、男にはそれが魂のようにも見える。霞んだ空に舞い上がるのを、翡翠の瞳で呑気に追った。
テキパキと行われる一連の動きは、どこか不気味でありながら、神聖な儀式のようでもある。
この男には、名がない。
便宜上、孤高の竜騎士と呼ばれることはあったが。
彼は炎のように静かな男だった。
口数は少なく、時には傭兵として仕事を請け負いながらも、戦乱が落ち着きつつある昨今では蓮糸を織り、狩りをして、市場に出向き、家畜の世話や使役竜のテイマーなどで生計を立てている。
そんな隠居した戦士のような生活をしている男であったが、彼が竜人であることを証明する、太く立派な尾には赤黒く輝く、宝石のような鱗が所狭しと並んでいた。
戦場に身を置く竜人にとって、鱗が剥がれた形跡のない尾とは、いかに戦士として優れているかを表すものである。
だと言うのに、男がそれを自慢げに語る姿を、誰一人として見たことがない。
国からの手厚い保証のある軍に属すこともなければ、安定とは程遠い、傭兵としての立場と、自由を決して手放すことはせず、ただただ静かに生きている。
今も、冬の鹿は脂も少なく、手でも皮が剥ぐことができるから、仕事が楽で良いなァなどと思いながらベリベリと皮を剥いでいた。
魔力袋に次いで魔鹿の中でも価値があるのは、漢方薬にもなる立派な角と、そしてこの分厚い皮だ。丈夫で伸縮性もあり、背嚢などに使われることも多い。
一方、市場に出してもほとんど値のつかない鹿肉も、調理次第では見違えることを竜騎士は知っている。
男は内臓も肉も有り難く頂戴し、なにひとつ無駄にすることなく、処理を終えた数頭の魔鹿を荷台に詰めていった。
本来なら魔鹿の血ですらもダークゾーンなどの魔術師が金を払ってでも欲しがるのだが、運搬するには魔術を用いて血の鮮度を保つ必要がある為、武術一辺倒の竜騎士には困難な話である。
——あの人がいたら、可能かもしれないが。
竜騎士は、己を今も家で待っているであろう人物に思いを馳せる。
魔術の扱いに長け、竜騎士とまでは行かずとも武術の心得も十分にあるその人。
だが、あの人を狩りに連れていくのは気が引ける。
危険が伴うのはもちろんだが、なにより綺麗な仕事ではなかった。
野ウサギを狩る程度ならば問題ないが、対象が魔獣となると話が変わってくる。
嗅覚が鈍る凍つく森林の中で、魔鹿を誘き寄せるために匂いの強い腐敗寸前の食肉を扱うこともあれば、道中には魔獣に襲われたであろう原型を留めていない遺体を見つけることもあった。
あの人には、そういうことに慣れて欲しくはないと、男は思う。
硝煙と殺戮と犠牲。数多の慟哭と大量の血の海に浮かんだ、この大帝国と呼ばれる地獄の中でも、どうか美しいものだけを見ていて欲しいと切に願っていた。
ドラゴンエンパイア、またの名を燎帝。
竜騎士は、この国を恨んでいた。
だが、それも過去のことである。
帰り支度を終え、開けた場所までカーゴを引きずったあと、大竜の骨を加工した笛を吹く。
するとどこからともなく、赤銀色のバーディングを纏った、若い雌のワイバーンが雪を舞い上げながら空から現れ、静かに着地すると広げていた翼を畳む。
どこまでも優雅で、美しい所作は良く訓練の出来ている利口な飛竜の特徴でもあった。
しかし、彼女は竜騎士を見るなり「遅かったじゃないか」とでも言う風にクルルと鳴いて、撫でてくれと竜騎士に頭を押し付けてみせた。
その様子は、父に甘える幼い少女のようにも見える。
「よしよし……お待たせ」
彼女は今は亡き、先代のワイバーンの子でもあった。
当時の産卵を手伝い、孵化を見守り、成体になるまで世話をしたのは外でもない竜騎士であり、他の兄弟たちは調教が終わる頃にはそれぞれ引き取られていったが、残った彼女は竜騎士が新たな相棒として迎えた。
今となっては、彼女は竜騎士の徹底した食事管理と、適切な訓練のお陰もあり、スピードも筋力も申し分なく、賢く立派な飛竜となって竜騎士の日常を支えている。
少し甘えた過ぎるところがあるのだが、思えば先代のワイバーンもそうであったので、遺伝なのかもしれない。
竜の眷属とされ、忠誠心の高いワイバーンを従えることは竜人のステータスとされる。
だが、竜騎士は本当の我が子のように彼女を可愛がっていた。
触れると、冷たい鱗に覆われた体。
竜の血脈を引くものは皆こうだと、竜騎士は目を細めた。
「じゃ、市場行ったら帰るとするか」
体を伏せた飛竜の鞍帯をキツく締め直したあと、竜騎士は慣れたように鞍へと跨る。鐙に足を引っ掛け、飛竜に咥えさせた金属製のハミへと繋がる手綱を引いて合図を送ると、飛竜は背中を弓形に曲げてから、二本の足でその巨体を起こした。
空を覆うような、大きな翼が広がる。剥き出しとなった翼膜の、薄いところが少し透けているのが、何度見ても艶やかな絹のようで美しい。
一度羽ばたくだけで視界を阻む粉雪が舞い、飛竜は竜騎士を乗せたまま体を浮かせると、足の鋭い鉤爪で器用に商品を載せたカーゴを掴んで、そのまま空へと飛び立った。
肺が凍りそうな空気。雪が降り、この視界の悪い中でも、竜種は己の角で距離や空間を全て三次元化して把握できるという。空間の把握は愛竜を頼りに、竜騎士は培ってきた技術と知識を駆使し、絶妙な力加減で飛龍の腹を脚で圧迫する。これによって速度を操り、手綱を用いて方角を指揮した。
やがて極寒地帯である環状連峰から徐々に離れ、南西の方へと向かっていく。
いつしか雪が止み、飛竜の背からは広大な燎帝の大地が目の前に広がっていた。朝日に照らされ、世界が徐々に目を覚ましつつあるその光景は、眩しいほどである。
すぐ近くを小型の翼竜種が群をなし、遠くの方には異国からの使者を乗せていると思しき飛竜挺と、それを取り囲むゴーレムで構成された護衛部隊の姿があった。
──ずいぶん大きな挺だな。
竜騎士が優れた視力を凝らして確認すると、空を泳ぐ鯨のように、硬く厚い鱗に覆われた大型種の竜──ドラゴンが、悠然と帝都へ向かっていた。飛竜挺はその名の通り、大型種の竜を動力としている挺のことを指し、燎帝では一般的な乗り物である。
中でも周囲に護衛部隊が見られる時は、決まって異国の訪問者を乗せている証左であり、人ではなくゴーレムを使った護衛部隊を好むのは、紛れもなく停戦中である隣国、すなわち聖域の特徴とも言えた。
燎帝と聖域はかれこれ建国時から領土と資源を巡って争いを続けている仲であり、休戦と開戦を繰り返している。
竜騎士には愛国心はないが、聖域に対しても特段、良い印象など一つも持っていない。
竜騎士の中で聖域とは、亜人への差別が激しく、戦争だからといって魔導兵器で山を一つ吹き飛ばし、周辺の村を消し屑にした手で神への祈りを捧げるような国だった。
人よりもゴーレムを好むなど、相変わらず陰気臭い奴らだとすら思っている。
しかしあちらからすれば、燎帝など野蛮人の集まりとして映るのだろうし──そして、それはあながち間違いでもなかった──何方もどっちな話なのだが。
いくら停戦中と言えど、国民に深く根付いた負の感情はなかなか消えはしない。それを、竜騎士は誰よりもよくわかっている。
こうして聖域との話し合いが増えているということは、両国としてはこのまま幾度目かの休戦交渉へ持ち込みたいといったところなのだろうが。
互いに、失ったものが多すぎたのだ。
魔導兵器によりマナは汚染され、小精霊群は死に絶えた。
焦土と化した村の地域社会は崩壊し、多くの犠牲者と戦争孤児を抱えて、ようやく幕を閉ざそうとしている。
それもこれも、今までの竜騎士なら、どうでもいいと思っただろう。
どうせ、どちらかが消えるまでこの戦争は終わらないと、そう思うだけで終わっていた。
世界も、人も、変わることなどできない。
血の海に浮かぶこの国から戦争をとって、何が残るというのだろう。
休戦を迎えようと、聖域という共通の敵を失ったことで、再び燎帝内の政党が衝突し、互いに保有する軍の間で内戦が始まるだけであった。
けれど──今なら、願えるのだった。
死んだものとして名を奪われた少年が、生きるために血の海を泳いでいた青年が、こんなことを思うのはおかしな話だとは思う。
平和を、安寧を願うなど。
竜騎士は迂回した。要人を乗せている挺が上空にある場合、一般国民は三練(約一キロメートル)四方は離れて飛行しなければならないと定められているからである。
竜騎士も目的地は帝都であり、挺から離れるには遠回りせざるを得なかった。舌打ちの一つでもしたいくらいだったが、それも、もういいかと思える。
朝が来ると、今までの竜騎士はどことなく急かされるような気持ちになっていた。
死を待っている目だと、そう言われたこともあった。
だが、今は違う。
己の帰りを待っている人が、いるのだった。
今朝は鹿だけではなく、良く太ったウサギもとれた。ウサギの肉は売ればそこそこの値がつくだろうが、皮だけを売りに出し、肉は持ち帰ることにした。
美味しい食事を、食べさせたい人がいるからである。
燎帝にやってきたばかりのあの人は、神殿ではやたらと味が薄い、野菜や穀物が中心の食事をしてきたと聞いた。
そもそも、あの神殿においては食事をとることすら月に一度あるかないかという頻度であり、食事といっても生命維持のためではなく、あくまでも人の形を忘れないために摂取するといった儀式的な意味合いの方が強かった。
加護により、空腹を感じることはなかったと。
しかし、それはメサイアの加護があったからこそ、成り立っていたわけで。
あの人はすでに人として、竜騎士と生きることを選んだ。今となっては当たり前に腹も空くし、そして眠気も感じる。
食事から睡眠に至る当たり前のことを忘れかけていたあの人に、一から十まで教えてやることは楽しかった。
死臭と血にまみれ、泥人形のように意思もなく動いていた竜騎士が、忌み子であり神子でもある青年を娶ってから、暫く。
白黒だった竜騎士の視界は、少しずつ色づいていた。
◇
飛竜挺との遭遇により、想定していた到着時間よりもやや遅れ、帝都の市場にたどり着いた竜騎士はいつもの店へと向かった。
そこは竜騎士と同じ竜人が営んでいる店であり、竜騎士が幼い頃に世話にもなった場所でもある。
「まーた、こんなに獲ってきて……」
竜騎士が獲ってきたブニブニの魔力袋の重さを測りながら、近年、父から店を継いだばかりの、竜騎士の幼なじみでもある店主の男が呟く。
「ていうか、魔鹿五頭も相変わらずどうやって一人で狩るんだよ……街に魔鹿が出た時は、討伐ギルドがスリーマンセルの小部隊作って処理すんだぜ?」
「俺よりも魚竜狩りを行う漁師の方が優れていると思うが」
「魚竜狩りと魔鹿狩りを比べるのもオメーくらいだよ」
店主は「そういうことじゃあねぇんだけど」と物申したいのをグッと耐えた。
今日もなにを考えているのか分からない、否、特に何も考えていないであろうマイペースな幼なじみに苦笑いが漏れる。
魔力袋は繊細な器官であり、高値で買い取ってもらうには細心の注意を要するのだが、前述したようにこれらは心臓の近くに存在するため、鬻(ひさ)ぐ目的で狩りを行う場合には袋を傷をつけないためにも、心臓以外の急所──つまりは脳天などを狙う必要があった。
それに加え、魔獣狩りにおいては最初の一撃で仕留めることが何よりも重要なこととされている。
しかし、対魔獣兵器などを所持していない一般的な狩人たちからすると、それらを完璧に行おうとすれば、苦労も鍛錬も計り知れない。
魔獣は、ストレスを与えることにより凶暴性が増してしまう。それ故に、最初の一発で急所を確実に狙い、仕留められなければ、討伐成功率が半分以下にもなるのだ。
こうなると罠を仕掛けたいところではあるが、罠は返って魔獣の警戒心を高めてしまうため、専用の備えがないのであれば返って悪手だというのが常識として伝わっている。
結果、罠もしかけられず、一撃必殺を求められる魔獣狩りを好んで行うものは狂人とすら呼ばれていた。
なかなか手に入らない、だからこそ魔力袋は貴重品であり、庶民の間では高値で取引されているのだが。
しかし、数多いる魔獣の中でも、魔鹿狩りが特に難しいとされる所以は、なにも凶暴性だけのものではない。
魔鹿の頭部には、神経の通った角がある。
これは飛龍種の角と同じく、視界の悪い雪山の中でも周囲の様子を察知するアンテナとしての役割を担っており、心臓を避けて脳天を狙うにしても角で察知され、弾かれてしまうのであった。
魔鹿もただ殺すだけなら、数人で囲めばさほど難しくはない。だが、袋を狙うには相当な技術がいる。
店主は竜騎士が売りにきた、上等な魔力袋を眺めた。
この男が如何にして魔鹿を仕留めているのかを、問うたことはない。
だが、共に売られた皮の具合からして──竜騎士は真っ向から魔鹿と相対し、そして興奮状態に陥った魔鹿が後肢で立ち上がった、その隙に〝心臓だけを槍状のもので貫いている〟ことだけは分かっていた。
この後肢で立ち上がる行動は、興奮状態の魔鹿によく見られる習性の一つであり、世間では「魔鹿がこの体勢をとったら逃げなさい」と言われているものを、竜騎士は好機として捉えている。
確かに狂人だ。
店主は笑った。
「えーっと。袋、ランク高上が三つ、高中二つ。皮が七、角の分で……ほい、今日の分な」
「ああ」
金貨の入った、やや不格好な、重みのある巾着袋を受け取り、竜騎士は黙々とそれをしまうと店主の方を見ずに口を開く。
「飛竜挺がこちらに向かって飛んでいた。最近多いのか」
「あー聖域の? 多い多い。卜者とかも見るぜ。これ見よがしに護衛用ゴーレムつけてな。何しに来てんだか」
竜騎士から買い取ったものを片付けながら、店主は皮肉っぽくそう言うと、「ていうか」となにかを思い出したように付け加えた。
「お前さん、最近持ってくるの多くね? 戦況も落ち着くし、貯蓄でも始めたのか?」
竜騎士は店主からの質問に答えるよりも先に、店のドアを開く。荷物を抱え直すと、店主の方を一瞥した。
「結婚したからな」
「……はい?」
それだけを告げ、竜騎士はドアを閉めた。
幼なじみくらいになら、言ってもいいだろうと思ったのである。
待たせている飛竜の元まで早足に向かう竜騎士の背後、閉ざしたドアの向こうからは店主の「ちゃんと説明していけよー!」という怒鳴り声が聞こえた。
◇
人里離れ、静かな山奥。
竜騎士は家が近くなると鞍から飛び降り、先にカーゴを降ろさせ、少し離れたところから飛竜を歩かせる。こうでもしないと、羽ばたいた風圧で自宅前の畑で作っている作物が全てダメになるのだった。
共にカーゴを引っ張りながら、山を少し登った先に見える、一見、廃墟にしか見えないような薄暗い小屋が、竜騎士の住処である。
愛竜を竜小屋へ連れて行き、朝から働いてくれた礼を告げ、労るように顎の下を撫でれば嬉しそうに頬擦りをしてくるのが愛らしかった。
ワイバーンはその忠誠心の高さから、主人以外には懐かない。こうして竜騎士の前では幼い少女のような彼女も、外では愛嬌の一つも見せはしないのである。
──けれど。
ギィ、と立て付けの悪い小屋の戸が開く音。
竜騎士に撫でられていた飛竜は顔を上げた。竜小屋へ入ってきた人物を確認すると、嬉しそうに足踏みをする。
続いて竜騎士も、音がした方を見る。
視線の先には、白い長髪に、真っ赤な瞳の青年が立っていた。
神秘的な雰囲気を纏う、その様子から人間かどうかすら疑わしくなる。
しかし、青年は一方で、燎帝においては至極一般的な民族服を身に纏っていた。
持ち前の神秘さと、妙な庶民クサさが混じり合い、見たものに対してどこかちぐはぐな印象を与える。
詰襟の、足首丈ともなる長い上衣は体の線に沿って作られており、側面には深いスリットが入っていた。
その下にはゆったりとした下衣を履いており、細身故に中性的で、鍛えられた竜騎士の傍にいると、いっそう際立つ妙な色っぽさすらある。
「おかえり」
竜騎士を出迎える声。
儚げなように見えて、なによりも芯の強いその人は、裸足で竜騎士と飛竜の元へ近づいた。
「こら。外では靴」
「いいだろ、小屋の中くらい。なあ?」
そう言って青年が飛竜を撫でると、竜騎士以外に懐くことのなかったはずの彼女は、母親にでも甘えるように、クルル、クルルと再び喉を鳴らして頬擦りをしてみせる。
「よしよし。あとで水浴びさせてやるからな」
くすぐったそうに笑い、竜騎士と同じく我が子のようにワイバーンを可愛がる青年こそ。
竜騎士が娶った神子であり、孤独に慣れていた竜騎士が、初めて欲しいと思った相手であった。
妻は、今日も綺麗である。
竜騎士は、真顔のまま一日ぶりに惚れ直した。
「市場、混んでた? なんか買えたか?」
「まぁな。そろそろ産卵期に入る美味い魚を買ってきた。魚卵は食ったことあるか?」
「ない」
この辺りは肉には困らないが、内陸であるために漁へ出るには少し手間がかかる。そのため、食卓に並ぶ魚類のほとんどは市場頼りであった。
一人暮らしであった頃は肉ばかりでも支障はなかったが、傍に神子がいる今は違う。
竜騎士は狩り用の装備を外しながら、今も飛竜を撫で続けている妻を自分の方に向かせると、ゆっくりと唇を重ねた。
薄い唇は、少し冷たい。
そして、甘いような気がした。
舌を伸ばし、温かな濡れた粘膜に触れ、互いに唾液を絡ませた。ガクッと力が抜けたらしい腰を支え、そのまま強引に抱き寄せる。
「……飯、楽しみにしててくれ」
神子は肩でしばらく息をして、蕩けた艶っぽい顔で竜騎士を見上げた。
「……あ、朝から」
徐々に潤む赤い瞳がたまらない。
なぜ、妻はこうにも扇情的なのだろうと竜騎士は本気で考える。赤くなっている神子の耳元に唇を寄せて、低い声で囁くと更に肩が跳ねた。
「なんだよ、今更。毎日してるだろ?」
「してるけど!」
どうやらそういうことではないらしい。
目を泳がせて困ったような表情を浮かべた神子は、竜騎士の体を押し返す。
神子は竜騎士に何かを言おうとしたが、口を閉ざした。そうして戯れる夫婦を他所にウトウトし始めていた飛竜に目敏く気付き、間を持たせるためか、飛竜を藁の上に誘導させて寝かせてやり、そのままそそくさと一足先に竜小屋を後にしてしまう。
そんな神子の後ろ姿を楽しげに眺め、竜騎士は妻の後に続くと「なあ」と声をかけた。
「キス、嫌だったか?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、なんだよ」
もう、何度も何度も体を重ねた関係だ。
一見、無欲そうな目の前の青年が、体の奥まで夫の形にされていることを、竜騎士だけが知っている。
言ってみれば、触れるだけのキスで神子がああも照れるのは妙だった。ただそれだけのこと、放っておけばいいものを、竜騎士は少しの意地悪と好奇心で妻の腰を再び抱くと、あえて顔を近付けながらわざと問う。
目の前の神子が、すこし、困ったような怒ったような、照れたような顔をした。
——かわいい。
また、飽きもせず触れるだけのキスをする。
愛しさを再確認するように、竜騎士が妻を抱き寄せた庭先では、季節の小さな花が咲いているのが見えた。
今まで、この庭は手入れなど施されたことはない。
むしろ、どこからどこまでが、この家の庭なのかすら定かではなかった。
飛竜でもいなければ自由に行き来のできない、この辺鄙な土地では、住民など竜騎士以外にほとんどいなかったのだ。言うなれば、この一帯の乾いた大地が、男の巣そのものと言える。
ここを住処としたのは、幾つの時だったか。
それまでは、どこに住んでいたのか。
皇籍と名を剥奪されてから帝都を追われ、カイの名だけが残った以降のことは、実はあまり鮮明には覚えていない。
無我夢中に、竜騎士は生きるためだけに生きていた。
いつか親族を皆殺してやろうとぼんやり思いながら、飢えをしのぐために狩りを覚え、声をかけてきた女の家を転々とし、次第に女と多くの仕事を覚えた。
器用になんでもこなし、食いっぱぐれることはなかった竜騎士であったが、結局、定職として選んだのは傭兵の道である。
理由は単純であった。
戦はどんな時もなくならず、仕事に困らなかったからである。
亜人の中でも竜人は長寿とされる。これから先、百年以上も生きて、金と飯のことを永遠考えなければならないのかと思うと、うんざりした。
生臭い死肉を踏んで、金を貰い、無為に生きる日々。
明日に希望などなかった。
確かにあったのは憎しみだけである。
父と母を陥れた者達を業火で焼き殺し、自分を殺さなかったことを後悔させてやりたかった。
民衆の命など使い捨ても同然である燎帝で、ただ、そのためだけに生きていたのだ。
赤黒く輝く鱗と、翡翠の瞳は目立つからと、尾と顔を隠し、誰にも微笑むこともなく冷酷に振る舞う。
軍にも属さず、金さえ払えば何処にでも出向く傭兵となり果て、ついには暗殺すら請け負うこともあった。
男が孤高の竜騎士などと呼ばれるようになったのは、その頃であった。
そんな暮らしを続ける内に、竜騎士の元に舞い込んできた仕事が、とある神殿の神子の暗殺であったのだ。
燎帝が擁立した、人から生まれし天の御使い。
スターゲートの深き雪の下に眠る地下神殿に幽閉されているらしい、その人物の首に掛けられた金高は当時の竜騎士にとって、悪い話ではなかった。
そして、竜騎士は神子と出会う。
否──再会した、と言う方が正しかったのかもしれない。
竜騎士がまだ皇籍に身を置いていた頃。
その当時、竜騎士の家庭教師としてあてがわれていた奴隷こそが、目的の神子であることに気づいたのは、そう時間はかからなかった。
いつ、あの奴隷に信託が。
メサイアの神子とは、生まれながらにしてメサイアに仕えることが決まっている。それはこの世界のシステムの一つであった。
神子殺しの依頼など怪しいと思っていたが、とんでもない外れを引いたらしい。竜騎士は落胆した。よりにもよって、昔馴染みの首を狙うことになるとは。
燎帝の使者を語り、神殿へと潜り込んでからも竜騎士はらしくもなく悩み続けていた。
どうやら神子は、竜騎士がかつての主人であることには気づいていないらしく、仕事としては幸いなことではあったが、妙に複雑な気持ちにもなる。
ただ、感情をなくしたように、あの頃のように笑うことのない神子を遠くから見ることで精一杯であった。
けれど、神子が竜騎士の教師を務めていたのはかれこれ数十年は前のこと。覚えていなくても、仕方がないだろう──と。
そこで、竜騎士はふと疑問を感じる。
あの奴隷は、果たして竜人であっただろうか。
多民族国家である帝国は、当然ながら誰もが竜の血を引いているわけではない。
中でもヒューマンと分類される種族は多く、それらの寿命は長くても竜人の半分にも満たなかった。
そのため、ヒューマンであるはずの神子は竜人よりもずっと、老いは早いはずである。
だというのに。
遠くから見た神子は、どう見ても齢二十に満たない、竜騎士よりも幼い青年の姿でそこに立っている。
一人だけ、時が止まったように。
竜騎士と同じく、何もかもを失くしたように。
そして、本当に神子が全てをなくしてしまったことを知るのは、すぐ後のことだった。
再会したその人は、感情らしい感情も、記憶と呼べるものも、果てには痛覚や、時間すらも。神子には必要のないものとされる、その全てを手放していた。
『オレのこと、殺しに来たんだろう?』
全てを諦めたように、見透かしたようにいつかの神子は淡々と言った。
そして、好きにすればいいとも。
殺せば良かったのだ。
感傷に浸れる余裕も、暇もないのに。
己など、醜く無様に残っただけの灰にすぎない、そんなことは分かり切っているのに。
──それなのに。殺さなければならないはずの相手に向かって、竜騎士は、手を伸ばしてしまったのだ。
同情だったのか、共感だったのか。今も本当のことはわからない。
ただ、神子が初めて、竜騎士の言葉に笑ってくれた日のことは、鮮明に覚えている。
神子が昔のことを、少しずつ思い出していく姿も。
誰も呼ばなくなった『カイ』の愛称で呼んでくれた日のことも。
困ったように『死ぬのが惜しくなった』と、竜騎士に言った夜のことも。
そして竜騎士も、同じことを思った。
いつ、死んでもいいと思っていたはずが、神子との思い出が増えるたびに、心残りも増えていく。
二人は、似ていたのかも知れないと。
今なら、そう思える。
「……イブキ」
抱きしめられたままの神子は、かつては失ったはずの名を呼ばれ、夫の腕の中でおずおずと顔を上げた。
白く長い睫毛が、頬に影を落としている。
竜騎士が優しく微笑みかけると、観念したように口を開いた。
「……ワイバーンは、知能が高いだろ」
「……うん?」
神子がモゴモゴと、口籠もりながら言葉を続ける姿は可愛い。竜騎士は、神子の顔を、ジっと楽しげに眺めて続きを促す。
「ひ、人の子供くらいの知能はあると」
「まあ、そうだな」
「……だから、その。オレ達もだな、色々と、気遣うべきではないかと」
神子は、我が子のように飛竜を可愛がっていた。時には一緒に水浴びをし、小屋に食事を運び、散歩もする。
神子の言い分は、おそらく我が子とも言えるワイバーンの前でキスをするな、教育に悪いという、つまりは恥じらいから生じた抗議であったらしい。
なお、飛竜の求愛行動に、人に近い種族が行う口腔での粘膜接触——いわゆるキスは含まれない。
そのため、彼女の前でキスをしていようと、あちらは何もわかっていないだろうということは、多くの竜種を調教してきた竜騎士からすれば分かり切ったことだったのだが。
そんなこと教えてやるよりも先に、キスにすら恥じらいを感じるようになった妻が可愛いと、夫は静かに目を閉じていた。
初めてキスをした際、真顔で『なんの真似だ』と言われたことが懐かしい。
「……そうだな、俺も控えよう」
「お、おう」
「家の中でじっくり、させてもらうとする」
そう言って軽々と抱き上げられると、言葉の意味を理解したらしい神子が竜騎士の体を押した。
だが、ビクともしないのはいつものことである。
「え、あ、ちょ、ちょっと待て! 布織ってる途中だ!」
最近の神子は蓮糸を使っての染織を覚え、狩りなどに行けない代わりに、それらで大黒柱である竜騎士を支えていた。
生活が苦しいわけでもないが、何もしないというのも神子にとってはストレスだろうと、竜騎士は好きなようにさせてやっている。
「後でやりゃいいだろ」
「飯もまだだろーがっ!」
神子の織った布で作った巾着は、竜騎士の財布でもあり、そしてお守りでもあった。
——庭には、季節の花が咲いている。
それは花が育ちにくい、この国でも強く逞しく育つ数少ない品種であり、神子が家に来た頃に二人で植えたものであった。
生活に彩りが増えていく。
竜騎士は、腹が減ったんだと騒ぐ、腕の中の妻に目を細めながら、幸せを噛み締めていた。
見上げた空は、汚れてなどいない。
澄み切った、美しい色をしているように。今の竜騎士の瞳には、映るのだった。